一匹狼

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 「派閥」の抗争が、私の働いていた職場にもありました。最初の職場にあったのです。総理大臣をされた大平正芳氏が、次のように言っています。『人間は、本来、派閥的動物だといわれておる。三人寄れば必ず二派をつくるものだ。』、〈数の論理〉で、多数派が強い存在意識や主張を持ち、組織を動かすことができるのです。日本の政治の世界は、顕著な派閥の社会です。

 東大の法学部を出て、私学の高校の教頭をしてから、抜擢されて事務局の責任者になった方が、私の職場の長でした。理事会や評議員会の議事録の作成をさせられると、いつも『こんなんじゃあダメだ!』と言われて訂正させられました。それは自分にとって好い経験でした。

 事務方というよりは研究肌の方で、政治力を働かすようなことはなく、いつも学校法などの研究をされていて、組織の中で、いわゆるツンボ桟敷に置かれていました。もう一人の方は、陸軍中野学校出で、なかなかの策士だったのです。

 お二人に、お酒に誘われたのですが、私は、どちらにも与(くみ)しないでいましたら、当時の文部省下の振興財団から定年後に、横滑りで責任者になって、事務局長が変わってしまいました。ハンコをつく、根っからの事務方でした。理事会があり、評議員会があり、難しい組織の中に、私は飛び込んでしまったのです。

 新潟県の県立高校の校長をされて、研究事務係長になっていた方がいました。この方が、『廣田さん、こんな職場に長くいちゃあいけません!』と、越後訛りで忠告してくれたのです。そこは振興財団からの補助金などで運営していましたから、不正受給のために、どこの外郭団体でもしているようなことが罷り通っていたのです。それで若い私に注意をしてくれたわけです。

 そうしていましたら、所長が、某大学の元国文学科長をされた方で、私を気に入ってくれたのです。この方のお弟子で、短大で教務部長をされている方の紹介で、その系列の高校から招聘されて、教諭になったのです。その時も、大学院を出た方と私との間で、一人の採用でした。けっきょく強力な推薦者から推された私が選ばれ、もう一人の方は講師になりました。

 私の勤め始めた学校は、校長がご病気で、主事と二人の副主事の指導体制で、中学校と高校とが動いていて、複雑な力関係が、この3人の中にあったのです。男子教諭をまとめて、学校外の自分のお宅に呼んでは、お茶会や食事会がありました、一方の婦人の副主事が実力を持っていました。一度だけ、このお宅に連れて行かれたのですが、派閥間の争いに入りたくなかった私は、neutral な立場を取ったて、その一度しか行きませんでした。

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 その交わりで、女子教諭を入れた教師組合を作ることが決められたのです。私は、徒党を組むのが好きではないので、50人ほどいた教師の中で、たった一人、一匹狼然としていた私は、これに加わらないままでいました。別にいじめられたりはしませんでしたし、勇気ある選択をしたのか、一目置かれました。生徒には支持されました。

 そんな私を、訓練しながら伝道者に育てようと、アメリカ人宣教師の開拓伝道に誘われました。私は、二つ返事で新しい道を選びました。将来に対する何の保証も約束もありませんでした。8年後に、この方が、無牧の教会に行かれて、後を任されました。そこに三十数年いてから、隣の国に行ったのです。あの決断と選択は、間違っていなかったと、今でも思っています。不思議な人生の展開と、導きでした。

  『あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。 (1コリント1章12節)』

 この世の組織は、親分子分、その絆で出来上がっているようです。そして親分になりたい人の間に、力関係があって、主導権が争われるのです。住んでいた貸家の隣の方が、土建屋をされていました。子ども同士は、遊び仲間でしたが、ご主人とは、挨拶やちょっとした話を交わす程度でした。

 ある時、市長選挙があった時に、彼の推す現職市長にと、投票を頼まれたのです。選挙期間中、彼は市長派の運動員をしていました。市長が変わると、仕事がなくなってしまうので、必死だったのです。派閥とは関係ありませんが、どちらが市長になるかは、彼には重大問題だったわけです。現職市長の孫が、娘の同級生でした。子どもの世界にも、お母さんの世界にも、派閥的なものが歴然としてあるようで、人の集まる社会って、大変で難儀なのだと学んだ次第です。

(群れと一匹狼です)

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