あすは

地方都市に生活していまして、母や兄弟がおりましたので、ちょくちょく上京する機会がありました。前の晩になりますと、必ず思い出す、いえ、口からついて出てしまう歌謡曲の一節がありました。

『#あすは東京へ出ていくからにゃ、何がなんでも・・・b』

という、坂田三吉という浪花の将棋指しの物語を歌った「王将」でした。実は、明日の朝、家内は一年半ぶりに、私は半年ぶりに帰国するのです。としますと、今晩は、『b あすは日本に帰って行くからにゃ、何がんでも・・・#』と、私は鼻歌をすることになるのでしょうか。この歌は、いつごろ流行っていたのでしょうか。もともと、「演歌」とか「艶歌」と言われる日本独特の歌は、いつごろから歌い始められたのでしょうか。昨日、「龍馬伝」の最終番組を持って、若い友人が訪ねて来られました。この番組の主人公・坂本龍馬の奔走と努力によって、第十五大将軍・徳川慶喜が、「大政奉還」の断を下すのです。そうしますと、市中の人々は、『#ええじゃないか、ええじゃないか・・・b』と歌い踊り始めるのです。明治維新誕生前夜に、日本中で流行ったという歌なのです。聞く所によりますと、龍馬と同じく土佐の人で、統幕運動に身を投じた板垣退助が、明治の維新降になってから始めた、「自由民権運動」を展開していくときに、「オッぺケペー節」という歌が一役かったようです(川上音二郎が歌ったと言われています)。また、三河地方に流行った、伝統芸能の「三河万歳」も、小太鼓を打ちながら歌うのですが、何度か聞いたことがあります。こういったものが、「艶歌」の原型になるでしょうか。

私たちが住んでいます華南の街から、南に行った地域を「闽南(ミンナン)」と呼ぶのですが、この地域は、台湾語と同じ「 闽南語」を話しますが、この地の人々が歌う歌のメロディーが、日本の「演歌」と同じなのです。日本から影響を受けたのか、もともと、そうだったのか知りませんが。きっと「五音階」のメロディーのルーツが同じなのかも知れません。そうでなくても、この街の公共バスの中に流されているFMラジオでとり上げる歌のメロディーは、日本の歌にとても似ているのです。それで区別がつかないのですが、一昨日、「スターバックス」で、人に会うために出かけたバスの中で流れていたのが、

しらかば 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ北国の春
季節が都会では わからないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あの故郷(ふるさと)へ 帰かな 帰ろかな

といった、遠藤実が作曲した「北国の春」でした。春の到来を待望し、やっと来た春の気配を喜ぶ、北国の「春待望」の思いが込められていて、一世を風靡した「昭和の名曲」なのです。実は、この歌を中国人は、自国製だと思っておいでなのです。日本で流行ったのが、1977年4月でしたから、にぎやかな文化運動が終わって、「改革開放政策」が鄧小平氏の指導で始まる前に、ここ中国でも歌われ始めていたようです。何の抵抗もなく、受け入れられて喜んで歌われてきて、今日の若い人もよく知っておいでです。

文化も心情も好みも趣も、こんなに似通った両国の近さは半端ではないのかも知れません。実は、この「北国の春」がラジオで流れていたあとに、聞こえてきたのは、なんと「ソーラン節」でした!中国の、春節の直前のバスの中で、『#ヤーレン、ソーラン・・・ニシン来たかと・・・b』を聞くとは思いもよりませんでした。

さあ、今晩は、『b ・・・何がんでも、無事に終わらにゃならぬ・・・#』と歌うことになるのでしょうか、そんなメロディーが喉あたりにきているのを感じます。家内の入院と手術が待つ日本ですが、桜の花の咲く頃には、元気を回復して帰って来られるように、そう願う夕靄の帳のおり始めた華南の街であります。

(写真上は、HP[筍耳鼻科医の呟き」の通天閣(三吉がこの近くに住んでいたそうです)
は、「
蕗ちゃんの道草日記」の「白樺」です)

胃袋

鎌倉や今日はかしこの屋敷守   一茶

鎌倉は、小学校のときの遠足で訪ねたのが初めてでした。私の父が生前、唯一の自慢話として話してくれたのが、『我が家は鎌倉武士の末裔で、源頼朝から拝領した・・・』と言っ ていました。家督を相続することを固辞した父にとっての拠り所は、それでも鎌倉にあったようです。明治生まれの父が父の祖父から聞いた家系を誇っていたのを思い返して、そうは言っても、我が家の祖先は、弥生人か縄文人で、はるかな海を超えてやってきた先人たちの故郷・大陸に行き着くに違いないのですが。

その父の相続分を、私たち4人の男の子に、それぞれ相続する権利があるという話が、いつでしたか持ち上がりました。それは寝耳に水のような話でした。頼朝からもらった土地は、想像を越えるほどに広大なものだったのでしょうけど、800年もの間に減り続けて、我々が相続するのは猫の額のようなものになっていたのだろうと思われます。そんなことを考えますと、800年もの年月の隔たりの中で、頼朝の忠臣であった、私たちの祖先が、どんな人だったのかと思い巡らして、なんとなく不思議な感慨を覚えて仕方がありませんでした。その土地だって、剣や槍で奪い取ったものだったわけですから。みんな、『要らない!』と言って、相続を放棄してしまっ たのです。

小学生のときには、何も知らないで訪ねたのですが、歴史や家系などがわかって、訪ねた鎌倉は、わが祖先が、鎧兜を身につけて馬に乗りつつ、主君に従って闊歩した都大路だったことを思いながら、駅前の道をそぞろ歩いたりしてみたのです。そうしましたら、何だかタイムスリップしたような錯覚を覚えて、800年の昔の鎌倉が、目の前にひらいているようでした。その大路の傍らにあった鳩サブレーの売店の喫 茶室に入って、アメリカン・コーヒーを飲んで見ましたが、とても美味しかったのです。それでも、『やはり茶店で、串団子と日本茶が似合いそうなのが鎌倉かな!』、と思うのが自然でしょうか。

帰りに、江ノ島を左に見ながら車を走らせたのですが、何十年も前の真夏に、アルバイトをした片瀬江ノ島の建物は見つけることが出来ませんでした。年月が経ってし まったのですから、当然ですね。江ノ電がゴトゴトと走る姿が右手に見えて実に懐かしく、また夕焼けに染まる江ノ島が、昔のままのたたずまいの中、幽玄とし て夕闇をついて見えていました。その時、横浜もコースでしたから、中華街にも寄ったのですが、お土産のシュウマイが、ことのほか美味しかったのです。

それは私の父が、横浜帰りに、また横浜を通過するたびに、必ず土産にぶらさげて持ち帰っててくれた、実に懐かしい味なのです。食べ盛りの4人に、『旨い物を食べ させたい!』との父の思いがあふれていたのです。『いい親爺だったな!』と、胃袋で思い出している私は、父が召された年よりを、もう五年も多く生きております。もう少し生きられるでしょうか。そう願って、来春は40年記念を迎える家内と手を取り合って、生まれ故郷でもなく、祖先伝来の拝領の地でもなく、「天(あめ)なるふる さと」に向かって、もう一歩の人生を、生きることが出来るようにと、切に願う今日このごろです。

(写真上はHP「写真俳句・谷戸の風」の「鎌倉の海」、下はHP「Nagisa Photo Stadio」の「鎌倉散歩・紅葉」です)

青年

先週、一人の青年が、ギターを抱えて尋ねてこられました。海南島の出身で、6年前からギターを習ってこられた、日本語専攻の大学生です。この青年が、家内と私のために、ギターを弾いて歌ってくれました。下の息子と比べたら今一つといったところですが、歌声も、ギターの音色も出色だったのです。気張らないで、撫でるように弾いていました。疲れやモヤモヤが、スーッと消えていってしまいそうな、そんな感覚に引き込まれるようでした。これまで、かき鳴らして気持ちを高揚させてくれたギタリストが、何人かいましたが、『ギターって、弾き手によって、これほど違うのか!』と思わせられること仕切りでした。

その彼のために、家内が定番のカレーライスを作って、一緒に食べました。彼は、『美味しい!』といって感謝し、食後に、『わが家は貧しかったので、よく母を手伝いました。それで食器を洗わせてください!』といわれて、台所に入って、見る見るうちに綺麗に洗い上げてくれたのです。ゴミを取るかごが、少々汚れていたのですが、それも丁寧に洗ってくれ、まるで新品のようにしてくれました。心が繊細なのでしょう、そんな両親が大学で学ばせてくれている感謝が、彼の振る舞いの中にあふれているのを感じたのです。わが家の流しは、日本のようなステンレス製ではなく、コンクリートの上にタイルを張ったもので、築30年を経ていますので、ひび割れたりしていますが、そこを見事に洗い上げてくれました。これまでの来客の男性の中で、食後に食器を洗ってくれた青年は、この青年で二人目になったでしょうか。

すばらしい青年の多い中国で、これまで出会った青年の中でも、23時間の交わりでしたが、彼は《ピカ一》だと思わされたのです。貧しい経験が、こういった青年を育てたのかも知れません。お父様は、体が弱くて家にいらっしゃって、お母様が働いておられるのだそうです。課題の多い国の中で、次の時代を担っていく青年たちが、すばらしく成長して、備えられているのに気づかされています。昨晩も、新装成った大劇場で「京劇」が公演されるというので、招待券をいただいた家内と私は、バスに乗って出かけたのです。乗ってつり革に手をかけるや否や、一人の青年がすっくと立ち上がって、席を譲ってくれるではありませんか。家内を座らせると、今度は、もう独りの女性が同じように席を空けてくれましたので、『謝謝!』といって座らせてもらいました。もう最近は、断らないで、その好意を喜んで受けるようにしているのです。

中国で名だたる京劇俳優の演技もすばらしかったのですが、年長者への敬意を、こういった形で、自然に表す、この国の青年たちが、次の時代を背負って生きていくのですから、この国の前途洋洋ではないでしょうか。日本が、なぜか忘れていることを、この国は律儀に行っているのではないでしょうか。触れもせず、見もせずに非難する人が多くいらっしゃいますが、「儒教の教え」の影響だけではなく、人間の道を誠実に生きている姿を見させられております。あのギターを爪弾く青年も、席を譲ってくれる青年たちも、彼らのうちに、そんな輝きを見るのです。暖房のない大劇場は骨身に、真冬を感じましたが、心の中では、もうイッパイの春を満喫させられた「春節」間近の夕べです。


(写真上は「yamahaギター」、下は「近代京劇」の公演の様子です)

『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。

法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。

「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。

この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。

(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)

中国語に、「浪子」と言いことばがあります。きっと海の波のように奔放で、放縦で、自分を波動に任せている様子から、そう呼ばれるのでしょう。日本語に訳しますと「道楽者」とか「放蕩息子」になるでしょうか。模範児でなかった青年期の私も、きっと,世間から「浪子」のように思われていたかも知れません。両親の寵愛を受けて、我侭いっぱいに育てられた井の中の蛙、それが私でしたから。

ある書物に、この「浪子故事(放蕩息子の物語)」があります。その住んでいる世界の「狭さ」と「平凡さ」とに飽き足りなく不満で心を満たしていました。『きっと遠いあの街には、面白いこと、刺激的なことがあって、俺を満ちたらせてくれるに違いない!』と、日がら思い続けていたのです。父の目も親戚の干渉も兄弟たちとの競争も避けたかったのです。それで別世界での生活に憧れ、「新天地」での生活を夢に見始めます。雑誌もテレビも、その世界が、どんなに素晴らしいかを目と思いと、はげしく訴えてきたのです。『広さと刺激に満ち溢れて楽しい世界だ!』と、すべての情報は誘っています。そうなると、日常の義務が手につきません。遠い空を眺めてはため息をつくばかりです。その夢の実現のために、大雑把な計画を立て始めます。どんなに算段してみても、には自立する能力も資金もないのです。それでスポンサーを捜しますが、この未熟な男に用立てる大人は皆無です。叔父や叔母は全く相手にしてくれません。銀行だって貸してはくれないのです

それで父の財産の「男の相続分」に食指を動かします。それは父親の存命中には、相続することはできません。それで父親泣き落としにかかります。その芝居のうまさに、騙されやすい父は負けてしまうのです。それで相当分の財産を分与してしまいましたは旅支度をして、父と母と一緒に育った兄を、故里と共に捨てます。大金が彼の手に握られているのです。憧れの地にやってきたこざっぱりした身なりの彼の周りには、大勢の若者たちが群がってきました金払いの良い彼は、おだてられると湯水のようにそのお金を使っていくのです。彼らと過ごす時間は、夢のように過ぎて行きました。夢から覚めて、ポケットの財布を開き、銀行の講座をの残高を見ますと、一円も残っていません無一物のなったことを知った遊び仲間は、潮がj引いていくように彼の元から離れていきました。完全な金銭的な破産でした。そればかりではなく、精神的にも破綻をきたしていたのです。が、これほど短時間に、しかも容易に砕けて仕舞うとは、夢にも思いませんでした。その現実に直面して、初めて彼の目が覚めるのです

「瞬きの間の独り芝居」という名の幕が上がってしまうと同時に、彼は父の家を思い出すのです。幼い日から、ふるさとを捨てた日までの楽しい思い出が走馬灯のように思いの中を巡ります。父の笑顔と、そのから流れ落ちていた父の汗を思い出します。そして、『きっと父は、私のために涙だって流しているに違いない!』と思い始めると、いても立ってもいられなくなりました。そうだ、父の家に帰ろう!』、そう思うと同時に、彼は、故里に向かって歩き始めたのです。はかない夢から覚めたたのです。父の家に近づいた時、彼が父を見つけるよりも早く、父が見つけてくれていました。彼が走るよりも早く、父が走り寄って来たのです。父は裸足でした。父を裏切り傷つけた彼を抱きかかえ、幼い日にしてくれたように頬ずりをしてくれたのです。まるで私が遠い過去に負った傷を癒すかの様にしてです。

父は何も詮索しませんし、責めもしないのです。彼が、幼い日に「父に愛される子」であり、父を無視し捨てた今でも「父に愛される子」であることを知らせてくれたのです。この父の愛は、彼の行いや時間の経過によって、色あせたり変化したりしないのです。彼の兄も親族も、好き勝手をした彼を受け入れようとはしません。ただ父だけは、『きっと帰って来る!』と信じて待って、無条件で受け入れていてくれたのです。失敗体験と恥体験とによって、自分の実態が分かって帰ってくることをです。次男の回復を天に委ねたのです。父の包容力、父性の豊かさが、どれ程のものであるかを彼は知ることができたのです。彼は《父の財布》にだけ期待していたのですが、帰って来た彼は、祈りつつ待ちつつ走り寄る、《父の思い》を知ることが出来たのです。父の懐って、こんなにふかふかで暖かく、居心地が良かったのを再発見したのです。

厳格な私の父を、ときどき思い出しますが、そのほほを流れる涙を見たことがあります。そんな父を見て、『男だって泣いていいんだ!』と思わされたのです。だれの人生にも、さまざまなことがあるのでしょう。自分も、何度泣いたことでしょうか。涙とは、心の思いを洗ってくれるものなのかも知れませんね。この物語のお父さんのほほにも、子を思って流す涙があったにちがいありません。

(写真は上は、「東シナ海」です)、下は「霞浦(福建省)」です)

望郷

私たちの四人の子供たちにも、孫たちにも、帰って行く「実家」がありません。というのは、私たちが5年前に中国に来る時に、家財一切を処分して、家を畳んでしまったからです。世帯を持ってから、持ち家に住んだ経験はなく、いつも借家のアパートや市営や県営の団地に住んできたからです。結婚してから35年の間、子どもたちの想い出のこもった物もほとんどを処分してしまいました。長男は、手狭な家に住んでいましたし、長女はシンガポールに本拠地を置き、次女はアメリカに嫁ぎ、次男は聖蹟桜ヶ丘のワンルームマンショに住まいでしたから、親の持ち物を置く空間がなかったからです。わずかな物を預けておいたのですが、迷惑になることもあって、その後、帰国時に処分してしまいました。

そんなこんなで日本を出ましたから、最後に、家族全員が集まったのは、2006年の正月だったでしょうか。長男が中学を卒業して以来、ハワイの高校に入学してから、家族六人が、団欒を共に過ごす時間が徐々に少なくなってきてしまったのです。この正月の時期、ここ中国でも、「春節」には、故郷の家族のもとに戻り、その団欒を楽しむ習慣があるようです。私たちも、友人が安い家賃で貸してくださった家、狭い二間に、娘の家族を迎えたりしましたが、結構、正月の寒い時期にも、みんなで寝たり交わったりすることが出来たのが不思議でした。

ここ中国でも、友人の家をお借りして住んでおりますから、まるで「寄留者」か「巡礼者」のようにして生きていることになります。もちろん、「外国人」でありますが。『不安にならないですか?』と言われますが、こういった生き方も慣れますと、身軽で快適なのです。不思議なものです。ただ、家族が一緒に集まる場所がないのは、子どもたには、『帰って来れる家がなくてごめんね!』と思ってしまうのです。

昨日今日、正月恒例の「箱根駅伝」が日本では行われていました。今年は、パソコンでラジオ放送を聞くことができましたので、『早稲田総合優勝!』という結果を、NHK第一放送で聞くことができました。これを聞いていたとき、ミカンをむきながら、おせちり料理をつまみながらテレビの放映を、『家族で見られたらなあ!』、との思いが湧き上がってきてしまったのです。日本を発つ直前に、挨拶に来てくださった、日本人の女性と結婚されたアメリカ人の友人が、『我が家は、お子さんたちの実家ですから、そう思ってくださいね!』と、うれしいことを言ってくれたのです。

と言っても、もうすでに世代交代の時期でしょうか、ある方から、最近、『息子さんの扶養家族になられたらどうですか?』と勧められました。『そうか、もう息子の家に集まればいいのか!』と思えばいいのでしょうか。アメリカにいる次女が、『ここに来ればいいよ!』と言ってくれたり、次男も、『俺が面倒みるから!』とも言ってくれています。

まだまだ元気に働くことも出来ていますから、健康が支えられている間は、問題がないのですが、昨秋、家内が病みましてから、ちょっと弱気になってしまいました。子どもたちの意見に耳を傾けないで、自分で思うように、大分頑なな生き方をしてきましたから、最近は、いろいろとクレームがつき始めています。日本人と正月の関係には、意外と微妙な情緒的な面があるのでしょうか。昔読んだ本の中だったと思いますが、正月は、普段賑やかに生きている人にとっては危機の一つなのだと書いてあったのを思い出しました。

でも懐かしい故国があって、そこに懐かしい人たちがいますし、そればかりではなく、友情を示してくれる友人たちがこの大陸にいてくれるのですから、『遙かなる永遠の故郷に帰るまで、巡礼の旅を続けていこう!』と、年頭にあたり、そんな決意をしたところです。ご心配なく!




初夢

お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪 夜あけて 提灯けす
コチャエ コチャエ

六郷わたれば 川崎の万年屋 つるとかめとの 米(よね)饅頭
コチャ 神奈川 急いで 保土ヶ谷へ
コチャエ コチャエ

これは、江戸の民謡「お江戸日本橋」です。「七つ立ち」というのは、今の早朝四時頃のことですが、上洛や伊勢参りや箱根巡りの旅の出発時間だったのでしょう。この六郷川は、江戸五街道の一つ《東海道》の渡し場の一つでした。私は、この川の上流の多摩川の河畔の街で育ちました。かつて、この街は、甲州街道の宿場だったのです。この宿場の本陣だった家に住んでいる上級生もいましたし、新選組の土方歳三の生家もこの近くで、彼の親族の子孫が級友にいました。この甲州街道も日本橋を起点に、内藤新宿(現在の新宿)を経由して甲府にいたり、中山道に繋がっていたのです。

さて、この日本橋を起点に、トルコとブルガリアの国境に至る、総延長20,322 kmの「アジアンハイウエー1号線(AH1)」のあるのをご存知でしょうか。昨年末、初めて私は知ったのですが。その路線は、次のようです。

東京福岡・・・フェリー ・・・釜山[プサン]平壌[ピョンヤン]瀋陽[シェンヤン] 北京[ペキン]武漢[ウーハン]広州[グアンゾウ]深セン南寧[ナンニン]ハノイプノンペンバンコク)ダッカニューデリー イスラマバード)イスタンブールカピクレブルガリア国境

アジア圏の国々、街々を一本の道路で結んでいるハイウエーがあるのですから、東シナ海を渡った阿倍仲麻呂が、このことを知ったら、きっと驚くだけではなく、喜ぶのではないでしょうか。かつて日本は、「五族協和」とか「大東亜共栄圏」を叫んだ時代があったようですが、銃器による領土拡張の野心ではなく、国際協調や民間友好の陸路を、人々が行き来できるのですから、画期的なことではないでしょうか。もしかすると、福岡と釜山とは、壱岐や対馬の島々を経由して、海底トンネルで繋がる時代が来るのかも知れませんね。

それが実現したら、日本橋を《七つ時》に立って、首都高から東名高速に出て、玄界灘の海底を潜って、ヨーグルトや果物のおいしいブルガリヤに、車の旅をしてみたいものです。日本の街にも、ベトナムナンバーや印度ナンバーの車を見掛けるのが日常、当たり前のことになって、交際交流が盛んになるに違いありません。美しい日本の四季や温泉や日本料理を楽しんでいただきたいものです。そんな「初夢」を見たかったのですが、残念なことに何を夢見たのか覚えておりません。ただそんな友好の夢だけは、いつまでも持ち続けたいものです。

(写真上・中1は「葛飾北斎の日本橋と富嶽」、中2は「アジアン・ハイウエーの標識」、下は「ブルガリアのセネバル」です)

新年快乐

おめでとうございます!

2011年、日本、中国、アメリカ、シンガポール、ブラジル、すべての国と民族に広がります、私の家族、友人、知人、そして、みなさんの上に、平安と健康と繁栄を、ここ華南の空の下からお祈りしたします。私たちは、5回目の新年を、ここ華南の地で迎えることができました。あいにく今日は断水で、お昼には若い友人たちを、「お雑煮会」に招いたのですが、残念ながら取り消さなくてはならないようです。

日本の社会に起こっていますことを、こちらから眺めますと、今まで分らなかったことが理解され、以前、外から見ていた中国も、こちらで見聞きしますと、さらに鮮明に理解されてきております。

ここから上海に至る道の途上に、「寧波」という港町があります。かつて中国と日本とを、経済や文化や宗教などの交流で強く結びつけた街なのですが、今年は、この街を訪ねてみたいと思っております。日中関係は、隋や唐(紀元600年頃からでしょうか)、元や明の時代(日本では鎌倉から江戸初期の時代になるでしょうか)から、この寧波を出入口にして、脈々として密接につながっているのが分かります。

さらに福建省からは、多くの福建人が船に乗って渡って行き、日本に定住しているのですから、私たち日本人の出自の一つの地が、ここにあることになります。一緒に食卓についてくださる友人たちの所作を見ていますと、アメリカの知人宅でテーブルについて感じるのとは違って、同じ家族の一員であるような、親しみを覚えるのです。昨年末、家内が病気で入院しましたときに、こちらで出会った友人たちが示してくださった愛に、私たちの魂の深いところが、ギュッと握られ掴まれてしまったようです。「你們是我的一家人吧」だと言ってくださる彼らに、家族や親族の血縁以上のものを感じさせられている日々です。

この国が、さらなる喜びにあふれて、心のそこから感謝の笑顔に満ちていくことを願っています。

愛するお一人お一人に感謝し、ご挨拶を申し上ます。今年もよろしくお願いいたします。

(写真は、遣唐船、遣隋船が出入りした「寧波の港」です)


十大ニュース

1.家内が第二医院に入院

出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。

2.母が93歳の誕生日を迎える

1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。

3.腰痛で授業を休講する

髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。

7.シンガポールに旅行をする

査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、『人の物は盗まない!』、そう決心しました。

8.永定の「土楼」に行く

何年も前から、『遊びに来てください!』と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。

9.「鮑の養殖」をみる

福州の北のほうに連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。

脇役


『きっと大人になったらこんな顔になるんだろうか?』と思わされた芸能人がいました。中学3年の時でした。まだ子どもと大人の境界線にいて、体も心も、どちらでもないようなあやふやな時期だったでしょうか。ニヒルな雰囲気を漂わせている男に憧れていた私は、テレビに登場し、ブラウン管の中に映し出されて歌う、水原弘と自分をダブらせていたのです。あの時、彼が歌っていたのは、確か「黒い花びら」だったでしょうか。悲しくて寂しい内容の歌詞でした。誰にも、『似てる!』と言われたことがなかったのですが、坊主頭の自分が、『髪の毛を生やして、お酒を浴びるほどに飲んで、一人前のおとなになって、夜の新宿でもぶらぶらしていたら・・・・』と思ったのです。『旨い!』と思ったことのないタバコをくゆらせ、飲むと頭が痛くなる酒を飲んだのですが、なかなか似てこなかったのです。男っ気のある親分肌で、若者をぐっと引きつけるようなものを持っていた彼の、そんな不良っぽさに憧れたのです。としますと、思春期というのは、あやふやで、危なっかしくって、さだまらない時期なのでしょうか。

そんな私は、一生懸命に彼に真似て歌うのですが、声が変わったばかりで、オトナの声など出ようはずがありません。疲れて熟睡してしまいますから、万年寝不足で目の周りにクマができてるような表情にはなれなかったのです。水原弘が42歳で亡くなったときには、彼と同い年のアメリカ人の事業家と一緒に、もう6~7年ほど働いていました。この方から、さまざまなことを学んでいたのですが。この方は、マイナスイメージのない方で、水原弘の対局に生きていた人でした。酒もタバコもやりませんで、実に清廉潔白な人格者だったのです。ちょっと近寄り難い雰囲気を持っていますが、笑顔が素敵でした。日本人からでは受けられないような感化を、この方から受けたことは、二十代に蓄えた貴重な宝物だと、今でも思っています。

文壇にも、芸能界にも「無頼派」という枠組みがあるようです。「無頼漢(ならず者)」ではなく、熟成して穏当で日和見的な在り方に添いきれないで、それを逸脱した作風をよしとした、戦後の若手作家を言うようです。太宰治、檀一雄、坂口安吾、織田作之助などがいました。たしかに生き方も、常軌を逸していて、アルコールや薬物中毒だったり、自殺したりの破天荒な生き方もあったようです。水原弘も、破天荒に生きた人でした。『人は憧れたものに似る!』と言われていますが、水原弘に似ていたなら、私も40代の初めに召されていたのかも知れません。しかし20代の中ほどで、お酒もタバコもやめましたし、体が悲鳴をあげたら睡眠をとることにしていたのです。健全な生き方を、その頃、出会ったアメリカ人の方に真似て始めたことは、よい選択だったのだと思うのです。

いったい、どんな男、どんな人間になって今、私は有るのでしょうか。思春期に憧れたイメージとはまったく違った自分が出来上がってしまいました。このような「憧れ」とか「英雄像」は、やはり虚像なわけです。ジェームス・デーン、水原弘、鶴田浩二にと、イメージを求めた心の遍歴は、思い出すと、むず痒さを覚えてしまいます。芸能界のスターたちは、意図されて作られた商業主義の1つの商品なのでしょうね。「龍馬」に、現代の若者の注目が集まっているのは、史実の龍馬ではなく、理想化された虚像であって、この時代に変化を願う人たちのモデルとして登場させられているわけでしょうか。テレビの自分を、龍馬が観たら苦笑いではすまないかも知れませんね。人の外貌から、「心」や「生き方」や「価値観」に、イメージを変えていくのが、大人への道なのかも知れません。脇役から主役を演じて、今再び人生の脇役に戻った自分を思って、『これが人の道なのだ!』と、2010年の大晦日に思わされております。

(写真上は、「水原弘」、下は「坂口安吾」です)