名のみの春

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 日本海を渡ってくる大陸の風が、越後の山並みを超えて、北関東に運ばれてきて、頬をなぜる風は、まだ冷たく、陽の光と相争うかのように感じられます。それでも三月になりますと、大平山の木々の芽がふくらんできていて、何か山肌がもくもくしてきているようなのです。

 この季節になると思い出すのが、北宋の詩人、蘇軾の「春夜」の詩です。

春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜

[読み]春宵一刻(しゅんしょういっこく)値千金(あたいせんきん)
花に清香(せいこう)有り月に陰(かげ)有り
歌管(かかん)楼台(ろうだい)声(こえ)細細(さいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜(よる)沈沈(ちんちん)

[和訳] 春の宵の一刻は千金に値するほど素晴らしい。花は清らかな香りを放ち、月はおぼろに霞んで見える。歌声や笛の音がにぎやかだった楼台も今は静まり、かすかな声が聞こえるだけで、乗る人もないぶらんこのある中庭に、夜はひっそりと更けていく。

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 「春宵」と言うのは、宵の口のことではなく、深夜なのだそうです。日が沈む頃から、時が経つに従って、「夕」、「暮」、「昏」、「宵」、「夜」と呼び方が変わるのだようです。「一刻」は十五分、その「値」は千金に匹敵するほどだと言うのです。

 庶民には、そんな感じ方はなかったのでしょうけど、蘇軾は、開封(Kāifēng)の街の大きな高級官吏の邸宅に住んでいた、若い頃の満ち足りた環境の中で、更けていく夜を、心地よく感じているのでしょう。

 それにひきかえ、同じ春を感じ、春を詠んだ、旅の途中の恵まれない境遇の唐代の詩人、杜甫の「春望」は、杜甫自身の境遇を読み取ることができます。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

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[読み] 国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻いて 更に短かし (はくとうかいて さらにみじかく)
渾べて簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

[和訳] 国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は長期間にわたって続き、家族からの便りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ。

 同じ春を、時代、年齢、場所によって、人の感じ方は違うのでしょう。二十一世紀、まだ平和な日本、北関東は、蝋梅の花の香が漂い始めたそうで、名のみの春ですが、それでも香りや声を聞く身には、好ましい季節の到来です。月末になると、桜が開花し、新入生が入学をし、新人が入社をしていくのでしょう。そんなことが、遥か昔に、自分にもあったのを思い出しております。杜甫ではありませんが、まさに人生は旅であり、旅する私であります。

(図書館への道に昨日咲く梅の花、ウイキペディアによる古き開封、現在の西安の一廓です)

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「世界の平和を願って」

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 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれることなんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手掛かりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から祈っている。

  2017年3月         学習院女子中等科 敬宮愛子

(ウイキペディアによる広島の原爆ドームの写真です)

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名をもって呼ばれる神

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 『まことに誠に汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は、盜人なり、強盜なり。 門より入る者は、羊の牧者なり。 門守は彼のために開き、羊はその聲をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽きいだす。   悉とく其の羊をいだしし時、これに先だちゆく、羊その聲を知るによりて從ふなり。 他の者には從はず、反つて逃ぐ、他の者どもの聲を知らぬ故なり』 (文語訳聖書 ヨハネ伝1015節)』

 『示しがつかなくなることと、尊敬の意味で、自分の牧師には、「さん」ではなく「先生」と呼ぶように、信者に言っています!』と、先生呼称主義でない、「さん主義」の群れで育った私との〈先生呼称〉の問答で、同世代の牧師さんたちが、そう答えが帰ってきました。

 私が学んだ学校も、伝統的に教師をお呼びする時は、” Mr and Mrs “ だったのです。もちろん英語にも、” reverend ” と言う呼称があります。ところがアメリカの教会から派遣された宣教師であり、教師であった方の始めた Mssion School だったので、伝統的にそういう呼称でした。聖書で、教会の主であるイエスさまは、「先生」について、また「父」について、次のようにおっしゃられています。

 『されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。  地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。(文語訳聖書 マタイ伝2389節)」

“But be not ye called Rabbi: for one is your Master, even Christ; and all ye are brethren.And call no man your father upon the earth: for one is your Father, which is in heaven.” KJ version

 この呼称の一件は、そう簡単ではなさそうです。「先生」付きで呼ばれてみると、けっこういい気持ちになるのは事実です。四人の子どもたちの父親への呼称は、抵抗がありませんが、それでも、ある教会では、牧師さんを、「霊の父」、「霊父」であるとしています。これには、やはり聖書的には問題がありそうです。ヘブル書に、次のようにあります。

『汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば、汝らの靈魂のために目を覺しをるなり。彼らを歎かせず、喜びて斯く爲さしめよ、然らずば汝らに益なかるべし。(1317節)』

 信仰を指導してくださる方への「従順」や「尊敬」や「感謝」を表すことで良いのではないでしょうか。私の親しかった宣教師さんは、信者さんからの「感謝」のことばを受けると、その「感謝」を主にお渡しして、ご自分では受けないような生き方をされていました。主の前に、ご自分は、当然なことをしたに過ぎないと思われたからでしょう。問題というのは、天国では、この二つの呼称はないからです。きっと、名前で呼び合うのでしょう。神さまが、名を呼ばれる方でいらっしゃるからです。

 実際、職業としての教員を、実は女子校で、しばらくの間やったことがあって、初々しい声と表情の女子学生から、「先生」って呼ばれると、何か嬉しい気持ちがして、ウキウキしてきたのです。

 私が就職した最初の職場は、研究所でした。先生と呼ばれた過去を持つ職員と、そうでなかった職員との間に、何かぎこちない関係があったのです。しかもその方の教え子が、同じ職場にいたからです。同世代の課長でも、教員ではなく、調査機関にいた人にとっては、面白くなさそうだったのです。

 先日、ニュースをラジオで聞いていましたら、刑務所の中での呼称に変化があったのだそうです。刑に服している人を、「さん」付けで呼び、刑務官を「先生」から「さん」に変えたのだそうです。入ったことがまだないので、「番号」で呼ばれていたと思っていたのに、今度は「さん」になって、戸惑いがあるのではないかなと心配しています。もっと戸惑っているのは、刑務官で、先生でもないのに「先生」と呼ばれ続けて来ての変化は、ちっと混乱することでしょうか。

 中国には、「先生/ xiansheng 」と言う言い方があります。大人の男性を「先生」、大人の女性女性を「女史/ nvshi 」と言うのです。ですから、ご主人を、奥さんは、『私の夫です!』と言う時に、『我的先生wodexiansheng』と言っていました。まさに、先に生まれたことであって、決してが偉さではないのですが、丁寧な言い方なのかも知れません。職業の先生は「老/ laoshi 」です。

 私たちの社会では、相手をからかう意味で、そう呼ぶこともあるようです。でも多くは、相手をいい気持ちにし、おだての意味で、そう呼んでいます。

 鼻持ちならないのが、先生同士で、相手を呼び合う時に、「先生」と呼び合うことです。また事務の方が、教師を呼ぶ時に、そう言います。世間から離れた世界で、世間知らずのみなさんの世界で、使われているように感じます。でも、この良いところは、名前を忘れてしまった時に、思い出さないで済む呼称で、便利なのでしょう。

 面白い経験が、私にはあります。著名な牧師さんを、特別伝道集会にお招きした時に、男女お二人の伝道師の方が随行して来られ、わが家に、女性伝道者が泊まられたのです。私たちの教会は、先生の呼称のない教会でしたし、宣教師はいましたが、助手はいても伝道者の呼称を、私は持ちませんでした。初め、この伝道師は、「先生」と呼んでいたのですが、私が献身者だと分かってから、「兄弟」と呼び方を変えて、彼女は一段高くなられたのです。学校では先生でしたが、教会では先生でない私は、こう言った変化に、不思議さを覚えたのです。

 でも今、小学3年生のお嬢さんが、私のことを『ジュンさん!』と、お母さんが言うように、同じく呼びかけてくれるのです。名前で呼んでくれるのはいい気持ちで、これって、なんともいえない素敵な関係ではないでしょうか。主なる神さまは、「名をもって呼ばれ神」でいらっしゃいます。

(Christian clip artsから「羊飼い」のイラストです)

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日光連山

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 日光連山、主峰の男体山、下野国の誇る山です。イスラエル人にとって、ヘルモン山は特別な山だったように、不動の山をお造りになられた創造の神を、ほめたたえたたのです。その創造の最高傑作は「人」でした。それを、高価で尊いのだと、主はおっしゃっておられます。

 そういえば、今日は、「閏日」ですね。暦を微妙に調整する知恵って、驚きです。太陽の一回転、地球の一回転、星の位置など、天空の自然を極めた人間の知恵に、神さまの啓示があったのでしょうか。閏日の情報の入力が欠けていたコンピューターの誤作動が、いくつかの県の免許センターであったそうですね。

いろいろなことが起こって、IDの限界だってあって、今日にところは、人間の知力に軍配が上がりそうですね。

(昨日、東武宇都宮線に車窓から見えたものです)

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相違と主にある一致

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 ソウルの教会を、初めて訪ねたのが、1974815日、日本が無条件降伏をした記念日で、韓国では「光復節(日本支配から解放された記念日です)」で、暑い夏でした。漢江の中洲にあった、広大な汝矣島(ヨイド)漢江公園を会場にして、「世界キリスト教大会」があって、それに参加したのです。会場となった用地は、まだ未整備の段階で、漢江の流れの淵でした。母教会の兄弟と連れ立っての参加だったのです。当時、午後11時過ぎは、外出禁止令が出ていて、戒厳令がしかれていたと思います。

 日本から本田弘慈牧師が団長で、かなり多くのみなさんが参加されていましたが、私たちは、個人参加で、ユースホステルに宿を取っていました。その会場には、100万人が集まったと言っていました。多くの説教者が壇上に立って、賛美や説教や祈りが、繰り広げられていたのです。大会途中に、強雨が降り始め、日本からの参加者は浮き足立っていましたが、韓国のみなさんは、コンクリートの上にじっと座って微動だにしなかったのが印象的でした。

 この大会が終わって、永楽教会に移動してから、会堂の中で、重大な報告がありました。日本人が、朴正煕大統領を狙撃し、夫人の陸夫人が亡くなられたというのです。それで外出禁止で、ホテルに留まるようにとのことでした。後に、狙撃犯が、北朝鮮系の在日の男だということを聞いたのです。ちょうど長女が産まれて間もない時だったのです。無事に帰国できてホッとしたのを覚えています。

 それ以後、何度かソウルを訪ねたことがあります。ある教会の長老さんの家に招かれた時に、日本語教育を受けられた世代の方でした。歓迎されて、美味しい朝鮮料理をご馳走になり、話が弾む中で、次のようなことを話されたのです。

『韓国人は、正しく生きてる時には命をかけてでも仕えていくことができます。ところが一旦、不正を行なっていることを知ると、手の平を返すように反逆するのです。日本では部下と上司の繋がりというのは、人と繋がっているのです。良くても悪くてもかまいません。正しくても正しくなくてもいいのです。にその人の行いや考え方というのは構わないのです。田中角栄が不正を行なっても、部下が、その不正を糾弾することはありません。ところが朴大統領に不正が露見した時に、黙っていることができずに、銃を手にとって撃って、制裁を加えたのです!』とです。

 朴正煕大統領が、KCIAの責任者で、古い友人で側近の部下だった人物によって、1979年10月に銃撃され、射殺されてしまいました。この方が言われたことは、日韓の比較論で、実に興味深かったのです。彼は日本人と朝鮮民族の違いを語られたので、大変興味をそそられたのです。明智光秀と織田信長との一件を思い出させられる話でしょうか。ある人たちは、『◯◯先生のことだから、少々の失敗をしても、まあ仕方が無いか!』と思ってしまうのでしょう。人脈とか派閥といった強い絆に、太い感情のパイプでつながっているからです。朝鮮民族のみなさんは、「正邪」、「良悪」と言った規準で人とつながるのだということを学んだわけです。

 今、イスラエルとハマス(これは国を代表するのではなくテロ集団です)との戦いを見ていて、ユダヤ人とアラブ諸国との、民族的な違いからの長い抗争があっての今回の戦争ですが、イサクとイシュマエルの異母兄弟の対立、ヤコブとエサウのいざこざ、ユダヤ教とイスラム教の違いですが、この両者の祖は、アブラハムです。彼らは、神さまに導かれて、カルデヤの地から「渡って来た者たち(ヘブライ、ヘブルの意味は民によって仇名されたことばです)」だったのです。

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 同じ父の子の対立が、今日の抗争の元であることを考えると、「相違」を超えていけない、人間の弱さがあるのでしょうか。文化や慣習や伝統の違いもあるようです。クリスチャンになって、血のつながりを超えて、霊的でしょうか、同じキリスト信仰を持つ者が、兄弟姉妹という関係に入れられているのです。

 これまでロシア人、タンザニア人、韓国人、中国人、フィリピン人、台湾人、アメリカ人、アラブ人と言った人たちと、私は関わってきても、文化や慣習を超えた、同じ信仰の交わりに入れられた者同士の親密さがあったのです。それぞれの民族性の違いを超えていける、一致点で驚くような交わりがあったと思います。『あなたのために祈りますね!』と言ってくださった方もおいででした。

 『我らの見しところ聞きし所を汝らに告ぐ、これ汝等をも我らの交際に與らしめん爲なり。我らは父および其の子イエス・キリストの交際に與るなり。 (文語訳聖書 第一ヨハネ13節)』

 「父なる神」と「子なるイエスさま」との交わりの間に、私たち信じる者の相違を超えての一致の交わりがあるのは、素晴らしい特権ではないでしょうか。

( ウイキペディアによる現在の「ヨイド漢江公園」の写真です)

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そんな” precious “ な自分を

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 『兄貴にそっくりだなあ!』、私たちの体育の授業を見ていた二級上で、ハンドボール部のインターハイ優勝チームのレギュラーの先輩が、そう言ったことがありました。立教大学に進学していった方で、頭も良く、運動もこなしていた主将だったのです。高等部に進学した頃に、《運動神経が良い》と言う意味で、そう言ってくれたようです。上の兄も、運動部で活躍していました、

 すぐ上の兄は、同じ学校の高等部に進学し、自分は中等部に、同じ年に入学し、兄は野球部に、自分はバスケットボール部に入ったのです。兄は、甲子園を目指していたチームのレギュラーでした。3年の夏の甲子園大会の東京都の予選で、代表になったのは、日大二高でした。その年の甲子園の覇者は、西条高校(北四国代表の愛媛県)だったでしょうか。

 兄たちの学年は、ベスト16で敗退し、甲子園行きは果たせませんでした。当時、プロ野球で活躍していたのは、「球界の紳士」と言われた巨人の藤田元司投手、新人王をとった大洋ホエールズの桑田武でした。

 自分は、進学した学校で、最も練習の厳しいハンドボールに入部したのです。センターフォワードでした。けっこう兄たちに似て、彼らの運動神経を受け継いでいたのかも知れません。ところが、母が、ダンプカーの車輪のボルトで、両足に大怪我を負って、11ヶ月もの間、入院生活をすることになったのです。上の兄は静岡の会社で働いていて留守、すぐ上の兄も千葉の会社で働きながら、大学で学んでいたのです。家は、父と弟と私でした。父が家事をしてくれていて、家に私がいて、父に全部を任せるわけにはいきませんでした。

 インターハイにも国体にも、東京代表で出場し、全国制覇に貢献したかったのですが、休部せざるを得なかったのです。涙を飲んで、そうしたのです。その年、都立隅田川高校が優勝し、わが校は準優勝で終わったのです。インターハイも国体も、優勝候補だったのに駄目でした。その断念は、辛かったのですが、両足切断の危機を何度も超えながら、治療を受け続けている母の世話をし、家の留守を守る父を見ての決断でした。父は、会社経営をしていたので、仕事を任せて、家事をする自由はあったのですが、私の断念、決断だったのです。

 それはよかったのでしょう。高校運動界の覇者になるよりは、父や母を助けられたのは、よかったのだと思うのです。それでも後になって、高校の教師になり、そこでハンドボール部を作って、全国大会に出られるチーム作りの願いもありましたが、信仰を回復した私は、宣教師の招きで献身し、伝道者にさせていただく願いが与えられ、依願退職をしたのです。

 それ以前に、伝道者として、日本では勢いのよい働きをして名をなしていた方が、母の教会に来られました。男らしく日本的 で、successful な牧師だったのです。彼の後について行こうかなと思ったほどでした。スポーツ選手として願いを果たせずに、断念し、挫折者のような自分は、それを挽回したい願いが強いのでしょう。field は違えども、伝道者の道で成功者となりたいと言う願いがあったのだろうと思います。でも、主は、それを許しませんでした。

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 ちょっと先輩な、また同輩の牧師たちとの出会いがありました。みなさん成功願望で野心的でした。彼らと切磋琢磨して、成功街道を切り拓いていくような誘惑の機会、交流があったのですが、その交わりへの参加も、主は許さなかったと思います。

 その世界で、有名な伝道者になりたい願いを、また挫かれたのです。日本精神や野心や成功願望は、挫折体験の背後に潜んでいるものなのでしょうか。成功よりも、内側に潜むものを取り扱われる必要があったようです。そして、成功願望者が陥りやすい、金銭的誘惑、成功への誘惑、名を成したいとの願い、異性の誘惑に陥ることのないような勧めが、やってくる説教者は異口同音に語って迫ることが、若い頃には何度もありました。

 ただ忠実な僕であることを、主は私に願ったのです。母教会にやって来たニューヨークの聖書学校の教師が、私の頭の上に、手を置いて祈ってくださった時に、聖霊のバプテスマを受けたのです。それは一生を変える、人生計画を覆してしまう出来事でした。きっと、あのエジプトで、パロの娘の子として拾われ、育てられたモーセが望んでいた、

 『信仰に由りてモーセは人と成りしときパロの女の子と稱へらるるを否み、  罪のはかなき歡樂を受けんよりは、寧ろ神の民とともに苦しまんことを善しとし、  キリストに因る謗はエジプトの財寶にまさる大なる富と思へり、これ報を望めばなり。(文語訳聖書 ヘブル書112426節)

 あのモーセの経験を思い起こさせるような、この世の栄誉、冨、成功ではない、義への渇望、永遠への憧れ、品性の向上、同胞や隣人の救い、主を求めることの願いを、モーセーのように、二十代の悶々としていた私の思いの中に、主が入れてくださったのです。

 この世の富、名誉、成功以上のもののあることを分からされたからなのです。あれは異言を語るペンテコステ体験だけの出来事ではなく、自分の実態に気付かせ、赦しを確かにさせられ、十字架を理解させ、イエスさまをもっと知りたいとの願いを起こさせ、永遠のいのちへの憧れ、献身の願いを起こさせ、自分により頼むことをやめさせた画期的な体験だったのです。

 五十数年経った今、さまざまなことが、すべて益であったのだということが分かります。今は、史上驚くほどの価値で測られる選手たちの繰り広げる “ MLB “ の祭典が、始まろうとしています。でも、主が測られる価値には、次のようにあります。

“Since thou wast precious in my sight, thou hast been honourable, and I have loved thee: therefore will I give men for thee, and people for thy life.”(KJ訳 イザヤ43:4)

 「あなたは高価で尊い」と、主なる神さまが、今でも言ってくださっているのです。こんな自分を、” precious “ だと言ってくださる主に、ただ感謝したいだけの、春の陽のさす窓辺の私です。

(Christian clip arts によるパウロのイラストです) 

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この五年の記

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 2018年、華南の街のお借りしていた家で、家内の体の具合悪くなったのです。隣街にあった養老院に、牧師子女で長く医者をされてきた老姉妹、そのお父さんが、旅人や貧しい隣人たちに宿や食事を提供していたのを見て育った老クリスチャンでした。同じような信仰的な背景のみなさんを訪問し、交わりをして、帰宅した後でした。ちょうど教会の降誕節が終わったた直後だったのです。

 ちょうど訪ねてくださった姉妹が、家内を見て、『すぐ病院に行きましょう!』と、数年前に、家の近くに開院した、省立病院の別院に、車で連れて行ってくださったのです。しばらく待って診察していただき、担当医師が、『精度の良いMRIが本院にありますから、そちらに行って撮ってもらってください。』と言われ、20191月元旦に、本院に行ったのです。

 そこでMRIをしていただいて、その結果を診た医師が、即入院という診断をしてくれました。緊急を要したのでしょう、家内は、それに従ったのです。一週間経って、主治医に私が呼ばれて、診断結果を話してくれ、『重大な病ですから、直ぐに日本に帰国して、大学病院で診てもらい治療されたらよいでしょう!』と告げられたのです。

 直ぐに飛行機のチケットを予約し、翌朝、入院先から直接、飛行場に、その姉妹に連れて行ってもらったのです。もちろん、旅行用のスーツケースには必要な物を入れて、帰国準備はしてでした。伝道師さんたちとその他の兄弟姉妹がたくさん見送りに来てくださったのです。

 その姉妹が、チケットをビジネス席に換えてくださり、搭乗前の空港付医師の診察を受けましたら、「搭乗不可」を言われたのです。仕方なく家に戻って、翌日の便を予約していただきました。家内にとっては、家に戻って、必要な物を、自分で選ぶことができたのは幸いだったのです。一番は自分のベッドで眠ることができたことでした。

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 慌ただしく翌早朝、空港で診察を受けると、搭乗許可が出たではありませんか。あちらこちらと、みなさんが手を回して下さっていた結果だったかも知れません。大勢の見送りの兄弟姉妹が、また来ておられて、挨拶を交わして搭乗したのです。みなさんは、家内と泣き別れでした。彼らは、家内の病状を告げられていたからで、二度と会えないと思って泣いていたようです。知らなかったのは家内だけでした。

 成田には、長男が迎えに来てくれていて、栃木の友人のご両親が住んでおられていて、空き家になっている家に連れて行ってもらったのです。二日後に、獨協医科大学病院に、省立病院の紹介状を持って診察をお願いしましたら、総合診察科での診察の結果、即入院ということで、呼吸器アレルギー科病棟に入院になりました。入院中、この家を貸しくださったご夫妻の助けは溢れるほどでした。

 診断結果は、第四期の肺がんでした。余命半年とのことで、治療が始まり、保険扱いになったばかりの免疫力を強める新薬の「キイトルーダー」の投与が始まったのです。病院では、放射線治療を勧めてくれたのですが、子どもたちも家内も、放射線治療は希望しないむね、何度か持たれた主治医との面談で、主治医に伝えてありました。食べられず、毎日採血の連続で、家内は弱くなっていく一方でした。ついに頸部から栄養剤を注入する手術をしたり、体中が管で繋がれていたのです。

 子どもたちに、母親の病状や余命のことを伝えましたら、直ぐに、4人が家族を連れて駆け付けてくれました。ちょうどインフルエンザの大流行の時でしたが、一人のN看護師さんのご好意で、特例の面会が許されたのです。この方は、微に入り細にわたり、懇切に看護して下さっり、家内の慰めと励ましをしてくださったのです。『今夜が峠!』と言われる中、じょじょに回復をみせ、管の一本一本が外されて行ったではありませんか。家内は快方に向かい、家内が歩いてトイレに行く様子を見かけた看護師さんが、『アッ、歩いてる!!!』と驚き喜んでくれたそうで、もち直したのです。それで4ヶ月後に退院の運びとなったのです。

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 その年の暮れには、また子どもたち家族が、再び全員で集まることができ、たっての家内の願いの「家族写真」を、近くの写真館で撮り、日光のオリーブの里に一泊し、日曜日でしたので、集会場をお借りして、家族で礼拝を持つことができ、家内は、大喜びでした。

 『お母さん、世界中でお母さんのために祈っているよ!』と、子どもたちが言い、友人知人、主にある兄弟姉妹、家内の姉妹たち、私の兄弟たちからの祷援があったのです。県北の教会に牧師夫妻も、熊本の友人夫妻の教会の朝の祈祷会でも、祈りの手を上げていてくださると言ってくださっていたのです。華南の街で出会って、今は帰国されている日系企業マンの奥さまが、加賀や日田などの銘菓を送って激励してださったり、激励の便りをくださるみなさんがおいでです。

 家族にも勝るとも劣らない愛で支え続けてくださっている中国の教会のみなさんの愛と犠牲は、実に大きいのです。何組も何組も、わざわざお見舞いに来てくれました。漢方薬や健康回復の食べ物、教会の愛兄姉の愛を運んでくれたのです。昨年の暮れにも、おいでくださったのです。『あなたたちは「一家人(家族)」だから!』だと言ってです。

 家内の現実の病状を見るにつけ、信じられないほどの回復に、ただ主を認めることができたのです。それでも、一喜一憂、強い薬の投与の連続でしたから、体への損傷や副作用は大きいのです。あのキイトルーダーの投与の後遺症が現れて、身体に発疹が出たり、激しい痒みがあったり、なかなか太れない状況にあります。それで時々、シャワー時に、泣くこともあったようですが、家内は弱音を吐かず、主に信頼しての病との対決姿勢は素晴らしいと思っています。

 自分のことだけしか見えていないのではなく、ラジオ体操に出かけられるようになって、散歩もでき、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけられるようになってきています。この街に、主をあがめる賛美で満たしたいのだそうです。近所のみなさんやデーケアー仲間、そして近所のみなさん、訪ねてくださるみなさんへの思いを忘れていないのです。『あの人、どうしてるかしら?』と思うこと仕切りです。亡くなられた方のご家族や、弱くなったり、入院したりしているみなさんへの思いも強いのです。

 まだ、不安材料は溢れていますが、主への期待だけは満ち続けています。それでも、時々、『そろそろかなあ?』との思いがやってくるのです。病まなければ、その当事者の闘いの厳しさは分かりません。死と対峙しながら、もちろん誰もが、そういったところにあるのですが、今は、漢方医でもある、県の病院の医師に、漢方治療を受け始めています。総合的な診察をしてきださり、ことばによる激励もあって、感謝でいっぱいです。

 この医師は、「メディカル・カフェ in 宇都宮」と言う、癌と戦う患者さんと、医療従事者、ボランティア、家族の交流会にもやって来てくださっている方なのです。何よりも、『我はエホバ、汝を癒す者!』とおっしゃる主がいらっしゃるのです。その同じ信仰を持つみなさんからの応援を肌に感じながら、春の到来を待ち望んでいる今であります。創造主や多くの兄弟姉妹、友人たち、家族に感謝の五年の毎日です。

(華南の家の庭に咲いていた花、今咲く胡蝶蘭、宇都宮のおりおん通りです)

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香り立つ珈琲を

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 コーヒーが、まだ漢字混じりのアジア風の香りのする「珈琲」の時代から飲み始めて、ずいぶんになります。初めて喫茶店という店に入って飲んだ珈琲は、ただ苦いだけでした。香りも、それほど気持ちを落ち著かせてくれるような芳香ではなかったのです。

 いつでしたか、宣教師さんと一緒に珈琲店に入った時に、この方は、白湯を一杯もらって、珈琲をそれで割って飲んでいたのです。American の飲み手で、日本の珈琲店のものは濃過ぎたようです。高級種のBlue mountain を、この方の唯一のこだわりにしておいででした。

 華南の街にも、珈琲店ができ始めていく中で、時々、スターバックスに入ったことがありました。「星巴克(xīng bā kè )」と看板が出ていて、木造建築で、とても雰囲気があって、居心地が満点な空間でした。

 その店で、主だった客層は、アメリカや日本と同じで、学生さんたちでした。テーブルにパソコンを置き、あのアメリカの大学街のスタバと同じスタイルで、居心地よさそうに過ごしているのです。アメリカ文化の象徴といった風景でした。

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 この数年、時々行くのが、名古屋発のコメダです。通院日に、好數値の出た時に、《ご褒美コーヒー》をしたくなって行くことが時々あります。珈琲を飲み始めた頃には、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。もちろんインスタントコーヒーでしたが、やはりコーヒーは、豆をミルで粉砕したものが最良で、それを無糖でミルクなしの straight で飲むのが美味しいことを知って以来そのままです。

 このコーヒーですが、飲むことを勧める論と、コーヒー毒論の二論があって、論陣張って闘わせているのです。身体的な健康と精神的な健康の健康論からの論戦です。どちらに軍配をあげたらいいのか、右と左に振られてしまうのですが。最近、お昼には、ミルク割りの家内と一緒に飲むようにしており、美味しそうです。

 何事も、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、一杯のコーヒーで満足でいられるのです。父の世代の歌でしょうか、1939年(昭和14年)の春に、「一杯のコーヒーから(作詞が藤浦洸、作曲が服部良一)」が歌われていました。日中戦爭が始まって1年半ほどの頃です。

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一杯のコーヒーから
夢の花咲くこともある
街のテラスの夕暮に
二人の胸の燈し火が
チラリホラリと つきました

一杯のコーヒーから
モカの姫君 ジャバ娘
唄は南のセレナーデ
貴女と二人 ほがらかに
肩を並べて 唄いましょう

一杯のコーヒーから
夢はほのかに 香ります
赤い模様の アラベスク
あそこの窓の カーテンが
ゆらりゆらりと ゆれてます

一杯のコーヒーから
小鳥さえずる 春も來る
今宵二人の ほろにがさ
角砂糖二つ入れましょうか
月の出ぬ間に 冷えぬ間に

 こんな歌が流行ったのには、驚かされますが、やがて戦争の泥沼にはまり込み、もう引き返すことができないまま、太平洋戦爭が始まり、敗戦を迎えるのです。今では街中にではなく、郊外に小じんまりした店があって、ノンビリできるのもいいようです。

 先週は、お隣の佐野まで、「ふれあいバス」で出かけ、スタバではありませんでしたが、素敵な香りの立つcafe を飲んだのです。十數年ぶりに、この店に入りました。けっこう美味しい一杯で、まだ国內は平和で、コーヒーを楽しむことができました。そんな空間で、ゆったりと過ごせることが長く続くようにと願う春めいた二月の一日だったのです。

(ウイキペディアによる珈琲、華南のスタバ、ウガンダの有機コーヒーです)

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イギリスに学ぶ

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 イギリスと言うよりは、大英帝国というべきなのでしょうか、それほど歴史と格のある国家と言えるでしょうか。でもアジアやアフリカなどの国々を植民地化するような横暴な支配を行った歴史もありますから、手放して格付けするのも問題は残りそうです。

 日本が、封建国家から脱却して、近代国家となっていく過程で、その模範としたのが、この大英帝国でした。長州藩士の志道聞多(のちの井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(のちの井上勝)の五人が、洋行留学(密航してイギリスに留学)をしたのです。「長州五傑」と言われる面々でした。1863年、明治維新の5年ほど前のことでした。同じ時期に、薩摩藩は、19名の留学生がイギリスに密航しています。アメリカではなかったのです。

 ところが、四カ国連合(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)が、長州藩の下関を砲撃する事件、「馬関戦争」が勃発してしまいます。それを聞くと、井上と伊藤は、危険を冒して帰国をします。その井上は、後の三人には残って、学びを続けるように命じるのです。

 残った山尾は造船業を学び、明治維新政府の殖産興業の要職に就き、野村は鉄道を学びました。野村はのちに「井上勝」と名乗るのですが、「日本鉄道の父」と呼ばれるほどの活躍をしています。また遠藤は大蔵省に出仕し、貨幣制度を研究して、「日本造幣の父」と呼ばれるに至ります。あの大阪造幣局の桜の通り抜けは、実は遠藤が発案なのです。伊藤は「日本内閣の父」、井上は「日本外交の父」ということで、5人とも、維新後に新政府の要職に就くのです。明治元年の1868年に帰朝しています。

 少なくとも、明治維新後の日本が、欧米に遅れをとっていたものを取り返していくために、この五人は留学したこと、ロンドンでの学びは意味深いものがあったことになります。明治初期に、イギリスの影響を強く受けたことは、意味深いものがあったことになります。

 いつでしたか、journalist で、tourist writer の兼高かおる女史が、TBSのテレビ番組の「兼高かおる世界旅行」で、30年以上も世界中を訪ね歩いて、つぶさに見聞した方でした。その仕事を終えた時に、次のようなことを、兼高かおるさんは言っているのを聞いたのです。『もう一度、ここぞという思いで訪ねたい国はどこですか?』と聞かれて、この方は、『イギリスを訪ねてみたい!』と言っておいででした。

 それが若い私には、印象深かったのです。政治家や学者ではなく、journalist の目で見た世界で、強烈な印象を残した国という点で、私も、イギリスを訪ねてみたい思いにされたのです。イギリス人には、蒸気機関車のスチーブンソンがいて、ブラウニングという詩人がいて、アフリカ大陸を宣教し探検したリビングストンがいます。彼らは、その生涯を終えて、ロンドンの Westminster Abbey(ウエストミンスター寺院)に葬られています。

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 また、“Never,never,never give up 、ナチス・ドイツの猛攻の前に、母校の後輩たちに向かって、そう言ったのが、ウインストン・チャーチルでした。悪の枢軸に屈することのない、不屈の思いを持って、イギリス国民を鼓舞した首相のことばは、実に重いものがありました。

 この有名な言葉は、19411029日、チャーチルが学んだ母校であった、ハーロー校(Harrow School)で行った演説で語ったものでした。同窓の後輩たちに向かっての演説でした。戦時下のイギリスの真っただ中で、対ドイツとの戦いは余談を許しませんでした。そんな時局に、チャーチルは、自分の心の内にあった確かな信念と強い意志を、後輩たちに告げたのです。

 多分、この地上でなされて、数限りない演説の中で、最も強烈で、強く人々に迫ったことばの一つと言えるでしょうか。このことばは、戦争という国家的危機状況の中で、政治を任された責任者としての、強固な決意が込められていたのです。映えある大英帝国が、どんなに困難な状況に立たされても、決して絶望しないでいること、最後まで戦い続ける決意を鼓舞したのです。それは、イギリス国民に、希望と勇気を与えたのです。

 チャーチルは、戦争の終わった後も、イギリス国民を導いた政治家でありました。1965124日(日曜日)彼はその、90年の生涯を終えています。130日に、「国葬」が営まれ、棺は、「聖マーティン教会( Church Street, Bladon, Woodstock, Oxfordshire, England )」に運ばれ、両親の葬られた同じ墓地に葬られています。ちなみに、時の日本の岸信介首相(長州閥の流れを汲む人でした)も、葬儀に臨席しています。人間は、棺に覆われて、その生涯の全てが評価されるのでしょう。

 「和魂洋才」と言う、不思議な slogan の下に、日本の国作りが行われていくのですが、お隣の群馬県は、養蚕業のメッカで、絹糸の生産の牽引車であった「富岡製糸場」があったことで有名です。わが家に、時々訪ねてくださるご婦人の写真が、この富岡製糸場の記念館に張り出しあてあると言っておられました。実家でも養蚕をされていて、ご自分は、製糸場で働かれたのだそうです。この製糸業は、フランスに学んでいるようです。輸出で得た資金で、日本は国作りをし、工業化と軍国化をしていったわけです。

(ウイキペディアによるスチーブンソンの蒸気機関車、チャーチルの学んだハロー校です)

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よっちゃばれ

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 『こころよき言は蜂蜜のごとくにして 霊魂に甘く骨に良薬となる。(文語訳聖書 箴言1624節)』

 私が生まれた街、当時は、郡部で山の中の村でした。後に合併によって大都市の一部になった村なのです。その地域には、方言があって、独特な言い回しがありました。家の中では、標準語でしたし、自分は病弱で外で遊ぶことが少なかったのですが、それでも方言が、今でも、ひょっとすると出てくるのです。

 その方言の中に、「よっちゃばれ」と言う言葉があります。人が集まること、集まっている状態、集まりを、そう言うのです。『教会は、いろんな人の〈よっちゃばれ〉です!』と言う言い方です。性格も、関心も、価値観も、教育も、生活程度も、思想も違う人たちが、呼び集められていると言う意味で、「よっちゃばれ」なのでしょうか。

 最近、そう言った「人の集まる場」がなくなっているのではないかなと思うのです。集まることを嫌う人たちが増えているわけです。我慢したり、自分を押さえたり、周りの人に合わせたりして、気を使うのが嫌な人が多くなって、一人でいた方が気楽でいい、そういった人が増えているのでしょう。不登校や不出社なども、そんな理由もあるかも知れません。

 漢字を学び始めた頃に、「人」」と言う字が、人が人に支えられた状態を表す象形文字だと学んだのです。人は一人では生きられず、家族や仲間や友人がいて、彼らに支えられ、自分も誰かの支えになる、それが人であるわけです。” person “ は、ギリシャ語が元で、” perusona ” で、“ per” “ sona ” に分けられ、「(前置詞で、〜当たり、〜毎に」と「声」の合成語です。声をかけ合って交わる者を言っているのでしょうか。

 そばにいるだけではなく、言葉を介しながら交流をしながら、生きるように、神さまは、「人」を造られたのではないでしょうか。人と話すのは、時間も必要ですし、待ったり、聞いたり、感じたりしなければならないので面倒なのでしょう。それで、面倒を避けて、一人でいるのを、現代人は、とくに好むようになっているようです。

 高校の頃に、後ろの席に座っていた同級生とは、喋った記憶がないのです。話しかけても、ニコッとしたり、目を向けるのですが、言葉を交わさなかったのです。知る限りでは、誰とも話さなかったのです。教師との受け答えはしていたのにです。ある有名中学から、その高等部に進まないで、入学してきたのです。決心して一生懸命に勉強して、東北地方の優秀な国立大学に進学していきました。その後の消息は不明です。『こんな奴がいるのか!』と思った変った同級生でした。

 親子の間で、兄弟の間で、級友間で会話がない人が多くいるようです。一人でいるのがいいのです。でも、人は言葉を語るように造られてありますから、言葉を引き出して上げる人や機会が必要なのです。そう言った場を提供している人たちがおいでです。群馬県下で、駄菓子屋さんを経営していらっしゃる方は、店にやって来る子どもたちのために、「人とつながる場」を設け、子どもたちに提供する努力をされておいでです。「居場所」、「思い出を作る場所」なんだそうです。

 そんな場所が、日本中に、いえ世界中にあったらいいですね。人は、究極的には、孤独ではいられないのです。孤独の中に閉じ込もってしまった原因があるのです。それを解いて上げたら、人はもっと快活に生きていけるようになります。面倒なことを避けないでいられるような場を提供し、機会を設けたら、人は心を解き放つことができるのでしょう。「よっちゃばれ」が機能しますように!

 「教会」は、そのような場でもありますし、教会の主であるイエスさまとの交わりの場でもあります。人だけの交わりだけでないことが、人と人との関係を最善に保つことができる場となります。賛美し、みことばを聞くことによる「父と子と聖霊」なる神さまが、「二人、三人集まる中」にいてくだるのです。

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