好物

 

 

「食欲の秋」と言うことで、天気も空気も好く、水も清いので、食べ物が美味しい季節になりました。お酒を飲まなかった父は、食通だったのです。結構若い頃から、《旨い物》に目がなかった様です。当時、東京神田に「登亭」という鰻屋があって、父の会社の一つが、旧国鉄の神田駅の近くのビルの中にあったので、時々食べていた様です。会社の帰りに、折り詰めにした「うなぎの蒲焼」を、子どもたちに食べさせ様と、時々買ってきてくれたことがありました。

その「蒲焼」が食べたいと、入院中の父が、私に言ったのです。それで私は神田の店に行って、美味しそうな鰻を一人前買って、父に届けたのです。そんな用を頼むことになかった父に、心の片隅で、『あれっ!』と意外に思ったのを思い出します。父の元に届けると、尻尾の方を自分が食べて、同室の病友に、頭の方の身の厚い方を上げてしまったのです。旨い方を食べずに、人に上げてしまい、その喜んでいるのを見るのが好きな、そんな父でしたから、仕方がありません。

それからしばらくした退院の日に、脳溢血を起こして、病院から天に帰って行ってしまったのです。一番の好物が、「昇亭の鰻の蒲焼」だったのでしょうか。もっと食べて欲しかったと、やはりいまだに悔やむこともあります。この父は、鰻に似た「どぜう(泥鰌)」も好きで、母の故郷の小川で、可愛がっていた若者を連れては、<泥鰌すくい>をしていたそうです。それででしょうか、泥鰌料理のメッカの「浅草の駒形」で、『準、どぜうを喰いに行こうな!』と、何度か言ってくれたのです。

私も食べず仕舞いのままでは、ちょっと寂しいので、今度帰国したら、日本橋の友人と弟を誘って、駒形辺りに行ってみようと思うのです。浅草は、東京一の繁華な街で、父の青年期の一時期を過ごした街だったかも知れません。それで老舗の駒形の「どぜう屋」を贔屓(ひいき)にしていて、息子の私に相伴(しょうばん)しようと思って、そう言ったに違いありません。

この鰻と言えば、浅草の隅田川の対岸の"スカイツリー"を案内してくれた次男が、その帰りに、浅草の鰻屋で、「鰻の蒲焼」をご馳走してくれると言って、連れて行ってくれたのです。ところが、店が休みで食べられませんでした。会社の用で、この辺りに来て、同僚と一緒に食べて、美味しかったのでしょう。それで、通りすがりの店で、何か食べて終わったのです。これも食べず仕舞いは寂しいので、何時か、きっと次男と再訪することにしましょう。(「登亭」は平成24年に閉店したそうです)

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灯火

 

 

このところ、南側のベランダの下から、馥郁と、金木犀の香りがしてきて、やっぱり秋がやってきたのだと思わされています。梅の香は、微か過ぎて、花に近寄らないと嗅ぐことができませんので、嗅ぎ損ねるのでしょうが、金木犀は、玄関を開け、この建物の外のドアーを開けて出ると、もう、そこは匂いが立ち込めています。

最高の季節の到来に、夏の暑さがすごかったせいで、有難味がより一層です。柿も、栗も、葡萄も、柚子も、蜜柑も、こんなに美味のかと、実りに満ち溢れている秋を満喫しているところです。人は嘘をつくことがありますが、自然界は正直で、人を裏切ったりはしません。ほぼ暦の通り、この土地の人の言い伝えの様に、季節が巡ってまいります。

上高地は、今頃、秋色が濃くりつつあって綺麗でしょうね。知人が、雲南省に別荘を買ったそうで、一年中同じ様な気候だそうで、避暑も避寒も最適だそうです。富裕層が、買い求めているので、『ご利用ください!』と言われても交通費だって高額だし、私たちの生活水水準からは、ちょっと無理かなあ、と思うのです。

それでも、建国以前の欧米人が夏季に使っていた避暑地が、この町の北にあります。真夏、夕刻には蜩(ひぐらし)の鳴き声がし、夜間は肌寒ささえ感じるのです。今頃行ったら、厚手の布団が必要になっていて、寒がりの私には、秋冬の夜具を持参しないと無理の様です。ベニヤ板にシーツだけの床は、過保護に育った私には無理です。

ここに来たばかりの頃、冬の夜間は、日中着ていた服を着たまま、床に着くのだと、寮生活をしている学生たちから聞いて驚きました。『はーい、寝間着に着替えて!』 と、母に言われて生活してきた私には、駄目です。やっぱり、よく沸かしたお風呂に入って、鼻唄でも歌って、のんびり入浴して、綺麗さっぱりしてから出ないと駄目なのです。

こんな無理無理、駄目駄目づくしの私ですが、大丈夫なことも、少しはあります。寝たら、寒くない限り、すぐに寝着いてしまうのです。ユダヤの格言に、「まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」とあります。それでも、コーヒーを、余り飲まなくなった私は、急に飲みたくなって飲んだ夜は、なかなか寝付かれないことが、最近あるのです。運動不足もありそうですね。秋の夜長、今度の帰国には、生まれ故郷の温泉に入れることを期待し、「灯火(とうか)親しむ候」で、読書でもすることにしましょう。

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西紅柿

 

 

一年三百六十五日、欠かさずに食べている物が、私にはあります。よくも飽きもせずに食べるものだと、われながら呆れたり、感心したりするのです。こちらで生活し始めて、とくにこの華南の街に来る以前は2日に一度くらいだったでしょうか。でもこの十年以上は、毎朝励行しているのです。そう、《トマト》です。こんなに思い入れしている食べ物は、他にないのです。

スーパーマーケットや八百屋さんに行くと、まず目を向け、一直線で駆けつけるのが、山と積まれたトマト売場なのです。家に二つ三つあっても、誘惑されて買ってしまう始末です。どうして、こんなに好きになってしまったのか、自分でも分からないのです。きっと、あの《真っ赤》な色と、何とも言えない味とに魅せられてしまっているのかも知れません。作詞が荘司武、作曲が大中恩の「トマトって」の童謡があります。

トマトって
かわいい なまえだね
うえから よんでも
ト・マ・ト
したから よんでも
ト・マ・ト

トマトって
なかなか おしゃれだね
ちいさい ときには
あおいふく
おおきくなったら
あかいふく

これは、アンデス山脈の山岳の高原、ペルー原産で、メキシコに入り、それがヨーロッパに渡り、中国を経て日本に入ったそうです。それは、江戸期になっての渡来だったそうです。それで、中国では、「西红柿xihongshi/番茄fanqie」、日本では「唐柿」と呼ばれたそうです。初期には観賞用だった物が、やがて改良されて、食用になったのです。文明開化後の明治期なってから、日本人が食べ始めたのだ様です。でも本格的に食べられる様になったのは、「昭和」になってですから、《昭和の野菜》なのでしょう。

そうなんです、今朝も食べました。こちらでは卵とトマトのスープを作って飲み、生で食べることはなさそうです。でも最近は、ハンバーガーサンドに、スライスしたものが入っています。カレーにもスープにも、このトマトは使われて、わが家では《大モテ》です。留学にきている学生、教え子、家内の日本語クラスの学生、訪問客に、《トマト入りカレー》を何度作って上げたか知れません。

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あの<バーバリーの日>は、新年度の最初の日だけだった様です。あれ以来、着ている姿を見かけません。今朝登校していく小学生の服装も、いつもの通りでした。いったい1日のために、あんなにすごい<バーバリー>は、どこに行ってしまったのででょう。<タンスの肥やし>とか言われますが、「国慶節」のお祝いの前後の日にも着用した気配はありませんでした。『いったい何時着るんだろうか?』と不思議に思っている朝です。

中高と同じ制服、それは、海軍兵学校の制服似で、あの学習院の制服に似ていましが、それを着て6年間通学した私は、一度だけ、ボタンの付いた一般的な制服で通学したことがありました。ボタンは、私の学校の名の入った物で、購買部で買って、母に付け替えてもらっていました。

教師も同級生も、みんな不思議そうに見ていましたが、誰も文句を言いませんでした。校名に刻まれたボタンさえついていれば、それが制服になるわけです。襟に校章のバッジをつけるのですが、これも<◯に中・高>とある所定の物でなく、校名の二字の入ったバッジを、購買部で見つけて、襟につけていました。とにかく、変わったことをしていたのです。

学帽も、オイルを塗り込み、卵をつけてフライパンで焼き、上の部分の広がりを詰めた物に、手縫いで変装していたのです。嫌な顔をして教師に見られても、注意されませんでした。諦められていたのでしょうか。とにかく、みんなと同じでいたくない<変な奴>だったのです。

弟の絣の着物を着たり、「朴歯(ほおば)の下駄(高下駄/旧制の高校生が履いていた物です)を借りたりで、そんな格好で、平気で新宿の街を歩いたこともありました。目立ちがり屋だったのでしょう。今思い出すと、恥ずかしくなってしまうのですが、当時は得意満面でした。それって<若気の至り>と言うのでしょう。

ところが、もう、そんな元気が無くなってしまいました。周りのおじいさんの様に、白髪になり、生気が失せてきているのでしょう。それでも、《目は心の鏡》ですから、しっかり見開いて、澄んだ目でいたいと、これだけには拘りがあるのです。それは、中学生の時に決断したことでした。通学中の電車の中で、死んだ秋刀魚の目の様な、酔ったおじさんの目を見た時に、『俺はああならないぞ!』とです。

「三つ子」ならずも「中学生の魂百までも」で、"百"まで、そうあり続けたいものだと思うのです。ノーベル賞を受賞された本庶佑さんの記者会見の時の目が、《キラッ》と輝いていました。三級上の次兄と同じ学年の方です。それは、人を助けたいと思って生きている人の目の「輝き」なのです。

(久留米<かすり>の生地です)

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自分の感受性くらい

 

 

自分の感受性くらい   茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

反骨精神の溢れた女流詩人でしょうか、「現代詩の長女」と言われた茨木のり子の詩が面白いのです。“ウイキペディア”に次の様に、この方の経歴があります。

『大阪府大阪市生まれ、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれたり、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年に医師である三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現、所沢市)に移り住む。家事のかたわら『詩学 (雑誌)』の詩学研究会という投稿欄に投稿を始める・・・』

ご自分の戦争体験を詠んだ、「わたしが一番きれいだったとき」が有名です。「作文」を、学校で教えていた時に、その教材として、私は使ったことがありました。日本の戦争責任を問う喧騒の中で、日本人も、多くを失ったことを、詩人は伝えたかったからです。同じ世代の日本女性が、戦時下と戦後に味わった体験は、こちらの学生にとっても興味津々だった様です。

級友

 

 

中学の同級で、バスケットボール部で一緒に汗を流し、上級生やOBにしごかれた仲良しが、大学を終えて、寿司職人になるために修行を始めたのです。新聞記者だったお父上の退職金で、自宅を改装して、鮨屋を始めるためでした。東京郊外のJRの駅前でした。近くに湖があって、中学時代は、よく遊びに行っては、湖上でボートを漕いだりして遊んだ、悪戯(いたずら)仲間でした。

ところが、店を始めて、軌道にのった時期に、病気で亡くなってしまったのです。同級生では最も早く召された一人でした。確か男の子が、三人いたと思います。夫人が、彼の遺志を継いで、その鮨店を続けたのです。鮨職人が残られて、営業し続けたのです。

昨日、彼のことを思い出し、あの店が続いているのかが気になり、"google"のサイトで検索してみたのです。そうしましたら2006年の記事が見つかり、夫人の名義で、店を営業しているのが分かったのです。以前訪ねた時、息子さんが店を継いでおいででしたから、親子で経営されている様です。その記事は、40周年のものでした。それから12年が経っていますから、「創業50周年」を過ぎたことになります。

家内といっしょにお邪魔したこともあって、ご夫人と名前が同じ好(よしみ)で、「三浦綾子」のフアンだと言うことで、新刊書を、家内が差し上げたことがありました。われわれ世代ですから、今も"女将(おかみ)"をしているか、息子さんの夫人に譲っておいでか、どうされておいででしょうか。

この級友に、OBの大学生が、渾名をつけていたことがあったりで、結構面白く、人気のあった仲間でした。教室の天井裏に登って、授業中なのに、国語の教師に叱られたりした仲間でした。大人の付き合いに入る前の別れでしたから、やはり「死」を真剣に考えた時期でした。

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21世紀

 

 

若い頃から思い続けてきたことがあります。将来の[人口の増加と食糧の自給の予測]とか、[大気や水質などの汚染による環境問題]、[犯罪の凶悪化]、[国際紛争]などを聞いたり読んだりして、私は考えたのです。その考え、思い続けてきたことと言うのは、『21世紀はあるのだろうか?』という懸念でした。

今年の夏から秋にかけ、日本や台湾や大陸、そして世界のあちらこちらで、台風(ハリケーン)、それに伴う水害や洪水や山の斜面の崩落、異常気温、地震、火山の爆発が起きていて、あの思ったことは、『あながち間違えではなかったのではないか!』と思い返しているのです。今世紀も、18年が経っていますし、楽観視できない世界的な状況の様に感じるのです。

『では、明日の予報です。明日も太平洋高気圧に覆われて、朝から強い日差しが照りつけそうです。予想最高気温は東京、名古屋で44度、大阪で43度、札幌でも41度と記録的な暑さが続きそうです。』、これは環境省がネットで配信した、<2100年未来の天気予報>です。これは、50年後、30年後にあっても不思議でない、もしかして5、6年後の《未来予測》かも知れませんね。

気象庁ではなく、環境省が、そう予測したという実感があります。今年、ここ華南の街で生活しながら、かつてないほどの暑さ、発汗、倦怠感は、年齢のせいばかりではなさそうです。ですから、みなさんが感じておいでの様に、秋になって、胸をなぜ下ろしているところです。

私は、いわゆ<預言書>の市販されている類の書物を、書店で買い求めて読んだり、図書館の書庫から引き出して読んでいたのではないのです。また、『大変だろうなあ!』と、つくづく思うのは、ここ中国の人口が、13億人とか15億人と言われて、多くの人々の毎日の食料や光熱水などをを賄わなければならない、国や地方の政府の責任者や担当者のご苦労です。並大抵のことではないのでしょう。

かつて大きな災害や飢饉に見舞われた国なのに、このところ自然災害だけで、国が豊かに潤っている影で、どんなに大変な行政がなされているかを考えることがあります。スイッチを入れると電気がつき、コックを開くと水が出、栓を緩めるとガスが出るのです。かつて、井戸水を汲み、薪を割ったり、炭に火を起こして、母の手伝いをしたことのある私は、当たり前のことではなく、深い感謝を覚えてるのです。外国人にも分け隔てなく、供給してくれるのを感謝を覚えています。

今春、私が運転免許証を更新しないで、失効させたのは、長く運転をしなかったからだけではなく、<排ガス規制>や<地球の保全>に協力したかった気持ちもあったのです。バスや電車、時にはタクシーに乗った方が、もう好いからです。国が対策をし始めるというよりは、個人が、それをし始める以外にないのではないでしょうか。車を三台も持っていた時期がありました。今はゼロ、自転車に乗りたいのですが、“ワイフストップ”がかかっています。そう、『歩け!』なのですね。

18年も過ぎた21世紀、いつ終わっても、いつまで続いても、一日一日、生かされている間、生き続け、歩き続け、食べたり飲んだり、過ぎたことにクヨクヨしないで、そうし続けようと思います。泣いたり笑ったり、落胆したり感動したり、悲しかったり嬉しかったり、恥じたり得意がったり、前に向かって期待しながら、そうし続けようと思っています。

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第2期目

 

 

これは、先月9月25日に掲載したアサガオです。本年第1期目の花に代わって、第2期目の秋蒔きの種が芽を出しました。次男夫婦が来てくれた時に、アサガオの種を持参してくれたものを蒔いたのです。すくすくと、二代目が育っています。咲きましたら、またアップしたいと思っています。

昔から「兄貴」と慕っていてくれる友人が、検査入院をした後、面会謝絶の状態にあると、夫人が知らせてきました。お嬢様もアトピー症で大変な状態にある様です。娘婿も、娘が1週間の出張で、術後を一人で家で過ごしています。次兄は、術後の検査で順調とのこと。みなさんの回復を願った朝でした。

今日は日曜日、好い祝日であります様に願っております。

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クコ

 

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これは、「枸杞子(クコ)」の「花」、「果実」、「乾燥した実」の写真です。わが家の乾物ケースの中には、常時、この乾燥した「枸杞子の実」があり、スープを作る時に、家内は、これを入れています。中国の家庭の常備の乾燥滋養食材です。こちらの多くの方は、水筒持参で通勤、通学しますから、その水筒の沸かしたお湯の中に、薬草などの体によい乾燥した実や葉を入れます。この「枸杞子の実」も、よく使っているのを見掛けます。

こんなに綺麗な花を咲かすことを、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。広島県の呉市安浦町の山に咲いているそうです。秋の花には、紫や黄色の花が多いのでしょうか。今頃の里山をハイキングで歩いたら、気持ちが好さそうですね。高尾山から相模湖に抜けるコースは、何度歩いたことでしょうか。 しばらく、この街の森林公園や、そこからのハイキングコースを歩いていませんから、秋晴れの日に、「おにぎり」をザックに入れて歩いて見たいものです。その折、「枸杞子の実」入りの水筒を持参しましょうか。

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けじめ

 

 

日本文化の特徴的な一つは、上と下、右と左、内と外、公と私とを、はっきりと分けることにあるのでしょう。背広にネクタイを着て職場に出て行った主人は、帰宅後、Tシャツにバミューダショーツや甚平に着替えたり、また外で履いた靴を脱いで、裸足で家の中を歩くと言った様な変化を厭わないのです。今は、「公」の自分ではなく、「私」の自分だという主張をしたいのです。

こちらの学校で教え始めた時、学生が、教室に入ってくる時、『おはようございます!』、帰っていく時、『さようなら!』と言わないことが気になったのです。「礼」の国で、その「礼」を身につけていた私は、戸惑ったのです。それで、日本文化と日本語を教える身として、私は、こちらから、挨拶の言葉で学生を教室に迎え、そして送ったのです。どの学年の学生も、最初は戸惑っていましたが、やがて、それが習慣化していったのです。

この日本人の感じ方というのは、《けじめ》の有無なのでしょうか。どうも私たちは、《けじめ》無しには、事を始めたり、終わったりできない文化や習慣の人間の様です。この《けじめ》は、動詞になって、「けじめをつける」という使い方をするわけです。

長年勤め続けた会社を辞める時に、その内外で関わりを持った方たちに、「挨拶回り」をして、会社勤めの、「けじめをつける」わけです。そうしないと、退職後の生活が始まらないと感じるからなのです。若い世代の人たちは、《けじめ》をつけられないで、いつの間にか消えて、去って行ってしまう傾向が強いのです。これって、後腐れがなくて、ドライでいいのでしょうか。

でも私たちの世代は、何か中途半端で終わってしまう<もどかしさ>を感じてしまうのです。最近有名な女優さんが亡くなられました。私たちの世代の方で、ご病気が分かってから、ほぼ10年の間、《けじめ》をつける、周到に「終活」をされていた様です。でも、“フワッ”と消えていくのもいいかなって、最近、私は思うのです。

どうしてかと言うと、《けじめ》をつけることに縛られてしまって、もっと大切なことをし忘れる事だってあるからです。遺品を調べていて、夫の秘密が暴露されて、その慌てぶりを天国で、”ワッハッハッハ“と笑ってしまうのもいいかなと思うのです。

書庫に残された本のページの間に一万円札や100ドル札を見つける喜びを、妻や子に与えるのも、いいかも知れませんね。借金はないし、あるとしたら約束不履行が、この私にはあるかも知れません。幼い男の子が、『カレーをご馳走するね!』と、私が言った言葉を覚えていていました。ところが私は忘れていたのです。それで上海に、お父さんが転勤する前に、わが家に食べに来たことがありました。あの子は、まさに「けじめの子」でした。

昔、『どっか連れてって上げるね!』と家内に約束したことがあった様ですが、まだ果たしていないかも知れません。《けじめ》のためではなく、「約束」だけは果たしておきたいものだと思う、秋色の濃くなりつつある今日この頃です。子どもたちとも約束したことがあったでしょうか。

(懐かしい秋の味覚の一つ「アケビ」です)

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