『たっこらたっこら!』

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今日は、「車軸を流す」ような雨が降っています。「ことわざ辞典」によると、「雨が激しく降るさまで、雨脚が太くて車の心棒のようだという意味。「車軸の如し」「車軸を下す」「雨、車軸の如し」ともいう。」とありました。こちらの天気予報は、今日は、「陣雨」とあります。<馬の背を分ける>ような「夕立」や「俄雨」のことを言うようです。

日本語には、「雨」を表現する言葉が多いと言われているのですが、それは、四季のどの季節にも雨があるということなのでしょうか。『春雨じゃ、濡れてまいろう!』と、月形半平太の言う、この「春雨」は、雨脚が強くないので、歩けるのでしょう。よく歌に歌われる「時雨(しぐれ)」がありますが、降ったり止んだりする冬の雨のことだそうです。「大阪しぐれ」という歌があるように、関西圏でよく使われるのでしょうか。関東では、季節にこだわらずに、降ったり止んだりを繰り返す雨を、「通り雨」と言います。

『紫陽花の蕾が大きく膨らんで来ました!』と、先日、東京の下町の街角の様子を知らせてくれたのですが、間もなく日本は、「梅雨」の季節を迎えますね。母の故郷の出雲地方では、これを「田植え雨」と呼んでいたそうです。「お米」と呼ぶ 貴い米の苗を植える時期に、恵みの雨をそう呼んだことで、出雲の産業形態が分かりますね。この山陰は雪が多かったので、雪混じりの雨を、「白雨」と言っです。ちなみに、強く降る雨の擬声語を、「たっこらたっこら」と、出雲地方では言うそうですが、ついぞ一度も母の口から聞いたことがありませんでした。東京で子育てをしてくれましたから、そこで強く降る雨を眺めながら、そっと『たっこらたっこら!』と、口籠って、一人感じ入っていたのかも知れません。

五月雨を 集めて 早し 最上川

これは、梅雨の雨を、「さみだれ」と詠んで有名な、芭蕉の俳句です。日本語の雨の言葉は、やはり漢語からきているのようです。中国でも五月の降る雨を、「五月雨(さみだれ)」と呼んでも構わないでしょうか。今晩出かけるのですが、この雨は止んでくれるのでしょうか。

(写真は、夕立を降らせる雲、”ウイキペディア”から)

お隣さん

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昨日の昼過ぎに、五階に住んでいる我が家の玄関を、下の階の小学校一年のお嬢さんが駆け上がってきて、「ドンドン!」とたたきました。ドアーを開けると、『下雨了!』と告げてくれたのです。晴れていたのに、俄雨が降ってきたからでした。大家さんが、ベランダの外に細工をしてくれて、物干し竿をつけてくれたので、そこに干してあった洗濯物が、『濡れちゃうよ!』と言ってくれたわけです。『謝謝!』と言って取り込んだのです。

このお嬢さんの家の裏側の流し台のあるベランダで、鉢植えの花を育てているのです。階段の踊り場から、その花を眺めることができます。最近は、バラの真紅の花が咲き出していたのです。先日、この子が、一本切って持ってきてくれました。その後には、鉢に植え替えたバラを一鉢、また届けてくれたのです。

斜め上の階にも、中学一年生と小学校一年生の姉妹がいます。この子たちが、交互に、『おばあちゃんが作った豆腐です!』、『・・肉まんじゅう!』と言って届けてくれます。そんなふうに、みなさんのお隣さんになることができて、この町の片隅で生活をしています。

この日曜日は「母の日」でした。その前の日、小学六年の女の子と五年の男の子の姉弟が、カーネーションと百合の花束を、家内に届けてくれたのです。お母さんに託されてでした。日曜日には、私たちの中国滞在を助けてくれている夫妻が、私たちと同年配で、「恩人」だと言うご夫妻と私たちを、「母の日」ということで、夕食に招いてくれたのです。彼らにも両親がいるのに、そんな機会を設けてくれたのです。

そうしましたら、月曜日には、一人のご婦人(家内の若い友人で、食事に招いててくださった夫妻の会社に勤めている方)が、社長夫妻からと言って、花束とチーズ・ケーキ(十人前ほどのサイズでした)を届けてくれたのです。三人で花を鑑賞しながら、美味しく頂きました。

羨ましがらせてしまったでしょうか、お赦しください。ただ、年を重ねた今、外国で生活をしていながら、こんな祝福にあずかれるのは、望外の喜びだと、家内は感じており、私もご相伴(しょうばん)に預からせていただいております。「望郷の思い」を引っ込めてしまうような温かな交流が与えられております。裏門の守衛さんが、他の人には言わないのに、『上班吗?(出勤ですか)』とか『吃飯了没有?(ご飯を食べましたかー実は「こんにちは」の意味での挨拶言葉)』と、会うたびに声をかけてくれます。

そんな初夏を、ここ華南の地で過ごしています。夕べも、轟くような雷鳴と、土砂降りでした。

(写真は、頂いた「チーズ・ケーキ」です。なぜか「生日快楽(誕生日おめでとう)」とあります)

「代表的日本人」

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少し古い統計ですが、2007年3月に、NHKが、「日本人の好きなもの調査」を行っています。その調査項目の一つに、「好きな歴史上の人物」がありました。その結果は、織田信長、徳川家康、坂本龍馬、聖徳太子、武田信玄、源義経、西郷隆盛、福沢諭吉、野口英世の順でした。2005年に源義経、2007年に山本勘助(武田信玄の腹心の部下)が、NHKの「大河ドラマ」の主人公でしたから、回答者に、その影響があるかも知れません。でも妥当な人選だと思われます。

私の愛読書の一つに、「代表的日本人」があります。この本は、1894年(明治27年)に内村鑑三が書き上げて刊行されたものです。英語で書かれ、翻訳本が発売されました。鑑三は、武士の家に生まれ、幕末と明治維新の動乱を肌に感じて、幼い日を過ごしています。16歳で札幌農学校に学び(当時、日本で東京大学の前身校に次ぐ、若者たちの憧れた学校だったのです。一学年の学生数は、15〜16人だったそうです)、アメリカにも留学した、明治期のエリートの一人でした。そのような経歴を通して、『日本人とは?』という日本人のアイデンティティーを明らかにしたかったのでしょう、それで、この本を書いたのです。鑑三、三十三歳の時の労作です。

私の手元にあるこの本の「はじめに」という序文の中で、1908年1月の日付で、『・・・青年期にだいていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません。・・・わが国民の持つ長所・・・』と、13年後に、この言葉を添えています。鑑三が取り上げた人物は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人でした。日本人の美点と長所を併せ持つ人物として、この五人を取り上げたのです。

この五人と、2007年の統計調査で好きだとされた上位十人とは、だいぶ違うことがわかります。かろうじて西郷隆盛だけが共通しているのです。この五人は、メジャーではないのですが、そうそうたる「人」であることが、鑑三の筆で紹介されています。国学の書や漢書を幼い日から読んで学び、青少年期には西洋学に触れた鑑三が高く評価し、日本人の代表に取り上げた人物は、みな秀逸なのです。

欧米に比して、立ち遅れた日本が、日本と日本人とを再評価した著作だということになります。『礼儀正しい日本人!』といわれる以上のものを持った人物を知るために、一読をお勧めします。

(写真は、岩波文庫の「代表的日本人」の表紙です)

紫陽花の蕾

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『道々の紫陽花の蕾が大きくしはじめました!』と愛読のブログにありました。この漢字を、「あじさい」と読むのですね。そうですか、東京は梅雨が近づいているのですね。例年、この時期のこの街は、雨季のように、雨の降る日が交互にやってくるのです。昨日は半袖でしたが、今日は長袖で肌寒く感じております。

以前住んでいた家は、なだらかな坂道の脇にあり、一階でしたから、雨の降った後は、裏庭の先の石塀から水が滲み出て、部屋の中も湿気が多かったのです。あの庭に金木犀があり、隣の家からは天使のラッパが庭に垂れ下がって咲き、左隣の庭からは、椿の花が咲いて落ちていました。でも一番のお似合いは、紫陽花なのだろうと思っていますが、ついぞ植えることもなく越してきてしまいました。

子育て中、子どもが手折った紫陽花を手に、友達のお母さんからもらって帰ってきて、『はい、⚪️⚪️ちゃんのおばさんから!』と、渡されことがありました。やはり長いしとしと雨の梅雨の時期の思い出なのです。よく俳句に詠まれる花です。

紫陽花の一夜の雨に艶やかに 久保田一豊

この「十七文字の文学」に憧れているのですが、作句のセンスがないのです。この冬に、日本に帰りました時、大原の里の温泉につかったのです。雪の舞う朝湯の中で、五七五とやってみたのですが、ダメでした。最高の俳句創作の自然環境だったのにです。久しぶりの帰国、まだ薄暗い朝、京風情の温泉、雪まで降っていました。

深深と 大原(おはら)の露天 雪のふる

「しんしん」と読んでください。ね、こんなものです。なぜ憧れたのかというと、小さな店をやっていた初老のご婦人が、自費出版の「句集」ができるたびに、それを届けてくれたからです。普段は構わないのに、しっかりと和服を召していたのです。中年になった私に、その俳句と和服の日本情緒が目覚めたのです。目覚めても、やはり学ばなければいけないのでしょう。

コンクリート作りの五階の今ですから、あの湿気から解放されて、ドライな感じがしていますので、俳句は、どうも似合いません。『もうすぐ梅雨・・・』という四季の訪れの微妙な変化がちょっと違うのです。あっ、分かりました。こんな言い訳をしてるからダメなのでしょう。

(写真は、ウイキペディア掲載の「アジサイ」です)

秘密厳守

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『・・・なんで大政、国を売る』と言う歌の文句を、上の兄が鼻歌で歌っていました。大学に通い始めて、覚えてきた流行歌の一節でした。それを聞いて、『面白いなあ!』と思ったのです。我が家の情報源が、父からだけでなく、兄のルートも加わったからでした。その新しい世界からの情報に、中学生の私は興味津々だったわけです。この大政は、清水の次郎長の子分で、侍から博徒に転じた変わり種だったのだそうです。侍が就活し、いえ転職させるような男気を、次郎長が持っていたからでしょうか。

国道53号線を南下すると、清水市興津で東海道、国道一号線につながるのです。山間部から平地に下ってくると、眺望が開け、間もなく、太平洋の波しぶきが見えてきます。大海原を見、潮風をかぐだけで、心が広げられると、この歌が思い出されて仕方がなかったのです。 『国を売る』、『大政は、どうして故郷や家を捨てたのだろうか?』と疑問に思ったのです。きっと武士を拘束する決まりや、面倒なしがらみに疲れたのでしょうか。深い内面の葛藤を経て、決断をしたのでしょう。浪花節の演目ですから、史実はわかりませんが、いつの世も、どこの街でも、同じ問題を抱えながら、人は生きているのでしょう。

「売国奴」という言葉があります。まさに<国を売る輩(やから)>のことです。 どこにも「秘密」にしていることが大なり小なりあります。国や自治体にも会社や事業所にも、そう、どこの家庭にだって一つや二つの「秘匿事項」があるものです。兄弟喧嘩をして殴られたって、『決して口外してはいけない!』、そう言った決まりが守られています。それがルールなのです。

<機密漏洩(ろうえい)>が、企業などで日常茶飯事に行われているのだそうです。愛社とか愛国と言った意識よりも、より良い収入に誘惑されて、秘密を持ち出すケースが後を絶たないようです。その企業秘密のコピー資料を餌に、就活をしている輩がいるのです。買い手も売り手もいて、成り立っている話です。私の人生訓ノートに、「あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。」とあります。これが人の道、守るべきルールです。そう言った意識が希薄な時代になって、人が我儘になっているのでしょうか。寂しい時代が到来してるということでしょうか。

自分が「デベソ」であることを知られたくなかったのに、その秘密が漏れていたのです。銭湯に行っていたから当然ですが、悔しかった!でも中年太りしてからは、脂肪腹の中に引っ込んで、跡形がなくなってしまいました。『あの秘密は何だったのだろう?』と、今思い返しているところです。 思春期とは、変なことで悩むものなのですね。大政も私も、今日日の若者だって、事を秘めて、同じように悩んでいるのでしょうか。

(写真は、富士を遠望する、今の「清水港」です)

中学生

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私の仕事の事務所の近くに、中学校がありました。 よく学校の外で、彼らの喧嘩を見かけたことがありました。「荒れた時期」だったのでしょうか、静かになって波がよその学校に押していくと、また数年後にその荒れた波が、再び返してくるのを繰り返していたようです。市内の中学校で、今年は「⚪️⚪️中」、翌年は「△△中」、その翌年は「◻️◻️中」と言っていた時期がありました。白の運動帽を前後ろに被ぶって、事務所の前を通って行くのですが、一目瞭然の彼らでした。

あの子たちは、中学を出て働き始めていました。もう家庭を持って、四十代後半から、五十代になって、そろそろ孫を抱くような年齢になっているのではないでしょうか。よく、人懐っこく事務所のドアーを開けて入り込んで来ました。焼きそばやカレーライスを作ってあげると、美味しそうに食べていた顔は、じつにあどけなかったのです。 近くの市営団地の子たちが多かったようです。両親が共働きで忙しかったり、お母さんが水商売をした家庭の子もいました。構ってもらえなくて、寂しそうな表情を見せていました。

どう生きて来たのでしょうか。噂も聞かないままで時が過ぎてしまいました。彼らもまた、子育てに苦労して、『今時の子どもは、どうしようもねえや!』などと言って育て上げて、好々爺になっている彼らの顔を見て見たいものです。会ったら、『おっちゃん、あの時はありがとうございました!』とか言うのでしょうか。 どうなんでしょうか、今日日の中学生は?あの頃、私の知る限りでは、自らの命を断つてしまうような事件を耳にしたことがなかったのですが。時々、ニュースに残念な事件を聞くと胸が痛んできます。喧嘩を推奨するのではありませんが、喧嘩に至らない「陰湿ないじめ」が横行してるのでしょうか。もしかすると、一対一とか、集団対決と言った喧嘩ができなくなっているのではないでしょうか。

ある時、その中学校の校門の脇を通っていた時、校庭で教師たちが手持ち無沙汰でウロウロしていました。もう少し行ったところで、二人の三年生が「タイマン」を張っていたのです(s一対一の殴り合いの喧嘩のこと)。一方は生徒会の役員(後になってお母さんと二人で事務所に感謝の菓子折りを持ってきてくれた時に分かりました)、もう一方は「K」という体格の良い団地の子でした。勝負がついていたのに、まだやっていたので、間に入って止めました。殴り合いなどしたことのない役員さんが、買った喧嘩で、その男気をほめてあげたのです。

この二人も、それぞれの道を歩んで、真性の「おじさん」になっているのでしょう。バスに乗り込んでくる、こちらの中学生たちを眺めながら、今朝、彼らを思い出していました。 (写真は、事務所の近くを流れていた「川」です<出典はウイキペディア>)

言質を取る

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「言質(げんち)を取る(言葉尻を取る)」という言い回しがあります。国会での答弁、最近ではツイッターとかブログで述べた言葉について、「鬼の首を取った」ように喜んで非難や批判を加えることが多くなってきているのではないでしょうか。完全無欠な人はともかく、人は言葉で間違いをおかすものです。言い間違い、書き間違いは、国語学者でなければ誰にでもあります。『漢字を知らない!』と、物書きで飯を食っている新聞記者が、総理大臣を轟々と非難していたことがありました。こういうのを、「揚げ足を取る」というのでしょうか、取られた足を下ろすところまで取り去ってしまうような徹底的な攻勢には、はたから見ていて、どうかなと思ってしまいます。

あんなに非難されても、涼しい顔のできる肝っ玉の座った人ならいいのですが、不用意に語った言葉で、実に多くの人が傷ついてしまうのです。有名になればなったで、蜂の巣を突っついたような騒ぎの中に投げ込まれて、何百と言う記者だと称する者たちに、取材を強要されています。本人だけではなく、家族や親族に取材攻勢をかけるのです。拳は使わないだけで、それは極めて悪質な暴力行為ではないでしょうか。事件の加害者の家族は、もうそこには住むことができなくなったり、勤め先を辞めたり、雲隠れをせざるを得なくなるのです。彼らの仕事には「仁義(道徳上人が守るべき筋道)」はないのでしょうか。

私の愛読書に、「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」と書いてあります。人を陥れようとして暴言、妄言(もうげん)、虚言する者の語る言葉には、「馬耳東風」で聞き流すことを言ってるのでしょう。『何で、あんなことを言ったんだろうか?』と考えに考えて、理由がわからないで寝込んで、鬱になってしまう人も世の中にはいるのです。「人の口には戸は立てられぬ」、人は手前勝手、自分勝手に出任せ、口任せにものを言うのです。「馬の耳に念仏」とはよく言ったものですが、分からない振りをしている馬のように、いなないているに限ります。「人の噂も七十五日 」と言うそうですが、七十六日の来ることを願っていれば良いのでしょうか。

自分を愛していてくれる親や友人や師などが語ってくれる忠告や勧告には、耳をそばだてて聞く必要があります。『雅仁!』、『雅ちゃん!』と言ってくれた師匠も母もいなくなったのは残念です。今度は、私が良き助言者になる役割順番が回ってきているのでしょう。

(写真は、「レンギョウ」です)

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<このブログは、日本からの桜の頼りを聞いた時に書きました>

まさに百花繚乱、花の春がやってきました。昨日(3月29日)の昼間は、春雷が轟き、突風と豪雨が吹き荒れていました。夕方5時半に始まる二人の式のお祝いのために、市内のホテルに、車に便乗させてもらって行く途中、街路樹の生木がポッキリと折れて、道路側に倒れているのを見たほどでした。あんなに激しい嵐は、初めての経験でした。『酷い天気の日に結婚式が行われるんだ!』と思っていたら、知人の小学一年生が、こんなことを言っていました。『雷鳴と稲妻と暴雨、それが止んで快晴になって、一日のうちに全部の天気があるなんて、この二人は特別に祝福されているんだ!』とです。なんと建設的で、文学少年のようで、子どもらしい捉え方、見方をするとは、大人の私は、ただ恥じ入るばかりでした。

新婦のお父様が、涙を目に浮かべながら、家内と私の列席を喜んで感謝してくれました。新郎も素晴らしい青年で、お似合いの二人の門出をともに喜び祝福できて感謝でした。これから、違った家庭で育った二人が、愛したり赦したり、ある時は泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりの生活が始まったわけです。ここに健全な価値観を持って建設されて行く家庭ができるわけです。その地域の祝福になれるようにと願った次第です。

去年の春に結婚式があって、知人たちとバスで出かけて、祝福したのですが、その二人が駆けつけて列席しておられました。若奥さんは、来月には出産されるとのことで、大きなお腹を突き出して、ちょっと大変そうでした。こうやって家族が増し加えられて行くというのは、結婚の神秘なわけです。自分も父と母とによって生まれ、四人の子どもたちも家内と私によって生まれてき、息子や娘たちも子をなして行くという命の継承は、実に驚くことだと感じ入りました。これが祝福された方法なわけです。

来月には、43周年になる私たちの結婚を振り返ってみますと、大ベテランの域に達しているのだということになります。3時間もバスに揺られてやって来られた二人から、彼らの住んでいる町の特産のお土産をいただきました。彼ら結婚式の前に、『お二人から結婚についてお話を聞きたいのですが!』と二度ほど、我が家を訪ねて来たことがあったのです。その感謝でしょうか、今夕、美味しく頂いたのです。

もう日本では桜が満開だそうですが、われわれの結婚式の前後にも桜が満開だったのを思い出しています。時間の経つはやさに驚きつつ。

(写真は、爛漫の桜です、大きく見たい時には、写真をタップしてください)

ボタン

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<このブログは三月に書いたものです>

三月は「卒業式」が行われ、人生の区切りをつけつける月です。我が家の長男が、中学校を卒業したのが1987年、次男は1995年、それぞれの春三月だったでしょうか。その頃に、中学や高校で、女子が、卒業する男子から学生服のボタンをもらうと言ったことがあったのです。スポーツなどで人気のあった男子学生の学生服の<第二ボタン>を欲しがったのです。首から二番目で、しかも心臓に近いボタンだったからでしょうか、淡い初恋や憧れが、そう言った願いを起こさせたのでしょう。流行歌とか学校物の小説とか、アニメななどが火付け役をして流行したのかも知れません。

思春期の真っ只中の別れの季節で、おセンチになるからでしょうね。なんとなく<形見分け(亡くなった人の思い出に記念に何かを分けてもらうこと)>に似ています。私たちの1960年前後の時期には、ありませんでした。また、欲しがっても、<ジャバラの制服>で、ボタンがなく、コンの制服をホックで止めていたのですから、女子部の女学生にも、通学途中で好意を寄せてくれた女学生にも、あげようがありませんでした。戦争時代の海軍の軍服や、学習院の制服に似ていたのです。

そう言えば、1944年には、戦況が厳しく、学生までもが戦士となって戦場に駆り出される事態になり、あの「学徒出陣」が、明治神宮の野球場で行われた悲しい歴史が、私たちの国にはあります。旧制の大学や専門学校を繰り上げ卒業されて、中国大陸や南方に送られたのです。彼らも、許嫁や恋人に、ボタンを残して戦地に赴き、ある学生は銃弾に倒れて不帰の人となったのでしょう。父は、対中、対米英戦争が終わった時には35歳でした。兵役の適齢期でもあったのですが、軍需産業に従事していて兵役にはつきませんでした。

人は殺しませんでしたが、人を爆撃する軍用機に関わる仕事をしたのですから、その責を問われても仕方がありません。我が家は軍からのお金で生活をしていたことになりますから、終戦間近に生まれている私の、産着もミルクも父の財布で賄われたのです。自責の思いを感じるのです。それで、中国のみなさんに謝罪をしています。でも一度も責められたことがないのは感謝で好いのでしょうか。

暖かな思い出は好いのですが、悲しい思い出になってしまうようなことが、二度と繰り返されないように、そう願う三月の初めであります。

(写真は、早稲田大学の応援団の団員の「学生服」の姿です)

馥郁

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<このブログは二月に書いたものです>

「ふくいく」と読んで「馥郁」と書く言葉があります。『香りがよいさま。よい香りが漂っている様子。例えば、蕎麦や梅の花など。「馥郁とした」「馥郁たる」の形で用いることが多い。』と実用日本語辞典にありました。桜の花が咲き始める前に、まだ寒さの厳しい時期に、「梅」の花が咲き始めるので、それこそが春の前触れであったのでしょうか。

江戸時代以降の「花見」は、上野の山を代表するような、「桜」でした。ところが、いにしえの奈良の都の「花見」は、桜ではなく、この「梅」であったそうです。桜には香りがありませんが、梅の花には、「馥郁たる香り」があって、目で見るだけではなく、嗅覚で楽しむことができるのです。ここ中国では、「百花の王」と呼ばれるのは、この「梅花」なのです。清代末には、国花に制定されたのですが、現代中国では、「牡丹」だと主張する人と、「梅」だとする人がいて、まだ決まっていないのだそうです。

小学校への通学路に、お寺がありました。このお寺の塀の中に、たくさんの梅の木が植えられていたのです。小学生の私には、梅の花よりも「実」の方に関心がありました。大粒の梅がなると、落ちてしまう物が多くあったのです。それを拾うと、まるで桃の実のように、いい匂いがしているので、かじってみると、美味しいかったのです。それが楽しみで、毎年、実の成る時季に、そっと食べたのですが、幾つ食べたことでしょうか。実は、『落ちた梅の実は、決して食べてはいけない!』と言われていたのです。食べた子どもが疫痢になって死んだことがあって、禁止されていたのです。欠食児童でもなく、三度三度の食事を母が作ってくれましたし、<おやつ>だってあったのですが、その禁を冒して食べていたのです。今考えますと、よく守られたものだと思うのです。

日本から戻って来ます時に、必ずと言って買ってくるものに、「梅」があります。漬物にしたものです。あまり高くないので、『しめた!』と思って、こちらに戻ってから開けて見ますと、「原産地:中国」と記されてあるのです。輸出した梅が、加工されて持ち帰られ、食卓にのって、食べるのですから、梅にしたら、ずいぶんと長い旅をしたことになります。そういえば、アメリカに行きました時に、お土産で買って来たものに、”made in Japan”と書いてあるのを読んで、苦笑いをしたこともありました。

二月の私の鼻には、梅の香りがしてくるようです。まもなく「弥生三月」、桜咲く月となります。「風流さ」というものには無縁に生きてきましたのに、今は、そう言った風情が、『好いなあ!』と感じられるようになった自分が、ここにいるのであります。

(写真は、「梅の花」です)