花火


虹、雷光、オーロラ、紅葉、火山噴火、樹氷など、自然界が見せてくれる壮麗な美は、造物主の手の業以外に考えられません。第一、あのような配色は人間にはできませんし、絵の具だって、あれほどの量を、どうやって蓄えられるでしょうか。どんなに大きな足場を組んだとしても、これほどの規模の演出を、人は作ることが全くできません。ただただ、大自然の景観の美しさの前に立ち尽くして、息を呑むのみです。

ところで今夏、多摩川の河川敷で行われた「聖蹟桜ヶ丘花火大会」に、息子が招待してくれたのです。6月の段階で、8月に帰国する家内と私、そして彼の友人、四人の席を予約しておいてくれたのです。ところが、所用ができた家内は帰国することがかなわず、私だけで招待に応えることになってしまったのです。子どものころ、よく見たことがありましたし、おもちゃ屋さんで買ってきた花火を楽しんだことがありました。高校の時に、尾崎士郎が書きました、長編小説「人生劇場」を読んで、上海で花火師として活躍し、事故で片腕をなくした吉良常に憧れたのです。もちろん博徒の彼にではなく、花火師の彼にでしたが。その吉良常に倣って、『何時か花火師になって、世界の夏の夜空を飾ってみたい!』と思い立ったのです。この夢は、花火のように儚く消えてしまいましたが、花火への執着からは、それでもなかなか離れることができずにいたのです。

あれから何年も何年もたって、『ご一緒に行きませんか?』と誘ってくださる友人と一緖に、上海を旅行したことがありました。テレビ塔の展望台から、『あの辺りが日本人街のあったところですよ!』と、中国人の知人が指さしてくれたあたり、かつての外灘に面した「四馬路(スマロ)」を散策したことがありました。東京では全体像を大体つかむことが出来るのですが、上海は不案内でしたし、実に入り組んだ大きな街でしたから、どの辺なのか見当をつけることができない、「迷宮」の感じがしたのを覚えています。『きっと、このあたりで、吉良常は花火を上げ、負傷したのだろう!』と、小説の場面を思い起こしては、独り合点をしておりました。訪れたこともない街でしたが、言うにいわれぬ懐旧の思いが湧き上がってきたのは、小説を読んだからでも、歌謡曲に歌われていたからでもなかったのです。直接聞いてはいませんが、若い日の父が誘われた街だったからかも知れません。

『江戸・隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『遠くから眺める街の花火大会で十分!』と決めていた私ですが、今夏の花火大会は、劇場の舞台で見られる演劇のような、実に「観劇」の気分でした。無作為に、ドーン!ドーン!と上げているものとばかりだと思い込んでいた私は、裏切られたからです。コンピューター制御で、流行りの歌の流れに呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間隔、間が計算しつくされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。

しかも、相撲なら「砂かぶり席」、眼の前の上空で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも写っていたでしょうか。このような経験は初めてのことでしたから、今は、『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至りました。『来年はお母さんも一緖に観たいね!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、中国のお父さんは驚いてしまったのです。大きな犠牲を払って、楽しませようとした心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがいたしました。

それにしても、IPADで注文してくれ、配達されたピザを、花火を見ながら夜風に吹かれて食べた味は、表現の仕様がなく格別な味でした!道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲料も、飲みながら食べながらの、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでありました。

母への便り

お母さん、

おはようございます。

東京は、立秋を過ぎても、酷暑が続いているようですが、お元気で支えられ守られてお過ごしのこととお喜びいたします。◯ちゃんのそばで、ゆっくりとしておられることと思います。

8月15日に、京王線で橋本、横浜線の新横浜から京都に行き、京都で下車しました。京都では、日曜日の朝、ある所によって、昼過ぎに京都から関西空港まで特急に乗車しました。飛行機の出発が1時半ほど遅れましたが、華南の空港に無事に着き、夜8時過ぎに家に帰り着きました。中国への出立の朝、お母さんは出かけていましたから、挨拶なしで出てしまいました。お赦しください。

今年の日本の夏は格別に暑かったのと、あちらこちらと出掛けましたので、お母さんといっしょに、あまり散歩ができませんでしたね。このことも赦してください。でも母さんが、元気にしていらっしゃる姿を見て安心しました。お母さんが、美味しそうに感謝しながら食事をしているのを知って、これも安心でした。あまりゆっくり、一緒に話もできませんでしたね。でも、お母さんのそばにいることができて感謝でした。

病弱で一番心配をかけた三男ですが、お母さんのお世話で、誰よりも健康が支えられて、今を生きることができて感謝しています。心から感謝します。時々、幼い日の出来事を思い出しています。お母さんも親爺も、家庭的には、あまり恵まれなかったのですが、僕たち4人の兄弟のために素晴らしい家庭を築いてくれたことを思い返して感謝しています。ありがとうございます。ですから、僕も4人の子どもを授かって、育て上げることができて感謝しています。

◯に本拠地を移されて、いかがですか?◯ちゃんと姉上に優しくしていただいていることでしょうね。どうぞ◯を楽しんでくださいね。お母さん、外を歩いて散歩を続けてください。足の筋肉も、お尻の筋肉も、オシッコの筋肉も、歩くことによって強くなるからです。◯ちゃんが、きっと連れ出してくれることでしょうね。◯ちゃ夫妻も◯ちゃんも、お母さんのことを一番に思っていますよね。僕は、遠くにいて、なにもできないことを赦してくださいね。気持ちだけは、ありますので忘れないでください。家内も同じ気持でいます。お母さん、◯ちゃんが言っていたように、お母さんの愛読書を、書写したらいいですね。きれいに書けたら送ってください、楽しみにしています。

お母さん、◯に住んでいた頃が懐かしいし、八王子も、清川も懐かしいですね。生まれた御岳昇仙峡も、ぼくに取っては忘れられない出生地ですから。お母さんも、◯が懐かしいでしょうね。でも、僕たちには、帰っていく本物の故郷があるのですから、何と感謝なことではないでしょうか。そこに行くことができるように、教えてくれたお母さんには、感謝でイッパイです。ますます元気で、感謝して、喜んで、今を生きてくださいね。華南の街の空の下から願っております。

こちらは、酷暑です、37度、体感40度といったところでしょうか。でも守られていますので、安心してください。先日、「土楼(土で作られた家・砦のような役割を持った戦火を逃れて移り住んだ漢族の家)」に、若い友人が案内してくれて行ってきました。この人は◯ちゃんと同じ仕事をしています。その時の写真を送ります。また、近所でお母さんほどの方が娘さんと歩いていた時の写真です。もう1つは、永定県にある孔子廟で撮った写真です。

では、お母さん、お元気で!何時も何時も、お母さんのことを思っています!またメールをします。家内からも、くれぐれもよろしくとのことです。