赤い一葉の葉と赤とんぼ

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 日光の地に、やはり秋が来ています。次女家族がやって来て、奮発して、「日光オリーブの里」に来て、二泊三日を過ごして、朝食後、ここを離れることにしています。こちらで知り合った牧師さんにお連れいただいて、龍頭の滝、華厳の滝、戦場ヶ原、中禅寺湖などを訪ねたのです。

 昨日は、強い雨降りが急に止んだりで、帰り際には雨も上がって青空も見えました。『お嬢さん家族をお連れしたい!』とのご好意に甘え、運転上手でのご案内に、孫たちも満足の一日でした。

 中禅寺湖畔の木の葉が赤く紅葉した一葉を撮り、今朝は、天空を飛ぶ赤とんぼを撮ってみました。さしもの暑さも、もう秋です。“ツクツクツク!“ と蝉の声もしてますが、家に帰ると、まだ暑そうです。でも感謝な一日をと願っております。

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同郷の伯楽

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 同じ山を仰ぎ、同じ水を飲み、同じ地に産した作物を食べ、同じ空気を吸った人との関係を、「同郷」と言うのでしょうか。父は横須賀、母は出雲の出身でしたから、戦時下の軍命で住み始めた父の勤務地で、父の家族として生まれたのです。

 そこは山の中で、近在の人々を集めた、その地域では有名な「神社」の参拝客を泊まる宿屋の離れが、父に割り当てられた住まいでした。そこで、母から生まれ、そこに掘られた井戸水を、その地のたきぎで沸かした産湯に浸かったのです。

 それから30年ほど経って、一人で山道をたどって、生まれた家を訪ねたのです。ふるさとは苔むして、生家は朽ち果てようとしていました。記憶の薄い渓谷で、なぜか辺りの匂いに、懐かしい記憶があるように感じたのです。そこから山道でつながった、隣の沢伝いに部落があり、そこに父の事務所と社宅があって、引っ越していたのです。

 山奥に索道(cable)でつながり、戦時中は石英を、戦後は、県有林の木材を運んでいた終点、集積場の一廓でした。そこには部落があり、小学校もお寺も農協の出張所も商店も、少しおりて行くと郵便局も茶店もありました。逆に、もっと奥には、満州に開拓した人たちが、終戦後、帰還して入植した開拓地がありました。

 父の事務所が、街中の果実店の隅にあって、ここと、山奥の掘り出し地(伐採地)と、移り住んだ部落とにあって、父は、戦時中は馬で、戦後はトラックで行き来していたようです。この父の事務所にあった果実店の店主は、街の青果商組合の責任者をしていた人格者で、私が訪ねるとカツ丼とか鰻丼をご馳走してくれたのです。

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 その青果商のおじさんと同じ、苗字の野球選手がいました。読売巨人軍の名内野手の内藤博文です。もうお亡くなりになりましたが、今年のワールドシリーズで、侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹が、プロ選手の頃に、二軍監督で、指導していた方です。

 栗山英樹が、こんな言葉を残しています。

 『・・・僕自身、ダメな選手だった時に・・・二軍でテスト生の僕は誰からも相手にされませんでした。しかし監督の内藤博文さんだけは練習が終わると「栗、やろうか」とノックを打ってくれたり、ボールを投げてくれたり、いつも練習に付き合ってくれたんですね。・・・さらに落ち込んでいる僕に内藤さんは「栗、人と比べるな」とひと言声を掛けてくださったんです。「俺は、おまえが少しだけでも野球が上手くなってくれたら、それで満足なんだ。」と。』

 栗山英樹が、WBCで優勝チームの日本の監督を務めた背景には、こんな素敵な指導者がいたと言うことです。川上や千葉や別所と言った大活躍した選手の陰で、地味な選手して、名門チームに在籍し、目立たなかったのですが、現役を退いた後、優秀な野球指導者の基礎づくりを果たしたことは、特筆に値するのではないでしょうか。

 そんな内藤博文の名前を、子どもの頃に知り、一度だけ、後楽園球場(今は東京ドームに代わっています)に兄たちに連れられて、観戦したことがありました。父も巨人軍フアンでしたし、父の事務所の貸し手と同じ名前(おじさんの親戚だったかも知れません)だったこともあって、父からも聞いて知ったのです。

 この内藤博文のような人を、「伯楽(はくらく/馬の素質の良否をよく見分ける人。また、牛馬の病気を治す人。人物を見抜き、その能力を引き出し育てるのが上手な人。」と言うのでしょうか。この時代の人材養成は、お金の力が必要になっているようです。高価な道具、科学的なトレーニングルーム、栄養学で考え出されたサプリメントなどが求められて、優秀な選手が生み出されています。でももっと人間的な要素が消えてしまっていないでしょうか。

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時の違い

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 『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31~32節)』

 今年も、甲子園は熱い戦いが繰り広げられていました。暑さで閉じ込められて、熱中症にならないために、『お気をつけください!」と市役所から、何回か連絡をいただいていましたので、「バーチャル高校野球」の配信で、準々決勝あたりから観戦したのです。自分にもあった若さって、『素晴らしいな!』と思わされました。

 この上の校歌は、旧制の京都第一中学校のものです。歌詞は、有川武彦の作で、その中に「自由」が謳われています。創立50周年にあたって、大正9年(1920年)に作られています。戦時下、この校歌の二番にある「自由」が、国是に反すると言う理由で削除されてしまっています。

 この下の校歌は、福島県の私立、聖光学院高校のものです。歌詞は、平野彬子の作詞で、その中に「復活(よみがえり)の主」、「山上の調」、「世に勝ちし主」が謳われています。今年の甲子園に出場した聖光学院の試合では、この校歌が奏でられ、歌われていました。削除も訂正も加えられないで、キリスト信仰が表明されていたのです。

 それぞれ若者に、「自由」や「復活信仰」をと願う学園の学の方針が、時代の要請や国家権威によって、削除されたり訂正された時代があったことを、知っておくべきなのでしょう。この京都一中の卒業生には、「マックス・ヴェーバー」の研究者の大塚久雄というキリスト者がいます。この方の「生活の貧しさと心の貧しさ(みすず書房1978年刊)」などを読みました。

 この78年、信教の自由、表現の自由が与えられ、自由すぎる時代が到来していますが、再び校歌の歌詞にも、変化が起きそうな予感がしそうでなりません。

 これは「時の違い」の現実なのでしょう。でも、教会の主、救い主は、私たちに不変の「真理」や「自由」を与えてくださるのです。

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海は広いな大きいなだけでなく

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 「虱潰(しらみつぶ)し」と言う言葉があります。「かたっぱしから漏れや見逃しがないように調べたり、探したりすること。《語源》虱はとても小さく、人の体につくと取るのが大変で、他人の虱を取る場合は、頭の端から、それこそ髪の毛一本一本を調べるようにして、虱をつぶしていくしかなく、その退治する様子からたとえていう。」と、語源辞典にありました。今日日の子どもはシラミなんて知らないことでしょう。

 「古事記」の中にも、この虱が出て来ますから、日本に棲息し続けた寄生虫でもあります。小学校で、特に髪の毛の長い女子に、このシラミがわいていた時代がありました。そのために、DDT"と言われる殺虫剤が、水鉄砲のような構造のポンプ式の散布器で、頭髪に散布されていたのです。私たちの子どもたちが小学生の頃にも、一時期でしたが、東南アジアから旅行者が持ち帰って、このシラミが発生した一騒動ありました。今でも、生命力の強いシラミですから、どこかに棲息していることでしょう。

 実はこの殺虫剤のDDT"の使用を、『危険だ!』と警告した学者がいました。アメリカ人のレイチェル・カーソン女史が、「沈黙の春(1962年刊行)」の中で、マラリヤの流行には、このDDT"が有効でしたが、薬害の大きさの問題点を指摘したのです。いつも製薬会社と患者の間には、揉め事が大きいのですが。長い目で見て、毒性を持つ薬品が、自然や人体に及ぼす影響の深刻さを、カーソン女史は警鐘を鳴らしたのです。

 散布されたDDT"の白い粉が煙のように、校庭にあった、あの時の光景を覚えています。このカーソン女史は、「われらをめぐる海」という本では、気候に大きな影響を与えているのは、海であることを言っていました。今までのほとんどの台風は、フィリピンの近海で発生したのですが、今年も、超大型の台風が頻発しています。

 天気予報の映像を見ていて分かるのは、海水の温度や海流などが、温暖化の影響を受けているに違いありません。その海水温の高さが、赤色で、最近は示されるようになってきています。台風を取り囲んだ高温な海水が気化しやすくなって、雨雲が発達する様子が分ります。

 大量の物作りをし、生活が豊かになったり、便利になって行く反面、環境破壊をしてしまうと言ったジレンマの中で、この時代を生きなければならない私たちは、真剣にこの問題に立ち向かう必要があります。まだ間に合うかも知れません。氷河が溶けて海面が上昇してきていることだって、高台に住んでいるかと言って、安全ではいられません。大雨での深刻な農業被害だって、出て来ているからです。

 警告者の声、特に科学的に根拠のある警告を聞き入れて、息子や孫の世代が、安全な地球で生活を営んで欲しいと願っております。便利さや豊かさよりも大切なのは、「安全さ」だからです。作詞が林 柳波、作曲が井上 武士の「うみ」を歌ってみました。

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海は広くて大きいなあ
月は海から登り、太陽は海に沈む

海の波は大きくて青い
この揺れはどこまで続いているのだろうか

海に浮かばせたお船にのって
行ってみたいなよその国

 もう5年も、その海を見ていないのです。上海港や大阪港から、二日間の船旅で、海上を航行する船に乗船して、思いっ切り海を満喫した自分としては、海なしの年月はもの足りないのです。穏やかな海の波と潮騒は、人生の子守唄のようで、また砂浜に立ちたい思いが開いてまいります。その海も、一変して嵐になるのが、意外ですが、自然の営みは解し難いものです。

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大惨劇の中で

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 2001911日の午後9時50分ほどでした(東海岸時間午前8時46分、9時3分にあったテロ事件)。当時、川のほとりの一廓にあったアパートをお借りして住んでいたのです。その二階の階段の近くの部屋のテーブルの椅子に座っていた私に、『大変、テレビをつけて観て!』と、子どもから電話が入ったのです。

 それで、テレビを観ますと、ニューヨークのワールド・トレイド・センターの北棟ビルから、炎と煙が立ち上っている画面が映し出されていたのです。それは衝撃的な現実の映像でした。ジェット旅客機が突っ込んでいたのです。しばらくすると南棟にも、同じように旅客機が突っ込んだのです。

 まるで映画の撮影現場のセットを眺めているようだったのですが、それは現実だったのです。度肝を抜かれるとは、このことなのでしょうか、大変なことが起こってしまったのです。その日には、ワシントンのペンタゴン(国防省のビル)にも、同じように突入し、またピッツバーグの森に、もう一機が墜落したのです。

 後になって、「同時多発事故」と言う、アルカイダのテロ攻撃だったことが判明し、夥しい数の死傷者が出た大惨事でした。こういったテロを、即時的に地球の反対側で、映像で見られると言うことが、自分たちの国にだって起こりうると言う思いに襲われたのです。

 ナショナル・ジオグラフィックが、「アメリカを襲ったあの日の出来事」を制作し、今日、その映像を、YouTube で観たのです。22年前前の大事故の記録ですが、薄れた記憶を書き直されたようです。生存者の回顧という形の番組で、20年の歳月を経た今でも、あの時期よりも、あっと驚かされるような事件が起こりかねないのだとの思いを新たにされたのです。

 80年ほど前に、真珠湾が奇襲された時も、ハワイ島のホノルル市民には、まさかの出来事だったのではないでしょうか。ハワイにいた上の息子を訪ねた時に、オアフ島のホノルルの北にあるカネオヘから、山間部を通るフリーウエーの山道を通っていましたら、息子が、『お父さん、日本軍は、この山間地から真珠湾に侵入して、爆撃してるんです!』と教えてくれました。

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 中野の教会で、戦後、クリスチャンとなった淵田美津雄攻撃隊長が率いた順路、あの爆撃機で飛んだ高地を、車で走っていましたので、何か錯覚するような不思議な思いがあったのです。台湾、沖縄、鹿児島や長崎が、いえ東京や大阪でさえも、一瞬のうちにミサイルを撃ち込まれないとは限らない、今の時代です。そんな危うい時代に生きているのを再認識した次第です。

 さして重要都市ではない、かつての商都のわが街ですが、ニューヨーク、いえアメリカ全土、いえ世界の貿易の繁栄のようなシンボルだったビルが、あんな形で23時間の間に、粉微塵に崩壊してしまう現実は、どこにでも起こりうることなのでしょう。そんなことを思いながら、恐れずに、今に忠実に生きることを決心させられているのです。

 あのような中を生き延びたみなさんのお話を聞いて、紙一重で生と死が分かれる現実に、生かされている人たちの言葉に、大混乱の中を死して任務を雄々しく全うされた方々、生きるように励まし、助けてくれた人たちへの感謝が、惨劇の中での救いなのでしょうか。

 あの事件の後、家族のもとに帰りえた人、それが叶えられなかった人、重い肉体的、精神的な障碍を負われて、この20年を生きてきているみなさんのことを考えながら、生きることの、いえ生かされていることの《重さ》を、もう一たび、ひしと感じた、主の日の午後でした。

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思いっきり輝いていた夏

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 『ミーン、ミーンミーン!』、元気、いや暑苦しい鳴き声の蝉の声が聞こえなくなって、散歩の途中で、今度は聞こえてきたのが、『カナカナカナ!』です。短い一生の夏のひと時を、一所懸命に鳴いていて、小さな命を振り絞るように生きているのでしょう。

 蝉の鳴き声を聞きながら、川まで歩いて行って、履いて出た水泳パンツになって、鉄橋の真下の「なめ(床滑と言うようですが、越して行った街の遊び友だちはそう言っていました)」が、えぐられて壺のようになった深みに素潜りすると、ハヤやバカッパヤなどの魚影が見えて、掴めそうだった日が、懐かしく思い出されます。

 帰り道に肉屋があって、そこで「ボンボン」と言われる、ゴムの袋に入った氷菓(ミルク愛の甘い氷)を買って、しゃぶりながら家に買って行ったのです。

 家に帰ると、母が井戸水で冷やしてくれたスイカを切って、食べさせてくれたでしょうか。宿題をした覚えがないのですが、泳いでボンボンをかじりスイカを食べたのが、夏の日の思い出です。

 もう帰ってこない夏を、今の夏と比べて、扇風機もクーラーもなく、窓を開け放った部屋に、吊られた蚊帳の中でごろ寝し、一日精一杯遊んで、熟睡して過ぎて行った夏でした。夏がくれば思い出すのが、こんなことでしょうか。

 兄たちや弟は元気なのに、自分ばかりが病気で、思うままにならないでいたのに、母の愛を独占している満足感があって、ラジオを聴きながら過ごしていたのに、急に元気になって、人並みの夏を楽しめるようになったのが、嬉しかったのも思い出します。

 父が、ドイアイスを入れた紙の箱の中に、家族分のソフトクリームを買って帰ってきてくれたことが、一夏に何回かあったでしょうか。こんなにうまい物があるのを、舌で味わって大喜びをしてるみんなを、父が満足そうに眺めていました。

 もう川でなんか泳がなくなっているのでしょうか。カルキで消毒した水道水のプールでしか泳げなさそうです。カナンの街にいた時、濁り水でしょうか、あぶくの出るような下水が流れ込んでる大きな川で、得意そうに泳いでる人がいたのです。

 高二の時に、上の兄の友人のお父さんが、社員のために借りた、湯河原の吉浜にあった夏の保養所で、一夏過ごしたのです。オマケのようにしていたのですが、大学生たちの〈少年ぽい生態〉を眺めながら、いっしょに遊ばせてもらったのです。みんな東京六大学の運動部員でしたから、結構カッコいいお兄さんたちでした。

 それって、どなたにもある思い出なのでしょう、子どもたちを連れて、伊豆や相良の海の家に、朝早く家を出て、一夏、何度か出かけたことがりました。車の冷却用のホースが破裂し、水をもらいもらいしてradiator に注水しながら、やっと見つけた自動車工場で、お盆休みだったのに修理をしていただいたことがありました。

 この夏、やはり悲しいのは、家の前のコンクリートの通路の上に、ひっくり返っている蝉がいることです。手にして、起き上がらせて、空に放つと、飛んでいきます。でも、もう死期の迫った蝉なのでしょうか、そんな姿を、〈セミファイナル〉と言うんだそうです。どの夏も、思いっきり輝いていた夏だったのです。

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戦争をしないあらゆる努力を

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 最近、〈嗅覚〉が効くようになってきているのです。〈臭ってる!〉のです。どんな臭いかと言いますと、きな臭い〈戦争の匂い〉です。

 『また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 (マルコ13:7)』

 私の感じる〈匂い〉は、国際情勢の中で、日本が国防という名で、軍備拡張や国土整備に乗り出していることを聞いて、鼻腔がムズムズしてきているのです。 

 父から聞いていた、二十歳の「徴兵検査」が、再び行われるのでしょうか。検査中にビンタ(平手打ち)の音が聞こえたそうです。若者たちが戦場に駆り出されていく日が、また来るのでしょうか。

 学業の途上で、ペン(ノートパソコン)を置いて、軍帽を被り、軍服を着、軍靴を履いて、銃を担ぐのでしょうか。国家総動員というスローガンが掲げられるのでしょうか。

 かつてアジア諸国に、〈五族共和〉と言われる大東亜共栄圏を作り上げようとした考えではなく、起こりうる他国からの攻撃に対抗して、国を守るために、若者が駆り出されるかも知れません。

 あらゆる業を中途で終えるのでしょうか。田圃や畑は誰が耕すのでしょうか。工場や商店の家業はどうなるのでしょうか。病弱な祖父母、父母は誰が看るのでしょうか。

 戦争の準備ではなく、『戦争をしないあらゆる努力を忘れずにし続けて欲しいのです!』と、きっと戦死者は言うことでしょう。聖書で、救い主イエスさまは、『それ(戦争)は必ず起こることです。』と言われていますから、起こるのですが、それでも、起こらないための努力はしたいのです。九月になって、そんなことを思う朝なのです。

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[ことば]恵みと重さ

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 一時は、80kgもあった体重が、一念発起、好きなカリントウを断ち、70kgほどに安定してきていました。もう少し減量の65kgが目標値なのですが、なかなか到達が難しいのです。ただ、この目標設定値は、ちょうど良いのだそうです。

 そんな目標がありながら、長女の単身帰国、隣国からの二組のお見舞い客、1週間前からは次女家族の訪問が続いて、〈食事事情〉が変わってしまったのです。散歩の日数と歩数とが減ったこともあって、3kgも体重が増えてしまいました。先日、次女の勧めもあって、日帰り温泉に久し振りに出かけ、そこにある体重計に乗って判明したのです。

 ご飯の量が増えたこと、ずっと食べなかったベーコンとシャウエッセンのソーセージを孫たち用にと買って一緒に食べたこと、訪問客の持参した菓子類を『食べなくては申し訳ない!』と食べたこと、調理を長女や訪問の姉妹たち、そして次女任せにして楽をしたこと、買い物を彼女たち任せにして外出が減ったこと、その上、婿殿が『何か欲しい飲み物ありますか?』と聞かれて、喉をスッキリしたくて、懐かしく『サイダー!』と言ってしまいましたら三本も買ってきてくれて、500mlを一本飲んで、もう一本も半分も飲んでしまったこと、自分に鬼にならないければいけないのに、優し過ぎて、自制力が欠如したのが原因でした。

 それで今は、『どうしよう?』と、仕切りに思っているのです。この体重の〈重さ〉は、正直な体重計で歴然としています。

 「重さ」ですが、体重だけではなく、人の語る「ことばの重さ」をしばらく考えてきています。この「ことば」にも、重さと軽さとがあるようです。長く、聖書から語ることを仕事にしてきましたが、若い頃と、中国の学校の教壇から、多くの「ことば」を語ってましたが、これと教会の会衆に語る「ことば」とでは、その重さの違いは歴然としているようです。両方とも、教科書や聖書があって、語るのですが、語る動機も、聞く対象も、お聞きになる態度も、聞いた後の感想も、両者は違うのです。

 語りの上手さは、経験だけではありません。二つ違う向こうにある教室の生徒が、『先生の話す声が、私のいる教室からいつも聞こえる!』と言われたことが何度かありました。大声で教えていたからです。宣教師さんと路傍に立って、伝道説教をした時、バプテスマのヨハネに真似たつもりで、力一杯声を上げて話していたのですが、宣教師さんから、『絞るような香具師が語るのに似たのはクリスチャンとしてはふさわしくありません!』と注意され、それ以降やめました。

 私たちが語る、救い主イエスさまは、柔和なお方で、巷で声を上げて、叫んだりされなかったからです。またこんな話をお聞きしたことがあります。あるラジオ牧師さんの弟さんが、ある集会にやって来たそうです。その夕べの集いの説経者は、ズーズー弁で高学歴ではなかったのだそうです。弟さんは、T大出の秀才で、ある政党の機関誌のお仕事をされていたそうです。『こりゃあダメだ!』と思ったのです。ところが、訥々として語る説教者の語る「ことば(福音)」を聞き、その方の招きに応じて、信仰を告白して、救いを受け入れたのです。

 どうも説教の上手さ、説経者の優秀さや学歴と、聞く人との関係は、未知数なのでしょう。頭の上を飛んでいってしまうような高邁な神学や例話が語られても、立て板に水の説教を聞いても、それだから人は救われるわけではなさそうです。その弟さんは、やがてお兄さんと同じく献身して、牧師になられたのです。

 またブレーナードの話を、本で読んだ若い日がありました。この方は、夭逝してしまいますが、アメリカの native のみなさんに重荷を持って伝道をされた方だったのです。ある夕べ、集会を開こうとしましたが、通訳者がいなかったのです。思案の末、酔った男に通訳者としてお願いして、集会がもたれました。その酔っぱらい通訳者のことばで、何人もの方が救われたのだそうです。神さまは、こんなことをされることを知って驚くとともに、「神のことば」に力があって、語る側の事情とは無関係に、人の心に届き、悔い改めに導くことができるのです。

 責任をもって語る「ことば」に、重みがあります。それとは逆に、「ことばの軽さ」もあります。その場限りに語る軽口、軽率なことばが、責任ある立場の人によって語られる時、その〈軽さ〉に人は大きく躓くのです。

 私は、「聖書のことば」を聞いて、嬉しくて仕方がない言葉があり、今でも、それを誦(そらん)じますと、感動で心がいっぱいにされるのです。

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 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 《功のない者への一方的な好意》という意味を持つ「恵み」、「恩寵」が、自分の人生に深く染み込んだのです。安心がやってき、喜びが湧き立ったのを鮮明に覚えています。自分にとって画期的な「ことば」でした。「赦し」の確信でした。《再スタート》、《やり直し》をさせてくれた「ことば」だったのです。ある晩、宣教師さんが、この「みことば」を読まれた時、電撃的に重く心に置かれて、今日に至っています。

 そんな「ことば」」が、食べ物だけではなく、自分を生かしているのを感じております。昨日も、弟と姪が、久しぶりに訪ねてくれました。たくさんの「ことば」が交わされ、励まし合うことが、次女の家族と共にできたのです。素敵な時でした。

( Christian clip arts のイラストです)

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せんせい あのね

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 「一年一組 せんせい あのね(鹿島和夫、灰谷健次郎著/理論社)」を、市立図書館から借り出して読んでみました。神戸の小学校の一年生と担任の先生との詩による「あのね帳(交換日記)」が交わされた記録が記されています。

 その小学校は、chemical shoes などのゴム加工製品を作る町工場地帯にあって、朝鮮半島から移住してきた家庭の子どもたちが通学している学域にあります(関西淡路大震災の被災でよく報道された地域です)。それで民族的な問題、差別などの中で子どもたちが生活し、学んでいるのです。

 父に従って東京に引っ越した後、住んだ街に、朝鮮半島から移り住んだみなさんたちの住んでいる一廓がありました。貧しい家庭が多く、まれに豊かな家庭があって、焼肉屋、パチンコ店、廃品回収などを生業にして、たくましく生きていたのです。それを「バタ屋」と呼んでいて、初めて聞いた私は、butter を買いに、弁当箱を持って、級友の女の子の家を訪ねたほどでした。

 同じ肌の色をし、同じ顔貌なのに、みなさんは蔑視されていたのです。子どもたちには、大人の事情や経緯などはお構なしで、一緒に嬉々として遊んでいたのですが、大人に感化されて、差別を持ち込んでは、戯れ歌、侮蔑の歌まで歌っている子もいました。

 鹿島和夫さんは、その地域の小学校の11組を担任されていて、子どもたちと「あのね帳(交換日記)」のやり取りを始め、みんなが作った詩に応答して、交流を図っていたのです。子どもたちの心から、さまざまな思いを汲み出そうとしたのです。

 私たちの世代には、無着成恭氏が、生活綴り方教室を、山形県の山村の本沢村の学校で始めて、その戦後教育の特徴ある作文指導をされ、注目されていました。

 この先生の鹿島和夫は、子どもたちの現実と教師の指導の限界との 越えられない溝を指摘しています。そこにある貧困、それによる様々な問題、日本人から受ける差別などは、今にまで及んでいるのです。対日感情の好ましくない原因は、日本の過去の長い年月の支配と差別があったのでしょう。

 そんな工場街に住んで、心を閉ざした、よしむらせいてつ君のことが取り上げられています。こんな詩を書いています。

     かい

耳にかいをあてるとうみの音がききえた

かいにはうみがはいっとんかな

うみにずっとすんどったから

うみの音がしみこんでいる

うみはかいにいのちをあげたんかな

      おつきさま

おつきさまは

あんなにちいさいのに

せかいじゅうにみえる

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 『子どもを画一的にワクのなかにはめこまないで、のびのびと発言し行動させ、そんな中で自由に考え合うことが、ぼくの学級づくりの基本だった。』と、鹿島和夫は言います。初めて会った時から避けて顔を合わそうとしない、人見知りをするせいてつ君は、交換日記をするごとに、こんな素敵な詩を書くようになったそうです。

 このせいてつ君がいて、その影響で、級友のあけみちゃんが変わっていくのです。次の詩を読んでみてください。

    ちょうせんご

ちょうせんごで

おかあさんは オモニといいます

おとうさんは アポジといいます

いもうとのことは ヨドムセンといいます

わたしのなまえは イイメンミで

みよちゃんは イイミディです

おとうさんのおかあさんは ハンメといいます

ハンメはわたしが3さいのとき

しんでしまいました

がっこうのせんせいはソンセンニンです

わたしはにほんごでいうほうがすきです

ミデミンメというきとばは

ハイベハンメがいるときだけつかっています

 こんなことを書けるようになったのです。そのあけみちゃんがいることで、せいてつ君が、また変わったのだそうです。

 子どもの心の中でも、人種差別の歴史は、如実に表されているのですが、教育者の偏見のない目と接し方が、傷ついた心の現実を癒していったのでしょう。でも帰って行く家の生活の現実は厳しかったのです。けっきょく、両親の家出、祖父母に育てられたせいてつ君は、祖父に、「あのね帳」の入っていたランドセルを川に捨てられてしまいます。その後、養護施設に入るのです。

 7歳の幼い子どもの人生の過酷さに、教師のできる限界を、鹿島和夫は痛切に覚えるのです。でも、「いい先生」のいたことは、せいてつ君の一生に、よい影響を与えたに違いないと思うのです。

 同級生にナガシマ君がいました。「オランダ屋敷」に住んでいると聞いて、彼について行って見たことがありますが、そこはオンボロ屋敷でした。雨が降ると、弟と2人休んでいました。さしていた破傘が使えなくなったからです。彼とは一緒に廊下に立たされた仲間でした。いまだに、彼のことも、そしてせいてつ君のことも気になってしまいます。

(神戸市で作られるケミカルサンダルです)

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