Olympic

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 『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。 (イザヤ3021節)』

 父と母は、四人の男の子を産み育ててくれたのですが、戦時下、大将や博士になることなどを、私たちに願いませんでした。よく言っていたのは、『俺は金は残さない。教育だけは受けさせてやるから、後は自分で生きていけ!』と言っていました。今日、オリンピック大会の開会式が行われ、続いてパラリンピック大会も開催されようとしています。

 四人とも運動が好きで、運動能力も人並以上で、けっこう regular  position を任されて、色々とやったのです。でもオリンピックには誰も行けませんでした。『一人くらいは!』と、若い頃に野球をやっていたのでしょう、上手に catch ball を、私たちとてくれたことがあった父なのに、子どもには、そんな圧力をかけたり、高望みするようなことはなかったのです。

 上の兄は中距離の陸上、六大学のアメリカンフットボールの全国制覇時のスタメン、すぐ上の兄は野球で、東京で best 16 に終わり、弟は登山、少林寺拳法、アイス・ホッケーをやって、母校で体育教師をしていて、講道館柔道の高段者だったのに、オリンピックとはなんの関わりもありませんでした。

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 今思うと、オリンピック競技を選ぼうと思わなかったのは、無欲だったからでしょうか。それとも、運動は、好きでやるのであって、オリンピックでの名誉など考えもしませんでした。自分は、中学でバスケット、高校でハンド、大学運動部にも誘われましたが、中年になって硬式テニスを始めました。何をやっても中途半端でした。

 今は、優勝請け負い人や、プロの個人coachにつき、外国にも出掛けて行き、著名コーチに指導を仰ぐのです。そうやって日本制覇、世界制覇を目指す時代になっています。有名大学だって、子どもの頃から、著名予備校に通い、お金をかけて一歩一歩駆け上がって行かなければ、普通の子は突破できない時代だと聞きました。家内も私も、四人の子の養育にあたって、彼らの耳の後ろから、生きる指示をすることはしませんでした。何を選び、どう生きていくかは、自分で決めていく様に願っただけです。

 実際、私たちを導いたのは、「これが道だ。これに歩め」と言われる、主なる神の声に従うことでした。robot になることではありません。正しい価値観や人生観や死生観に立って、義を愛し、神と人を愛し、弱者とともに生きていく道に行くことでした。今日は、オリンピックの開会式が行われ、競技の火蓋が切って落とされようとしています。コロナ禍、みなさんの無事を祈ります。

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 「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある 私は心の中で言った。神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。(伝道者の書378節、17節)」

 落語の話だったと思いますが、『一昨日(おととい)来やがれ!』と言っていました。二度と来て欲しくない嫌いな相手への罵声で、明日や明後日だと来てしまうので、過ぎ去ってしまった「一昨日」と言うのでしょう。また、見当違いのことを、『明後日(あさって)!』と言ったりします。この様に、「日」や「時」に関する諺が、結構多くあります。

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「明日の事を言えば鬼が笑う」

 先のことはわからない。未来のことは予測できないというたとえ。きっと明日が分かったら、怖くて生きていけませんし、逆に嬉しくて、手にものがつかなくなってしまいます。もしかしたら天井のネズミが笑うのかも知れません。

 「一日千秋の思い」

 三週にあげず、蓬餅が身体にいいと持参して、母の病状を尋ね、激励のために、次男が親元にやって来たのです。元気になってきた今、コロナ禍の今でもあるので、週末に近づくと、家内と私は、『来るかなあ?』と思ってしまいます。待ち焦がれて、一日が千年もの長さに感じられることを言うのだそうです。

「昨日の今日」

 あまり時間が経っていないことのたとえ。その出来事があってからまだ一日しか経っていない今日との意からそう言います。いい意味で、時の過ぎゆくのを、そう感じたいものです。

「昨日は嫁、今日は姑」

 時の流れが非常に早く、人の境遇も変わりやすいということの意味。思ってもみなかった病を得て、身動きのできない今を迎えても、移り変わりのこの世にいることを、恨まないで感謝できるのは素晴らしいことと感じて生きています。嫁に行った娘たちが、四十代の今を迎えているのに、当然でありながら、『もう!』と思う親心です。

「今日の一針、明日の十針」

 すぐにしなければならないことを先延ばしすると、余計に手間がかかるということのたとえ。今日なら一針縫えば済むのに、明日に延ばせばほころびが広がり、十針も縫わなければならなくなるという意から。私の母は、〈明日伸ばし〉をしない人でしたし、人任せや人頼りしないで生きた人でした。今日の一針に生きたのです。

「紺屋の明後日(こうやのあさって)」

 約束の期限があてにならないことのたとえ。「紺屋」は染物屋のことで、もとは「こんや」とも言いました。染物屋の仕事は天気に左右されるので、出来上がりが遅れがちでいつも『明後日には出来上がります!』と言い訳していたのでしょう。

「千日の旱魃、一日の洪水」

 ドイツや中国でも、大雨と洪水の被害のニュースが伝えられています。千日も続く日照りと、たった一日ですべてを流してしまう洪水とは、同じくらいの被害をもたらすということ。水害の恐ろしさをいった言葉。近年、それを実感しています。どなたも、これからの台風の季節の到来を心配して、空を見上げています。

「山中暦日なし」

 山の中で俗世間を離れて暮らしていると、月日の経つのも忘れるということ。「暦日」は、月日の意。退職し、帰国し、家内が闘病して通院が続いて、北関東に住み着いていますが、6週に一度の通院日を中心に日が過ぎて行き、日を迎えています。『今日はなん曜日?』の感覚が薄くなってしまい、「ゴミ出し日」が注目曜日になってしまっているのがおかしいのです。

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「十日の菊、六日の菖蒲」

 誕生日を忘れられて、数日経ってから、『おめでとう!』では喜びが薄れてしまうことがありました。時期に遅れて役に立たないもののたとえ。 9月9日の「重陽の節句」に用いる菊は、9月10日では遅く、5月5日の「端午の節句」に用いる菖蒲は、5月6日では間に合わないとの意から。後手になることなのでしょう。

「三日見ぬ間の桜」

 綺麗だったオードリー・ヘップバーンの晩年の写真を見て驚きました。そんなに年月が経ったのかと思ったのです。世間の移り変わりが激しいことを、桜の花があっという間に散ってしまうことに掛けて言った言葉。 もとは江戸時代の俳人、大島蓼太の句「世の中は三日見ぬ間に桜かな(三日外出しなかったら桜の花が咲きそろっている)」から。自分のことはさておき、突然、友人たちの今を見たら、その変化に驚くのでしょうか。

「猫は三年の恩を三日で忘れる」

 猫は三年飼われても、飼い主への恩を三日で忘れてしまうくらい薄情な動物だということ。で人間はと言うと、どうでしょうか。〈ただ飯〉を知っている青年が、わが家に出入りしていました。アメリカ人宣教師に手厚くもてなされて、私たちの所に、夕食になると来たのです。豊かでないわが家の食卓に着いて、『今日はこれだけ?』と言ったことがありました。いつの間にか来なくなり、噂で結婚したと聞きました。ある方は、月一の営業で、わが家に顔を出し、食事でもてなしたことが何度もありました。『結婚しました!』と言って、愛くるしい女性を連れてきて、紹介してくれたのです。退職して鹿児島に帰ると言って、別れの挨拶に来ました。人様々です。

「花七日」

 盛りの時期の短いことのたとえ。桜の花の盛りが七日しかない意から。150円で、カインズで家内が買って来て、時期が来て植えた苗が、見事な花を咲かせたのが、” Samantha “ でした。普通の白いユリだとばかり思っていたのが、八重に咲いて驚いてしまいました。でも咲き始めてから五日ほどで容色が衰えていきました。花の命の短さに、今更ため息をついてしまったのです。でも潔くパッと咲いて、パラリと散ったのは見事でした。

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草を食む

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 「わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。 (エゼキエル14節)」

 高二で、卒業後の進路を考え始めていた時、〈三択〉の選択肢がありました。一つは、兄たちが選んだ様に「大学進学」でした。運動部推薦で行くか、一般入試で行くかの可能性もありました。二つは、「自衛隊」に入隊を考えたのです。防衛大学も含めてでした。もう一つは、「移民」でした。日本の社会から、飛び出したかったのです。アルゼンチン協会が都内にあって、そこから案内を取り寄せて、スペイン語の勉強も始めていました。

 南半球への憧れ、『南十字星を見上げて観たい!』との思いが強烈にあったのです。首都のブエノスアイレスから、パンパ草原を西に行きますと、「Mendozaメンドサ」と言うアンデス山麓の中にある街がありました。私の生まれ故郷に似た、葡萄の名産地でした。向こう側はチリなのです。その訪問の折、行きたかったのですが、別行動はできませんでした。

 その願いを増幅させたのが、1962年(昭和37年)に歌われていた「遠くへいきたい」でした。永六輔の作詞、中村八大の作曲でした。単純な私は、その歌詞に誘われて、赤道の南側の国の街に憧れたのです。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい

知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きた

 移民は夢幻の如くに儚く消えて行きましたが、子どもたちが、育ち上がる頃に、ブエノスアイレス訪問の旅に出掛けたのです。街中で花屋やクリーニングを営む沖縄出身の方の家に、食事に招かれました。また広大なパンパと呼ばれる草原で、ガウチョという牧童が世話をする牛の牧場を眺めたのです。「アサード(asado)」と言われる焼肉料理をいただきました。野性味のある調理法で、牧童たちが好んで食べたのだそうです。

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 そこはイタリヤ系移民が多い国で、アルゼンチン・タンゴで有名な港町は、その移民たちがたどり着いた波止場でした。もの寂しい雰囲気がし、原色で塗られた家々の壁が印象的でした。18で移民していたら、花屋かクリーニング屋にでもなっていたでしょうか。そんなことを思いながらの一週間ほどの訪問でした。メンドサには行けませんでしたが、パンパ平原をバスで何時間も何時間も走った街を訪問しました。

 「聖書」の舞台である、中近東のイスラエルでの牧羊業は、アルゼンチンの牧牛とは違っています。ガウチョが追い立てる牛とは違って、羊は、一人の牧者が先導しています。その牧者への従順が羊の群れを安全に保つのです。栄養価の高い牧草ときれいな飲水に導かれる羊は、安定して生育するのだそうです。

 「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。 23節)」

 羊を養うと言う使命を持たれる、神の御子イエスこそが、私たちの牧者、羊飼いだと聖書は言います。父が稼いできたお金で、母が衣食住の必要を満たして、私たち兄弟四人は養われ、家内と私も、同じ様に四人の子を育てました。そして健康を守り、行く道を導いてくださったのは、このイエスさまだったのが分かるのです。羊飼いの手に、杖と鞭があるのだそうです。杖は危険からの救出を、鞭は規律と群れを裁くのに用いるのだそうです。

 平穏な老境に至って、衣食住が備えられ、子や孫や友、兄弟がいて、互いを思い合い、問い掛け合いながら、今に満足して生きておられるのです。まさに満ち足りて草を食(は)む心境です。

楚々と

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 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。(ヨハネの黙示録411節)」

 一昨日、このアパートの西の端の木から、蝉の鳴き声がしてきました。嵐の中では沈黙を守っていましたが、梅雨が明けようとしてるのを知っている蝉は、それでも遠慮がちに鳴いていたのです。蝉、川泳ぎ、ボンボン、スイカ、もう夏休みになるのでしょうか。

 泳いだり、遊んだり、食べたりしたのですが、暑苦しい蝉の鳴き声は、耳の底に残っていて、それと今の鳴き声と重なって聞こえてくるのですから不思議でたまりません。暑かろうが寒かろうが、咳をし出すと、数日から一週間は布団の中でした。母に家に閉じ籠らされて、泳ぎどころではありませんでした。

 みんなが遊んでるのに、一緒に遊べない苦痛は、病弱だった私には極めて大きかったのです。兄たちは学校、弟は幼稚園に行ってるのに、私はラジオが友達でした。今、毎日昼には、NEWSの後に、「ひるのいこい」を聞いています。各地の農林水産委員という方たちから報告を、母の作ってくれた昼ごはんを食べながら聞いて、そこは日本のどこなのかを確かめたのです。
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夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

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 日光中禅寺湖の湖畔から、日光白根山が見え、その山の向こうには尾瀬の湿原があるのです。「水芭蕉の里」です。行かずじまいでおりますが、来年こそはと、この水芭蕉もニッコウキスゲモも見に行って見たい思いがしています。「ニッコウキスゲ」ももう盛りが過ぎてしまいましたが、日光の霧降高原は生育地なのだそうです。

 人の手が入らない天然自然の美は、創造の世界です。整然として、法則通りにあって、人が、それを喜び楽しむ様にお造りになられています。ベランダの朝顔でさえ、ゴージャスなユリの一種のサマンサに、何一つ劣ることなく、美を讃えて、今を盛りと楚々と咲いています。
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すもも

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  「風土記」が残されています。これは、713年(和銅/げんめい六年、元明天皇の時代)、国ごとに編さんされた地誌(郷土のレポート)で、地名の起源・由来、産物、土地 、肥沃度、古老の伝承などを国庁でまとめ、平城京() の太政官に報告した資料だったそうです。当時日本には、六十ほどの国があり、その「風土記」は、五つの国の写本が残されていて、完全な形で残っているのは、「出雲国風土記」だけだそうです。

 中国の統治制度虹真似て国を支配するために、土地土地の特徴を知る必要があった様です。「租庸調(そようちょう)」といった税の徴収が目的だったのでしょう。 その他には、「常陸(茨城県)・播磨(兵庫県)、豊後(大分県)、肥前(長崎県と佐賀県)の一部が残されてあるそうです。

 『出雲国風土記』(いずものくにふどき)の記述の中に、その地の山野にある木について次に様なものがあったそうです。母の生まれ故郷ですから、千数百年前は、どんな風だったか興味があります。

 卑解(ところ)、百部根(ほとづら)、女委(えみくさ)、夜干(からすおうぎ)、商陸(いおすき)、独活(うど)、葛根(くずのね)、薇(わらび)、藤(ふじ)、李(すもも)など。

また、「鳥獣」は、次の様なものがいたそうです。

 晨風(はやぶさ)、鳩(はと)、山鶏(やまどり)、鵠(くぐい)、鶫(つぐみ)、猪(い)、鹿(しか)、狼(おおかみ)、兎(うさぎ)、狐(きつね)、獼猴(さる)、飛鼯(むささび)など。

 何だか分からない記述ですが、生物や動物に詳しい方がいて、それに名を付けたのでしょう。地方地方によって呼び方が違っていたのを、全国区でまとめられたのではないでしょうか。よく小生には北限とか南限とか言いますから、全国的な調査は意味があったかも知れません。現在、その全部が残されていたら、日本全土の植生などが分か理、現代との比較ができたことでしょうから、残されていないのは残念です。

 昨日果物屋で、地元の農家の出品の「すもも」を買ってきて食べました。甘くなくて酸っぱくて、甘いものばかりの果物の中で、出雲国で採れて、食べられていた様な、原初的な味覚を楽しみました。きっと、ここ下野国でも元明以前から食べられてきたことでしょう。

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ハスの花

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 この月曜日に、いつも私たちに開放と交わりの時を考えてくださるご婦人がいて、市の「総合運動公園」の北の方にある「つがの里」に連れ出してくれました。近所の方から、『ハスが綺麗なところがあります!』と聞いていて、行きたいと思っていた所だったのです。

 最盛期は過ぎていたのですが、晩期の蓮、睡蓮が見事でした。遠くから見たことがありますし、レンコンは好きなのですが、あんなに身近で、その咲きっぷりを見ることができて感謝でした。華南の町の市役所の前に池があって、そこを公共バスで通るたびに、『そろそろ咲くかな?』と思いながら眺めていましたが、そこでも最盛期を見逃していました。

 今年も〈引き籠り年〉なのですが、来栃以来、「大平山の紫陽花」、「つがの里のハス」を鑑賞することができて、美しい栃木市に感動を与えられています。地方都市、ご多聞に漏れず、ここも人口は減少傾向にありますが、住み心地の快い街です。

 お昼には、「道の駅にしかた」で、手打ち実演の蕎麦処で、蕎麦をいただきました。美味しかったのです。隣には、地元の野菜の売店があって、いろいろと買って帰りました。郊外には、この「道の駅」があって、取り立ての野菜や名産品が売られていて人気です。

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居心地のよさ

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 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 (ローマ1417節)」

 「居心地」がいい場所って、天然自然が溢れている山際とか海辺とか、静かとか、あるいは便利など、生活と関係がありそうです。でも一番は、「人」でしょうか。だれかと一緒にいると居心地が良くなる、やはり心理的な雰囲気にかかっていそうです。

 父や母と過ごした家は、狭かったのです。戦時下、出雲、朝鮮京城(ソウル)や山形を経て、中部山岳の山村で、鉱石の採掘、搬出をし、戦後は、県有林の払い下げで、材木を東京方面に送る仕事を父がしていて、建築材は自由に使えたのに、公私を分けていて私物化しませんでした。東京都下に、建売の一軒家を買って住んだのです。一家6人には狭過ぎましたが、すぐ上の兄は仕事と大学で高校卒業と同時に、上の兄は大学を出て、その家を出て行ったのです。

 残った四人の住み続けた家は、中央高速道路の路線下で、立退きになって、別の街の建売を買って住んだのです。父の生まれた家は、大きな家でしたが、父には、大きく立派な家に住む願いは全くなかったのです。父が尊敬していた方が、会社の役員でありながら、同じ様な手狭まな家に住んでいて、それに父は倣ったのだそうです。

 狭さが苦痛にならなかったのですが、かえって近過ぎての度重なる衝突が、今になると懐かしくて仕方がありません。親や兄弟と過ごした期間は、随分と短かかったのだと思い返しています。それなのに、結婚した糟糠の妻とは、五十年が過ぎました。おとなしい羊の様な家内と、猛々しい虎の様な私とは、馬があっていたのか、一度だけの羊の脱走で終わりました。

 散歩途中に見付けたスーパーマーケットに入りましたら、「ラム(仔羊の肉)」が売っていて、最近は、時々、それを買って帰宅しています。お世話くださったアメリカ人宣教師が、オーストラリア産を、box で買われて、よく分けてくれましたので、子どもたちの身体の一部は、その肉と野菜、時々のオジヤと水団で作り上げられたと言えそうです。子育て時も今も、わが家も手狭な借家の連続でした。

 『魚だけではなく、肉も食べて!』と、食事指導をしてくれる長女の勧めで、動物性タンパク質不足を補っています。ほどほどに、種類多くの食材を、よく噛んで、にこやかに食べるのがいい様です。四人兄弟で、食べられないための〈食べる原理〉で、早食いの私は、やっと今頃になって、ゆっくり食べられる様になったのです。

 天国の食事風景は、みんなが長いspoon folk で食べるのだそうです。相手に食べさせ、相手に食べさせてもらうためでしょう。「神の国は飲食にあらず」ですから、本当はどうなのでしょうか。つまり、《相手優先の世界》だということでしょう。和やかでいいでしょうね。居心地の快いのは、やはり「天国」に違いありません。

 ( “ヤオコー” に掲載の「ラム」の写真です)

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アサガオ

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今朝のアサガオです。嵐の中、強風にさらされても、なんのそので、綺麗に咲きました。『夏が来た!』、そんな感じがしてきます。忙しく、あわただしく、閉じ籠りの中で、暑くなりそうです。東京オリンピックが無事に行われます様に。弟が volunteer で脇参加します。

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