もみじの秋を感じて

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 郷愁を誘う秋の歌に、高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「もみじ」があります。

秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)

溪(たに)の流に散り浮くもみじ
波にゆられて はなれて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦(にしき)

 私が小学生の頃を過ごした街は、遠望の富士、大晶寺山、多摩川があり、学校は木造りの学舎、木製の廊下や机、水道の飲み水場、校庭、校門、金次郎像、百葉箱(気象観測のインド系や質憧憬に入った⒈5m高さの白色の鎧戸の箱)、小使さんが振って知らせてくれた鐘の音、春の桜、夏のプール、秋の紅葉、冬の校庭の雪、石炭やコークスを燃やしたストーブ、弁当、黒板、チョーク、そして担任の先生がい、級友たちがいました。

  イタズラ小僧だったのに、音楽の授業だけが好きで、よく歌を大声で唱和していました。秋になると、「もみじ」を歌ったのです。今、口ずさむと、思いが湧き上がってきて泣きそうになります。教室の後ろに、廊下に、そして校長室に立たされて、一緒に立たされた、立たされ仲間が家に帰って行ってしまい、迎えに行かされたことがありました。一緒に帰らないガンコ野郎でした。

 弾き始めに、ギイギイ音を出し始め、美しい音色が奏でられ、もう懸命に歌ったのです。担任は、どんな思いで、この手に付けられない学習障害児の歌を聴いていたのでしょうか。音楽の時間だけは、いい子なのだからです。腑に落ちなかったのは、はたきで、担任に叩かれたことでした。みんな担任の名前は覚えていますが、この1年間の担任は、呼び捨ての中村でした。今でも許せないのです。

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 お父さんがいない級友の家に行くと、お母さんは必ずサイダーの栓を抜いてくれて、飲ませてくれたのです。「小学◯年生」という月刊誌をとっていて、それが出るたびに、見せてもらいにも行き、読みたいのとサイダーが欲しくてよく行ったのです。

 優しいお母さんで、美人でした。どうしてお父さんがいないか聞けなくて、遠慮していたのを思い出します。きっと戦死だったのでしょう。成績が良くて、おとなしくて、ケンカなどしない優等生でした。なぜか成績の競争相手でもあったのが不思議でした。

 仲が良かったし、彼の友人の一人でした。家でサイダーなんか、買ってくれて飲ましてもらわなかったので、あんなシュワーとした甘い飲み物が、じつに美味しかったのです。店構いの立派な酒屋さんをしていた級友でした。卒業以来会うことがなかったのですが、後に地元の市長をしたと聞きました。

 やっと涼しい風が頬を撫でてくれるようになり、昨日は、通院時に長袖、長ズボンで、電車を乗り継いで、大学病院に出かけたのです。今や、痛みのひかない膝、それに腰まで、MRIやレントゲンで撮影するのです。半月板に水が溜まっているとかで、次回、精緻な検査結果が出るようです。ローカルですので、乗り継ぎ駅で、お腹は空くし、一時間も待たされてしまいました。

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 そう栗や柿が食べたくなってきてしまいました。在華中、この季節になると、好きなことを知ってくれて、小ぶりの栗に、ナイフで切り込みを入れた栗を茹でて、聖書研究の集いに行きますと、必ず出して下さったのです。ホクホクして、大陸の栗も美味しいのです。

 十数年過ごした華南の地なので、紅葉は見られず、短いのですが、秋も感じられる日も、短かったのですがありました。街路樹や学校の校内の木に、綺麗に亜熱帯の花が咲いていたのです。でも、秋の風情は、日本でしょうか。日光の中禅寺湖畔、足尾山地、県北の那須や塩原あたりは、激暑の今夏を追いやる様に、秋色が溢れてくることでしょうか。渡瀬渓谷鉄道に、また乗って、秋を逍遥してみたい思いがしてまいります。

 今朝、今夏の暑さでなかなか咲けなかった白色朝顔が二輪咲きました。どうも去年のタネが、秋口になって芽を出して咲いたのかも知れません。『生きていて、生かされていてよかった!』と思わず言ってしまいました。バラも、ベコニアも咲いてくれています。まさに秋到来、残りの夏に風情でベランダが明るくなりました。

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