公正や質実さを求めて

.
.

『わたしは冬の家と夏の家とを打つ。象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。--主の御告げ--」(新改訳聖書 アモス3章15節)

 子どもたちが、石鹸水をストローにつけて、吹くと、シャボン玉が風で飛んでいく様子を見ていたことがありました。形あるものも、中身がないと、瞬間的に消えてしまうのは、はかな過ぎて、何となく心までもが消沈してしまう様でした。

 雨が降った後に、東の空に夕陽を受けて、半円形の虹が出て、感動させられるのですが、夕陽が落ちると同時に、虹も消えてしまうのも、寂しいものです。もちろん、ノアが方舟から出て、地が乾き始めていく中で、二度と大洪水で、地を滅ぼす様なことはないと、神さまが約束され、その印として与えてくださった虹は、別ですが。

『わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9章11節)』

 飛び去っていく時間、消費してしまう物質、堅固そうに見える住宅、一時の奢侈贅沢の飽食の生活、みんな泡沫(うたかた)のように消え去ってしまう代物(しろもの)です。今夏、大風が吹き、大波が押し寄せ、何もかも薙ぎ倒す地震や大風の猛威を、ニュース映像で見て、人の築き上げた形ある物が、瞬間で崩れ去っていったわけです。

 極東ロシアのカムチャッカ半島での地震は、茨城南部を震源地として、私たちが住んでいる家を揺するものとは、規模が格段に違う大地震なのです。幸いカムチャッカ半島は、高層の建造物がなく、集落も密集してない地ですので、被害情報は出てきていません。また、鹿児島県の島嶼部の十島村も、頻発地震のニュースが絶えません。北から日本列島を南北に南下する列島全体に地震が起こっています。あの大正期の関東大震災に近い、被害をもたらす大地震を起こすのではないかと、私も心配しているのです。

 旧約時代、預言書を書き記したアモスは、いちじく桑を栽培する農夫であり、羊を草場に導いて飼う牧夫でした。その彼が預言した「時」が特記されています。

.
.

『テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。(アモス1章1節)」

 「地震の二年前」とあります。ドスンという突き上げや、ギシギシと音がして揺れて、建物が軋む音を感じると、このアモスの予言を思い出してしまうのです。そして、今から40年近く前になるでしょうか、東京都心の教会で、イギリスからやって来た、二人の伝道者が、新宿の高層ビルを揺らし、崩壊していく大きな地震の起こる幻を見て、警告のようにかたられた預言を聞いたのを思い出します。

 あの時よりも、もっと起こり得る可能性が大きくなって来ていないでしょうか。いつ起きてもおかしくないように感じてなりません。イエスさまも、主の再臨の兆候を次のように話されました。

『戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」  それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21章9~11節)』

 前兆が見られるのですが、その一つが、この「地震」なのだとおっしゃったのです。戦争だって、暴動だって、疫病だって、昨今は、地球のあちらこちらで起こっているではありませんか。「飢饉」だって、地球上で、いつ起こるか分かりません。猛暑が続いた今夏、秋のお米の収穫や、野菜や果物の不作が起こりかねないと思えたのですが、杞憂でした。でも、来年はどうでしょうか。その可能性は大きいかも知れません。

.

 自然界の異変は、人の生活と無関係ではなさそうです。この預言者のアモスは、「商人たちの不正と暴利」を預言しています。商人たちの贅沢ぶりです。彼らは、一揺れの地震で崩壊してしまう様な、冬の家、夏の家、象牙の家を持って豪奢な生活をしていました。都市で、定住生活をしている堕落した贅沢な暮らしぶりだって、潰(つい)えてしまうことを取り上げているのです。暴利を貪って、巨万の財産を築き上げた商人たちの奢侈贅沢な生活を、そう糾弾しています。

 現代は、どうでしょうか。今夏、米価の値上げが、まさに人為的なものであって、その連鎖で、あらゆる物の価格が上昇して、便乗しての物価高騰を産んだのです。アモスの預言は、彼の時代の社会問題への糾弾であったのですが、現代にも通じないでしょうか。

『洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(イザヤ1章16~17節)』

 神さまは、人に、「公正」さを求めておいでです。正しい秤(はかり)を用いること、的確な儲けで売価を決めることを求めておいでなのです。商いをする人も、物作りをする人も、「儲け」を公正に設定するのを期待しています。神さまは不正がないお方だから、人にそれを求めておいでです。暴利を求めない生き方です。それは、人の大きな負担の上に、自分の人生を築かないことなのでしょうか。

 私の父は、必要以上に贅沢をしない生き方の人でした。象牙の家を建てるようなことがなかったし、一軒の小さな家を持っただけでした。そんな「質実」な生き方を見て育った私も、同じように生きようとしてきました。ギルティーではなく生きられたと、今になって感謝をしているのです。

(ウイキペディアの「シャボン玉」、「地震の分布図」、「象牙」です)

.