ゆっくり生きる

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 『私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくりと歩いて行ったことなどを。 (詩篇42篇4節)」

 「偏屈さ」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、〈かび臭い遺物〉だとでも思われているのでしょうか。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若いみなさんに嫌われるのです。

 確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人は、籠や馬や舟に乗ることができたわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。時間も人の動きも緩慢なことは、急(せ)かされませんので、かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。

 芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、歩行者ならではの観察眼が、そこに記されています。実に緻密に景色や人心の機微を観察しています。新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、

 『荒海や佐渡によことう天の川』

を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、〈のたりのたり〉と流れていた時代の産物なのかも知れません。

 これまで、どの道の達人も、滅入る様な、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代がありました。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの高い質を作り上げてきたのです。

 間もなくやってくる7月23日は、「土用丑の日」です。鰻職人は、『串差し何年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

 ところが、現代は、「即性栽培」のもやしのように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、『無駄だ!』と退けてしまうのです。数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

 日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、以前、「失敗学」の専門家の畑村洋太郎さんが、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後に、大きな人災事故が発生しているのだそうです。

 聖書も、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めます。「あわてること」が、失敗の原因何でしょう。失敗の多い日を生きてきたわたしは、あれやこれやと思い出しては恥ずかしくなっています。暑い日本に、「ゆっくりと生きる!」、そんな生き方が、一番なのです。 

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