恩寵

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 『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ(詩篇6258節)』

 九州福岡の教会の一人の方が、詩篇62篇のみことばから、素晴らしい chorus を作詞作曲されたのです。

   私は静かに神を待つ 私の救いは神から来る

 私は決して揺るがない 私の救いは神から来る 

 これは、わが特愛の賛美なのです。聖霊に触れられ、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて、罪を赦されたことを知って、私は、今日まで生きて来れました。地獄に堕ちるべきであったのに、赦されたのです。父も、大人も、担任も、警察官も、裁判官もハッキリと赦してくれなかったのにでした。そして自分自身で、自分を責め、嫌い、諦めてしまっていたのです。どこに堕ちていくのか、震えるような恐怖と不安の中で、聖霊に満たされた時に、キリストの「十字架」が、自分の罪のためであったということが、電撃的に分かったのです。まさに、それは奇跡でした。

 2000年前に、エルサレムのゴルゴタの丘の上の「十字架」で、死なれたイエスさまが、「キリスト」だと信じられたのです。母を〈肉親の契りからの隔絶〉と〈孤独〉との中から救い、命の道を示され、教え、理解させてくれた、「十字架」を、聖霊なる神が、私にも働きかけて、その真意を示してくださって、そう確信できたのです。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人289節)』

 奈落の底に引き摺り込まれるような、もう後戻りできないで、自暴自棄の危機の中で、無頼の群れ、獄門の門徒に誘われるような、恐怖の中に怯えていたのです。もう一歩、もうひと時のところで、首根っこを掴まれ、その泥沼から引き上げられたのです。そして望み溢れる世界に移し替えられた、その「恵み」に心が躍ったのです。

 パウロは、自分を、「罪人のかしら」だと言いました。アダム伝来の罪ばかりではなく、自らの内側の罪性は、如何ともしがたかったのです。ところが、ただ「一方的な神のご好意」によって赦された喜びは、彼の書き送った使信のことばに中に、満ち溢れております。その同じ喜びが、筆舌に記し難く、私の心の思いの中に刻まれたのであります。静かに深く、さらに強く内に覚えられるのです。こんな赦しや救いが、「十字架」にあったのを、理解でき、自分の体験にすることができたのは、驚きです。

 今日も、決して揺るがない確信の中にあることに感謝しております。『あなたは狂っている!』と思われてもいいのです。ただ、みなさんの上に、同じ「恩寵」が注がれ、生きる喜びが増し加えられますようにと願う、年の暮れです。

(”キリスト教クリップアート“から説教する「パウロ」です)

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