知恵

 

         人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。

         あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 学校を出て社会人になろうとしていた時に、今で言う「就活」の時期になるでしょうか、母校の恩師が、1つの職場を紹介してくれました。私は、6年間の在学中に、この教師から教わったことがなかったのです。中学生の時に、バスケットボール部に所属しながら、高等部の「考古学研究部」の活動に参加していました。この研究会の顧問をされていたのが、この教師だったのです。学校が、武蔵府中、武蔵国分寺があった地にありましたので、よく、分倍河原、仙川、日野などの住居跡などの発掘の手伝いをしていたのです。

 スコップを手にしながら、堀り進んでいくときに、千年も二千年も前の古代の人々の生活の様子に、時空を越えて触れられるといった「浪漫」にふるえていたのです。あのまま進んでいたら、古代史の研究者になっていたかも知れません。ところが、バスケットボール部の上級生も、高校生も、OBも、何も知らない純な中学生の私を、大人の世界に引きずり込んでしまったのです。「揉まれる」というのでしょうか、エログロの雑誌や写真を見せられ、選び取りをするまでもなく、汚れた社会の洗礼を受けてしまったわけです。帽子に細工をしたり、ズボンの太さを調整したり、生意気さを増長させてしまう道に、突進していったのです。これが大人になるということとは違うのでしょうけど、背伸びをして、『はやく大人になりたい!』と焦った気持ちを持て余していましたから、すんなりとその波をかぶってしまったわけです。よく「中2の危機」とか「17の危機」とか言うのですが、まさにその危機の只中を深く潜行していたのです。

 そんなことですから、浪漫を追い求めるよりも、がむしゃらに大人の世界に突入していくのです。喧嘩をして、体の大きな級友を殴り倒したり、パンを盗んだり、実験室に忍び込んだり、クラブの部室荒らしをしたり、教師に楯突いたり、そんな事で明け暮れていたのです。ところが中3になってから、急におとなしくなって、三学期の学年末の「通信簿」に、担任が、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたほどでした。どうして、あのまま、ズルズルっと落ちていかなかったのか、自分でも不思議でならないのです。そのまま高等部に上がって、入ってきた同級生の中には、すぐに数人が退学していきました。盗みの常習で、意気が合って仲よかったのですが、運動部に入っていましたので、彼らと一緒に行動できなかったのが幸いしたようです。というよりは、心のどこかで、『母親を困らせて、泣かせてはいけない!』といった思いが強くて、それが抑止力になっていたのだと思うのですが。

 教育実習を、母校でさせてもらった時に、この「考古学研究部」の顧問の教師が、私の世話をしてくれたのです。「就活」の最中、この先生から連絡があって、『学校の帰りに寄りませんか?』と誘ってくれて、行きますと、『今度こういった機関が出来ましたので、私の元同僚もいますから、働いてみませんか?』と紹介してくれたのです。恩師の紹介でしたので、即採用となって、そこで3年働きました。この恩師の元同僚が、私の所属課の課長でした。一緒に山歩きをしたりはしたのですが、「狡い男」だったのです(!?)。この人につまずいた時に、それなりに悩ましい表情をしていたのでしょう、母が、冒頭の「ことば」を、私に聞かせてくれたのです。『人の語る言葉に煩わされないでね!』と言ってくれたのです。もちろん、《人間不信》を母が教えてくれたのではなかったのですが。どうも『人の言葉を鵜呑みにしないで、言葉半分で聞いたら!』と、教えてくれたのだと思うのです。それ以来、人にはつまずかなくなりました。感謝なことです。

 その上司が後で、ある短期大学の学長になっていたのを知らされて、驚いたことがありました。きっと、私のようにつまずいた部下が、何人もいたのではないかと、ふと思ったことでした。それでも、私の苦悩の日に、ほんとうに的確な助言をしてくれた母の知恵には、いまだに驚かされたり、感謝だったりであります。

(写真は、長野県富士見町の井土尻遺跡からの出土品です)

バベル

  

 日暮里から乗り込んだ、成田に向かう京成スカイライナーの右側の座席に座った私の視野に、「東京スカイツリー」が入ってきました。高さが634mもありますから、ひときわ目立つ塔ですが、かなり遠くに見えていました。その高さが、「武蔵、ムサシ、634」から来ていると聞いて、地上デジタル放送用に建てられた塔でありながら、〈語呂合わせ〉で高さが決められるというのは、建造目的が科学的であるのに、ネーミングは実に愉快なことだと感心してしまいました。私の上の兄が初めて手にした自動車の番号が、「2343」でした。義理の姉の名が、「文代、フミヨ、234」で、それに「さん、3」をつけた番号だったのです。当時、車のナンバーを選ぶことなどできませんでしたから、天からの授かりものだったことは言うまでもありません。この塔を眺めながら、『次に帰国したら、3000円を払って、展望台に登ってみよう!』と決心をしたのです。

 実は建設中に、JRの「成田エクスプレス」に乗って成田から東京に向かっていた時に眺めたことがあったのですが、車窓から初めて見えた塔は、圧倒されるほどの高さで、電車が地下に潜るまで見え続けていたのには驚かされてしまいました。《高さ競争》というのが、建設業界にはあるのです。ギネス認定を目的に、必要なのかどうかわかりませんが、高さを競い合うことに、「遊び心(!?)」を感じてしまうのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 幼稚園児だった長男を連れて、東京に出てきた私は、芝公園の近くある「東京タワー」見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。『もうすこし奮発すべきだった!』と後悔してしまいまい、『貧乏くさく生きるのを、もうやめにしよう! ]』と、後になって決心したほどでした。それでも息子は、そこで買ってあげた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この「東京タワー」に近かったのです。当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上に走っていたと思います)」に乗るとすぐのところにあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。

 高さだけではなく、その偉容に驚かされていたのが、ニューヨークのマンハッタンにあった「世界貿易センター(WTC)」でした。2001年、「9・11」のテロ攻撃によって、崩壊していく様子を、娘が国際電話をかけてくれたからだったと思いますが、テレビのチャンネルを回して、目の当たりにいたしました。『お父さん、バベルの塔だね!』と、一緒に見ていた次男が言ったのを、今、思い出しています。歴史的故事に出てくる「塔」のことです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 言って、瀝青とレンガを用いて、シヌアルの平地に建てられたものです。この塔が「バベル」と呼ばれたのですが、その意味は英語で、「バビロン(バビロニヤ帝国の首都の名)」です。この塔は実在していたと言われ、チグリス川とユーフラテス川の河畔にあって、高さが90m、7階建の建造物だったそうです。「頂が天に届く塔」というのですから、人間の驕りと、造物主への挑戦、挑発を意味して建てられたものであったのです。

 そういった意味で、「世界貿易センタービル」というのは、世界中の国々の有名企業が、このビルの部屋を借りて、経済経営活動を展開していましたから、「20世紀の人類の誇り」を象徴するような「塔」、20世紀の「バベルの塔」であったのは、息子の言うとおりだったかも知れません。「バベルの塔」は完成をみることなく、計画は頓挫してしまったと記録されています。多くの犠牲者のみなさんには申し訳ないのですが、WTCの偉容に見え隠れしていた「人類の驕慢さ」が、テロという蛮行によって打ち砕かれたような気がしたのは、私や息子だけではなかったと思うのです。というよりも、人の営みというのは、蛮行にしろ、自然災害にしろ、一瞬のうちに潰え去ってしまうのだということを、私たちに知らせてくれているのかも知れません。だから、「大きなもの」や「高いもの」を誇るのではなく、人は謙虚に生きるべきなのかも知れません。日本の先人たちがいみじくも残してくれた教訓に、今は聞くべき時に違いありません。

 

(写真は、http://ameblo.jp/kiyurino-jp/image-11240997715-11952455899.htmlの「東京スカイツリーの夜景」です) 

怒り

 ものすごい雷光、轟、雷雨が、このところ毎日なのです。まるで、天が怒っているように感じてしまうほどです。私たちが長く生活しました街も、雷が多かったのですが、大陸のこちらとは、比べ様がありません。閃光の長さも、轟の音量の大きさ、雨の量も半端ではないからです。5月の「労働節」の連休の時期ですが、以前は、一日一回ほどの雷の回数だったのです。ところが今年は、繰り返し繰り返し、日に何度も雷が発生しているのです。やはり、異常気象に違いありません。毎年この時期に、雷はあるのですが、このような情況は異常なのだそうです。

 私が、一人の友人と初めて韓国のソウルを訪ねたのは、長女が生まれた年でしたから、1974年の夏になります。朴大統領が狙撃され、夫人が打たれて亡くなるという事件が、ソウルに滞在中に起こりました。『犯人は、日本人だ!』とのニュースが駆け巡りましたので、私たちは外出を控えたのですが、間もなく、日本人ではなく、在日の北朝鮮系の男であることが判明しました。当時、ソウルの街は夜の11時を過ぎますと、灯火管制が行われ、一般市民の外出が禁止されていました。そういった緊張感を感じたのは初めてのことでした。日本が敗戦した後に、朝鮮半島が38度線で南北に分断されていました。ところが1950年6月に、北朝鮮が韓国に向けて砲弾を発射したことから、いわゆる「朝鮮戦争(朝鮮動乱とも言います)」が勃発してしまいます。北朝鮮の主張は、「民族解放戦争」だとしていますが、ソウルが陥落してしまったほどでした。韓国はアメリカの占領下に、北朝鮮はソ連の占領下にありましたから、同じ民族が、内線を繰り広げたというのは、悲劇であったのです。

 実は、日本も敗戦後、4つに分割されて、占領される動きがありました。結局、戦勝国となった国々が協議して、アメリカ一国の占領が行われることになりました。もし4つの国に、それぞれが占領されていたならば、朝鮮半島と同じように、内戦が行われる可能性は実に高かったのではないでしょうか。東アジアの国々が民主化し、近代化されていくためのモデルと、日本がなれたのは、不幸中の幸いだったのではないでしょうか。

 この南北両国が、熾烈な戦争を繰り広げる中、ソ連のスターリンから、中国に参戦が求まられ、北朝鮮に援軍を送ります。韓国は、アメリカ軍と国連軍と共に、これに応戦するという形で、戦争が繰り広げられてしまうのです。私の若い知人のおじいさんもおばあさんも、この戦争に参戦した中国軍の将校だったと聞いています。この戦いの休戦協定を交わされたのが、1953年7月でした。それ以来、休戦状態のまま今日に至っているのです。

 なぜ朝鮮戦争のことを取り上げたかといいますと、この半島が南北に分断されて以来、韓国は、驚くほどの経済的な国家として躍進してきておりますが、北朝鮮は全く違うのです。軍事優先が、国を疲弊させていること、異常気象の影響を受けて、農業生産が危機的な状況にあって、飢餓死する人の数は夥しいものがあり続けてます。寒さに強い農作物の開発研究などが行われていないことも大きな問題ではないでしょうか。国民が満足に食べられなくて、何が国家でしょうか、国の指導者でしょうか。食の必要を満たすことなく、宇宙開発などをするのは、15年も早いのです。『何かが間違っている!』、このことがこの国の問題です。

 ところで、最近の日本も、『何かが間違っている!』、のではないでしょうか。天然の祝福が、じょじょに陰りを見せているのです。天災に見舞われ、大手の製造業の不振、青少年の夢や理想の欠如、国民全体が悲観的になってきています。何よりも、『大きな地震が起こるのではないか!』という不安、福島の原発事故による、放射能漏れの生活への甚大な影響、北朝鮮からの攻撃の可能性などがあって、国が怯えてしまい、まったく勢いがないのです。人の第一の必要を満たすことから目を逸らして、本末転倒になってしまうと、自然のサイクルが異常をきたし、祝福のベールが追い払われてしまうのではないかと思うのです。それを北朝鮮に見、更に今の日本に見てしまうのです。もしかしたら、天が怒っているのかも知れません

 この素晴らしい国土を頂いた私たち日本人が、感謝を忘れず、驕りを捨てて、互いを敬いながら、隣国と和して、この困難、国難を乗り越えていけるよう、一人一人が反省し、互いに励まし合いたいものです。何よりもこの平和は、何にも代えがたいものがありますから、失いたくないのは私だけではないと思うのです。

(写真は、〈NHK「宇宙の渚〉より「スプライト(雷の上部の閃光)「」です)

いのち

 

 毎年のように1万人以上の交通事故死がありましたが、1993年以降、死亡事故が激減して、法改正が行われ、厳しい罰則規定の効果が上がってきているようです。ところが最近、登校途中の学童の中に車が突込んだり、信号無視をして横断歩道の歩行者を跳ねるといった事故が、ニュースに取り上げられております。そういった事故は、何か異常なのではないでしょうか。日本の社会全体に、何か、いのちを預かる運送業務、それ以上に、一瞬にして運転操作を誤ると人名損傷を起こす運転への緊張感が薄らいできているのではないでしょうか。

 中国で6年を過ごして、自動車運転のマナーなども、日本との違いに驚かされてきましたが、それなりに注意深く運転をされていて、暗黙のうちのルールがあるのが分ってきています。車を前進させたり、後進させるとき、決して急発進をしません。対向車や歩行者に注意を払いながら、巧みなハンドルやブレーキ操作をしていますので、事故が多そうですが、思ったより少ないのです。それが上手なのかどうかは判断しかねますが、車も自転車も電気自転車も歩行者も、相手の行動を予測しながら、道路上で行動しているのです。日本だったら、『事故かな?』と思う瞬間、スルリと通り抜けているので、ホッとすることがしばしばです。

 何年も前に、台北に仕事で行きました時に、私たちを乗せてくれたタクシーの運転手は、客が日本人とわかるやいなや、「演歌」をガンガンとかけてくれました。そして、その運転ぶりは、サーカスのような曲芸の如きでした。それに耐えられなくなった同乗の台湾の方が、『お金を出すから、ゆっくり走ってくれますか!』と交渉していたのです。シンガポールは、そういった心配はないと思うのですが、娘に言わせると、『ひどい!』そうです。東京に帰って、タクシーに乗りますと、自動でドアーが開閉し、丁寧な接客の言葉がかかってきますし、運転は、雲の上に乗ってるように穏やかで、驚かされてしまいます。「雲助」と言われていた昔が、嘘のように感じさせられるのです。

 その悲しい事故が報じられて、やりきれない気持ちがいたします。自動車や電車の性能上の問題ではなく、それを繰る運転者に、やはり問題があるのではないでしょうか。性能の良い車に乗るという安心感が、油断につながるのではないでしょうか。「ハインリッヒの法則」に、『大事故の前に29の小事故があり、そして300の予兆がある!』とあります。運転していて、『ヒヤッ!』とした瞬間が誰にでもあるのではないでしょうか。私は、何度もあるので、肝に銘じるようにしています。

 先日の関越道の大事故は、運転手が居眠りをしていたこと、所定のルートでないルートを通行していたことなどが、原因として挙げられています。居眠りは、健康管理、生活管理に問題がありそうですが、運行指示書を守らなかったことには、やはり大きな問題がありそうです。自分の判断だけで、事を決めてしまい、会社の意向や指示に従わないという問題です。今では携帯電話がありますから、運転困難な事情や、迷ったりした時に本社に連絡をとることが出来たはずです。そういった連絡を受け取る、不眠の管理体制がとられていないのでしょうか。そういったものができないなら、いのちの運送を預かる運送業者としては失格ではないでしょうか。お金を儲けるだけではなく、いのちの尊重を忘れたら、こういったことが起こってしまうわけです。

 先月、次女がアメリカから、母の葬儀で帰ってきたのですが、二度着陸を試みたのですが、大嵐で、成田に着陸できませんでした。結局、関空に回されました。次男が、飛行機の航路追跡を、コンピューターでしていましので、その二回のトライも、関空に回されたことも、航路でわかっていました。ところが、航空会社の日本事務所、提携の航空会社の対応は、業務時間以外のようで連絡が取れませんでした。結局、何度もなんども電話を入れて、ついにシンガポールの本社に連絡して分かったのです。長男は、成田まで出迎えていたのですが、どうなっているのかの報告義務が、空港のロービーで果たされなくて、実に不安だったようです。

 「危機管理体制」が、国のレベルでも、民間のレベルでも、不十分なのはいけません。今日のように、科学万能の時代になっていても、感情や意思を持つ人が関わるのですから、細心の管理体制、チェック体制が、どうしても必要なのではないでしょうか。ミサイルが飛んでいるのに、外国の政府は報告しているのに、日本政府は躊躇していたのは最重大のミスです。人のいのちを預かるみなさんの猛省を促します。

(写真は、「ゆん無料壁紙集」所収の「わかば」です)

 山と山がせめぎ合っていて、その幅20メートルほどしかなかったでしょうか、その道の脇に、この地で有名な神社の参拝客用の旅館が、今でもあります。そのひなびた旅館に、二階建ての離れがあったのですが、そこが私と弟が生まれた家でした。だれも住まなくなって、廃屋のようになっていたのが、潰れてしまったのでしょう、今は跡形もありません。その旅館の離れに家族を住まわせて、そこから山道をずっと上がったところに、父が働いていた軍需工場がありました。200人ほどの従業員がいて、飛行機の防弾ガラスを製造する原材料の1つである、「石英」を採掘し、それをケーブルで沢違いの基地に運び、トラックで駅まで運び、駅から貨物列車で京浜地帯にあった工場に出荷していたのです。終戦の前の年に、山形から、私を宿した身重な母は、この山奥まで、軍命に従った父と、二人の兄を連れてやって来たのです。そこで私を生んでくれたのですが、真冬の12月でした。弟を生んでから、沢違いのケーブルの到着点にある社宅に引っ越しをしました。そのケーブルには、山で撃ち取った〈熊〉が運ばれてきて、真っ黒な塊が、ケーブルの脇に、時々置かれていたのを思い出します。鹿もあったでしょうか。記憶にはありませんが、それを、何度も食べたのでしょうね。

 戦争が終わって、軍需工場は閉鎖されてしまいました。戦時中、米軍は、こんな山奥に軍需工場があるとの情報を得ていなかったのか、爆撃対象から外れていたのは幸いでした。ですから、このケーブルは、木材の運搬のために使われていました。父は、県有林を払い下げてもらって、全く畑違いの「材木業」をしばらくしていたのです。そのケーブルに私は、どうしても乗りたかったのですが、父は決して許してくれませんでした。上の兄たちは乗せてもらった経験談を、誇らしげに話していたことがありますが。

 その山奥に、母の故郷から、親戚ではなかったのですが、弟のように世話をしてきた、予科練(海軍予科練習生)帰りの方がいました。立派な体格をしていていたのを思い出します。父も母も、『繁ちゃん』と呼んでいましたので、私たちも、そう呼んでいました。この方が、私をおぶって、山道を泣きながら連れてきたことがあったそうです。これも記憶がないのですが、屈強な男が泣いてしまう程の長い道のりを、おぶってくれたのです。この話を、父がよく聞かせてくれたので覚えています。いつでしたか、出張で山陰に参りました時に、この繁ちゃんの家を訪ねたことがありました。『こんな話を父から、よく聞かされました!』『ごめんなさい!』と言いましたら、彼は、ただニコニコ笑っていただけでした。日本におりました時に、夏には「二十世紀梨」、暮には「出雲そば」と「野焼(アゴという飛魚で作った蒲鉾)」が、毎年、この繁ちゃんから母と上の兄の家と弟、そして私とに、それぞれ送ってくれたのです。

 そんな関係で、わが家には、石英に結晶した「水晶」が、床の間に飾られていました。相当に重かったのを覚えています。それが、いつの間にか、なくなってしまっていましたが、気前の良い父は、大事にしていたのに、きっと、どなたかに上げてしまったのではないでしょうか。もしかしたら、戦争の記憶を捨ててしまいたくて、父が処分してしまったのかも知れません。そういえば、父も母も、何も残さなかったのです。後生大事にしていた宝物とか趣向の蒐集品というものは、まったくないのです。ただ本は好きだったので、それが残っていることでしょう。そんな母の書庫の中から、昨年帰国しました折に、一冊の本を、こちらに持ってきております。母が上の兄の家にいましたので、断りなく持ってきてしまったのですが、母は許してくれたことでしょう。この本の第三表紙に、『2008年TK』と記されてあります。91歳の母が、立川の書店で買ったのです。そんな年齢までも読書欲があったのには驚かされてしまいます。そういえば、買い物の好きな母でした。『みんなが学校に行ってる間に、わたしは新宿に買い物に行ってきたわ!』と、なんども言っていたのです。明日は5月1日、稲妻と大轟と雷雨の午後であります。

(写真は、「岩村清司のブログ」に掲載されていた〈我が故郷の山から望む富士〉です)

マグマ

 

 子育の頃に住んでいたのが、N中学校の裏門から50mほどのところでした。市の中心街から川を渡った、住宅街の中にあった学校だったのです。団塊世代の頃に建てられた、長い伝統のある中学ではなく、そんな彼らのジュニアが通学し始める頃だったと思います。わが家の近くでしたから、上の3人が卒業した母校でもあったのです。今日日の中学校や中学生は、どんな状況なのでしょうか。二番目の子が高校に入った頃には、ほかの地域に越しましたので、校庭の野球部の練習の声も聞きくことがなくなりましたし、学校の様子もわからなくなってしまいましたが。

 上の子が中学に入る前でしたから、80年代のはじめ頃、さらにはそれ以前には、あの中学校が荒れていた時期がありました。全国的に「校内暴力」が、社会を賑わせていた時代でした。いじめが頻発し、教師に暴力を振るったり、校舎や体育館のガラスを粉微塵に割ったりしていました。あるときは、校庭に、オートバイで乗り入れて暴走していたりしていました。そんな頃に、「タイマン」と言って、一対一の喧嘩をしているところに通りかかったことがあります。それで、私はオッチョコチョイなものですから、二人の間に入って、『もういいだろう!』といって仲裁をしたのです。一人は近くの団地に住んでいる、不良中学生のKでした(名前を聞き覚えがあったからです)。彼の相手をしていたのは、クラスか生徒会の委員をしていた男の子で、正義感に燃えて、「タイマン」を申し込んだようです。

 喧嘩慣れしているKに、彼は全くかないませんでした。殴られて防戦一方だったのです。学校の正門を出て、学校からは死角になっていた路地の奥で始めていました。本来なら、教師が間に入って指導すべきなのです。当時、この中学も、やはり校内暴力を抱え込んでいて、指導どころではなかったようです。教師たちが4、5人、遠巻きにこの喧嘩の様子を見ているだけで、手をこまねいていました。こういった場面というのは、喧嘩慣れした過去のある者にとっては、お手のものだったのです。戦意を喪失していた彼に、まだ殴りかかっていましたから、誰かの仲裁の頃合いだったのです。そこに私が入り込んで、『俺のこと知ってるか?』とKに聞くと、『そこの事務所のおっちゃんずら!』と、殴る手を引込めて答えました。一件落着でした。

 その数日後、お母さんとその委員が訪ねてきました。お母さんから感謝をされ、手土産まで頂いてしまいました。彼は、きっと嬉しかったのでしょうか、お母さんに事の次第を話して、二人でやってきたのです。私は、彼の勇気、男気を褒めてあげたのです。当時、事務所に入り込んできた、この中学や余所の学校の中学生たちに、焼きそばを作って食べさせたりしていたのです。Kは来たことはなかったのですが、彼の仲間は来ていたと思います。

 もう、あれから30年近くなります。どうしているのでしょうか。Kも委員も、もう43、4歳くらいになっていることでしょう。大学生の息子や娘のいる年齢になっているのではないでしょうか。あっ、「事務所」と言っても、あの道のものではなく、私の小さな会社でしたので念のため。

 あんなに荒れていた子供たちでしたが、一過性の嵐のように静まって、過去のことになりました。「時代の子」と言えるのでしょうか。駅で切符を盗んで、駅と学校に呼び出されたこと、暴力団からピストルを手に入れることが発覚して呼ばれたことなどがありました。いつも母が行ったのです。中学生の時でした。学校は穏便にすませてくれ、母は私を叱りませんでした。あの時、処分をされていたら、その後はどうなっていたかな、と考えることがあります。思春期のマグマのような胎動が、どなたにもあるのです。ある人は穏やかに、ある人は激しく動くのでしょう。きっと、担任や教頭から厳しいことを言われた母でしたが。その母が召されてひと月になりました。いろいろなことが思い出される、「労働節」の連休の初めの日の夕暮れ時です。

(写真は、鹿児島県・桜島の噴火の様子です)

お洒落れ

 

 アメリカ映画を見てて、『Gパンをはいて、街中を肩で風をきって、格好よく歩いてみたい!』と願っていた中学生の私は、ときどき「アメ横」に、そのGパンを買いに行きました。初めは、「アメ」は「飴」だと思っていたのですが、「アメリカ」だったということを知って、吹き出してしまいました。御徒町と上野の駅の間のガード下から膨らんで、迷路のような中に、商店が軒を連ねていました。テント張りで、どうも闇市だったようです。『東京って綺麗な街ですね!』と外国人が評価する今とは違って、薄汚い街が東京のほとんどだったのではないでしょうか。とくに、この御徒町周辺は汚い街だったのです。40~50年も経つと、そんな評価に変わるのですから、東京の街の躍進はすごいことなのではないでしょうか。

 昨晩、娘からスカイプがありました。『仕事でインドのニューデリーに行ってきたの!』とレポートしてくれました。どうもニューデリーも交通渋滞があるようで、その原因を話してくれました。人も車も多いのは、相当なものかも知れませんが、渋滞の原因は「牛」だったようです。神のように大切にされているのですから、追い払ったりできないのでしょうね。牛の思うままにソロソロと歩むのを人も車も待つのでしょうか。牛が闊歩するまちなかですから、どんなに汚れていることでしょうか。娘も、『本当に汚い街。でも何だか味のある街だった。アジアという感じが全くしないくので驚いた!』と、初めてのインド訪問記を語ってくれました。

 私がアメ横に行った時に、『ヒロタ!』と呼びかける声を聞いたのです。それは2級上の上級生で、店の手伝いをしていたようでした。こんな上野の御徒町で出会うなん思ってもみませんでした。顔は知っていたのですけど、名前も知らない先輩でしたが、私の名前は知っていたのには驚きました。都下にあった学校ですから、相当な距離があるのに、『東京って結構狭いだなぁ!』と思わされたのです。ちょっと挨拶して、近くの店で、中古のGパンを買って帰ったのです。この先輩のお父さんは、多分やばい仕事をしていたのではないでしょうか。店の中に雑然といろんな物が並べられていたのです。私立の中学に息子をやらせるのですから、結構豊かだったのでしょうか。それ以来会ったことはないのですが。

 もう15年以上も前になりますが、御徒町の近くの秋葉原に、何かの部品を買い物に行ったことはありますが、もう何十年も行ったことがありません。今回、こちらに戻るときに、日暮里から京成スカイライナーの特急に、成田空港まで乗ったのですが、恵比寿から山手線で、この「御徒町」を通過したのです。どんなに変わってしまったかは検討がつきません。今度帰国したら、ちょっと足を伸ばしてみたいなと思わされています。昔は、アメリカ軍の物資の横流れ品が、多く売られていましたが、今では輸入品がどこでも買える時代になりましたから、そんなに珍しいものではないのかも知れません。チョコレートなんかも買ったのを覚えています。

 来週は、「労働節」の、いわゆる中国版の「ゴールデン・ウイーク」になるのですが、寒い冬が終わって、街路樹に花がつきはじめています。今は、花水木が見頃です。最近、街中の風情で、『わぁー、変わってきたんだ!』と思うことがいくつかあります。そのひとつは、スカートを履いて、お化粧をしている女性が増えてきたことです。ファッションの輸入でしょうか、東京の街と遜色のない、お洒落れが流行ってきているのです。20年ほど前に初めて来ました時との時代の隔たりを感じさせられます。クラスにやってくる女子大生も、オシャレをしてこられます。中学生の男の子の私だって、そうしたかったのですか、うら若き女性ですから、当然なのでしょうね。服装もですが、《内面の飾り》も忘れてほしくないなと思う、連休前であります。

(写真は、http://www33.tok2.com/home/m35rx4/okachimachi.htmの「アメ横」です)

初恋と褌

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき  
      前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき 
  前にさしたる花櫛の  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

 これは「若菜集」にある、島崎藤村(1872~1943)の「初恋」です。浪漫派の七五調で、日本語の美しさをいやが上にも表現した秀作です。次女夫婦が、「ジェット」というプログラムで、長野県の高校で英語教師をしていました時に、彼女たちを幾度となく訪ねました。ある時、「馬籠」に案内してくれたのです。そこは旧中山道の宿場町で、昔のたたずまいのままに、その街並みが残されていました。山あいの自然の美しい村で、旅人の疲れをいやし慰めたであろう景観を、今なお残して連なっておりました。道には石畳が敷かれていて、この石を踏んで旅人は北に南に、ここを通り過ぎ、茶店で団子と渋茶を楽しんだのでしょうか。私たちも、「おやき」を買ってお茶を飲みながら過ごしたのですが、江戸時代にタイムスリップしてしまったような気分を味あうことが出できました。

 藤村は、この村の出身で、生まれた家は代々、庄屋/問屋をつとめた、この地方の名家の出でした。9歳で東京に出て、小学校を終え、明治学院に学びます。卒業後二十歳で、明治女学校の教師になっています。私も東京の女子高で教員をさせていただいたのですが、私は25歳の時でしたから、女子高生の取り扱いは、まあまあ心得ていたつもりでした。二十歳の藤村を思いますと、『大変だったろうなあ!』と思ってしまうのです。どんな男性でも、女子校にいると、〈もてる〉といった錯覚に陥ってしまうのだそうです。男性を見る目がオトナになっていませんし、稀少の男性が関心の的となるのですから、致し方がないのかも知れません。私は、その学校から招聘された時に、一大決心をしたのです。『同僚と教え子に恋をしない!』『同僚と教え子と結婚しない!』とです。時々、教え子や同僚と結婚した教師がいますが、そういった人と同じになりたくなかったのです。『ほら◯◯先生の可愛い子、あの子なんて言いましたっけ?』という教師たちの会話を聞いて、呆れ返ってしまった私は、脱出を考え始めていました。

藤村は、教え子に恋をしてしまい、学校を退職します。しばらくして復職するのですが、友人の北村透谷が自殺をしたことを苦にし、女学校の教師やめてしまうのです。人を好きになるのは自然のことですから悪いことではありません。でも、まだ何もわからない教え子を好きになってしまうのは一種の〈犯罪行為〉です。なぜかというと、狡賢いし卑怯だからです。藤村は自責の念をいだいて退職したのですが、彼が私の同窓の先輩であることを恥じるのです。上手な文章を書くことにかけては名文家の誉がありますが。

 素晴らしい「初恋」を詠んだわりには、女性問題が山積していたようです。愛媛に、私が師と仰いだ人がおいででした。一度訪ねたことがありました。この方が、『藤村は、自分の不品行を題材に書を書いた小説家で、私は彼を最も軽蔑する!』と言っていました。文学者は、作品の題材のために、あえてそういった傾向があるのでしょうか。もともとだらしないのでしょうか。『遊びも文学のため!』と思って、そういったことが許されると思って言い訳しているのでしょうか。そんなことで、物書きにはなりたいと思ったことが、一度もありません。男は褌(ふんどし)をきりりとしめねばならない、私はそう思っております。

 同級生が、この詩を好きで、彼から教わったのですが。もう随分会っていません。好い人生を生きて来ているのでしょうか。桜が散ってしまって、四月も一週を残すのみとなりました。秋でもないのに、人を思い出してしまいました。

(写真は、ウイキペディア掲載の「馬籠宿」です)

最後のひとつ

 この1月に、日本に帰国している時、出張で東京に来ていた娘が、「梅干し」を2パック買ってくれました。近くの行きつけのスーパーででした。『必ずもって帰ってね。そして大事に食べて!』と言い残して、シンガポールに帰って行ったのです。冷蔵庫にしまっておいたのを、2月に、こちらに戻るときに、しっかりともって帰って来ました。こちらの食習慣に、もう慣れきってしまいましたが、疲れた夕べ、食事の後には、ちょっと甘いものに「緑茶」は、ときどく飲みたくなってしまいます。何ヶ月分も買ってこれませんし、買い出しに帰国するわけでもないので、すぐ底をついてしまいます。無くなってしまうと、至極飲みたいもので、決まって私が、『だれか送ってくれないかなあ!』と言うのですが、どうも声は届かないようです。とくに、煎茶が飲みたくなるわけです。結婚した当時は、若かったからでしょうか、お茶は、客用には買い置きがありましたが、家内とお茶を入れて、ゆくり飲むことなど、まったくありませんでした。「氷水」が定番だったでしょうか。

 今晩、独り世帯の私は、お昼にラーメンを作った時に、野菜炒め(キャベツ、きのこ、玉葱、長ネギ、にんにく、ベーコン)を作ったのですが、それを半分残しておきました。それに、ケチャップを入れて味付けをしてスープにしたのと、菜の花のおひたし(昨晩の残り物)でした。それに梅干しも添えてすませたのです。デザートは、おととい訪ねてきた方が、おみやげで持ってきてくれた「枇杷」を食べて、今日の夕食を終えました。最近、一人で食事をする機会が多くなっているので、やはり食べるって大変なことだと思うことしきりです。外で食べるのは簡単ですが、「化学調味料」の味が強くて、たまにはいいのですが、続けて食べる気にはなりません。さりとて、自分で作るのは、やはり面倒なものですから、一回の調理で、二食、三食分を作って、小出しで食べる知恵がついてしまいました。一番いいのは、「カレー」ですが、帰国する前に作って冷凍にしたのが、残っていたので、戻ってから早速食べてしまいました。そろそろ作ってもいい時期になったようです。

 さて「梅干し」ですが、今晩、最後のひとつを食べ終わってしまいました。ケースを未練がましく覗いてみると、「豊熟梅」と書いてあります。和歌山県田辺市の会社の製造で、賞味期限が〈12.6.10.B〉と記入されてあります。よく見ましたら、〈原料原産地名;中国(梅)〉とあるではないですか。ということは、ここ中国から輸出されて、和歌山で加工し、代官山のスーパーの店頭に並べ、それを娘が買ってくれ、冷蔵庫から出したのを、20キロの荷物制限の中にパッキングして、飛行機で持ち帰った代物(しろもの)なのです。延々と長旅をして、故郷に戻ってきたわけです。その最後でした。国産梅の産地のものが高すぎるのでしょうか、安い輸入品が、ほとんどになってきているのでしょうか。和歌山物と思わせるほどに遜色がなく、中日合作を美味しくいただきました。

 これから、家内に電話を入れるつもりです。もって帰ってくる物のリストに、「煎茶」と「梅干し」を付け加えるように言うつもりです。我が家でも、ときどき持たれる、「奥さま会(こちらに嫁いだ方と日系企業人のご夫人)」でも、やはり日本食の話題が多いそうで、実家から送ってきてもらうのでしょうか、貴重な日本の味に浴することができるので、大歓迎しています。健康だから、食べたくなるので、食欲というのは軽蔑してはいけないのだと思い改ております。そういえば近くのスーパーに、「らっきょう漬」が売っているのです。味付けは、全く日本と同じで、ちょっと高めですが、一昨日買い物に行った時に買ってしまいました。お昼に5こほど食べたので、夕食はやめておきました。明日の楽しみにしようと思います。「食」は大切なので、今日は食べ物のお話でした。

(写真は、〈ゆんフリー写真素材集〉の「梅の実」です)

命をかけたもの

 


      あきらめましょうと 别れてみたが
      何で忘りょう 忘らりょか
      命をかけた 恋じゃもの
      燃えて身をやく 恋ごころ

      喜び去りて 残るは泪
      何で生きよう 生きらりょか
      身も世もすてた 恋じゃもの
      花にそむいて 男泣

 この歌は、「無情の夢(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一 、歌・児玉好雄)」で、昭和11年(1936年)に、一世を風靡した流行歌でした。この年は、二二六事件、広田弘毅内閣、国会での佐藤隆夫の粛軍演説、ベルリン・オリンピックなどが行われた年で、不穏な社会情勢の只中に、日本も世界もおかれていたようです。私の母は、まさに19歳、青春まっただ中にいたことになります。多感な乙女は、この年に大ヒットした「無情の夢」を、胸をときめかして聴き、歌ったのではないでしょうか。歌詞を見ただけでも、忘れられない人、いのちをかけた恋、燃えて身をやく恋、身も世も捨てた恋、男が泣くような思いで恋心を歌ったのですから、実に激しい恋の歌なのです。

 高校1年だったと思いますが、15の私は、『お母さんの若い時に流行った歌に、どんな歌があるの?』 、『歌ってみて!』とお願いしたのです。私の通った中学校の女子部に、同じ駅から乗車して、国分寺で下車し、バスや徒歩で通っているうちに、2年上の先輩が気になって仕方なくなりました。胸がときめくというのでしょうか、キューンとしてしまうほどに憧れてしまったのです。目元の涼しい大人の感じだったでしょうか、余所の高校生のナンパの対象だったし、まだ子供の私には、どう見ても高嶺の花でした。声をかけたことありませんから、ただじっと遠くから見つめるだけの片思いだったわけです。これが、青いレモンの味がする我が、人を恋そめし初めであります。

 

 母は、ほとんど躊躇することなく、『そうね・・・』と言って、この歌を歌ってくれたのです。私も思春期真っ盛り、異性への関心は最高潮の時期でしたから、この激しい恋の歌に圧倒されはしましたが、一生懸命に書き下ろして、節を覚えて歌い習ったのです。学校の遠足に、これを級友の前で披露したこともあるほど、背伸びをしていた時期だったでしょうか。母が、「母」であるだけでなく、ひとりの「女」であることを感じて、なんとなく不思議で、そんな一面を母のうちに垣間見ることで、さらなる親密感を覚えたのを、うっすらと覚えています。母が、いわゆる流行歌、歌謡曲を歌ったのを聞いたのは、それが初めてのことでした。それ以降は、二度と聞くこともなかったのです。母は、そういった青春期の思い出を封印してしまって、4人の気の荒い息子たちの「母業」に専心していたのではないでしょうか。

 そういえば、その頃の母の写真が、母のアルバムの中にあったのを見たことがあります。ワンピースを身につけ、洒落た毛のついた帽子をかぶり、口紅で唇を赤く染め、片方の手を腰に添えた、映画女優のような一葉の写真です。父に結婚を決意させた程のあでやかさがありました。兄の家に、きっと残されているのではないでしょうか。母は、私の娘たちに、自分の青春を語りたがっていたようですが、母の生活圏から遠い街で娘たちは育ち、学業で国を出たり帰ったり、アルバイトをしたりで忙しかったので、ついに、その機会はなかったのではないかなと思います。娘に恵まれなかった母は、息子の娘に思いがあったのかも知れませんね。恋でも、名でも、財産でもなく、「命をかけたもの」を、母は堅持し続けて、この地上の生涯を生きた人でした。

(写真は、昭和11年の東京上野の夜景です)