いづみ

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人混みの中で、多くの人やざわめきに身を置くと、〈孤独〉を感じるのだそうです。洪水で住めなくなった家から、五分ほど離れたアパートに移り住んで、そこで新年を迎え、子どもたちの家族が帰省して来て、玄関から客間に行く廊下と呼んででいいでしょうか、そこを通るのに、壁に身を寄せて、道を譲らないとならないほど、家が混み合ってしまいました。

公共の場の人混みは、そうであっても、家族の集合は、温もりが溢れて、トイレを流す音も、シャワーの水音も、壁越しに聞こえてきて、人と音が止むのは、床に着いてからでした。寝てからも、いびきも寝言も、板の扉に足や手をぶつける音が聞こえてきて、〈音〉が溢れていました。

それが、潮が引く様に、みんな帰ってしまって、狭い家が、こんなに広かったのかと、再確認している、今です。暖房がついているのに、何か肌寒くなっているほど、子や孫がいる間は暖かかったのです。子どもたちが帰るのと入れ替えで、私たちが13年の内、12年を過ごした、華南の街から、一組のご夫妻が訪ねて来られました。好い交わりをしてきた方たちが、家内を見舞ってくれたのです。日中は、ここで過ごし、夜の宿を市内にご用意して、お交わりをしました。

この方を訪ねるのと、家内を見舞うのとで、京都から一人の方が見えました。「茶器」を持参されて、日本文化の象徴と言える、《お茶》を立ててくださったのです。茶筅で抹茶仕立ての美味しいお茶を、私の友人に淹れてくださったのです。友人夫妻は、美味しそうに頂いていました。狭い中で、《風流》を楽しませてくれたのは、実に《にくい心遣》でした。私たちも頂いたのです。

和菓子の用意をする暇がありませんでしたので、客用に用意しておいた、花林糖をお出ししたら、喜んでくださいました。昨日は、みんなで14人で、中国の最近を、ご夫妻から聞く機会がありました。その中に、ホームスクールをしておいでの小学生の姉弟もいて、炬燵で勉強をしていました。洪水での被災で、ボランティアで助けてくださった夫妻もおいでになられ、お持ちいただいたカレーで、お昼を共にしました。

実は、水道管の水漏れがあって、玄関の三和土(たたき)が水で溢れる中の来訪だったのです。原因が分かりましたので、近々工事が行われます。去年の水害に次いで、またの水害に見舞われていますが、〈いづみ〉が湧いているかの様で、これも嫌わないで、楽しもうと思う、正月明けです。「茶器」は、私たちへの贈り物なので、お茶を立てて、楽しむ様にとの優しさです。

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四人の子へ

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おはようございます。
昨日、次女家族が帰って行きました。
長女夫婦が、先日帰って行き、
家が広くなってしまって、寒くなってしまい、
寂しくなってしまいました。
ただ、お母さんを見舞いに、
森夫妻が、中国の街から来てくれましたが、
夕食後、市役所の前のホテルに帰って行き、
また、家の中が寂しくなりました。
明日の朝、また、ご自分たちで来てくれます。
土曜日に、中国に帰られます。
今日は、京都の倶楽部長が、交わりに来てくれます。
会うは、別かれの始め、という歌がありましたが、
会う喜びの感情と、別れの悲しい感情が、交錯しています。
でも長男家族、次男夫妻は、近くにいてくれるので感謝です。
お母さんには、幸せな三週間でした。
日光の里の一泊旅行も喜んでいました。
念願の家族写真も一緒に撮れて満足でした。
気が抜けたのでしょうか、ちょっと疲れ気味ですが、大丈夫です。
孫たちが、良薬でした。
玄関の水害(水漏れ)の原因が分かって、
近々工事が行われます。
昨日、次女が帰りしなに、
みんなからの愛心を渡されました。
育てる側から、養われる側に変わって、
子どもたちから愛や優しさを受けられる様になって、嬉しいです。
でも、無理をしないでください。
ちょっとの蓄えがありますので。
みんなの示してくれた愛に感謝でいっぱいです。
みんなのお母さんを、支えていきます。
応援をありがとう!
感謝して。    父
(今朝送信メールに手を加えてあります)

(毛利元就の「三本の矢」です)
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百済

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わが国の最古の企業であるよりも、世界最古の企業として、今も営業を続けているのが、「金剛組(こんごうぐみ)」だそうです。今では株式会社化されていますが、その会社の沿革には、「紀元578年、聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済(くだら)の国から三人の工匠が日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の「金剛重光」です。工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。」とあります。

はるか飛鳥時代から数えて、1500年近くもの間、「宮大工」の仕事を続けているというのは驚き以外にありません。しかも、百済の国から、聖徳太子の招聘に応えて、やって来て、その技術を受け継いで、会社形式になり、吸収合併などを経た今も、競争の中で、残っているというのも驚きではないでしょうか。

私の父方の家系は、どこから始まっているのでしょうか。母にも家系があるはずですが、残された記録がないところが、神秘的で好いのではないでしょうか。もっと遡ると、どこまで遡らなければならないのでしょうか。大水の中を漂流した祖先だったかも知れません。わが祖先は、何を考え、どう生きて来たのでしょうか。必ず「いのち」を受け継がせてきた原点があるに違いありません。

私は、「類人猿」を父祖に持っているとは考えていません。同じ様に思い、同じ様に感情を表し、同じ様に願う「人間」こそが、私の「祖」であると信じているからです。東武伊勢崎線に動物園があるのですが、その折の中にいる動物たちとは、「種(しゅ)」が全く異なり、同系だと思ってはいません。コンピューターを作り出せたり、戦争を始めたり終結させたり、ガンの治療薬を研究開発するのは、「人間」だけであるからです。

「四天王寺」の本堂が燃えたり、崩壊を繰り返してきたのですが、それをずっと再建し続けてきたのが、「金剛組」でした。そんなことを調べていたら、日本で第三に古い企業が、山梨県の早川町にあることが分かりました。慶雲二年(705年)に端を発している「慶雲館」です。とてもゆっくりできる温泉を湧き出させている旅館なのです。私は、大きな手術をした後に、『ここの温泉が好いですよ!』と勧められて、この宿に泊まったことがあるのです。そんな経緯があることなどつゆ知らずにいて、そのことを最近知ったのです。

南アルプスの登山道の広河原にも繋がっていて、渓谷の道を、車で走ったこともありました。交通手段の全くない、徒歩だけの時代に、富士川の支流の上流の、あんな山奥に温泉宿ができて、武田武士などが合戦の後に、湯治をし続けてきたというのも、ビックリするほど浪漫に溢れているのを感じます。

帰化した金剛秀光の故郷、百済は、どの様な国だったのでしょうか。かつて、朝鮮半島には、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)、そして「百済」の国がありましたが、日本との国交が深かったのが百済でした。日本の政治組織や農法や工法などの伝達は、この百済との交流が起源となっているのです。

多くを、この朝鮮半島に学んだことを、私たちは忘れてはなりません。ソウルには何度も会議に出席などで、訪ねたことがありますが、いつか釜山(ぷさん)から、かつての百済の地を、「浪漫の旅」をしてみたいものです。何かを発見できるかも知れません。

(百済料理です)
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みずうみ

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みずうみ        茨木のり子

だいたいお母さんてものはさ
しいんとしたとこが なくちゃいけないんだ
めいぜりふ
名台詞を 聴くものかな!
ふりかえると お下げとお河童と
二つのランドセルがゆれてゆく 落葉の道
お母さんだけとはかぎらない
人間は誰でも心の底に しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは 話すとわかる
二言 三言で
それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とはたぶんその湖のあたりから発する霧だ
早くもそのことに気づいたらしい
小さな二人の娘たち

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中国の日本語を学んでいる学生のみなさんに、この茨木のり子の作品を紹介して、作文を書いてもらったのです。「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」の二首の詩でした。戦争中に学生時代を過ごさざるを得なかった日本の学生の、戦時と戦後の思いを伝えたかったからでした。また感受性の豊かな人となって欲しかったからでした。

また作者は、二人の娘に、霧を立ち上らせる様な「田沢湖」、この湖の深さや静けさを、心の底に持つ様に勧めているのでしょう。それは学歴や教養に高さによって得られるものではないので、霧のように自ずと立ち昇るのだと言っているのです。

(HP“ ぐるたび ぐるなび ” から「田沢湖」です)

やめたい!

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今はブームが、とっくに去ってしまったのですが、任侠映画をご覧になった方は、ご存知かも知れません。ほとんどの映画に、骰子(さいころ)や花札の博打(ばくち)の場面が出て来ます。開帳するのが博徒で、賭け事の好きな旦那衆がゴザの周りに座って、〈チョウ〉、〈ハン〉にお金をかけるのです。イカサマが多くて、露見されると、ゴザがひっくりかえされて、乱闘が繰り広げられ、主人公が勝つのです。

私の友人に誘われて、新宿の映画館で観た、「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」にも、そんな場面が、確かあったと思います。いつの時代も、〈御法度(ごはっと)〉で、奉行所の役人や警察官が乱入して取締り、捕縛される、触法の犯罪なのです。わが家に、なぜか「花札」がありました。お相撲さんが、花札の賭博罪に触れて逮捕され、送検されて、押収されたものでした。 

麻雀でも、トランプカードでも、お金を賭けてゲームをすると、〈賭博罪〉になり、処罰の対象になります。ところが、地方公共団体が施行する競馬・競輪・競艇・オート━レース・宝くじが行われて、胴元が違うと、賭博罪にはならないのです。博徒がしたり、普通の人同士で賭け事をすると、犯罪になる〈矛盾〉があるのです。『隣の◯X市財政は、とても豊かです!』、『どうして?』かと言うと、公営賭博が行われているからだそうです。

〈賭け事〉で、身を滅ぼし、家族が離散してしまったと言う話は、昔から多くあったことで、儲けられるのは、ほんのわずかな人で、多くは不幸にしてしまうのです。莫大な額を失った方を知っていますが、一度、賭け事で勝つと、〈夢よもう一度〉で、負け続けても、『今度は勝てそうだから!』と、泥沼に嵌まり込んで、抜け出せなくなるのです。

それなのに、また、〈カジノcasino〉を、国が始めようとし、法整備も行われています。富裕層の遊びならともかく、貧しい階層も、〈一攫千金〉を願って、高い入場料を払って、賭場に入場するに違いありません。それで、国や自治体の歳入を確保するのでは、短絡的過ぎるのです。この世は、この世の政治は、この世の人間社会は不合理と不条理の世界なのでしょう。〈斬った張った〉にならない様に、是非ともやめて欲しいものです。
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くさや

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このところ仕切りに食べたい物があります。海洋民の性(さが)なのでしょうか、《干物》です。開きの鯵やホッケ、丸干しの鰯を、時々買っては食べていますが、「くさや」の味が思い出されて、蜆の味噌汁とぬか漬け漬物とご飯で食べたら美味しいでしょうね。というのは、父が美味しそうに食べていたからだと思います。

昔は、ちょっと奮発すれば食べられたのですが、今や高級魚で、たまにスーパーの干物売り場の端っこに置かれていますが、魚の専門店でないと置いていません。伊豆諸島の新島に伝わる、独特な「液(魚醤に似た発酵液)」に浸けた魚を、天日で干し、江戸に運ばれ、できの良い物は、将軍に献上されたそうです。

漁民の知恵が生んだ優れものです。飛び魚、むろあじ、しいらなどの魚が用いられ、秘伝の「くさや液(発酵液)」が味と栄養価の秘密なのだそうです。知人が伊豆利島で教師をしていて、一度、家族で訪ねたことがありました。船着場から高台の教員住宅に行くまでの間に、加工小屋があって、その中に、「くさや液」のプラスチック製の風呂桶の様な桶がありました。まさに、くさやのニオイがしていました。

そう今では、通販で買う時代になっていて、指一本で発注できるのですが、どれを選んでよいのか迷ってしまいます。どうして「くさや」なのかと言いますと、『くさや 新島における方言で魚全般を指して「ヨ」と言われており「臭い」+「魚」=「クサヨ」が転じて「クサヤ」になったと言われている。また、新島ではくさやを製造している水産加工業者を指して「イサバヤ」と呼んでいる(ウイキペディア)。』のだそうです。

中国の街の食品売り場に、「臭豆腐choudoufu)」が置いてあります。二度は食べませんでしたが、一度、もらって食べたことがありました。きっと、「くさや」も同じ様に敬遠されるのでしょう。でも食べ慣れたら、きっと好物になって、虜になってしまことでしょう。

利島に呼んで下さった方は、今、どうされておいででしょうか。東京都の教師でしたから、利島から多摩地区の中学校に転勤されたとは聞いていたのですが、もう退職しておられることでしょう。同じ学校の後輩で、肥後熊本出身でした。とても穏やかな方で、子どもたちによくしてくださいました。

(伊豆七島の「利島」の全景です)

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正月

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ふるさとの海の香にあり三ケ日 鈴木真砂女

真砂女は、生まれ育った海浜の故郷に帰って、正月を送ったのでしょう、海の香、潮の香に懐かしく触れた思いを詠んでいます。潮風が、潮騒が過ぎ去った幼き日の出来事を思い出させてくれたに違いありません。真砂女の故郷は、千葉鴨川で、大きな旅館の娘だったそうです。

私の父は横須賀、昔は漁村だったのでしょうが、明治以降は軍港となり、海に面した街の出身です。母は出雲、旧国鉄の駅からほど遠くない地方都市の街で育ちました。そして私は中部山岳の山の中、山と山がせめぎ合った奥深い、神社の参道にあった旅館の離れで生まれた、と親に故郷を知らされていました。何度かその家の前を車で通り過ぎましたが、何度目にかは、家屋は倒壊してしまっていました。

吹き下ろしてくる風に揺れる葉の音、参拝客の靴の音がし、山影ですから降り積もった雪は、溶けなかったことでしょう。沢違いの村に越して、そこで小学校入学から一学期が終わるまで過ごしました。その光景を覚えています。策動を動かすモーターの音、家の前の沢の水音と魚影、木材を運び出すトラックの砂埃、小学校の鐘の音、LALA物資の脱脂粉乳の臭い、家の裏から林を超えて山に通じる道、陽の光も風の匂いも記憶の中にあります。

そこから越して住んだのが、東京都下の八王子でした。浅川にかかった大和田橋、甲州街道の橋のたもとで、鉄製のベーゴマを磨く、すぐ上の兄の横で、真似してベーゴマを磨いていました。そこに、日本自動車の工場から、試験運転する米軍に納品するトラックがUターンして戻って行くのでした。戦争中の高射砲陣地があって、そこに連れて行ってもらったこともありました。一、二度、立川の飛行場に着陸しようとした米軍戦闘機が、家の近くに落ちて、その残骸を見に行ったり、拾ったりしたこともありました。

そこに一年いて、隣町に越しました。木製の駒やベーゴマを回したり、凧を揚げたり、そり遊びをしたり、鬼ごっこや馬跳びや馬乗りや陣取りなどに興じました。男兄弟で喧嘩をし、弟をいじめ、上の兄に殴られ、学校に行っても喧嘩をし、悪戯をしては廊下や校長室に立たされたのです。正月の空は抜けるように高くて、澄んでいました。父がいて、母がいて、兄たちや弟が、何時でもいました。

父が四角く几帳面に切った餅を七輪で焼いた餅を、母が小松菜と鶏肉で醤油味の関東風に仕立てたお雑煮を、来る正月ごとに毎年、お腹がふくれるほど食べました。暮れに母が煮て作ってくれ、重箱やお皿に盛られた「オセチ(御節)」が、美味しかったのです。伊達巻、かまぼこ、暮れに決まって母の故郷から送られてきた野焼きがありました。その他に、ごまめ、黒豆、数の子、大根と人参のなます、栗きんとん、昆布巻き、筍や蓮や里芋などの煮しめ等々、高級なハムもあったでしょうか。農家ではなかったのですが、それを食べて正月を過ごしたのです。

子どもの頃は、そんな「三ヶ日」だったのです。子育て中、家内もよく「御節」を作ってくれました。何時でしたか、暮れの弟からのメールに、『賀状を書き上げたので、これから御節を・・・・』と言っていました。義妹が亡くなって何年になるでしょうか、独り身で3人の子を育て上げ、御節まで作っていたのです。

すでに退職し、週二ぐらいで顧問として、長く働いた学校に出勤し、若い教師の指導に当たっています。さらに、もうずっと、青少年の街頭指導をしているのです。去年の暮れには、内閣府から表彰されています。75歳までやるそうです。そして、ホームスクールの教師を、もう何年も続けています。元旦には、孫たちにお年玉を上げたいと、姪と一緒に訪ねてくれ、娘たちの作ってくれた御節を、美味しそうに食べてくれ、昼食と夕食をともにしました。

(今の家の巴波川を挟んだアパートの屋根の上の白鷺です)
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イエイエ

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初めて会った方に、日本人が一番気にすることが何かというと、「年齢」ではないでしょうか。人種は一目瞭然、職業は同じか同系列と出会うことが多いので、問題にならない場合が多そうです。学歴程度も、隠されていることで、問題にはしたくありません。ただ年齢は、前後十歳ほどの幅があって、十歳上か下かで、二十歳の幅があると言われています。それで、〈長幼の序〉が根底にある私たちの社会では、大切な関心事です。

『どうして、そんな個人的なこと聞くんですか?』と、アメリカ人の青年が、日本女性に言いました。彼が独身だったので、婚活の範囲内かどうかを、この女性は知りたかったのかも知れません。〈個人主義〉の中で育った彼には、気になったのでしょう。私たちは、踏み込んではならない領域があることを知るべきでしょう。

または、どう接するか、自分の立場を、相手のどこにおいて接したらいいのかが、気になるのです。「失礼」のないようにと願うからでしょうか。どんな言葉遣いをしたらいいかも知らなくてはなりません。ジャックジョンとか、苗字以外で呼び合うアメリカの社会には、私たちには戸惑いがあります。

私の恩師は、フアミリー・ネームで呼んでいましたが、他の方には、チャックジョージと、「さん」をつけて呼んでいました。ちょっと壁の高さや低さが気になりましたが、まあ賢くお交わりができたかなと思っております。私の学んだ学校は、医師として幕末に、横浜にやって来られたアメリカ人が始められた学校でした。

その学校では、昔は、先生も学生も、“ Mr . ” で呼びかわしていて、立場の違いの壁を低くする配慮がなされていたそうです。わが家にやって来る、おしゃまな五歳の女の子は、家内を『ゆりさーん!』、私を『じゅんさーん!』と呼んでくれます。子どもには大人の社会的な立場や年齢も関係がないのです。

その割には、学生は、教師に〈渾名(あだな)〉を付けるのが得意です。小学校時代にはなかったのですが、中学に入ると、上級生や先輩からの申し送りの〈渾名〉がありました。高校3年間を担任してくださった先生は『オジイ!』でした。兄を教えていた先生は『ちょろ!』、『ガンちゃん!』、『さぶちゃん!』など、愛されていて名付けられる以外に、嫌われ教師には、それなりに辛辣な名、『ゲジ!』と呼ばれていた体育教師がいました。

自分も、短期間でしたが、教員をしたことがありましたから、きっと付いていたのでしょう。陰で、渾名で呼んでは、『クスクス!』と笑っていたかも知れません。中国では、渾名ではなく、砕けて『ジュン先生!』でした。アッ、ありました。『イエイエ(爷爷)!』と呼んでいると、同僚の中国人教師が教えてくれたことがありました。それは、ただの『ジジイ!』ではなく、親しみを込めた呼び方で、羨ましいと、同僚が言っていました。

そんなことを思い出していました。私の担任は、朝礼でも終礼でも、授業の始めも終わりも、教壇から降りて、私たちと同じ床板に立って、けっこう深めに頭を下げて挨拶をしていました。『君たちと僕は、立場こそ違え、同じなんだよ!』と、身をもって示しておられました。私の教員志望の動機は、このことにありました。

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温もり

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早朝6時、雪のちらほらと降る中、玄関を出て、まだ灯のともっていない別棟の湯屋に向かいました。やっとのことで、外の露天風呂の灯りをつけて、薄明かりの中、一人湯船に浸かりました。憧れの冬場の温泉、ぬるくない《雪の露天》を、贅沢にも独りで、静寂さを満喫させてもらいながら過ごした1月5日の日光の朝でした。

昨年末、4人の子が、退院した母親を加えて、久々の交わりを、正月にしようと、長男が企画し、日光、男体山の近くのスポーツ用品店の社員用の温泉休暇施設を会場に選んだのです。そこに14人が集まり、共に食事をし、交わり会をもったのです。長男夫婦と2人の孫、長女夫婦、次女夫婦と2人の孫、次男夫婦、それに私たちバアバとジイジで、とても感謝な一泊二日の時でした。

「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

昨年、家内の入院中に、友人からお借りしていたお宅に、子どもたちが、それぞれの家族で、一堂に集まったのですが、どうなるか分からない病状の家内は、生死の間を彷徨(さまよ)っていて、不在でした。今回は、奇跡的に退院した母親、バアバが加わったわけです。幹事長の長男の司会で、ウクレレとピアノの伴奏で数曲を歌い、過ぎた一年と、迎えた新年の抱負を、順次一人一人、全員が語ったのです。

家内は、生かされている今を感謝して、多くの友人や親族の支え、家族の示してくれている愛に、《至福の幸せ》を噛みしめていました。4人の孫たちは、バアバからお年玉をもらって大喜びでした。次男夫婦は、日光から直接帰京したのですが、家内のたっての願いの《家族写真》を、明治五年創業の写真館で撮影しました。後日、次男夫婦の写真を合成してくれるのだそうです。

4人の子を持つ《子沢山》を笑われ、借家を借りるのに、それが理由で借りられない経験を、幾度となくし、結局、市営アパートや県営アパートを借りたりして、過ごしてきたのです。その巣を、一人一人巣立って行き、残された《空の巣》に、子どもたちは家族を伴って《帰巣(きそう)》 して来たことになります。

この《帰巣》は、人の本能に違いありません。故郷回帰、原風景を求める思いはどなたにもあるのです。たとえ故郷や祖国は荒廃したり、奪われても、記憶は、何者によっても消されることはありません。源泉42度の掛け流しの温泉の《温もり》に、私が満足したのは、母の胎内の十ヶ月を、全身で感じたことを思い出していたからなのでしょう。子育て中に感じた家族の《温もり体験》が再現した様でもありました。

私たちには、最終ゴールの《巣》があるのです。この世では、貧しい巣に住んでいても、不便を感じても、狭くとも、心楽しく生きているなら、永遠の故郷が約束されている、だから高望みもせず、がっかりもしないで、今を感謝して、喜んで生きていくのです。

憂国

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藤井武が、次の様な文を書き残しています。1930年7月に、「亡びよ」という題でした。

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日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。
わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。
興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。
しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。
真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。
青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり
おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。
かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを
去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。
私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。
翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって
ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。
その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。
日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。
わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。
鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう。
亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!
この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!
「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に
私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。
ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ。
ああ◯よ、願わくば御心を成したまえ。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

藤井は、明治20年(1888年)、北陸金沢に生まれた人でした。警察畑で働いた後、将来を嘱望されていたのに、官職を退職し、内村鑑三の弟子となります。師にも勝るとも劣らない器でしたので、碩学(せきがく)と碩学の考え方の違いで衝突し、後になって和解するを何回か繰り返しています。しかし、師の死に際しては、告別の任をとっています。彼自身も、42歳で没してしまいました。

私は、若い日、友人の紹介で、彼の全集を買い求めて読み始めましたが、その思想や、生き方や、あり方が潔く、はっきりと主張してやまない様子が好きだったのです。「憂国の士」で、日本の将来を危惧しますが、この様な主張の15年ほど経った時に、日本は米英との戦争に負けて、焼土と化します。

今の日本は、何かしら、藤井が心配した時と、同じ様な国情、国際上の諸国との関係にあって、多くの問題が孕んでいて、同じ轍(てつ)を踏まないか、ちょっと心配です。人心も乱れて、〈民意の高さ〉など、誇れない時代ではないでしょうか。私は、この国を逃げ出しませんが、務めがあるなら、外に出て、そこから祖国を執り成したいと思ってもいます。

(金沢の「銘菓」です)
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