明治の初期に、日本にやって来た外国人は、医者や技術者だったり、開校したばかりの学校の教師たちでした。多くが「お雇い外国人」でした。その他に、宣教師たちも、すでに幕末には来日していました。
その中に、1877年に来日(横浜港に上陸しています)し、横浜から新橋に向かう汽車の中から、大森駅付近の崖の断層に、貝殻を発見し、その九月には発掘調査を行なったのが、モースと言う動物学者でした。その「大森貝塚」からは土器、骨器、獣器などを発見しています。
残念なことに、彼は進化論者で、日本の学校の教育で進化論が教えられる先鞭をつけた人でした。でも彼の学問的貢献は大きかったのです。数度にわたる来日の後、滞在時の見聞を、「日本その日その日」で著しています。
スケッチで、訪ねた場所や、家の様子、モースが目にした珍しい道具や風景などを描いて、それらが添えられています。写真とは違った趣があって、興味深いのです。極東アジアの島国の様子を、よく観察していたのが分かります。動物学者の目には、人もその範疇なのでしょうか、彼は、カルビニストのお父さんに育てられているのに、そこから離れてしまっていて、進化論者でした。晩年は、このモースが、どうだったのか気になります。
でも彼の観察眼は確かでした。日本人の特性や民族性、道徳性、品性まで見ていたのです。日本の社会が衛生的に高度なものを持っていたことにも触れています。当時のアジア諸国に比べて、ずいぶんと違っていたのを認めています。この数年、新型コロナの感染症が、収束することなく、今も拡大していますが、明治初期に、日本には、感染症が少ないことにも、その本で触れています。
そう言った日本人の徳の高さは、来日した多くの外国人の一致する意見でした。とくに目に付いたのは、子どもたちへの大人の接し方、扱い方でした。『日本は子どもたちの天国での様だ!』と感じていたのです。親切に、丁寧に子どもたちに、大人が接していたのに注目しています。
自分の子どもの頃を思い返してみても、私たちの時代も、総じて大人は、注意深く接してくれ、危険なことやよくないことをすると、誰彼なく注意してくれ、見守ってくれ、ある時は叱ってくれたのを思い出すのです。街のおじさんやおばさんは、親切でした。親爺にはゲンコツをもらいましたが、それも愛のムチでした。
ところが、最近ニュースで騒がしいのは、保育士や教師たちによる子どもへの虐待です。なぜそんな接し方をしてしまうのか、その問題の根は深そうです。
イエスさまの所に子どもたちが連れて来られた時の記事が、聖書の中にあります。
『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせ言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。(マタイ18章1~6節)』
『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19章13~14節)』
イエスさまの時代、子どもたちは軽んじられていた様です。そんな中で、子どもたちを叱る弟子たちに、イエスさまは、『許してやりなさい。』と言いました。《子どもたちの様になること》と、天国に入ることとを関連づけて、お話ししておられたのです。ただ単純に、子どもの様になることです。難しい神学論や教理論ではないのです。
子どもが重んじられる世界こそが、「神の国」なのです。私の願いは、傷ついた子どもたちの心の癒しです。主と呼ばれる神さまは、「アドナイ・ラファ(われはエホバ、汝を癒すものなり)」ですから、癒すことのできない人の傷などありません。また大人で、子ども時代に、心に傷を負わされた人たちが、この「主」から、忌まわしい記憶でさえも消えてしまう様な癒しと回復がなされることを願うのです。もう亡くなって、そばにいない人でも、赦すことができるのです。そうすることができるのが、聖書の神、イエスさまです。
子どもに躓きを与える者たちへの神の処罰は、ずいぶんと厳しいことに注目すべきです。いわんや虐待などと言うのは言語道断なのです。彼らは次の時代を担うのですから、聖書のことばによるなら、愛や優しさで接し、一人の人格者として認めなければならないのです。
(「キリスト教クリップアート」のイラストです)
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