クラーク先生

.

.

     クラーク先生       大

             一

 函館(はこだて)を午前十時に出帆した玄武丸は、七月三十一日午前二時に小樽(おたる)へ入港したが、まだ小樽札幌(さっぽろ)間の鉄路も通じていなかったおりのこととて、黑田長官とクラーク先生の一行とは、それより陸路を肥馬にむちうって札幌へ驀(ばく)進し、学生どもはうすぎたない漁船に身を託して家もまばらな錢函(ぜにばこ)に向かい、それより五里十一町の道をうまにゆられて人口わずかに二、三千にすぎなかった札幌へと向かって行った。

  時は七月三十一日の火ともしごろであったが、島將軍の企画通りにできたというあこがれの町札幌へ学生たちは到着した。人家店舗はまだまばらであったが、遠來の学生どもを收容すべき校舎は、北一條西一、二丁目より北三條西一、二丁目にいたる全ブロックを占有して整然と建ち並んでいた。いわく二階造り木造の講堂と敎室、いわく平家建て木造洋館造りの寄宿舎、これだけが廣い廣い敷地内に建ちはだかっていたが、東京からの学生十一名が到着する以前に、考査を経て札幌学校から轉じて來た伊藤一隆その他十二名の者どもが、先輩顔をして寄宿舎にがんばっていた。

 黑田長官をはじめクラーク先生の一行が札幌に乘りこんでから、学校創立事務が本格的に進捗(ちょく)し、実質は開拓学校であった米国の州立農学校にその範をとって校名も札幌農学校と定めることとした。この校の主要学科はもちろん農学であったが、開拓に必要な学科はすべて敎えるようになっていた。

 明治九年八月十四日諸般の準備ようやく成って盛大な開校式が挙げられた。この日午前十時、開拓使長官黑田清隆の式辞の後、クラーク先生の敎訓にみちた大演説が開始された。嚴然たる態度で壇上に立たれた先生は、この新設農学校が將來北海道における農業の改良と生産的大産業の発展の上に寄與するところ多大なるべきを述べ、欧米においてようやくその價値を認められるにいたった農科大学を率先して北海道に建てた黑田長官の卓見を祝し、生徒に向かっては励声一番、

「靑年紳士諸子よ、諸子はこの学校に入りたる以上、國家のために重要なる位置と厚き信任とまたそれよりいずるところの名誉を受けるために準備努力しなければならぬ。それがためには常に健康に注意し、食欲をつゝしみ、温順と勤勉との習慣をつけ、習わんとする学術については、できうる限りこれを研究錬磨(ま)すべきである。」と述べられた。

 開校当時東京新募の者十名と札幌学校在学中試驗に合格せる者とをあわせて、学生の総数は二十四名であったが、クラーク先生が敎鞭(べん)をとるに及んで、札幌学校出身者中、学力不足の者多数が退学を命ぜられ、開校後まもなく東京英語学校の十一名と札幌学校の三名を加えて、第一期生の総数は十六名に減少した。

 さて札幌農学校がいよいよ開校になって、その学則をいかに定めるかということが問題になった際、札幌学校から移って來た生徒たちが、参考のためということで札幌学校の規則書を持ち出し、第一條何々、第二條何々とその大要を英訳して、クラーク先生の前で読みあげた。聞きおわったクラーク先生は、「そのようなことで人間がつくれるものか。」と大声で怒号し、

「予(よ)がこの学校に臨む規則は、  Be gentleman! たゞこの一言に盡きる。」と言って、特徴のある太いまゆをぴくりと動かされた。

 学校は学ぶ所であるから、起床の鐘が鳴ったら、寝床をけって起きなければいけない。食卓へつく時にはあいずをするから、直ちに集まって來なければいかぬ。消燈時刻にはいっせいに燈火を消さなければいかぬ。ところでゼントルマンというものは、定められた規則を嚴重に守るものであるが、それは規則にしばられてやるのではなくて、自己の良心にしたがって行動するのである。故にこの学校にはむずかしい規則は不要だと、先生は述べられた。それを聞いた学校の幹事や敎授連は大いにその結果をあやぶみ、もし故意に規律を守らない者が現われたらどうなさるおつもりかと反問した。ところが先生は威儀を正し、「たゞ退学あるのみ。」と答えられた。

 さて、クラーク先生の意思を傳え聞いた生徒たちは非常に喜んだ。われわれはこれでもゼントルマンである。ゼントルマンは俯(ふ)仰天地に恥じざる行いをしなければならないと、みずから問うてみずから答え、町へ出てもみにくい行爲は決してなさず、自己の行動に非常に重きをおくようになった。もし誤って校規を犯そうものなら、進んで学監のところへ届け出で、「たゞ今かくかくのことで五分間遅刻いたしました。」と申し立てるような氣風が全校を支配し、学生一般の風紀が非常に改まった。

 クラーク先生が札幌に敎鞭をとられて最初に試みられた事項は、開校の際の演説中に片鱗(りん)が現われている制欲に関する考えを実行に移すことであった。先生は日本の学生の堕落して健康を破る者多き最大原因は飲酒と喫煙にありと断じ、学生の德育ならびに体育上きわめて重要なのは制欲の一事であると考えられた。そこで禁酒禁煙のほかに瀆(とく)神誓言を禁ずる誓約文を起草して、まずみずからこれに署名し、ほかの敎授学生をもこれに加盟せしめて、校内を淨化することに全力を盡くされた。 

 東京英語学校から轉校して來た生徒の一番年長であったのが佐藤昌(しょう)介で、当時は二十歳前後であったろう。伊藤一隆と私とがともに安政六年生まれの十七歳、そのほかの者も似たりよったりの年齢であったから、分別盛りの靑年であったように思われる第一期生も、実はわずかに少年期を過ぎたばかりの若輩ぞろいであったといってよいのである。

 それが開校怱(そう)々、日本語を全然解さないクラーク先生が滔(とう)々と英語で講ずる植物学や英文学、ペンハロー敎授の化学・農学・英語、更にホイーラー敎授の数学・土木工学の諸学科を聽講しつゝ英語でノートをとったのであるが、今日の中学四、五年生の年ごろで、しかも明治初期の不完全な英語敎育を受けた者どもが、どうして講義を理解し、どうしてそれを書き取ったのか、思えば不思議千万な話である。いまだかつて耳にしたことのない専門の話をノートするのであるから、生徒の苦心も一通りや二通りではなかった。敎科書が皆無に近い時代であったから、ほとんどすべての学科が講義であった。午前は学科を修め、午後はすきやくわをとって農場に働く生徒たちが、夜間ランプの下に集まって熱心に営むわざは、その日のノートの整理であった。

「おいおい、クラーク先生の植物の講義で、たびたびパレンということばが出たろう。あれは一体どんなつゞりの字だ。」

「おれのノートにはパレンでなくてレンキマと書いてあるが、どちらがほんとかな。」その時そばでけんめいに字引をくっていたひとりが、「あったぞ、あ、あったぞ。」と言ってこおどりした。そして「これだぞ。」と言ってさし示した字を見ると、parenchyma 柔組織─と書いてあった。

 万事がこの調子であったが、不完全なノートを生徒に提出させて、それを一々なおしてやるクラーク先生の労苦もなみたいていのことではなかった。

 皆寄宿制度であったその寄宿舎では、一室をふたりに充てていたが、室内にはテーブル・いすおよびベッドがおのおの二箇あり、冬になるとストーブが具えつけられるようになっていた。食事には多大な注意が拂われ、朝夕は洋食、晝は和食で、貨幣價値が今日とは比較にならぬほどであった当時、食費として一箇月八円十銭を支給されていたほどであるから、その実質はなかなか上等であった。したがって、学生の日々の生活は簡素ながら愉快なものであった。

 ある時、黑田長官が学校視察にやって來て、生徒の勉強ぶりに感心し、ひとりあたり二十銭ずつの賞を與えた後、クラーク先生に向かい、

「あなたは私の希望する通りの人間、即ち國家に対して有益な働きをする人物を必ずつくり出してくれると確信する。今となっては宗敎のいかんを問うべき場合でない。どうぞ思う通りにやってください。」と言って、学生を德化しつゝあるクラーク先生の人格に敬意を表された。

 学生に賞として現金を與えることは今から思うと妙な話であるが、当時は学生でも規定の労働をすれば、学校から賃金をもらえることになっていた。農場で働くと一時間五銭の労働報酬を支給される規定であったが、最も不潔な仕事の一つであったぶた小屋のふんそうじをやれば、更に高率の賃金がもらえるようになっていた。そこで開拓使から支給される一週間十銭の小遣銭を使いはたして、菓子代が欠乏して來ると、平素は寝坊な者でも朝早く床をけって出かけることになっていた。朝寝で無精者であった伊藤一隆は、その貴い作業を終って農場から帰って來ると、すぐさま敎室に飛びこまねばならぬというようなきわどい時刻になりがちであった。その都度伊藤はふんだらけな長ぐつをはき、手も顔も洗わずに敎室へ駆けこんで來るので、伊藤は臭くていかぬと同級生一同が苦情を申し立てるようになった。

 クラーク先生の敎授法は型にはまった今日の敎え方とはまるで違っていた。敎科書を用うる場合であると、「おまえ、こゝまで何ページ調べて來い。」と命ぜられることが多かったが、生徒が宿題をけんめいに勉強して行っても、次の時間にはいっこうに取り合わずにいる場合が多かった。といって命ぜられた通りをしておかないと、不意に急所を突かれるので、生徒たちは恐れをなして不断の勉強を続けていた。つまり生徒は実直に勉強しさえすればよいという自由敎育主義であって、先生は常に実地に即した学問を敎えて生徒を導いた。

 先生はまた学生の勇氣を鼓舞するために、屋外の運動や植物採集などを奬励し、率先山野を跋渉(ばっしょう)してその範を示された。時に学生の寄宿舎を見まわることもあったが、休日の午前などに勉強している者を見つけると、午後には必ず屋外に出て新鮮な空氣を吸うようにと勧告された。

 ある冬の日のことであった。クラーク先生は生徒一同を校庭に集め、これより手稻(ていね)山に雪中登山を試みる旨を宣言された。深い雪を踏んで、あえぎあえぎ山路をたどるのは生徒にとって迷惑千万な話であったが、かつてはマサチューセッツ聯(れん)隊を率いて勇戰したクラーク大佐が先頭を承って猛進するので、学生どもはいきおいこめて追從せざるを得なかった。

 降り積んだ雪に覆われて、山はだを包んでいた大木がわずかにこずえのみをそここゝに突き出している。

「夏になってはよじ登ることもできない巨木の頂に、冬なればこそ手を出すことができるのだ。それ、あのこずえに珍しいここけが生えているだろう。今がこの類を採集する好時期なのだ。だれかせいの高い者はやって來い。こゝへ乘ってあのりっぱなこけを取るのだ。」と言って生徒をさし招き、クラーク先生は雪の上へ四つばいになって背をさし向けた。よし來たと言って長身の黑岩四方之進(よものしん)が躍り出た。そして、恩師の背を土足で踏まえ、手を伸ばしてさし示された標本をむしりとった。黑岩の手からそのこけを受け取ったクラーク先生は、満足そうなえみを浮かべつゝそれをながめておられたが、一声高く「ペン。」と呼んで愛弟子(まなでし)のペンハロー敎授を呼び寄せた。そしてこれは珍種だと思うがと言って、敎授の意見を求められた。後にわかった話であるが、この時の採集品の中には学界未知の新種があったという。

 その帰途のことであった。生徒たちはかねて用意のさん俵をしりに敷き、手稻山のスロープを雪煙をあげつゝ滑りおりたが、最も小兵(こひょう)であった私は、どうしたはずみかぽっかりと口をあけていた大きな雪穴へどゞっと滑り落ち、頭上を越えてすうっすうっと滑って行く学友たちがけ落す雪を浴びて、身動きができないことになった。

 山麓(ろく)に達して人数を調べた一同が、「おや、大島がいないぞ。」と大騷ぎ。「ではあの深い穴の中だぞ。」と言って引っ返し、けんめいに雪をかきわけて見たら、小さな私が元氣よくぴょこんと飛び出した。実は私はその時一同が樂しみにしていた菓子包みを背負わせられていたのであったが、雪穴から助け出された私の背には、そのたいせつなものの影も形も見あたらなかった。

       二

 明治十年四月十六日、日本政府との契約期限が満ちたクラーク先生は、再びマサチューセッツ農学校校長の職につかんがため、うしろ髮を引かるる思いで札幌を辞し、室蘭(むろらん)経由で帰国の途につくことになった。その朝、なごりを惜しむ職員学生一同は、先生の官舎であった創成橋畔の開拓使本陣前に勢ぞろいをして記念撮影をなし、思い思いにうまにうち乘り、いずくまでもと恩師のあとを追って行った。札幌の南六里、千歳に近い島松駅に着するや、先生はうまをとめて駅逓の家に休憩したが、先生を囲んで別れがたなの物語にふけっている敎え子の顔をのぞきこんで、ひとりひとり力強い握手をかわし、「どうか一枚のはがきでもよいから時おり消息を聞かせてほしい。ではいよいよお別れじゃ。元氣で常に祈ることを忘れないように。」と力強い口調で別辞を述べ、ひらりとうまにまたがると同時に、 Boys, be ambitious! と叱(しっ)呼して長鞭をうちふるい、振り返り振り返り、雪泥(でい)をけ立てて疎林のかなたにその姿をかき消された。

 島松駅頭クラーク先生の残されたそのことばは、簡單ではあるが、意は実に深いのである。靑年よ、なんじらは常に大志を抱き、奮起してすべからく功名を立てよ、小成に安んぜず、力の限りを盡くして向上発達をはかり、もって國のために盡くす有用の材たれよ、と訓えられたのであるが、近時無知な人々がこの句を誤訳して、「靑年よ野心家たれ。」といっているのを一再ならず耳にする。当たらざるのはなはだしきものである。

 クラーク先生の謦咳(けいがい)に接して熱烈な信仰的雰(ふん)囲氣の中に育った第一期生の中からは、北海道帝國大学の生みの親である佐藤昌介をはじめとし、北海道水産界の元老で禁酒運動の大立者であった伊藤一隆、支那古韻の研究に一生を費やした私のような変わり種、ならびに北海道開拓の恩人である内田瀞(きよし)らが輩出したと同時に、第一期生を通じて間接に先生の感化を受けた第二期生の中からは、新渡戸稻造・内村鑑三らの英才が雲のごとくわき起った。わずかに八箇月という短い間に、かくも偉大な感化を與えられたクラーク先生のけ高い人格と熱烈な信仰の力とに対しては深き深き敬意を表さざるを得ない。 

         ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯

 この文章は、文部省・昭和22年9月8日発行の『中等国語二(2)』に載ったものです。戦争が終わって、軍国主義の教育から、新しい教育方針が打ち出されようとした時期に、「国語」の教科書に、甲府中学校校長を務めた、大島正健が書いた文章が、中学生のために掲載されたのです。札幌農学校の第一期生で、ウイリアム・クラーク教頭から教えを受けた人でした。大島正健は、明治343月に、山梨県立第一中学校長(尋常中学校)に就任し、以来十三年間甲府の中学校に勤務していました。17歳の時に教えを直接受けたことが、どんなに大きな出来事だったかが分かります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください