『しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。 (ルカ12章28節)』
よく質問されたことがありました。『神が愛なら、どうして?』と言われるのです。どうして人に不幸があるのか?、病人、障害者、孤児、悪党がいるのはどうしてか、なぜ悲惨な地震や津波や飢饉が起こるのか、などと言うものです。
私の母は、生まれるとすぐに、養女に出され、養父母に育てられています。一度、小学校一年生の時に、母のふるさとを訪ねたことがありました。母にお小遣いをもらおうとした時に、『無駄遣いはいけない!』と、厳しくおばあさん(母の養母)に注意されたのを覚えているのです。それで、今思うに、母は放任ではなく、しっかりと躾を受けて育てられたのが分かります。
ですから両親に捨てられたのですが、養父母に愛されたのだと思います。養父は早く亡くなって、養母の手で育てられたようです。でも、友だちには兄弟や姉妹がいるのに、自分は一人ぼっちだったのが寂しかったと、私に、母が言ったことがありました。
母が幾つの時か聞きませんでしたが、自分が、この母の子ではなく、お母さんは奈良に、お父さんは下関にいる、と言うことを聞いたと話してくれました。そんな母を、教会学校に連れて行ってくれた幼馴染がいたのです。そこで、聖書に記される神さまが、「父」であると教えられ、〈父(てて)無し児〉の自分に、《本物の父親》のいることを知って、大変に慰められ、喜んだのだそうです。
『お転婆だった!』と、母の親族で、母の子ども時代を一緒に過ごした、同世代のおばさんから、そう聞いたのです。その母は、讃美歌を歌い、聖書のお話を聞くこと、何よりも、「父である神」に祈ることで、孤独が慰められていたのです。それで熱心に教会に通っていた母の信仰について、『耶蘇は親の面倒を見ない邪教だ!』と養父母に告げ口をしたのです。それで教会に出席するのを禁じたのです。
そんな母を、『台湾に売り飛ばしてしまえ!』と言って、そうされかけた時に、教会に知らせてくれる人がいて、教会は地元の警察に話し、警察は母を保護したそうです。命からがら、人身売買の難を脱れることができたのです。
「サンダカン八番娼館–底辺女性史序章(山崎朋子著、1972年刊)」と言う本に、天草の貧しい家から、ボルネオに売られた「からゆきさん」が描かれています。映画では、母と同級の田中絹代が、サキを演じていました。母は、ボルネオではなく、台湾に売られるところだったのです。やがて父と出会って結婚し、父の子四人を産んで、育ててくれました。自分の人生の不幸を、創造者の所為にしたのではなく、不幸を転じて幸福に変えてくれた神を認め得たのです。
神は、意地悪をされるような、冷酷な方ではないことを知ったので、母の95年の生涯は、素晴らしかったのではないでしょうか。
草を装うように、いえそれ以上に、母は祝福された一生を生きることができたのです。それを聖書は、『神のわざが現れるため』であったと言います。人の周りに起こる不都合さの原因は、人にあります。そう人の「罪」によるのです。その罪を、人が認め、その罪を赦すために、イエスさまが十字架、代わって死んでくださったことを信じられて、母は基督者として生き、夫も子たちも、孫たちも、その信仰を継承し得たのです。まさに、「よくしてくださる神」と出会ったから、いえ、神に見つけ出されたからです。
(熊本の天草、キクを演じた田中絹代です)
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