天来の守り

.

.
 植物学者のメンデル(1822年7月20日〜1884年1月6日)が、エンドウ豆の実験で、「遺伝の法則(メンデルの法則)」を発見したということを教わったのは、小学生の時でした。簡単に言うと、《子は親に似る》との結論です。動物も植物も、そして人も、そう言えます。父の几帳面さを、受け継いだ、二人の兄と弟に比べて、自分は乱雑な傾向にあります。私たちの四人の子に当てはめると、彼らの良い点は母親似で、良くない点は自分に似ている様です。

 自然界には、多様性があって、人間も多様です。同じ親から生まれながら、顔貌はともかく、性格や生き方の良さを受け継がなかった自分を意識しつつ生きてきました。今朝も、家内が華南の街で、日本語を教えていた生徒から頂いた、綺麗な「夫婦茶碗」に、ヨーグルト、バナナ、干し葡萄を入れて、食卓に運ぼうとして、私の分を落として割ってしまったのです。家内は、『形ある物は壊れるわ!』と言ってくれたのですが、申し訳ないことをしてしまいました。

 人の内には、「遺伝情報」が組み込まれてあったことが、分かったのは、このメンデルが「遺伝子」の存在を発見してからです。親の写し絵の様な遺伝を受け継いで、私たちがあるわけです。何年も前からから、“ DNA ” を受け継いでいることが言われ始め、亡くなった方がだれかを特定するために、その方の髪の毛、使っていた歯ブラシなどから“ DNA検査 ” が行われる様になりました。確かな精度で特定されています。

 科学や学問とかの研究で、その“ DNA ” の存在がはっきりする以前から、その「遺伝情報」が、私たちの内側に組み込まれていたと言うのは、とても神秘的です。誕生した時に、そう言ったものを受け継いでいると言う驚きなのです。
.


.
 東日本大震災が起こった時、私たちは、東京郊外の長男の家におりました。それに伴って発生しました「福島原発事故」の報道ニュースが、にぎやかに放映されていました。その後、次男の家で家内と三人で、「学べるニュース~生放送3時間~(tv asahi)」の番組を観ていたのです。この番組に、東京工業大学の原子炉工学研究所准教授の松本義久さんが出演されておいででした。

 長男と同世代の研究者ですが、私たち素人に、チンプンカンプンな専門的な話をされるのかと思って、耳を傾けていましたが、話しぶりは巧者ではありませんが、平易な言葉で、私たちが理解できるように話されており、つい聞き入ってしまったのです。松本准教授が、番組のおしまいに、この放射能汚染の危機のただ中で、大きく揺れ動く東日本の窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われました。

 『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話されたのです。『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

 日本存続を大きく左右する現場で、放射能の汚染に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の国家的危機を脱するために、私たちのできることだと知らされたのです。今も、コロナ感染で収集のつかない状況下で、危険を顧みないで、医療と防疫などの面で、日夜、働いておられる方々がおいでです。

 震災後、政府の対応の稚拙さ、東電の周章狼狽ぶり、福島県民の怒りと戸惑い、近隣の都県の住民の恐怖、世界中が声を上げている放射能汚染の影響、報道ニュースは、次から次へと伝えていましたが、《事故現場》だけに、解決の要諦があります。『税金の無駄遣いだ!』、『憲法違反だ!』と揶揄避難されてきた自衛隊の隊員のみなさんの雄々しく危機に立ち向かい介入される姿に、背筋の伸びる思いをさせられたのが昨日の様です。
.


.
 今回の熊本や福岡や岐阜や長野などでの集中豪雨による河川の決壊、洪水の中、警察官、消防隊員、下請け企業みなさん、ボランティアのみなさんが、最前線に立って怯(ひる)まない姿こそ、まさに《益荒男(ますらお)》そのものではないでしょうか。ただ、コロナ禍の中で、県をまたいだボランティアが要請できないと言う事態が持ち上がっています。

 でも恐れたり、不安にならないでいいのです。もちろん現代人に必要なのは、傲慢さを悔い改めることなのかも知れません。謙虚になって、生きている意味を知る必要がありそうです。どの時代の疫病の流行も、やがて弱体化し収束してきました。私たち人類は、多くの危機を超え6000年の間生き続けてきました。造物主に憐みによるのでしょう。

 私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても触れていました。『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。

 この《お守り》について次の様に説明されています。

 『私たちの体は放射線から守る『お守り』を持っています。それが放射線で影響を受ける遺伝子DNAです。30数億年の生命の歴史の中で直面してきたありとあらゆく緊急事態を切り抜けた、切り抜け方を書いてある想定不能という言葉を持たない究極の緊急事態マニュアルです。それと放射線に立ち向かって行くお父さん・お母さんから受け継いで子供たちに受け継いでいくんです。僕たちみんながつながっているんです。どこかで。みんなが頑張ってくれと言っているつながりを確かに示す《お守り》なんです。』

 否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、私は同意します。戦いの前線で、働いてくださるみなさんが大勢いることにも行って感謝したいのです。

 父や母、祖父や祖母たちは、幾多の困難や危機を超えて、この素晴らしい国土を、そして地球を守り残してきてくれたのですから。何よりも、造物主の《憐憫と恩寵》、全地の統治者からいただくことのできる、人知を超越した《天来の知恵》を信じたいのです。

(日テレの報道写真の人吉の豪雨、東日本大震災で救援にきてくれた中国の救援隊です)

.

鉄道唱歌

.

.
 数年前に、読みたい月刊誌の購入を、メールで、私の弟にお願いしたことがありました。もちろん通販で取り寄せることもできたのですが、彼の家の近くの駅横に本屋があったのを思い出し、「誌名」と、「発行月(2018年7月18日)」と記して送信したのです。

 ところが帰国した頃には、お願いしたことを忘れていましたら、『準ちゃん、頼まれていた雑誌!』と言って、訪ねた折に手渡されたのです。そのことを思い出して、早速、手にしてパラパラとめくってみたのです。月刊紙などを買うことなどほとんどなかったのですが、華南の街の外国住まいだからでしょうか、祖国への思慕の念が強く、『今度帰国したら、旅をしてみよう!』と思っていましたら、件の雑誌の広告を目にして、買い置きをお願いしておいたわけです。

 それが、「昭和の鉄道旅(旅行読売/臨時増刊)」です。今でも、しっかり机の上の本立てに入れてあります。学校で、「地理」や「日本史」などを教えたこともあり、中学の頃には、時刻表や地図を見るのが好きでしたので、〈眠っている子〉を覚まてしまったのかも知れません。
.


.
 狭い日本列島に、網の目の様に鉄道が敷かれ、私鉄から国有鉄道に移り変わり、地方都市には地方の私鉄が伸びて行ったわけです。東海道線を初めとする駅を歌い込んだ「鉄道唱歌(大和田建樹作詞・多梅稚〈おおのうめわか〉作曲)」があります。その最初の部分と主な駅の歌詞は次の様です。

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我(わが)汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪(たかなわ)泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後(のち)までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで

横須賀ゆきは乗換と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴ヶ岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん(横須賀)

扇(おうぎ)おしろい京都紅(べに)
また加茂川の鷺(さぎ)しらず
みやげを提(さ)げていざ立たん
あとに名残は残れども(京都)

三府(さんぷ)の一(いつ)に位して
商業繁華の大阪市
豊太閤(ほうたいこう)のきずきたる
城に師団はおかれたり(大阪)

目立つ家々築地松
宍道湖上流斐伊川を
渡れば出雲市駅に着く
明治時代はここまでで(出雲)

 一説によると、「399番」まである歌です。この「昭和の鉄道旅」には、「鉄道線路図(1964年12月1日現在)」の付録がついていて、今では廃線になってしまった路線も載っています。先日、利用した「わたらせ渓谷鉄道」は、「旧国鉄・足尾線」での記載です。郷愁を感じさせてくれるのは、飛行機ではなく、鉄道やバスを乗り継いだ旅なのではないでしょうか。

 調べましたら、「鉄道唱歌・足尾編」もありました。
.


.
町をめぐれる渡良瀬の  
水上深く尋ぬれば
いにしえ勝道上人が
白き猿に案内させ

山に続きて二里南  
銅鉱出す足尾あり
富田すぐれば佐野の駅
葛生 越名にいたるみち

 作詞者の大和田建樹は、幕末に伊予藩の藩士の子として生まれ、高等師範学校(今の筑波大学)で教鞭をとった方です。幼少期から漢学や国学を学んだ、驚くほどの国語力を持った作詞者であることが分かります。

1. 夕空晴れて秋風吹き
 月影落ちて鈴虫鳴く
 思へば遠し故郷の空
 ああ、我が父母いかにおはす

2. 澄行く水に秋萩たれ
 玉なす露は、ススキに満つ
 思へば似たり、故郷の野邊
 ああわが弟妹(はらから)たれと遊ぶ

 どなたもご存知でしょう、作詞した詩に、スコットランド民謡の譜を付けた「故郷の空」は、大和田の作品です。明治を彷彿とさせる歌詞に、自分の故郷が重なって、眩しくて仕方がありません。

(旧新橋駅、わたらせ渓谷鉄道の沿線の写真です)

.

あなたも高価で尊い

.

.
 7月15日、NHK第一ラジオ夕方6時台、“ ニュースアップ"で、「在宅勤務 座りすぎに注意」という主題で、中川 恵一さん(東京大学医学部附属病院放射線科 准教授)が、『今では、〈貧乏ゆすり〉とは言わないんです!』と言っていました。では、なんと言うかと言いますと、「健康ゆすり」なのだそうです。

 もう一つ、『座ってばかりいないで、三十分に一度、立ち上がって、歩き回ったほうがよいのです!』とも言っていました。小学校の通信簿に、行動の記録欄がありましたが、みなさんは、どんなことを、担任の先生に、書き込まれたか覚えておいででしょうか。

 病欠児童の私は、たまに学校に行けて、教室にいられるのが嬉しくて仕方がなかったのです。それででしょうか、落ち着いて座っていませんでした。先生がする「机間巡視」を、生徒の私も席から立って、級友たちの机の間を歩き回っていたのです。たまに学校に来ては、歩き回る様子を見て、級友たちは呆れ果てて、私を見ていたのでしょうか。当時は、そんなこと思ってもみなかったことですが。

 どの学年の担任も、決まって一様に、『少しも落ち着いていない(今流ですと〈多動性障害児〉でしょうか)!』、これが行動の記録だったのです。貧乏ゆすりをする間もなく、立ち上がって歩き回っては叱られ、教室の後ろや廊下、しまいには、校長室に立たされたのです。

 二十一世紀、コロナ旋風で、行動に制限がかかった時代の直中で、私が小学生だったら、〈エコノミー症候群〉にならないための《三十分に一度の立ち歩きの勧め》で、『立たされたり、叱られたりしないですんだのに!』と思ってしまうのです。どこか外国の大学の研究室が調べたのだそうですが、世界中、日常生活の中で、座っている時間が一番長いのが、日本人なのだそうです。

 時代や社会環境の変化で、昔は悪い習慣だったことが、《よい習慣》に変化してきているのは、過去の汚点に苛まれている私の様な者には、喜ばしい使信なのです。狭い飛行機のエコノミー席に座って、大陸との間を、家内と一緒に何度往復したでしょうか。何時も、あの席で、貧乏、いえ「健康ゆすり」をしたり、昔取った杵柄で、トイレに行くふりをして、通路巡視をするのを常にしていましたが、それが良いことに、レッテルが張り替えられたのは感謝な時代の到来です。

 でも、畳に敷いた布団や卓袱台や炬燵などから立ち上がる動作が、日本人の足腰の強靭さを育んでいると言われてきています。生活の知恵でしょうか、社会的習慣がもたらせた素晴らしい伝統なのでしょう。自虐的傾向の強い私ですが、こんな自分を捨てないで、厚かましく生きてこれたのは、ありのままの私を愛し、「あなたも(は)高価で尊い」と言ってくださる方とお会いしたからです。

(〈フリー素材〉野に咲くスズランです)

.

どれ程

.

.
『 “ カラン、コロン"と音を立てて下駄を履いて、例幣使街道を歩いてみたい!』との願いがあるのですが、今一つ勇気がなくて、家の近く、桐の下駄を売る店の前を通るたびに、もう一歩を取らずじまいで、一年半が経ってしまいました。音が高くて、遠慮したい気持ちも強いのも、履けないでいる理由です。

小学生の頃のことですが、甲州街道から旧道に曲がる角に、炭や薪、石油、履き物を売る店があって、母が履いてる様な幅の少ない婦人用の下駄が履き心地がよくて、それをいつも買っては、鼻緒をすえてもらったのです。年配のおばさんが、膝の上で作業をするのを眺めていました。どこの子か分かっていて、ニコニコしてやってくれたのです。

靴を履く様になったのは、いつ頃だったでしょうか。中学に入った時、くるぶしまでの高さの靴で、紐を閉めたり緩めたりするのが面倒でしたが、中学生になった気分を味わえたので、得意になって〈編み上げの靴〉を履いたのですが、それまでズック靴を履いた記憶が、ほとんどないのです。

その短靴を履いた経験がないので、いまだに短靴は好きになれないのです。それでブーツ形式の“ チャッカ “ という靴が好きで、今も履いています。でも、下駄履きで歩く、あの原風景の感触を思い出して、その懐かしい思いが蘇ってきてしまうのです。

行春やゆるむ鼻緒の日和下駄   永井荷風

江戸の名残を、思いの内に強く残す荷風は、明治、大正、昭和を生きたのですが、身持ちが悪く、家庭建設の失敗者であり、それでも、彼一様の文学は、とても優れていたのです。1952年、『温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した。』と、文学上の功績を高く評価され、文化勲章を受けています。

千葉県市川を、終の住処(ついのすみか)とした荷風は、最後の食事が、その街にあった大黒屋の「カツ丼」だったそうです。先日、カツ丼を食べた私は、まだ生きていますし、文学とは無縁なただの人ですが、あのカツ丼が最後にならなかったのは幸いでした。洋風の “ ラザニア ” かなんか、最後に食べてみたいなと思っています。

さて、下駄の似合いそうな方は、この句にある様に、荷風だと思うのですが、たまには下駄で歩いたのでしょうけど、帽子を被り、傘を下げて、黒皮の短靴が、往年のこの方の出立だったそうです。田舎者は東京、いえ江戸を憧れるのかも知れません。

今はないのですが、新宿駅のホームとホームをつなぐ地下道を、カランコロンと音を立てて、朴歯(高下駄)を、履いて得意になって歩いていた日がありました。たった一人で、颯爽と歩いていたつもりでした。若さって、目立ちたくて、何でもやってしまったのが、今になると、恥ずかしく思い出されてしまいます。さぞかし大人のみなさんには、漫画的な絵だったのでしょうね。

ここは、下駄履き禁止の条例はなさそうなので、〈年寄りの冷や水〉で、夢よもう一度、やってみようかと思っているところです。ただし、最近は、家内に相談すると言う流れが身についていますので、果たして賛同してくれるか分かりません。〈昔恋しい下駄〉、いつまでも甘えた様な生き方が離れないでいるジイジであります。下駄やチャッカ靴、また裸足で、これまで、どれ程、この地球を歩いてきたことでしょうか。

(フリー素材の写真です)

.

新宿

.

.
なかなか東京が遠くなってしまった今、昭和32年、1957年頃の新宿を、思い出してしまいました。それは中学に入学した年でした。籠球(バスケットボール)部に入部していたのです。週末に、よく系列高校の東京都予選が、両国高校や九段高校などであって、応援とボール持ちで駆り出されました。

戦いすんで、日が暮れると、新宿駅で途中下車して、西口の「思い出横丁(当時はションベン横丁と言ってました)」で、食事を奢ってもらったのです。犬や猫や兎の肉の肉丼なんかを食べさせられたかも知れません。お腹が空いていて、大学生や、社会人のOBが食べさせてくれたのです。

バスケをするのですから、並みの高校生よりも一際大きいのです。そんな先輩の跡を追って練り歩く行列の中に、まだヒヨコの様な中学生の子どもがいました。東口には、「三平」と言う実に大きな食堂もありました。安くて時々利用したのです。「ACB(アシベ)」と言う喫茶店もありました。

闇屋横丁が、上野にも渋谷にも、どこにも残っていた時代でした。歯科医や市会議員の息子たちは、お金を持っていて、景気良く、いつでもご馳走になっていました。予科練帰りの〈大OB〉などもいて、昔の運動部は、半分軍隊みたいでしたが、チビの私たちには、みんなが優しかったのです。そんな環境の中で、普通の中学生よりはマセていて、生意気盛りでした。

新宿の歌舞伎町が、今の様な歓楽街に激変する前は、1956年に営業開始した「コマ劇場」が中心にありました。杮(こけら)落としの開演に、父が連れて行ってくれました。何を観たのか全く覚えていないのです。とてつもなく大きくて、大都会の煌びやかさだけは覚えています。

そんなことを思い出したのは、コロナ旋風を騒がす風俗店の街の歌舞伎町が、コロナ陽性者を生んでると言うニュースを聞いたからです。その西口には、父の会社がありました。工学院大学があって、今の都庁辺りになるのでしょうか、そこに淀橋浄水場が大きな敷地の中にありました。

激変すればするほど、東京が遠くなります。都市の変化は、華南の街も同じで、あれよあれよの激変ぶりには、驚かされました。目を瞑っている間に変わってしまう様な、猛スピードでした。汚く乱雑だった街が、一ヶ月ぶりに訪ねると、銀座通りの様に変わってしまっていました。喫茶店やケーキ屋、パン屋の果物店が、猛スピードに出来上がっていました。

それに引き換え、今住む街は、昔の風情を残し、大きな街なのに、歯が抜けた様に家が取り壊されて、敷地が駐車場化されています。自転車で街巡りをすると、昔ながらの医院、豆腐屋、下駄屋、支那蕎麦屋があって、江戸や明治の世に建てられた蔵などが散在した街です。明治や大正の昔情緒が、なんともいいのです。

(新宿西口周辺の古写真です)

.

庇う

.

.
このところ歌えなくなってしまった歌があります。北原白秋の作詞、中山晋平の作曲の「あめふり」です。大正14年(1925年)に発表された童謡です。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

7月に入って、梅雨の雨が続き、その降雨量も未曾有の数字を表し、そこかしこに多大な災害をもたらしています。被害がひどかった久留米は、家内の母の生まれ故郷、日田は、青年期に出会った女性の出身地、人吉は、最初の職場の上司の出身地、ですから無邪気に、『ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン!』などと、軽快に歌えなくなってしまいました。被災、罹災をされたみなさんが、再び立ち上がれます様に祈念しております。

そんな自然災害の中、自分の子を1週間も一人に置き去りにして、旅行をして、育児忌避した母親が、その子を死なせたと言う、衝撃的なニュースが報じられていました。自分を産み育ててくれた母と、四人の子を産んで育ててくれた家内のことを思い返して、『どうして?』と思ってしまいました。《子育てのモデル》猫の母性本能の強さを、次の様に記しています。

『猫は母性本能が強い動物と言われています。女性は出産を経験すると、自然に母性本能が出るように、猫も出産をすると体内のホルモンの変化から母性行動を見せます。
出産をした母猫は子猫のそばを一時も離れません。

子を守るためなら、自分を犠牲にもします。母猫が一人前になるまで育て上げる母性行動は、本能的に強いと言われています。猫は、一度の出産で1~9匹の複数を産む『多胎動物』と言われています。反対に牛や馬は、一度の出産で1匹しか産まない『単胎動物』で自分の子と他の子を見分けて一生懸命育てます。

反対に猫は、一度に複数の子を育てる為に厳密に子を見分ける事はしないのです。なので、自分が産んだ子以外の面倒を見たり、他の動物の世話ができると言われています。(HP「ねこちゃんホンポ」から)』

この歌の歌詞の様に、蛇の目を持って出迎えてくれるほど慕うべきお母さんが、そんな仕打ちをしたことは、悲しい、と言うよりもやりきれない思いです。息絶え絶えで寝ている私の脇で、夜通し、何日も何日も看病してくれた母がいて、今の私があります。我が儘いっぱいの私を、女であることを置いて、母であってくれて、そのまま受け入れて、目を細めて、死にかけたバカ息子を愛してくれたのです。

退院後も、昼前に、魚の挽き売りのおじさんが来ると、決まって、マグロの刺身を、母が買ってくれました。これで体力をつけて、回復して行ったと思うのです。兄たちや弟には食べる機会がなく、私だけに食べさせたのです。まだ三十代前半の母は、その刺身に箸をつけることはありませんでした。我が儘の死に損ないの私を、そうやって庇(かば)いながら看病してくれたのです。

(歌川広重の浮世絵です

ああ無情

.


先日、隣家からいただいた「桜桃」は、今まで食べたものに比べて、抜群の甘さでした。ただ甘いだけではなく、酸味も程よくあって、「美味しい」初夏の味覚でした。今日、生協で買ってきた季節外れの果物ですが、「林檎」も旨かったのです。それに昨日買って蒸した「もろこし」が美味でした。

「甘さ」だけでは美味しくないのですが、微妙に美味しいのは、酸味や渋みがあって、甘味を引き出しセーブするのでしょう。〈渋みがかったいい男〉も、美男子であるだけではなく、〈渋み〉や〈苦味〉があって、そう言うのだそうです。

昨夕(7月10日)のニュース速報を聞いて、東京地検の麻雀賭博をした元検事長を、検察庁が起訴猶予の処分にしたと報じていました。これが、〈甘さ〉です。厳正な法的な判断を下すべきなのに、過去に良い仕事をしてきたり、功績があったりした場合、〈甘さ〉がみられるからなのか、そう邪推してしまう私が悪いのか、でしょうか。〈どんな立場の人の賭け麻雀〉だったのか、送検された容疑者を、どうするかを決めたりする立場、そのトップだった〈職責〉や〈社会的責任〉は看過ごされているのに、〈甘さ〉が見られます。

窃盗を働いた中二の私を、警察に通報せず、学校だけに連絡してくれた方を思い出します。学校側も、停学や退学の処分をせずに、不問に付し、母同席で〈叱責〉だけでした。中三の学年末、中学三年間の総括の行動記録に、『よく立ち直りました!』と、三年間の担任は記してくれました。そして系列の高校の入学を許してくれたのです。〈甘い処分〉でした。

高一で、学内で、〈猥褻文書を売った級友〉は、〈退学〉させられて、消えて行きました。学外で盗みを働いた中途入学してきた二人も、無言で退学して行きました。難しい年齢の只中で、自分は、家裁送りになって、鑑別所や少年院に送致されていたりしていたかも知れません。私の処分なしも、罪に定めなかったのがよかったのか、よくなかったのか、今も迷うところです。もちろん立ち直れたのには、厳しく責めなかった両親がいたのです。

あの時、警察沙汰になっていたら、自暴自棄になって、雪だるまが転げ落ちる様に、罪を重ねて少年院送りの道を辿っていたことでしょう。幸い、私は、人生上の大きな転換を迎えることができたのです。それは、個人的な内的な経験でありますが、生き方の大改革を経験し、今日に至っています。それでも、不問に付された過去の罪(罪々と言うのが当たっています)を、〈精算されていない過去〉を時々思い出すのです。

《赦されたこと》は確かなのですが、どうも何か、〈過去の始末〉が、いまだについていない感じがしてなりません。時間の経過が、罪の責任を薄めることにはないからです。自己矛盾が拭えないままでいます。あの検事長は、自己矛盾を感じないのかなって、そんな過去を持つ私は思ってしまうのです。

私の知人で、「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」や「安保闘争」で活動した人たちがいました。反社会的だとされた活動に関わると、〈ブラック・リスト〉に載せられるのです。そうされた人は、公務員になったり、大手企業に就職する機会を奪われることがあったのだそうです。公安にマークされたり、また逮捕歴があったり、補導歴があったりすると、その〈シミ〉は抜けないのです。そのひっかりがあって、ちょっとした違反でも許されないことがあります。

〈賭け金の少なさ〉だったらいいのでしょうか。あの “ジャンバルジャン” は、飢えた姉の子に、パンを食べさせようとして、一個のパンを盗んだ罪を負い、19年も服役しています。貧しい職人に、フランスの街の官憲は厳しく臨んだわけです。まさに、『ああ無情!』です。それなのに、わが国の官憲、検察は、〈大甘〉な処分を、“ マッ黒 “ な賭博常習者に下しました。この方は、しばらく後で、弁護士になるように聞いています。

裁く資格なんて、まったくない私なので、ごめんなさい。でも、そんな過去を引きずっていますので、敢えて、こんな〈曖昧さ〉や〈甘さ〉で日本法曹界は、『大丈夫?』と思ってしまいます。少年期に、〈甘い〉処分を受けた私は、今、けっこうきつい見方をしているのに、驚いてしまいます。

(映画“レ・ミゼラブル” のスチール写真です)

.

注意喚起

.

.
「河川工学」の専門家の九州大学の小松名誉教授は、洪水などで避難をする時の注意を喚起されています。避難時は、スニーカーなどの運動靴を履いての外出がよいそうです。梅雨目前、私は、ホームセンターで、長靴を買ったのです。4階住まいなので、浸水の危険性はないのですが、洪水の中を外出するに当たって、釣り用の胸まである長靴を、ちらっと店内で見たのですが、昔ながらのゴム長靴にしたのです。

ところが、長靴は、子どもの頃に経験済みで、水溜りで遊んでる内に、靴の中に水が入り込んで、歩きづらかったのを知ってるのに、買ってしまいました。一番よいのは、廃材や瓦礫に中でも歩ける〈作業靴〉なのです。つま先や靴底に、鉄板が入っていて、物を足に落としてもつま先が守られ、出た釘を踏んでも刺さらない工夫がされているものなのです。

まあ雨降りの中を出かけるには、長靴で大丈夫ですが、こんなに災害が頻繁に起こってくると、その〈作業靴〉が必要とされそうです。鉄鋼所でのアルバイト時に、それを支給されて履いていたので、頭の中には、その必要性に気づていたのですが、目先のことで目利きが鈍ってしまったみたいです。

『山歩きには、キャラバンシューズよりも、地下足袋がいい!』と、弟の真似をして、奥多摩の山歩きをしていました。慣れると足と地べたが一つになって、足が喜んでいる様でした。私の友人は、〈首都圏大地震〉を想定して、交通機関が止まってしまっても、瓦礫の中を歩いて帰れる準備をして、所用で東京に出かけると言っていました。

そんな心備えが必要なご時世でしょうか。今は、行動範囲が狭くなっているので、よいのですが、遠出する時には、ザックに、食べ物や飲み物や軍手、よく怪我をするので、救急バンソコウや消毒も持たないと、そんな出立で出かけることにしましょう。

熊本県芦北や人吉での今回の洪水現場は、悲惨です。同じ様な洪水が、中国大陸の長江流域でも起こっていて、YouTubeで、その惨状を見ることができます。学校に行っていた頃に、多摩川が、台風で増水した時、魚が掴み取りできる芦の茂みに入ったのですが、流されなかったのが不思議です。水の本当の怖さを知らなかったからです。

毎日、朝な夕なに眺められる流れのほとりで、今、生活をしています。静かに流れているのは風流がありますが、いったん水嵩(みずかさ)が増した流れは、流木も石ころも難なく押し流しています。水運の流れを利用した先人たちは、命の危険を感じながら、その生業を続けていたことを思い返しております。

(巴波川の下流にある〈野木町商工会〉による渡良瀬遊水地の全景です)

.

無事

.


.
7月10日、早朝に咲いた朝顔です。小雨の中を、ゴミ出しに行き、清新な空気を吸って、今日の無事を願ったところです。日曜日まで、停滞した梅雨前線の影響で、多量の雨が降ると、予報されています。下の娘の義理の弟夫妻に、来春、子どもさんが与えられるのだそうです。華南の街からの便りも、我孫子の友人からの電話も、義妹への電話も、コロナ禍の中、無事の知らせです。

.

和睦

.

.
いちばんの驚きは、地震、大雨洪水、コロナ、政界や検察畑などの不正、何が起きようとも、どんなことを見聞きしても、落ち着いて、ニコニコと微笑んで生きられる日本人の特性です。ソウルや天津や上海に行っても、そこでは、みなさんは大騒ぎで叫んだり、泣いたり、慌てたりしているのを見聞きしてきた私は、驚いています。

今朝6時過ぎ、ガバッと起き上がった私は、家内の無事を確かめて、iPadでニュースを聞きました。茨城南部を震源とする地震によるもので、ここ栃木市は、〈震度4〉でした。隣家は、ご主人が夜勤で不在、生まれたばかりの赤ちゃんと息子とお母さんが騒いでいる様子はありませんでした。

すぐに、〈震度3〉の街に住む長男が、連絡してきて、『大丈夫?』と聞いてきました。これ程の反応が、日本人の標準です。梅雨前線の停滞、そこに雨雲が近づいての何十年に一度の暴雨が降って、家が流され、家人が不明になっても、マイクの前で、落ち着いて、被災者が応答されています。

災害と共存しながら、この狭い列島に住み続けて、どのくらいになるのでしょうか。経験や学習によって、様々な知恵や判断を身につけ、どう振る舞うかを自分たちのものにしたわけです。石の上に柱を置き、土で壁を塗り込み、藁や茅で屋根をふき、紙の障子や襖で間仕切りをし、竃(かまど)に薪をくべ、沢水や井戸の水で、粟や稗(ひえ)や大根や菜葉を煮炊きをし、ちゃぶ台を囲んで、子どもたちは文句なしで感謝しながら膳に着いて、生きてきたのです。

落ち着いて生きていた父や母を見ながら、様々に学んで今の私があります。けっきょく「和」なのでしょう。聖徳太子が、「和をもって貴しと為し」と言っています。

『一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。
 人みな党あり。また達れる者少なし。
 ここをもって、あるいは君父にしたが順わず。また隣里に違う。
 しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を、論うに諧うときは、
 事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

1500年も前に、その様に言った決め事を、私たちの先人は、生活の中で具現化してきたことになります。日本人が、もし優れているとしたら、「和睦」を尊んできたことなのかも知れません。それは、単に「仲良し集団」を作り上げて行くことではなく、他者を気遣いながら生きていく術を身につけたことなのでしょう、

先日、同じ階の方が、『山形の友人が送ってきましたので!』と、桜桃(さくらんぼ)を持ってきてくれました。甘くて美味しかったのです。散歩中の家内が、ご婦人に声をかけ、花をほめたら、薔薇の花を手折っていただいて帰ってきました。路上で行き合った老婦人に、遊びにくる様に招かれたりです。シャッターを上げようとしていた、怪我をされた店主に手を貸そうとしたり、住み始めた街の隣人たちと、好い交わりができています。助けられたり、助けたりできるのが、この「和睦」なのでしょうか。

.