教会のいのちは説教である

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 同じ牧師のお話です。

 『昔、私の牧する教会に、Nという老人がいました。私はNさんを好みませんでした。むこうも同様に私を好いてはくれませんでした。親子ほど歳の違う牧師と会員の関係は複雑にして微妙で・・・(役員会で)あわや茶碗が飛ぶかと思われる場面が二度三度。

 役員会を土曜の夜にした時などみじめでした。次の日が日曜です。「Nさんがどうか休んでくれるように!」と何度願ったかしれません。ところが休むどころか日曜の朝になると、定刻きっちり定席に座っているではないですか。

 私は砂をかむような思いで説教しました。Nさんは献金を集め、すばらしい祈りをしました。私は「負けた!」と思いました。Nさんは、説教者が説教職として召されていることの重さを、しっかりと受けとめていたのです。説教者が気にくわんといって、礼拝をボイコットするようなことをしませんでした。

 Nさんはなかなかのサムライでした。Nさんは、講壇に立つ説教者の中に、年齢、経歴、個性、それらを見ませんでした。見つめるべきは《神の主権》であり、行うべきは《みことばへの聴従》であるとわきまえていたのです。この堂々たるふるまい。みことばの支配の厳粛さに打たれた私は、説教者が育てられるとは、「これだったか!」と、しみじみ思った次第です。(中略)

 説教が大切だ、と言われるわりには、語る者も聞く者も、それを大事にしていない。いったい説教が《いのち》にならぬ理由と原因はなにか。そのへんをとことん考えてみることから、教会の再建は始まります。もちろん前進もそこにはあります。』

 この方は、『教会のいのちは説教である!』と言うのです。私たちの教会を導いてくださった宣教師のみなさんは、まさにそのように教会を建て上げておられました。無駄な例話はしません。面白おかしく話しませんでした。

 なぜなら、会衆は「いのち」を求めて教会にやって来られるからです。くつろぎや笑いはいりません。それは他に求めることができるからです。キリストの教会は、赦し受け入れてくださった神の前に出て、賛美し、十字架の贖いに感謝して、聖餐に預かる神の家なのです。ジュネーブ教会のカルヴァンは、『かくして見ゆる教会は、われわれの視野に、はっきり浮かび上がってくる.なぜならば、神のみことばが、純粋に説教され、聞かされ、聖礼典がキリストの制定に従って執り行われるところ、どこにおいても神の教会が存在することは、疑うべからざることである。』と言いました。

 お隣の国で、私が説教をする時、借家の大広間の集会場の前から二列目に座って、いつも、じっと耳を傾ける青年がいました。故郷から出て来られて、近くのモールの料理店でコックのお仕事を修行されていて、礼拝が終わると出勤していました。《主に聴く》ことをされていてた方でした。私たちの帰国後、故郷に帰られたそうです。彼ほどの聞き手に会ったことは、これまでありません。

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在り続ける教会

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 伝道の道に入って間もない頃に、一冊の本を読みました。牧会30年の辻宣道師の「牧会生活の処方箋」です。教会生活の諸相を綴ったものでした。その本の冒頭に、次の様な記事がありました。

 『ある日、母に言われて元教会員(教会は政府の命令で解散させられていた)だったひとの所へカボチャを分けてもらいに行きました。農家でした。たしか父が牧師であったころ、役員をしていたひとでした。

 驚きました。「おたくに分けてやるカビチャはないね!」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょうか。平穏無事な時は、まっさきに証しなどして張り切っているひとでしたが。

 そのガッシリした体格は、いかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個も分けてくれぬひとになってしまったのか。

 私には弟が三人いました。あのチビたちに何を食べさせようか、とぼとぼ帰っていった日のことを覚えています。リンゴ畑にそろそろ寒さがしのびよってくる夕方でした。

 そんなものかと思いました。人間いざとなれば、信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになってなかなか素直に神もひとも信じられませんでした。』

 この牧師のお父さまは、1942年の初夏に警察に連行され、治安維持法違反で拘束され、拘置所、裁判所、刑務所と続き、懲役二年の服役中に、青森刑務所で亡くなられています。彼が中学二年の時だったそうです。お父さまの亡骸を、お母さまと刑務所に、リヤカーをひいて引き取りに行き、亡骸が棺桶の中で、ごつごつ当たる音を聞きながら教会に帰ったと言っておられます。

 この少年は、戦後、叔父の世話を受け、神学校で学んで、任職されて牧師となられています。牧会者の子弟として生まれ育ち、茨の道をたどりながらも、お父さまと同じ道を歩んだことは、驚くべ強烈な証しではないでしょうか。

 これは、キリストの教会が持っている「二面性」を言い表してる経験談でしょうか。こう言った現実があって、教会は二千年の歴史を持っているわけです。難儀な時や経験を経ながらも、ドッコイ滅びることなく、連綿と、教会の主であるイエスさまと共に、都市にも農村にも漁村にも、そして山村にも、「キリストの教会」はあり続けての今なのです。

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この違いの感謝を

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Looking down on a yellow softball in a brown leather glove with a red baseball cap and an aluminum bat sitting in the grass with a green padded wall in the background

 

 〈ジイのひがみ(僻)〉と言われようと何のその、プロスポーツ界に見られる〈契約金〉の額の凄さに、目の玉が飛び出しそうです。大卒初任給25000円(1967年国家公務員給に準ずる初任給)と言うことで、社会の中に飛び出しました。今年の高校野球からプロに入る、ある若者の契約金が、〈一億円〉なのだそうです。

 やってみました、割り算です。4000と出ました。プロ野球チームと契約した高校三年生の若者初任給が、私の時代の初任給の四千人分になります。45年前の貨幣価値と今とは違うのですが、単純比較の結果です。

 先頃、アメリカの球界と契約を結んだ吉田正尚選手は、レッドソックスと〈5年総額9000万ドル(122億円)〉の金額での契約だそうです。サッカーにしろ野球にしろ、普通人との差の大きさに開いた口が塞がらないでいます。

 人生の目的がお金だとするなら、彼らは成功者ですね。73歳で、27才で始めた伝道者の仕事(実務)から、家内の病気を機に退きました。スーパーマーケットやコンビニの床掃除、スーパーマケットの青果部のパート、結婚式の司式をしながら、〈四足の草鞋〉を履き替えて牧会伝道をしながら4人の子を、家内と一緒に育てました。

 とにかく〈分を果たした〉と言う思いでおります。私のような者が、福音宣教の業に携われたとするなら、人の側からするなら奇跡ですし、神の側からするなら、きっと「憐れみ」だったことでしょう。〈大学で教える〉、これが私の学校を出る頃の人生設計でした。能力の問題ではなく、世渡りの術ででした。

 私が奉職した学校には、短期大学がありました。責任をとって声を掛けてくださったのは、その学校の社会科教科主任をされ、私が就職した時には、短大の教授で教務部長をされておいでの方でした。いわば、〈師匠と弟子〉の関係でした。数年の後に、短大で教え、将来、ある大学の講座を持つようなレールの上に、〈大師匠〉に置いてもらっていたのです。

 九州の福岡の教会の留守を任されていた兄を、出張途中に訪ねた時に、私の人生が変わり始めたのです。兄が東京に戻り、教会の責任を受けた時、ニューヨークから神学校の教授が来られ、特集で私の頭に手を置いたのです。その時、《聖霊のバプテスマ》を受けたのです。

 その異言を語っている間、イエスさまの十字架の死が自分の罪の身代わりだと言うことが分かり、同時に『伝道したい!』と言う願いが突然、私の心を占めたのです。野心があった私でしたから、その後、普段の生活の中で、その思いを消そうとたのですが、消えませんで、なお日毎に強くされていったのです。

 兄に責任を委ねたアメリカ人宣教師は、新しい地での開拓伝道をされようとしたのです。何人かの候補がありましたが、けっきょく私を連れていくことを決め、『どうですか?』と打診されたのです。私は、躊躇することなく二つ返事をして、着いて行くことに決めました。学校に退職届を出したのです。けっきょく、この社会で〈不義理〉をしてしまったのですが、《教会の主》から召命と確信してでした。8月になったら出発とのことで、母教会のメンバーの方の鉄工所でアルバイトをし、お嬢さんの家庭教師も始めたのです。

 『キリスト教の伝道をするって、そんなにいい給料がもらえるんですか?』と、そこの従業員の方に聞かれ、返事ができませんでした。出掛けた地は、私の生まれ故郷だったのです。父の友人が果物商で、市の中央青果小組合の理事長をしていておいででした。この方の紹介で、卸商の方が競りで買った青果を、車に積む仕事を始めたのです。パウロの伝道生涯が、Tent maker(天幕作り)であったことに励まされてでした。午後はトラクト配布、夜は聖書学校でした。

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 この50年、辛いこともありましたが、やめようとは考えませんでした。『来てください!』が忘れられず、隣国に出掛け、13年の間、学校で日本語を、週2日教えました。そう、若い日の願いが、お隣の国の大学で叶えられたのです。そして群れの建て上げの手伝いを、家内と共にさせていただきました。実に祝福の溢れる年月でした。

 礼拝出席を、〈パーティー参加〉と言う隠語を使っての知らせを理解してもらえず、遊んでばかりいると言われたこともありました。あちらこちらの群れを訪ねて、講壇には立ちましたが、みなさんに教えらることばかりの年月でした。いつもいてくださったのは、

 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル415)』 『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(同218節)』

 「教会の主」、イエスさまが、いつも助けてくださった年月だったのを思い返して、また新しい年を迎えられるのを感謝しています。ウクライナ戦争、これが発端になって、第三次大戦を引き起こしかねない情勢ですが、助けてくださるお方と共に、どんな事態の元でも生きていきたいものです。

(上海の外灘、路地裏の風景です)

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人を作るのは時勢なのか

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 勝海舟が、『二宮尊徳は・・・正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ。』と言っています。二宮尊徳は、下野國(今の栃木です)真岡(もおか)桜町で、農業指導をし、日光でも指導し、そこで没した逸材でした。この日曜日に、友人の説教に尊徳登場でした。

 かく言った海舟も、徳川の直参旗本で、幼名を麟太郎と言いました。十二代将軍・家慶の子の慶昌の遊び相手に選ばれて、江戸城に上がっています。この慶昌が亡くなってしまったので、家に戻ってきました。その頃、犬に噛まれて大怪我をしますが、外科医の手術と、破格な人物の父・小吉でしたが、麟太郎を抱きかかえて、何日も介護をした、父性愛をによって快癒しています。

 長じて、幕府の長崎海軍伝習所に学んでいます。幕末、江戸幕府はアメリカに使節を送りましたが、海舟もその一員に選ばれ、教授方頭取として、1860年、万延元年に、咸臨丸に乗船して140日の外遊をしています。 

 何よりも、薩長の軍が江戸に迫った時に、江戸を焼き討ちにしようとの企てがありましが、海舟は、江戸を火から守り抜いて、江戸城無血開城を成し遂げた、立派な人でした。それだけの才覚を持った人物でした。

 明治維新後には、政府の要職に推挙されますが、気が進まなかったと言う理由で断っています。幕臣の維新後の仕事や生活の世話を長きにわたってしています。

 大田区の友人の家の近くに、洗足池があるのですが、その池のはたに、海舟の墓があって、友人に案内されて行ったことがありました。島田虎之助の道場で剣道の修行をし、免許皆伝の腕前でしたが、刀を用いるのではなく、知恵を用いて生きた人でした。爵位を得るにもさんざと言い分けをしていたり、私欲や名誉を求めない生き方の人でした。

 神さまは、確かに、人をお用いになられるお方です。人の側からみるなら、《時勢が人を作る》ようですが、さまざまな時代に、偶然人がいたのではなく、滅びたり、病んだり、困ったりすることを願わない、優しい神さまは、人の世の必要を見て、その時代時代に、人を備えなさるのでしょう。

(勝海舟の写真です)

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焼き芋と古新聞紙

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 北風が吹き抜ける路上で、一番の美味しい食べ物は、「焼き芋」だったでしょうか。きっと夏は、アイスキャンディーを売っていたおじさんが、冬場になると、リヤカーに、焼き芋道具一式を載せて、かまどで火を炊きながら、『イッシヤーキイモ!』と言いながら挽き売りしていた光景が浮かんできます。

 焼いたサツマ芋を包んでくれたのは、決まって、<古新聞紙>だったのです。華南の街で、ちょうど今頃の季節でした、『今日あたりは、线面xianmian(日本のソー麺に似ていました)を干す時季なんです!』と言ってくれた方がいました。『新聞紙の上がいいそうです!』と言われたのです。頂いた麺はありましたが、新聞購読をしていないわが家には、全くなかったのです。

 そういえば、読み終わった新聞紙、いろいろなものに用立てていたのを思い出したのです。トイレットペーパーのない時代の代表的な用紙でしたし、何かを包装するには、これが使われていました。畳を干した後に、畳の下に引いたり、タンスの引き出しに乾燥用に敷いたりしたでしょうか。兜を作ったこともありましたし、丸めて、チャンバラごっこもしたかな。

 情報を得るために果たした新聞紙が、読み終わった後に、そんな役割があったのを、今になって懐かしく思い出します。なんでも再利用していた時代、物の大切さの薄れた時代から思い返すと、随分堅実な時代だったわけです。アツアツの焼き芋の熱さを、薄い新聞紙一枚で包んで、手で持てた感触も懐かしいものです。

 母が漬けた大根漬けを、父が、美味しいので同僚に分けて上げたくて、それを新聞紙に包んで、中央線の電車に乗って、日本橋や浅草橋の会社に持って行っていたことがありました。車内は、糠(ぬか)の発酵臭で、ずいぶん臭かったのではないでしょうか。ビニールやプラスチックのない時代の懐かしい臭いです。そう言えば匂いのしない時代になっているかも知れません。

 古新聞を回収して、今でも再生紙を作っているのでしょうか。同じ牧師をされていた方が、時間のある時に、トラックで古新聞紙や段ボールの回収業のお仕事をしておられて、子どもたちを街の国立大学に行かせていました。恥じず衒(てら)わずに、それを続けられて、若くして亡くなられましたが、何時も背筋を真っ直ぐにして、凛とされた方でした。この方と、よく交流させていただいた、若い日が懐かしく思い出されます。ご子息は、同じ牧師となられておいでです。

 華南の街では、新聞の回収をする様子を見たことがありませんでしたが、私たちの教会に、新聞配達をしていた方がいました。その方が、風呂桶を見つけてくれて、買ったことがありました。でも、お湯を桶に入れるのに、壁掛けの電気の湯沸かし器では足りなく、けっきょくシャワーに戻ってしまい、宝の持ち腐れでした。

 ここ北関東でも、今年はまだ北風の寒風が吹いていないようです。それでも、焼き芋、ホクホクしたサツマイモやジャガイモを食べたくなってしまいました。そう言えば、濡れ新聞紙で包んで、落ち葉の焚き火の中で焼いた焼き芋が、一番美味しかったのです。自分で焼きたくても、ガスコンロでは難しそうです。

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注意を要する人がいる

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 「要注意人物」、中学生の頃、きっと学校ではそうだったのでしょう。それなのに処罰されずに、不問に付されたことが二、三度ありました。親は知っていたのに、そのことで叱られなかったのですが、それが、ちょっと不気味でした。昔の感化院(今では児童自立支援施設ですが)、そこにも行かないですみました。少年院だって、入院資格が十分だったのです。青年初期、思春時の危機を通っていたのです。

 中学校の3年間の担任が、三年の三学期の通知簿の欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれていました。教師の目に、そう見えたのでしょう。私立の中学でしたから、職員会議で、校名を汚したのですから、退学だってあり得たのに、附属の高校に上げてもらえました。何と、教員資格を取るための「教育実習」までさせてもらいました。その上に、古墳や貝塚の発掘の指導をしてくれ、一緒にシャベル作業をした社会科教師の紹介で、研究所に仕事を見付けてくださったのです。

 その研究所の所長の紹介で、都内の女子校の教師に採用されたのです。仕事を始めて間も無く、中学と高校が一緒だった級友が、〈みんなの代表〉だと言って、本当に教師をしているのかどうかを、菓子折りとお祝い金を持って、確かめに来たのです。職員室からやって来たのを見た彼が、目を真ん丸くして見ていました。

 牧師になった時、『そう、君もお母さんの道を行くんだね!』と中学校の担任が言ってくれました。母と同じ信仰を表明した私にだったのです。でも、もう同級生たちは、確かめには来ませんでした。中学を卒業する長男を連れて、また担任を訪ねたことがありました。長男を見た担任が開口一番、『君は大丈夫だね!』と言って、太鼓判を押していました。中学時代の私と比較したのでしょう。息子の手前、なんてことを言ってくれたんだと思いましたが、正直、そうでした。その息子が、後に牧師になったのです。

 自分が、その要注意人物だったので、世界では高い評価を受けた人の中に、〈要注意人物〉がいるのが分かるのです。変に鼻が効くのです。私は、シュバイツアーを評価しません。自分がへそ曲がりでもあるからでしょう。「密林の聖者」、「生命への畏敬」で有名になって、ノーベル平和賞まで受賞した人でした。この人は、代々のクリスチャンが信じてきている、イエスが「神の子」であることは信じていませんでした。「自由神学」の立場で、奇跡も復活も再臨も信じていなかったのです。医療についても倫理観についても問題があったと言われています。総じて、アフリカの人たちからは評判は芳しくなく、欧米諸国からの評価は高いのです。

 カルカッタの聖女だといわれ、同じ様にノーベル賞を受賞したマザー・テレサも、高評価の影にある、実像を知らされてしまい、説教の中で、この人を引き合いに出して評価したりは、私にはできないのです。この人は、『キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています。』と言っています。キリストは苦しまれたのだから、同じように弱者や病者は苦しまなければならない、と言うのです。病気による痛みへの緩和治療も、衛生的な洗濯されたシーツも施設も、より良い薬の投与もありませんでした。

 莫大な募金がありながらも、そのお金を、収容者や施設の奉仕者の必要に使うことをせずに、口座に蓄えていたのだそうです。一緒に働いた方が、その証言しているのです。宣伝用に作り出された campaign  で、聖女とされた人でした。やはり実態が分からずに、一人歩きしてしまった人でした。

 アメリカの祝日に、「キング牧師記念日(1月第3月曜日)」があります。公民権運動で、アフリカ系の人々の地位向上のために立ち上がり、アメリカの社会を揺り動かした、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアでした。その行動の途中に、暴徒に暗殺されて、その生涯を終えています。でも彼には、scandal が知られています。公民権運動の勇者であったのは事実ですが、彼の生活に中に、ある道徳上、倫理上の問題があったと聞きました。それで私は引いてしまったのです。

 多くの本が、日本のキリスト関係出版社から出されています。ハーバード大学の教授であった人で、そこを退職した後に、知的に弱さを持つ方たちの「ラルシュ共同体」の奉仕に転身されたヘンリ・ナウエンの愛読者が多くあるそうです。素晴らしい洞察力をお持ちで、弱者に対する優しい気持ちを持って接していました。とくに「霊性の神学」の分野に通じておいででした。しかし、人生の後半で、自分が同性愛者であることを、著書の中で告白していることです。聖書的に見て、同性愛は受け入れられませんから、どんな思考、主張が優れていても、敬遠すべきだと判断するのです。

 このみなさんとは、お会いしたことも、直接お話を聞いたこともありません。でもこの人たちの神学的な問題、倫理的な問題、金銭上の問題があったり、偽善や秘密など、陰の部分があるなら、その影響力を受けないことにしています。小学生の頃、シュバイツアーは立派だと思っていました。カルカッタの貧民窟で、社会に弱者に支えていたテレサは偉いと思っていました。黒人の地位向上に命をかけたキングは勇敢だと思いました。ナウエンが著した「放蕩息子の帰郷」を読んだ時の印象は良かったのです。でもこの人たちの実態を知った時に、彼らからの感化を遠ざけました。

 神の御心から逸れた行いは、人や社会が、どんなに高く評価を下し、褒賞を与えても、聖書が言っている「愛」と「義」と「聖」とからかけ離れているのなら、近づくことは危険です。かつては、曖昧さや、不徹底さ、後ろめたさの中に、私がいたからです。その人を動機づけていたものが何か、それを見極める必要があります。

(一片の雲もない快晴の青空です)

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残された物の意味

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 すぐ上の兄と弟と弟の孫と4人で、東日本大震災の茨城の被災地に出掛けたことがありました。弟の教え子が経営する大きな観光旅館のある、「五浦(いずら)」の近辺を訪ねたのです。その旅館も、津波被害を受けていました。美しい広々とした海岸線は、夏には海水浴で賑わうと言う部落でしたが、2011年の大震災から3〜4年経っていたその辺りは、あの猛威の爪痕を、まだ生々しく残していました。

 その海岸部を北に行きますと、福島県に接した所に、「いわき市(磐城)」があります。地震と津波の被害で、いわき市は500人ほどの犠牲者があったそうです。福島は脚光を浴びましたが、ここいわき市も津波の被害を、大きく被った地でした。その海岸部に「豊間」と言う地があります。

 そこに「豊間中学校」があり、ここも大きな被害にあっています。2011311日に、「卒業式」が行われましてから、3時過ぎに、あの大地震に襲われ、津波警報が発令されたのです。生徒や教職員は高台に避難したそうです。十五の春の門出の式典で、校歌などを演奏したピアノがも塩水と泥を被ってしまい、式の行われた体育館のステージの段に置かれてありました。

 その体育館を、自衛隊のみなさんが、4日間をかけてきれいに掃除をし、床はピカピカにされていました。気掛かりだったのは、生き延びたピアノです。そのピアノは、お孫さんが通う同校の体育館が新築された時に、蒲鉾店を経営する方が、お祝いに寄贈されたものでした。津波の被害は大きかったのですが、その中で残されたピアノは、寄贈者の思いや残されたものの価値が認められ、修復が決意されたのです。

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 自衛隊の山口隊長も、「復興のシンボル」にするという意気込みで、体育館の中央に置きました。瓦礫として処分されるところを、震災から2週間後に、いわき市でピアノ店を営み、調律師でもある遠藤洋氏が修理をかって出たのです。誰が見ても修理不能のピアノを、修復チーム6人の作業で、一万個ものparts が修理され、半年後ついにピアノの音はよみがえったのです。

 その翌年3月、豊間中学校の生徒が学ぶ仮校舎では、 新しく卒業生を送り出すために、卒業式が行われ、校歌と「未来へ」という曲がこのピアノの伴奏で弾かれたのです。うしなった物はおおかったのですが、残された物に思いを向けるのは、私たちの人生に似ていそうです。

 今、《ピアノを弾こう!》と言う campaign があちこちであるようです。わが栃木市の栃木駅(JR両毛線、東武日光線)のコンコースに、一台のピアノが置かれてあります。先ごろ閉校し、第一中と合併した市立藤岡第二中学校のグランドピアノなのでです。卒業生には懐かしい一台です。家内は、『この街に主への賛美を響かせたい!』と、楽譜を持って、時々駅まで歩いて行って弾いています。

(被災後の「豊間中学校」と「奇跡のピアノ」です)

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近所付き合いを

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 私は、「世捨て人」ではありません。25から、真剣に聖書を読み始めて、神さまは、この世に呑み込まれないで生きる様にと導かれ、自分でも目標を掲げました。

 それ以前は、押し寄せてくる誘惑を払い切れずに失敗者になってしまいました。そんな轍(わだち)からなかなか抜け出せずに、自己嫌悪の中にいたのです。上手く言い訳をしながら誘惑の中にいる生き方を、それでもやめたかったのです。それで、あるきっかけがあって、この自分の周りにある世界の日陰から、日向に跳び出せた様に感じたのです。

 妥協することなどしないで、「肉の欲、目の欲、暮らしむきの自慢(1ヨハネ21516節)」に誘惑されない秘訣を獲得できたのです。それは、第三位格の神でいらっしゃる、「助け主」という別名を持たれる「聖霊」に助けられたのに違いありません。それで浮き上がらない生き方ができる様にされたのです。それは驚くべき体験でした。

 世から、世の誘惑から抜け出られたのですが、世は捨てませんでした。そこには愛する人、よくしてくださる人、懐かしく感じる人が大勢いらっしゃるからです。一緒に酩酊することも、猥談や噂話の仲間にはなりませんが、彼らの近くにいることにしています。


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 引っ越して四年、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と連綿と続く、この地域の隣り組、自治会のみなさんがいて、今やこの自治会の「福寿会」の会員、仲間になっているのです。一緒に蕎麦を食べに行きますし、老人の日には祝金一封と赤飯をいただき、先月には山間(やまあい)の蕎麦店に行き新蕎麦を食べ、ラジオ体操会に参加し、この日曜日には、礼拝を守った後、午後には、「カラオケ交流会」に誘われて、「Amazing Grace」と「Holy Night」を家内と二人で賛美し、みなさんから喝采を受けました。

 孤立してしまわないように心掛けているのです。ミシン屋さんで電気も扱う、九十二歳になられる会長さんが、「愛燦燦(美空ひばり歌唱曲)」を、シミジミと若い頃を思い出すかの様に、マイク片手で俯きながら歌っていました。とても素敵な風景だったのです。お病気の奥様を支えながら、現役で車まで運転されて働いておいでだそうです。

 この方とお会いし交れるだけでも、何か意味のある時を共有できた感じがして満足しています。自分たちの生き方、信仰を明らかにしていると、みんさんに受け入れられているのかも知れません。婦人会の忘年会にも、家内は招かれて、出席するそうです。

(「室」と印字された提灯、近所に咲く花、夕焼けで富士も見えます)

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事故のないことを切に願って

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 華南の街で、『もうすぐだから!』と言うので、付いて行きますと、なんと小一時間もかかって、目的地の親戚の家に着いたのです。『ちょっと山歩きを!』と誘われて一緒に出かけたのはいいのですが、険しい谷をおり、谷を鉄製の階段で上がる、けっこうな難コースでした。時間感覚、距離感覚、さらには年齢感覚というのは、国や地域によって違う様です。六十を出たばかりで中国に行きましたら、『爷爷yeye/お爺さん』と言われて、あたりを見回しました。まあけっこうお爺さんでしたが。

 帰国して、75を過ぎると、後期高齢者だと市役所から連絡がありました。お陰様で、保険の自己負担は一割、市内のバスも一律100円、恩典を被って、東奔西走の日々です。

 やはり高齢者は、年寄りなのでしょうか。先日、福島市の97歳の方の運転で、死亡事故が起こってしまいました。地方で生活し始めて、一番の不便は、交通です。何処かに行くにも、バス離線は縮小されていますし、「ふれあいバス」も路線はけっこうありますが、本数が少なく、利用者は極少です。またタクシーは金額が高く、「蔵タク(相乗りタクシー)」がありますが、時間通りには来てくれないそうです。

 歩くには関節や腰が痛く、自転車に乗るとよろけてしまう方が多そうです。とかく世間は、年寄りには住みにくくなってしまった様です。それで、自分よりも年寄り度の高そうなご婦人が、おぼつかなく歩いて車に行き、ドアーを開いて、乗って運転を始めて去っていきます。

 足がないので、若い頃に取得した免許証を持ち続けておいでなのです。視力や判断力、認知機能の衰えには個人差がありますし、病気の程度もいろいろです。今の道交法は、運転免許更新時に、70歳以上は講習、75歳以上は認知機能検査を義務化しているのですが、3年ないしは4年ごとにしか確認できないのだそうです。

 通院、買い物、親戚付き合いなど、どうしても自分で運転していくのが便利なのです。かくいう私は、60過ぎて、華南の街に住み続けて、車を運転する機会がありませんでした。帰国時に、13年間で3回ほどしか運転していませんでした。それで、免許の更新をせずに、運転を止めました。一番の理由は、『加害者にならないため!』でした。

 そうしましたら、家内の通院が大変難儀でしたが、慣れると、電車だって、バスだって便利で、もう何でもなくなります。でも雨や嵐の時には、『あったらなあ!」と弱音を吐いてしまいます。日光例幣使街道を、散歩で歩いて感じるのですが、江戸時代には、京都からここを通過して日光までの往復を、二本足で歩くだけでしたから、それを思えば、自転車はあるし、たまには人に乗せてもらえます。

 タクシー代を払う方が、また知人にお願いする方が、取り返しにつかない大事故を起こしてしまって、後で悔やむよりはよいのです。潔く、免許証の返納をしてしまう方が良いのでしょう。加齢も、咄嗟の反応が遅くなったことも、感謝感謝で生きることですね。ハイ!

(日光例幣使街道を行く公家の一行です)

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麗しさはいつわり

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 見目かたちがよく、最近では肌や歯が綺麗なことが宣伝され、美しさの標準になっています。でも、みんな歳を重ねていくと、ちょっとやそっとではシミなんか取り除けなくなってしまい、歯だって入れ歯になったり、背も縮むし、みんなおばあさんとおじいさんになり、最終は骨だけにされます。

 大切なのは「心」です。お金をかけて得た加工された美貌は、元に戻ってしまいます。何十年も前に注入したシリコンが劣化して、美顔崩壊が起こり得ます。natural が一番、ちょっと歯が出てても愛嬌ですし、シミだって年輪のひとつですから仕方ないのです。背の高さだってキリンの横に立ったら誇れませんし、低かったら低地からの展望もまたいいものです。

 青年期に、驚き見入ったソフィアローレンとかエリザベス・テーラーとかオードリーヌ・ヘップバーンは、ミロのビーナスの彫刻のように美しかったのです。ところが、晩年になっての写真は、あの美しさは見る影もなく普通のおばあちゃんでした。男も同じです。

 ありのままが一番、歳なりの美や格好よさがあります。毛が薄くなってしまって、ちょっと、頂上付近が光り出してきても、いいおばあちゃん、いいおじいちゃんが、多勢います。かく言うオレだって、まだ捨てたものじゃあないのだと思っています。

 聖書は、『麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 (箴言3130節)』と言っています。

 まさに至言ではないでしょうか。イエスさまの弟子であったペテロが書き送った手紙にも、次のように記されています。『あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 1ペテロ334節)』、とです。

 「美しさ」、「強さ」、「優秀さ」を追い求めていくと、そうでない者が排除されてしまいます。でも、「弱い者」、「欠けた者」、「傷ついた者」に、愛や憐れみを向けておられる神さまは、誇らず、卑下せず、ありのままを感謝していくことを、私たちに願っておいでです。

 反神のナチスが、1936年に、〈レーベンスボルン(生命の泉)〉と言う政策を始めています。強く、美しい優秀なドイツ人から成る国家を形成するためでした。「アーリア人(ゲルマン人)」の人種的特徴(金髪・青い目・長身)を身に付けたナチス親衛隊員と、同じ特徴を持つ女性とを結びつけ、できるだけ多くの子どもを生ませ、それを将来のエリートとすることを目的として作られた、ナチス的な人種政策でした。

 ヒットラーの参謀のヒムラーの「超人種アーリア人」の妄想が原点です。ですから当時は、障害を持つ者、見劣りにする人を国には不要だとして抹殺されたのです。これによって生まれた子どもの多くは、1944年の段階で、推定40,000人ほどで、ほとんどが「私生児」だったそうです。あのナチスでも、このことを公然とは行わないで、秘密裏に行っていました。建国を目指した「第三帝国」に、優秀な人材を人為的に生み出そうとしたわけです。

 ナチスは、最も理想的なアーリア人として、ポーランド人に目をつけ、金髪碧眼のポーランド人の子を誘拐することもしたのです。でも、首謀者のヒットラーは自殺し、ナチスも、第三帝国も崩壊してしまいます。残された〈レーベンスボルンの子〉たちは、存在の意味をなくしてしまったわけです。私と同世代の彼らは、戦後をどう生きたのでしょうか。

 たくさんの悲劇がありました。社会に適応できない子どもたちが多かったのです。その一人、イングリッドについて次のように語られています。

 『「わたしはイングリット・フォン・エールハーフェンです。自分のことは、名前以外はまったく知りません」、自己紹介でこんな言葉を言わざるを得なかった彼女が味わった絶望の深淵は計り知れない。わたしならそのどん底でもだえ苦しんだ挙げ句に生きる活力を失ってしまうだろう。しかしイングリットは同じ境遇の仲間たちを得て、空疎な穴から見事這い上がった。それどころか最終的には、自分を無の存在にしてしまった(ナチス以外の)人々すら赦す。あまり愛していなかった幼い自分と弟のディトマールを危険を顧みずにソ連占領地域から連れ出してくれた養母ギーゼラのことを、イングリットは〝この上もなく勇敢な人〟と呼んだ。しかしそのギーゼラによって失われてしまった本当の自分を取り戻すべく、それこそ〝魂の命〟を落としかねない危険な旅路に敢えて出て生還し、ものの見事に本当の自分を見つけたイングリットも、ギーゼラ以上に勇敢で強い女性だ。』と告白しています。

(レーベンスボルンの少女たちです)

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