ユーモア

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アルフォンス・デーケンと言われる哲学者がいます。長く上智大学で「死の教育」、「死の神学」の講座を担当された方でした。私は、大変な興味を持って、この教授の公開講座を受講したことがありました。週に一度、特急電車に乗って、四ツ谷駅まで通ったのです。実に有意義な学びの時でした。

とくにデーケン教授は、「悲嘆の作業(グリーフワーク)」の重要さについて教えてくれたのです。先年、私の娘婿の母君が、惜しまれて亡くなられました。二人の息子と娘、そして一人の幼女のお母さんで、64歳で召されたのです。家庭の事情がある何十人もの子どものお世話をし続けてこられた方でした。私たちが訪ねた時も、乳飲児の赤ちゃんの世話中でした。優しくて愛が深く、誰にも愛された妻であり、母であり、そして芸術家でした。

愛する人との死別というのは、どなたにも経験がありますし、将来においてあり得ることですし、また自分の《死》も迎えねばならないわけです。それは避けることのできない《万人の体験》です。とくに、愛する人との決別を、十二分に悲しみ嘆くことが必要だと、デーケン師は言うのです。それを確りと果たした後は、正常な生活に戻り、悲嘆体験を超えて、自分の定められた《生》を責任をもって生きて行く、そう言った心の作業が必要なのだそう です。

デーケン教授に、講義で教えていただいた「悲嘆のプロセス」には、12段階があって、次の様です。

1段階 精神的打撃と麻痺状態 
 愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。

2段階 否認 
 感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 

3段階 パニック 
 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。
 
4段階 怒りと不当感 
 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 
 ※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 

5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み) 
 周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 

6段階 罪意識 
 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。
 
7段階 空想形成・幻想   
 幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。 
 例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている 
 例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく 

8段階 孤独感と抑うつ  
 健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要 葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。 

9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)  
 日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。 

10段階 あきらめ・受容  
 自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。 
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。

11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見  
 ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 。
 ※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。 

12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生  
 愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。 

デーケン師も、子どもの頃に、ごく親しい人との死別をされていて、悲嘆の体験があって、そう言った学びをされたのだそうです。悲しみの中で、もし《ユーモア》、《微笑み》があるなら、それを上手に超えて、正常な生活の戻れると、師は勧めています。デーケン流の《ユーモア》の定義は、「にも関わらず笑う」なのです。

(デーケン教授の出身地のドイツ・オルテンブルクの風景です)
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合戦場

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少し前ですが、車に乗せていただいて、栃木市の郊外に連れて行っていただいた時に、東武日光線に、ちょっと変わった名の駅があるのを知ったのです。「合戦場駅」です。雪合戦や棒倒しの合戦競技をした場所ではありません。

駅名の由来に、次の様にあります。
[「合戦場」の名は、戦国時代の皆川城主・宗成と宇都宮城主・忠綱が、現在の駅西400~500mにある白地沼を中心とする標茅ケ原(しめじがはら)で戦ったことから由来するといわれています。当時の記録が地名として、さらには駅名に残っています。また合戦場は江戸時代に宿場町として栄え、標茅ケ原は東国の名所です。]

『俺も一国一城の主!』,『あなたは稀代の指導者!』と自他の推薦で、勢いよく立ち上がった強者が多くいて、群雄割拠した戦国時代、その勢力が拮抗(きっこう)して、領地を拡大するための「争い」が、日本中で絶えなかったのです。そのためには、農民が、鋤や鍬を刀や槍を持たされて、駆り出されて、多くの人が犠牲になったわけです。

耕作地は荒らされるし、働き手は戦死したり負傷すると言った、日本中に「強者どもの夢の跡」があって、ここ栃木にも合戦場が残されたのでしょう。どんな合戦だったのでしょうか。

[大永3年(1523年)11月、宇都宮忠綱は、1800から2500の兵で皆川領に侵攻。皆川宗成は700の兵で出陣し、両軍は下野国皆川領河原田(現栃木市)で対峙。合戦は宇都宮勢の大勝で当主の皆川宗成、宗成の弟の平川成明を討ち取るなど、皆川氏に壊滅的な被害を与えた。しかしその後、小山氏、結城氏が1800の兵を率いて皆川氏の援軍として来て衝突。宇都宮勢は劣勢となり、退かざるを得なくなったため撤退している]
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三千も四千もの兵が、刃を交わしたのですから、「蔵の街(栃木市の中心)」にも、鬨(とき)の声や、鞘当ての音が聞こえたかも知れません。こう言った時代を、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が平定し、国家を統一させたわけです。一番安心したのは庶民だったわけです。当時だって、「非戦論」を唱える人たちがいたに違いありません。

その最終的な役割を果たした徳川家康は、死して「久能山」から、「日光東照宮」に改葬されたわけです。そこに毎年、京都の朝廷から「日光例幣使」が遣わされ、「例幣」をうやうやしく献上し参詣した、その街道が、この「合戦場駅」の近くを通っているのです。

平和な時代に生まれ育って、徴兵義務も負うことなく、ここまで自分が生きてこれたのは幸いなことでした。でも、その平和の代償が、どれほど大きかったか知れません。私には、南方で戦死している叔父がいました。ですから一度も会うことはなかったのです。

(合戦場の駅と跡地です)
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気温33℃の残暑の中、百花とは言えず「七花繚乱」の庭に咲く「ハイビスカス」です。《花ある風景》、こんなに贅沢なことはありません。いつも思うのは、真っ黒な土の中から生い出でて、こんな《真紅》の花びらを開かさせるとは、不思議でたまりません。

それに引き換え、ちょっと黄色がかった淡色の肌が包んでいる、自分の〈心〉が〈真っ黒〉なのには呆れかえってしまいます。やっと自分の弱さや儚さが分かってきたのですが、まさに《生かされている我》が、ここにいて、花を愛で、人を愛で、感謝な想いも湧き上がる、そんな〈心〉にされたのも不思議でなりません。
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朝顔たより/8月21日

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昨日は所用があって、江戸まで旅をしてきました。用を済ませて、とんぼ返りでしたが、電車の冷房が、寒く感じられるほど、昨日は今夏久しぶりの涼しさを、味わえました。当初の冷夏を吹き飛ばす様な猛暑の連続でしたが、ここで一段落になるのでしょうか。

今朝、わが家の「朝顔」は、24輪も咲きました。今夏最多の花の数です。自分は怠け者で、時々、言い訳して休んだりしてしまうのですが、自然の植生は、怠けません。明日の開花の準備をして今日を迎えて終えて行きます。

昨夜は虫の声がして、眠りに誘ってくれました。今朝、弟からの一報 で、厳しい残暑の《厳重注意》を伝えてくれました。天気予報ですと、最高気温34℃とあります。今日は次男の誕生日です。好い一日をお過ごしください。
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涼、その2

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子どもの頃に、疲れ過ぎたり、運動競技を空いて力を出し切って、フラフラな状態になった時に、よく、『もう俺、”グロッキー”だ!』と言いました。なんで、そんな言い方をするのか知らなかったのですが、よく疲れると、そう言ったのです。

実は、この言葉は、お酒を飲んで、酩酊して、足元がおぼつかなくなることを、英語で”groggy(グロッギー)”と言ったのです。これは、”grog”という、水割りラム酒のことで、アルコール度の高い酒なのだそうです。飲むと、フラフラするので、ボクシングで強打されて、足がフラフラな状態を、酒酔いに似ているので、そう言う様になったと、辞書にありました。

随分前ですが、キューバの老ジャズ・メンの演奏や紹介を、ドキュメンタリー風に演出撮影した音楽映画、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club」がありました(1999年製作)。アメリカ人の音楽家(ギタリスト)が、キューバのハバナで、埋もれていたピアニストやギタリスやベーシストやドラマーやボーカリストなどをを見付け出して、その彼らによって演奏活動が、1996年に始まったのです。これが爆発的に人気を得て、”グラミー賞(1997年)”を得るほどでした。

この中で、中心的メンバーだったのが、ボーカル担当の”イブライム・フェレール(Ibrahim Ferrer, 1927年2月20日 – 2005年8月6日)”でした。魅力的な歌声の持ち主だったのです。キューバ革命以降、音楽活動ができなくなってからは、キャラメルを売ったり、靴磨きをしながらして、生活をしていた様です。その収入を蓄えては、イブライムは、日曜日に”ラム酒”を飲むのを楽しみにしていたのです。

私はお酒は飲みませんが、”ラムレーズン・アイスクリーム”が好きなので、”ラム酒”って、どこで作られ、どんな製法かを調べていて、”guroggy”に、そして"グロッキー”にたどり着いたわけです。2016年に、キョーバとアメリカは国交を回復させました。そんなことを思い出して、スプーンひと匙でいいので、”ラムレーズン”入りのアイスクリームを食べたら、涼しくなるかなの今朝の気分です。
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百年

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この写真は、百年前の「能代実業高等女学校」の授業風景です。大正時代ですね。それに比べ、下の写真は、現代の女子高生です。
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そして、これは100年前のイギリス車です。
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そしてこれは現代のドイツ車です。
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さらに100年前の働く女性であう。
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これはパンプスを履いた現代女性の足です。
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百年の違いって大きいですね。
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こんなに暑いのに、夜半になると、どこからともなく虫の声がしてきます。『もう少しの夏を我慢すれば秋が来ますよ!』と言っているに違いありません。1910年(明治43年)の唱歌集「尋常小学唱歌」第2学年用に掲載された文部省唱歌に、「虫のこえ」があります。

あれ松虫が 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した
りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや(きりぎりす)
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

明け方になって、やっと涼しくなるのでしょうか、夜通しつけていた空調を切って、戸を開けるのを繰り返していますから、日中はともかく、夜半は涼しくなって欲しいものです。奥日光や那須に行くと涼しいのだそうですが、とにかく『もう少しの涼を!』の毎日です。
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秋でもないのに

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春になると夏が、夏になると秋が恋しくなる、これが人の常でしょうか。旅に出掛けたくなったり、文学作品に挑戦してみたくなったり、父が『一緒に食べような!』と約束して食べずじまいの土壌鍋が食べたくなったり、一度食べてほっぺの落ちた次郎柿が食べたくなるのです。

作詞が細野敦子、作曲が江波戸憲和、本田路津子が歌った、「秋でもないのに」は、次の様な歌詞でした。

1 秋でもないのに ひとこいしくて
  淋しくて 黙っていると
  だれか私に 手紙を書いて
  書いているような
  ふるさともない 私だけれど
  どこかに帰れる そんな気もして

2 秋でもないのに ひとりぼっちが
  切なくて ギタ-を弾けば
  誰か窓辺で 遠くをながめ
  歌っているような
  恋人もない 私だけれど
  聴かせてあげたい そんな気もして

3 秋でもないのに 沈む夕陽に
  魅せられて 街に出ると
  誰か夕陽を 悲しい顔で
  見ているような
  空に瞳が あるならば
  あかね雲さえ 泣いているだろう

やっぱり〈人恋しい季節〉なのです。美味しい〈キリマンジャロ〉をグラインダーで挽いて、ドリップで淹れたものを、一緒に飲んだ恩師が、懐かしく思い出されてきます。『もう少し濃い方が!』と思いながらも、アメリカンで我慢したものです。実は、私に我慢したのが恩師でした。今日あるは、その〈我慢の賜物〉です。
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愛媛県の田舎町に、上の二人の子を連れて訪ねて、『弟子にしてください!』と頼んだ師匠がいました。なってくれませんでしたが、多くのことを教えてくださった方でした。母と同年齢だったのです。小学校しか出ていないのに、独学の姿勢が素敵でした。

疲れると、決まって『家族で来ませんか?』と誘ってくださった方がいました。20歳違いの同月同日生まれでした。恩師との関係が気まずくなると、そう言って誘ってくれたもう一人に恩師なのです。お子さんたちが、私たちの4人の子に、部屋を提供してくれて、彼らは、どこかに潜り込んで寝ていました。夫人がパン屋の娘さんで、美味しい料理の作り手でした。この方の次男が、日本人の女性と結婚をされ、3人のお子さんを育てておいでです。お父上と同じで、私たちの激励者でいてくれます。

秋でもないのに、人を懐かしく思い出して、本物の秋の到来を待ちわびる、猛烈残暑の日曜日の午後です。

(友人が撮らられた渓流の写真です)
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返り咲き

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生まれた年も、74年前も、東京オリンピックが行われた年も、結婚した年も、4人の子たちが生まれた年も、東日本大震災の日も、熊本大分大地震の年も、同じ様に、日本の津々浦々、都会でも田舎でも、この「朝顔」が咲いていたのです。そして今、北関東の「小江戸」の街の片隅でも咲いています。

「朝顔」は、戦争を語りません。自然災害にクレームをつけません。ただ咲く使命を託された花で、人を慰め、励ましてきているだけです。早朝、ベッドから起き上がって、障子を開けて、まず家内の目に飛び込んでくるのは、花開いた「朝顔」です。

華南の町で、狭いベランダに「朝顔」の発芽した芽を、土の中に植えて、何年も、晩春から、年明けの正月まで、その鑑賞を楽しんできました。遣唐使が帰国時に持ち帰った「朝顔」が、咲き終わって残した種を、それが幾年も繰り返されて、平成の代に、その種を、任地に戻る荷に忍ばせて持っていった種を、小さな鉢の土の中に植えたのです。それは見事な《返り咲き》でした。

今も同じ様に、静かに花開かせた「朝顔」に、生きている実感を覚えさせられいるのです。
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