開闢以来の国難に直面した日本、国外からの救援、支援が寄せられています。また未曽有の辛酸を味わっている被災地のみなさんへの評価が、海外から寄せられています。想像を絶する危機の中で、冷静で沈着な行動をとっている被災者の姿、救護にあたる消防署員、警察官、自衛隊員、自治体職員の命を賭した活動を、国外の方々が驚異のまなざしで眺めているようです。もちろん被災されていない日本の他の地域に住むみなさんからの《応援のメッセージ》も寄せられているようです。かつて、父や祖父の世代が、廃墟や焦土や欠乏の中から立ち上がれたことは、今回の大震災、津波、原発事故の困難さの中からも、復興してくための《遺伝子》を、この世代人も受け継いでいるのだと確信させられます。もちろんこの時には、銃を向けた相手国からの信じられない復興支援があったことも忘れてはなりません。イギリスの新聞には、『ガンバレ日本。ガンバレ東北。』と一面に掲載されていました。溫家宝首相も、『日本の今の必要のために、国を挙げて届きたい!』と全人代の折に支援の約束をしてくださいました。また私たちに、中国の友人たちや次女の住むアメリカの友人や知人からの安否の問い合わせがありました。うれいいことです。
今、私たちが住んでいます家のすぐ近くにスーパーマーケットがありますが、ここで売られています保存のきく食品の棚に、全く商品が見当たりません。おとといコンビニにアイスクリームを買いに行きましたが、同じでした。『食べ物がなくなってしまう!』と思うのでしょうか、マスコミが保存食の備蓄を勧めているからでしょうか、買いだめに走っている姿を見受けます。今回の東北地方の被災地の避難者には、冷蔵庫も保存庫もなく、買いに行く足もないのです。救援物資にだけ頼るような窮乏生活をしている現実なのです。そういった被災者の現実を知っていて、そういった行動に走りまわるのは、実に恥ずべきことではないでしょうか。一人ひとりの今日一日の必要を賄えるのなら、隣の人の必要も充分に満たされるのです。同胞の困難を共有しようといった意識が欠けているのは寂しいかぎりです。
私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いの満ちた家にまさる。」とあります。被災地で、『1つのおにぎりを4人で分けて食べました。』、『一本のバナナをふたりで分けあって食べました。』ということを聞くにつれ、『自分だけ!』、『自分の家族だけ!』といった、被災しなかった地の生き方は、海外の被災地の人々への賞賛の声とは裏腹なのは、日本と日本人の矛盾なのでしょうか。
中国の挨拶言葉に、『喫飯了没有?』があります。『こんにちは!』といった日常の挨拶に用いる言葉なのですが、その意味は、『メシ喰ったか?』です。中国で五年間生活してきて、想像しているのですが。内乱や政争の戦で、いつも憂き目に合うのが中国の民衆の歴史でした。彼らは着の身着のままで、戦乱を避けて他の土地に、一家、一族で移住せざるをえなかったのです。食べ物もままならないのですから、互いに分け合う以外に生き延びていくことができなませんでした。そのように、他者を顧みながら生きてきた《強靭さ》を、中国のみなさんの内に感じるのです。自分だけが満腹するのではないのです。『メシ喰ったか?まだメシを食っていなかったら、何か作るから食っていけよ!』という、食の勧めなのだと思うのです。
食事時に知人に出会うと、『メシ喰ったか?』と挨拶され(聞かれ)ると、もうすでに食べたら、『有(ヨウ)』と、食べていなかったら、『没有(メイヨウ)』と答えます。彼らは、私たちのことを、《家族(一家人)》と思ってくれるからなのだと思うこと仕切りです。
先程、義妹に電話を入れました。夕べ、ガソリンも灯油も無くなったので買いに行ったのですが、どこにも無かったのだそうです。もちろん、食料もでした。年をとったお母さんの介護をしているので、暖も食も摂る必要があったのです。そうしたら、彼女と私たちの共通の友人が、昨晩の地震前に、『石油ないんでしょ!』と石油缶を抱えて、食べ物も届けてくれたのだそうです。ひと言も要求していなかったのに与えられ、そんな経験を嬉しそうに話していました。彼女は《頭の黒い天使》だったようです。国難を分かち合い、物も心も分かち合いながら、この急場を励まし合って生きていきたいものだと思う、家内の手術の日のために待機している、「・・・平成の昭仁天皇の時代、地震の五日後」のことであります。
(写真上は、「英国紙」、下は、北京空港で待つ東北関東大震災への中国からの「救援隊」です)