強いのか弱いのか

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 ある人の生涯全体を評価する時に、「功罪」、つまり「功績」と「罪責」とが見られるのです。好いことをしたように見られた人であったのですが、その反面で、その真逆な生き方、思想、矛盾があったことが、歴史研究で知られてしまうことがあります。

  『私も弱き人の子であった!』と、プリンストン大学(神学校)を出て、社会事業に生涯を捧げて生きてきた賀川豊彦が、戦時中、自分の立ち続けてきた生き方、主義主張の節を曲げて、軍国日本への賛同に転じたことを、告白しています。日本が、軍事活動を活発化し、天皇の名のもとに、大陸に進出し、東南アジアに兵を送り、真珠湾を奇襲して、東洋の平和を守るという大義で、軍事活動を断行する中での侵略を是とする告白でした。

 当時、「きよめ派」の教会は、再臨信仰のゆえに多くの牧師たち、百数十名もが監獄に入れられました。その中で転向したり、獄死した人も何人もいました。それだけ厳しい尋問、拷問が、憲兵隊によって戦時下に行われていたのです。

 その憲兵隊に呼び出され、厳しい尋問の後に、賀川が書き残したのが次の文章です。

「『わが兄弟、わが骨肉の為ならんには、たとひ誼はれてキリストに棄てらる・とも、わが願ふところなり』 『国の為には、たとえキリストに棄てられても国に殉ずる覚悟がなければならぬ。国に殉ずる心根こそキリスト精神そのものである。苦難は新しき栄光である。死は勝利の緒であり、十字架は誇の冠そのものである。来れ、来れ、苦しみ、憂き悩みも厭はず勇み歌はん、国を愛する愛をば、愛をば』、死ぬべき時は今だ!君国為に殉じてこそ十字架精神を始めて高揚出来るのだ!血を以て真理を守ることを教へたキリストはアジア解放為に血を流すことを祝福しないではおかぬ。非法を以つて、真理をおおひ暴虐を以つて弱小民族を強奪するチヤーチルや、ルーズベルトをして絶対に勝利を得しめてはならない。血の最後の一滴までをも皇国に捧げよ!その血を捧ぐる時は今だ!真理を防衛せんとするものはその血を惜むな!十字架にのみ勝利はある。キリストの弟子は十字架を負いて皇国に殉ぜよ。』

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 人は追い詰められると、依って立ってきた 信仰の節を曲げてしまうほど弱い者なのでしょうか。その変節や転向について、戦後も触れずに、この人は生きたのです。神戸の新川の貧民窟で活動をし、ベストセラーとなった「死線を越えて」を書き、生活協同組合を起こした人でした。戦後、ノーベル平和賞、文学賞の候補になりながら、受賞できませんでした。

 わたしは若い時に、「死線を越えて」をひもときましたが、「カタコーム(地下墓所)の殉教者」という本も読んだのです。ローマ皇帝ネロによる迫害と殉教の物語です。永生の望み、キリスト信仰、復活信仰を持つ、ローマの信仰者たちは、キリストか皇帝の二者択一を迫られて、闘技場の中で、飢えたライオンの餌食にされるのですが、その死を恐れずに、信仰を守り通して、キリストを王として死んでいきました。

 ところが混乱や矛盾の戦時下の主張に触れず、戦後を生き、71年の生涯を、その賀川は終えていると言われています。わたしは裁くのではなく、事実を知って、弱い人である自分を誤魔化さずに、正直に生き、弁明しなければならないことは弁明し、謝罪をしなければならないことは謝罪して欲しかったのです。この方は、同窓の先学だからです。

 教会の歴史の一つの側面は、名のない夥しい数の殉教者を出し続けてきているということです。例えば、ポリュカルポス(使徒ヨハネの後継者でスミルナの教会の監督)は、イエスを呪えば釈放されると言われながらも、イエスさまへの信仰を曲げずに、殉教の死を選んでいます。ペテロもパウロも、信仰のゆえに殉教したと伝えられています。

 そんな時代が、わたしの時代に再び巡ってくるのでしょうか。そのような、官憲の迫りや脅しに、『自分は耐えられるだろうか?』としばしば考えながら、夜明けを迎えたことがいく夜も、若い頃にありました。『殉教には特別な恵みがある!』と教えられ、その時には、「恩寵の神」が、殉教者の冠を被らせてくださることを知って、今も、そう信じております

 地上の横暴な君主、その君主を利用する勢力が、どんなに猛り狂って、襲いかかってきても、万軍の主、王の王なる主に従うことが肝要です。共産ソ連の迫害を耐えたイワンのことを思い出しております。このイワンは、死の前に、第三の天に引き上げられ、死後に行く輝く永遠のいのちの世界を目撃して、その望みにあって、殉教の死の恐怖に耐えたのです。『耐えられない試練はない!』、からです。
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決して揺り動かされない国

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 「地震大国」、日本を言い表す言葉がいくつもある中で、最も的確な表現だと思えてなりません。華南の街にいる13年の間、一度だけでしたが、台湾で起きた地震が、大陸を揺らしたことがあって、ちょうど友人の7階の家に、夕食に招かれていた時、テーブルだけでなく棟自体が大きく揺れたことがありました。

 そして、帰国した途端、少なくとも月に一、二度は地震を体感してきています。今日も昼前に、『アッ!』と揺れ感じたら、数分後に地震速報を伝えていました。盤石の基礎の上に建っている建物のように思えますが、太平洋プレートの断層がずれて、地震が生じると言った地球の危うさに驚かされます。関東大震災を経験した父が、地震のたびに、『戸を開けろ!』と叫んだ声を、地が揺れるたびに思い出すのです。

 旧約時代の預言者のアモスが、その預言書を記すにあたって、その冒頭に、次のように書き記しています。

 『テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。 (アモス11節)』

 主の再臨の前兆について、聖書は次にように記しています。

 『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。 (マルコ138節)』

 預言者は、地震に揺らされる地球に居を置いて生きている読者に、預言しているのです。安心し切っている人々、アモスの時代も今日も、地に住む者に向かって、どんな時代かを語り始めるのです。わたしが生まれてから起こった多くの犠牲者をもたらせた地震には、2011年の東日本大震災(18446人死亡)、1995年の阪神淡路大震災(6437人死亡)、1948年の福井地震(3769人死亡)があります。

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 地震は地面を揺らすだけではなく、わたしたちの立っている、長年培った自信や確信、経済的な基盤、祖先から受け継いだ屋敷や田畑、将来の計画、明日の予定などでさえも揺さぶり、打ち砕いてしまいます。東日本大震災で、想像を超えた津波に襲われた海岸地帯の様子を、その数年後に訪ねたことがあります。海辺の墓石が倒されていて、そこに雑草が生い茂っているのを見て、墓に入れられた亡骸でさえ押し流されてしまっていたのです。

 成功者や覇権的国家が誇り、あがめているような強固だと信じられてきた組織も支配も、今も揺り動かされています。理想的な国家を築くためだったのに、主導権争いで排除された指導者がいなくなっても、また野心に燃えた指導者が、次に立ち上がり、一度崩壊した国家が、再び頭をもたげようとして、今朝も武器を使用して、隣国を侵略しています。

 人種、家庭、職場、商業、工業、農業、技術、教育、そして宗教でさえも揺り動いて、浮動しています。そんな浮動の世界の中で、決して揺り動かされないのがあります。それは、《神の義》と《聖霊が説き明かす真理》と《キリストの贖い》です。ゆめゆめ、限りある人の決定と支配によって、この世界が永遠に続くかのようなことを考えてはなりません。

 『この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。  こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 (ヘブル122728節)』

 朝起きた時、驚くようなニュースが目に飛び込み、耳に聞こえてくるような時代の只中に、私たちはあります。見て聞くわたしたちは、驚き怪しむのですが、やがて、度重なる報道に思いが麻痺していくのでしょう。でも、万軍の主に目を止め続けるわたしたちは、冷静にことの成り行きを見守ることができそうです。盤石な「神の国」が、着飾った花嫁のようにして、やがて天からくだってくるのです。

 紀元前700年代に予言されたことと、二十一世紀に生きる私たちと無関係とは言えません。そこに、わたしたちへの警告と、どう備えていくべきかが記されているのです。

(2011年の東日本大震災時の報道写真です)

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この道を歩く

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 健康管理に、「散歩」を勧められて、それを実行しています。ある距離を強く速く歩き、その後、ゆっくりと漫歩する、これを繰り返すのが、一番好い散歩術なのだそうです。これは散歩道ではありませんが、中国と中近東にかけて、人や物や文化が往来した「絹の道」がありました。

 その道をたどって日本にたどり着いた物が、「正倉院」に収められていると、日本の歴史で学んだことがありました。時と人は過ぎ去りましたが、物言わぬ物は、数千年の歴史の中にあり続けていることになります。

 「道」と言えば、日本には、「日本の道百選」と言われる道が、各都道具県に2〜4つほどづつ選ばれています。1987年に、当時の建設省と「日本の道100選」選定委員会によって選ばれています。何年か前に、札幌に出掛けて、そこにあった「札幌大通〜札幌の憩いの場〜」も、私の子ども頃に遊んだ「旧甲州街道〜宿場町の面影を残す道〜」も、私の祖先が馬上凛々しく参内のために歩んだ「若宮大路〜鎌倉の歴史ある道」も選ばれています。

 その他に、「哲学の道〜思索にふける道〜」と、呼ばれているものもあります。次の様に、この道が解説されています。

 「京都・東山の麓に哲学の道と呼ばれる絶好の散策スポットがあります。南は永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水に沿った散歩道です。京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工の水路です。南禅寺の水路閣も疎水の水を流すために作られたものです。哲学の道に流れている疎水は大津で取水されたあと長いトンネルを経て蹴上(けあげ)に到達します。蹴上から分水して北上する疎水が南禅寺水路閣を経て哲学の道に流れています。哲学の道は、疎水の西側に散歩用の石畳が敷かれ、日本の道百選にも選ばれている散歩には最適の道です。右の航空写真で見ると哲学の道の部分が緑の線として見えます。住宅地の中を緑の絨毯が敷かれているようです。」

 多くの哲学者が、哲学しながら歩いたのだそうですが、それは、「善の研究」を著した西田幾多郎の京都時代の散歩道だったそうです。彼の弟子の田辺元、三木清らは、師に倣って、同じ道を辿ったので知られています。幾多郎は、こんな和歌を詠んでいます。

人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり

 幾多郎は、石川県出身の「加賀の人」で、第四高等学校(現金沢大学です/中退)から東京帝国大学に進んで、哲学を専攻し、日本屈指の哲学者であります。哲学などとは無関係な私ですが、京都は魅惑的な街ですから、同じ道を思索しながら散歩をしてみたいな、と思うのです。はなから、思索など程遠く、美味しいラーメンやコーヒーやケーキのことを考えてしまいそうでなりません。
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 そう言えば、京都の北になるでしょうか、大原に二年連続で、訪ねたことがありました。静かな村で、最初の訪問の夜には、小雪が舞っていたのです。その大原から、薪を頭の上にのせて、京都までの道を下って売りに出かけた「大原女(おはらめ)」のことを聞きました。村の道の駅や喫茶店に寄って、村の話を聞いたりしたのです。閉じ籠り症候の今日日、思い出すのは、旅の記憶ばかりです。

(秋の「哲学の道」と「大原女です)
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昔ながらの物や生き方

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 感心していることがあります。13年の留守の間に、忘れていた感触を、栃木に借りたアパートの一室で、実に懐かしく楽しんでいます。小学校の友人の家が畳屋さんで、彼のお父さんのしている作業を、座り込んでジイーッと眺めていたことがあります。右利きでしたので、母が持っていないような大きな針に、これも見たことのないような太めの糸を通して、肘を使って締め上げて、上手に作業をしていました。

 あの時と同じように、伝統的な仕事をしたであろう、畳が、この一部屋に敷いてあるのです。稲藁の畳床にい草の畳表で覆ってあるのに、丈夫なのです。その上に立って、窓から東を見ますと、筑波山が遠望できるのです。寝そべった時や、裸足で踏んだ感触は、なんとも言えずに懐かしさが蘇ってきて、父の家で、兄や弟たちと相撲をしたり、喧嘩してすり減らした畳を思い出すのです。

 その畳のある部屋に住んで、3年半が経ちます。しかし、畳表を替えてあった青々としていたのですが、経年ででしょう、その色は薄れてしまいました。わたしが蚊取り線香を落として、ちょっとした焦げ目がついてある以外に、ほとんど擦れていないです。

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 その丈夫さ、持ちのよさに、今さらながら驚かれされております。日本と言う風土に中で長く育まれた生活様式、道具などには、極めて優れた技能や工夫がみられるのです。この生活している畳部屋に、もし障子や襖があったら、その趣きは倍加するのではないでしょうか。

 自転車ですが、スーパーや Do it yourself 店で買う物は、安いのですが壊れやすく、国産品は高いのですが、良品なのです。もう価格競争に勝てなくて販売戦線から離脱してる現況ですが、丈夫で長持ちします。どちらを使うかは個々の決定です。でも、やはり良質な物、真価が試されている物。長らく使われているものは、それなりの支持があるようです。

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 風呂桶にしても、檜の桶などは、もう贅沢品で庶民の手には届きようにありませんし、価値を認める人も多くなくなってきています。父が、風呂に入って髭剃りをすると、その剃刀(かみそり)を、ガラスのコップの中においで、指を動かしながら研いでいました。ああやって物を大切に使い続けたのです。それが生活の知恵でしょうか、昔ながらの物、考え、決まりがあって、物を大切に使う生き方があったわけです。

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いいなの秋

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  秋はいいな涼しくて

お米は実るし くだものも

山からころころやってくる #

 九月、夜が長くなるというのでしょうか、「長月」になりました。英語では、第七番目と言う意味から ” September “ です。別な言い方で、「祝月(いわいづき)」とか「彩月(あやどりつき)」とか言うのだそうです。日本では新学期、アメリカなどでは、新学年が始まります。

 そんなことを考えている今朝、沖縄地方では、とても強い台風が来ようとしています。ザワザワと騒音のする出来事も起こっていて、秋の夜長を邪魔されたくない思いがしています。

 この夏、ずいぶん西瓜を食べました。今まで、入れる隙間のない冷蔵庫なのに、丸くて大きなスイカばかりを買っていましたが、小玉西瓜を何度かいただいてから、その小さな物ばかりになりました。あるスーパーで、地物売り場にあったのが、この写真のスイカです。最後になるでしょうか、とても甘かったのです。昨晩で食べ切りました。

 やはり秋がいいのは、果物が出回ることです。糖分の過剰摂取にならないような注意をしながら食べることにします。灯火親しむ読書の季節に、日本を知る旅に、やはり秋はいいな、ですね。

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徳島県

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 わたしが出会った中国の方は、ほとんどが、標準語を話されます。アニメを見たり、今では YouTube で学ばれるからです。わたしの知人に、日本に来られて、徳島市の語学学校を出て、京都大学で学び、博士論文をとられた方がいます。

 この方が、河南の町の大学の副教授で、先日、関西圏の大学で特別講義をするために招かれて来られ、休みをとって、家内とわたしを訪ねてくれたのです。なんと関西圏訛りの「徳島弁」の accent  で話されるのです。徳島市内でアルバイトをしながら、猛烈に学んで、そこに7年もいたそうです。今では講義を日本語でし、学会の研究発表は英語でするのですが、普通のおニイ然とした方です。

 これまで多くの中国の方と出会いましたが、この方が、日本語の喋り言葉が一番上手なのです。退職したら、徳島の古民家に住みたいとの願いがあって、それを手に入れる計画を持っておられるのです。そんなに徳島に魅せられといるのに驚かされてしまいます。

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 徳島は行ったことが一度もありません。「鳴門の渦潮」で有名ですが、どんな風なのか見たいとは思ったことはありましたが、そのまま訪ねずじまいなのです。瀬戸内海と紀伊水道とに、干満の差があってできる潮流の自然現象なのだそうです。一日中見られるのではなく、塩の満ち干によってでき、渦の大きさはは、最大で直径20mもあるそうです。

 38万kmも離れている月との距離があるのに、月の引力によって、地球上の潮の干満ができるという話を、小学校で学んで、驚いたことを昨日のように覚えています。海面が引っ張られる現象なんて、あんなに重たい、地球上の水を地球の海水ごと引く Energie とは、どんなに強力な力をもっていることでしょう。静かな月を見ていては、想像もつきません。

 月ばかりではなく、太陽との地球の相互関係を考えてみると、ちっぽけな子どものわたしの頭では、理解できませんでした。太陽系の広がり、宇宙の壮大さには圧倒されてしまいます。地球を取り巻く星々を眺めるに、空間に浮いて光り輝く神秘さには、驚かされるだけでした。でも、神の創造を信じられた時に、納得できたのです。

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 県都は徳島市、県花はスダチの花、県木はヤマモモ、県鳥は白鷺、県の色は藍(あい)色、人口は70万人です。律令制下では、阿波国、蜂須賀氏の所領でした。県の色が「藍色」と言うことは、吉野川流域に行なわれ続けてきた「藍染(あいぞめ)」が、地場産業であり続けてきたからのようです。

 「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ/青は藍より出でて藍より青し)」という諺がありますが、日本独特の青で、“ Japan Blue ” と言うそうです。父の大島の和服は、この藍染めで、母が仕立て直してくれて着たことがありました。

 また、四百年もの伝統を持つ「阿波踊り」にも驚かされてきました。直接見たことはありませんで、映画やテレビで見た時に、日本人が、こんなに豊かな感情表現をすることに驚いたのです。どこにも年中行事があって、お囃子の演奏を聞きながら、輪になって踊る風俗が残されていますが、あんなに豊かな身体運動をする阿波人に驚いたのです。人は、抑圧されていればいるほど、その表現も激しいのでしょうか。

 『日本人も捨ててはおけないな!』と思わされたのです。一般的に祭礼の時に、激しく踊ったり、歌ったり、騒いだりするのは、「一揆(いっき)」を生むので禁止されていた江戸期に、それを許した阿波のお殿様は、ずいぶんと理解のあった領主だったのでしょう。



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 この藍色を、「勝色(かちいろ)」とも言うそうで、〈阿波ナビ〉のサイトには、『藍には抗菌作用、防虫、防腐、防臭、保温、保湿、紫外線遮蔽など、さまざなまな効用があります。 また、化学薬品を一切使用していない藍染めは、赤ちゃんの産着としても使用でき、小さな子どものアトピー性皮膚炎の予防・緩和にも効果があるといわれています。』とあります。

 染料のためだけではなく、自然界には、驚くべき備えがあるのに気付かされます。子どもの頃に、じめじめした家の裏側の隅に生えていた「ドクダミ」が、ただの雑草だと、この頃の方は抜いてしまうのだそうですが、怪我やおできの時に、しぼったった草の液を患部に塗ったのを覚えています。

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 わたしたちが長く過ごした華南の街の巷に、清(しん)の時代の古民家街がありました。そこに、「(うだつ/今では〈卯建〉と書きます)」があったのです。火事が起こった時に、隣家に延焼しないための防火壁があって、それを、「」と呼んでいたのです。

 徳島県の吉野川沿いの美馬町にも、このが残されていて有名なのです。藍の集散地で、豊かな商家が連なっていたからでしょう。庶民の住む長屋には、あまり見られませんが、豊かな商家には、財産を守るために備えられていたのです。

 このですが、『あの人はが上がらないようだ!』と、いつまで経っても、才能や稼ぎのない人を、からかう言い回しがあります。の上がるような家に住むようになることを、良いこととする社会だったからなのです。

 一軒の家も建てることなく、借家住まいの連続で、生まれてから幾度となく引っ越してきたわたしは、梲を上げ雨られませんでしたが、高く夢だけは掲げながら、今日まで生きてきたと思い返しています。この自分の生まれ育った国に、主の名が高くあがめられることが、その夢なのです。

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秋めく


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 散歩の道の途上の草むらの中に咲いていた花です。季節を彩る秋の空にも秋の雲、果物屋さんの店頭にも秋の果物、心の中には秋の思い出が蘇ってきます。明日からは9月です。どんな秋、どんな日々、どんな地球なのでしょうか。

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まるでビー玉のような

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 『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(イザヤ457節)・・・このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ4512節)』

 ここ栃木でも、秋から冬にかけて、夜空が澄んで、星が瞬いている様子を、もう間もなく見上げることができるようになります。広大な宇宙への憧れは、どなたでもお持ちなのかも知れません。ご多聞にもれず、わたしも月や星を眺めるにつけ、そのはるか彼方で輝き続ける様子に圧倒され、打ちのめされるような感じがします。

 1971年、アポロ15号が打ち上げられ、その飛行士であった、ジェームス・アーウインは、その前後の様子を、次にように語っていました。

 『・・・打ちあげの朝、車を走らせながら自分の人生を振り返り、いろいろなことを考えた。自分の人生はあれでよかったのか、きょうはどこへ自分は行こうとしているのか。本当はどこへ行きたいのか。

 やがて、あたりが明るくなった。太陽が昇る。空には打ちあげをさまたげるような雲は見あたらない。小鳥のさえずりが聞こえてきそうだが、車のなかは物音一つしなかった。ふたりとも口をきかなかった。ただ、いよいよだなという思いを込めて見つめ合ってほほえんだ。あまりにも多くの思いが、頭の中を駆け巡った。でも、語る言葉はなかった。

 ロケット発射台に着く。エレベーターに向かう。あの朝はいつもよりゆっくり歩いたように思う。ふたりはあたりを見回した。これが地上の見納めになるかもしれないとも思った。なに一つ見逃したくなかった。ロケットは朝日を浴びて白く輝いていた。そのサタン5型ロケットのはるかてっぺんに、われわれの乗る小さなモジュールが見えた。

 ロケットがきょうは身近なものに見える。うまく動いてくれるだろうか。本当に月まで連れて行って、また地球に連れ帰ってくれるのだろうか。そんなことを考えていた。・・・』

『・・・遠ざかるにつれ、地球は小さくなって、とうとうビー玉ほどに縮んでしまった。想像できないほど美しいビー玉である。美しく、暖かく、そして生きている。それは非常に脆くてこわれやすく、指を触れたら粉々に砕け散ってしまいそうだった(月へ向かう軌道上)。』

 そして、アポロ15号で月に到達したジェームズ飛行士は言葉を失った手、次のように感嘆したのです。

 『ここには神がいる!』

 地球から一番近い星である、宇宙空間に浮かんでいる月は、その神秘さを眺め続けてきた人にとっては、特別な存在でした。ところが、ジェームス飛行士は、そんな月から地球を見た時、その美しさや暖かさやもろさ、生きているのを感じて、圧倒されたのです。〈ビー玉〉のようだったと言うのです。今もありますが、ラムネの瓶の中に、このビー玉があって、手に入れたいのですが、瓶を割らなければ手にできませんでした。

 玩具屋の店先に、ビー玉だけが売っているのに、閉じ込められていると、余計にそれをこじ開けたい衝動に、子どもは駆られるのでしょうか。地球が遠くに、ビー玉状に浮かんで見えると言うのは、月を見るよりは神秘的に違いありません。そこで生まれ、そこで育ち、社会活動をしているからでしょう。

 人生も、こう言った距離をおいて見たり、考えたりしたら、また別な意味が出てきそうです。詩篇の記者、ダビデは次のように言っています。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足のに置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇839節)』

 万物の神の「注目の的」、創造者としての神の愛の対象としての「人間」なのです。その神が、全宇宙を支配しているのです。それ程偉大なのに、私たちを愛して、わたしたちの傍らに、いつもいてくださると約束してくださるのです(☞マタイ2820節)。

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島根県

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 母の出生地、出身地が、島根県出雲市ですから、わたしにとっては特別な県であります。それは、父が、母の出身地を本籍にしましたので、この父母の四人の子の私たちにとっても本籍でした。二人の兄たちは出雲で生まれています。多くの日本人が skip (飛び越えてしまう)してしまう県の一つで、今わたしたちの住む栃木や群馬と並ぶ、『どこにあるの?」と思う県なのでしょう。

 この街で伝道活動をしていたカナダ人宣教師の教会に、友人の誘いで、母は導かれてクリスチャンになっていますから、母への一番の感化、生きる道を示され、癒やされ励まされた街や県でもあるのが、この島根県出雲市でした。日本の神々が、「神無月(かんなづき/十月)」に集まるほどの宗教都市だとされてきた街に生まれて、天地万物の創造、統治の神を「神」と、母は信じることができたのです。

 さらに、この地域は、「神話のふるさと」と言われる地で、「大国主命」や「因幡の白兎」の話を、子どもの頃に聞かされています。母にとっての神は、「父なる神」だったのです「

 『私たちが神の子どもと呼ばれるために、--事実、いま私たちは神の子どもです--御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1ヨハネ31節)』

 〈父なし児(ててなしご)〉が、聖書に記された神、カナダ人宣教師が知らせてくれた神が、「父」であったことで、母は本物の父親を知ったのです。そんな出会いをして、生き直すことができたわけです。

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 出雲からも伯耆大山(鳥取県)が見えたでしょうか。山陰一の山なのですが、この山も富士山に似た形状をしています。島根県には、「しじみ漁」で有名な宍道湖があります、東に松江、西に出雲が位置していて、私たちが知らない「しじみ料理」が地元にはあるようです。

 安来市は、泥鰌(どじょう)が有名で、その「安来節」は、尻っぱしょりに鼻手拭いをして、どじょうをすくう竹製の手箕(てみ)をもって、腰には「魚籠(びく)」を下げて、面白おかしく歌って踊るのですが、そのせいで、父は、小川に入ってはドジョウすくいをするのが大好きだったようです。いつか、浅草に行って、父の約束を《お一人様成就》しようとは思っています。

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 県都は出雲市、県花はボタン、県鳥は白鳥、県木は黒松、県魚は飛魚、人口は66万人、これが島根県です。古代の書である「出雲風土記」が残されていて、律令制下では、出雲(いずも)国、石見(いわみ)国、隠岐(おき)国の三国がありました。 

 母は、自分に兄弟姉妹のいない一人娘でしたので、養父母に丁寧に育てられたようです。養父は早世して、母子家庭で育っています。「今市小町」と言われたと、親戚の叔母に聞き、相当のお転婆だったそうです。でも養母に、厳しく育てられたのでしょう、和裁が上手でした。父の和服を解(ほど)いて、洗って、独特な針棒で庭に干して、縫い直したりしていました。負けず嫌いで、家事一切が上手になされていました。

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 その養母が、五月の「端午の節句」には、この四人の男の子の無事と成長を願って、「ちまき」を作って、毎年送ってくれました。笹の棒に米粉の団子をつけ、笹の葉でくるんでありました。それを母が蒸してくれて、砂糖醤油で食べたのです。あの笹の蒸した匂いが、私たちの五月でした。母の養母の故郷は、雲南市だったのでしょう、その地域の季節の食べ物だったのかも知れません。

 合併前は、「大東(だいとう)」と言っていましたが、その街をわたしは訪ねたことがありました。出張の帰りに寄ったのです。立派な家で、「五右衛門風呂」に、簀(すのこ)の上にのって、鉄製の湯ぶねに入ったのです。あんなに体の芯までポカポカにえなったことがないほど、素敵なお風呂でした。都市部では体験できない、出雲地方に残された生活形式に触れたわけです。

 同じ雲南地方の「木次(きつぎ)」では、「たたら製鉄」が行われてきていました。とくに松江藩は、この製鉄に力を入れて、藩財政の基盤としていたようです。「たたら」は「鑪」と漢字表記され、木炭の温度を高めるために、空気を送るために使われた「鞴(ふいご/送風器)」のことです。

 古墳時代には、この製鉄が始まっていますが、製法の変遷を経て、揖斐川の流れが運んでくる砂鉄を原料に、木炭を使用した製法で、強度の強い「鉄」を生み出したのです。その鉄は、北前船に乗せられて、全国各地に運ばれ、刀剣、包丁、飾り物などに用いられたのだそうです。この種の製鉄は、全国各地で行われたようですが、「木次」のあったものが後世に受け継がれて、残されています。

 日本海に面した日御碕(ひのみさき)に灯台があって、そこに連れて行ってもらいました。母の遠足地でもあったようです。出雲大社は、小学校一年の母の家出で、母の帰郷に伴って出雲行った時に、あの茂ちゃんに連れて行かれて行ったことがありました。でも参拝した記憶がないほど、《真の神だけの礼拝》をする確かな信仰のクリスチャンの母の生き方に影響されていたのでしょう。

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 この地の名物が、「出雲蕎麦」なのです。三段重ねの小さめの「蒸籠(せいろ)」に入れられていて、何種類もの薬味を入れて食べるのです。信州そばも、ご当地・栃木の出流蕎麦も美味しいのですが、この出雲蕎麦は格段に美味しく感じられました。その蕎麦を、茂ちゃんが、「アゴの野焼き(飛魚で作られた練り物)」と一緒に、毎年年末に送られてきました。全く母のふるさとの味でした。

 「天然コケコッコー」と言う映画を見ていた時に、主人公だったと思いますが、家を出ていく時に、『行って帰ります!』とお母さんに言っていました。中国地方や山陰地方では、そう言うそうです。物をもらったりして、感謝する時に、『だんだん(ありがとう)!』とも言うのです。

 よく父が、母のふるさとの出雲弁を揶揄(からか)っていたことがあります。母は、父の歯切れの良い東京弁に好意を感じたようです。若い頃の父は、けっこう美男子だったようで、いく葉もの写真の中に、そんな父が見付けられます。

 都道府県の中で、鳥取に次いで、ここ島根県は人口の少ない県ですが、出雲、石見、隠岐の三か所に空港があるのです。今、ちょっと人気なのが、東京駅と出雲市駅を結ぶ、JR特急寝台の「サンライズ出雲・瀬戸号」が運行されていて、いつか乗って、母の故郷を訪ねてみたいな、と思っております。

(アゴの野焼き、たたら製鉄、宍道湖の夕陽、JRサンライズ出雲市です)

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一番美味しかったかな

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 驚かされるのが、ここ栃木市に珈琲店が多いことです。全国展開をしている珈琲屋が、今にぎやかです。気取っていない庶民的な空間、そしてメニューで人気を博していて、たまに、モーニングを孤食するのですが、学生の頃に、よく行った、JR駅前の〈ルノアール〉とは違って、椅子もテーブルも簡素でスッキリし、座り心地と居心地がよく、珈琲もおいしく、アンコの好きな自分には、老いのひと時の楽しき孤空間なのです。

 華南の街の古街が、瞬く間に都市観光整備で新しくされ、その道筋に、「星巴克(スターバックス)」ができて、おおにぎわいでした。建物も客も中国風ですが、そこに息づいているのは American culture で、中国語が聞こえなければ、まさにアメリカにいるようで、珈琲の値段もアメリカンだったのです。

 どこも同じで、卓上にパソコンを置いて、睨めっこをする若者、友人と来て無遠慮に大声で話し合うグループがいるのは特異で、雰囲気はロサンゼルスのStarbucks そのものでした。日本が米化をしていったように、その動きを中国も免れていません。ただ、スプーンで珈琲を口に運んで飲む人がいて、気になりました。どう飲んでもいいのですが。

 さて、宣伝がましいのですが、わたしが時たま行くのは、「コメダ珈琲店」です。散歩の途中や自転車で買い物の折に、チョコっと寄るのです。時には調べものをしたり、聖書研究をしたり、ブログを作ったりもします。

 二人席に陣どって、コンセントにiPad をつなぐのです。隣のbooth が気にならない、まさに自分の席になって、美味しい blend を飲みながら、トーストに餡子を載せて食べると、小ゼイタクをしているようですし、家で自分で入れて飲むのとは趣が違って、時には好いのです。

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 先日、自家焙煎のコーヒーをいただきました。ご自分で豆を買って炒るのだそうです。そこまで通の方がいて驚きますが、京都の若き友人が、先日も送ってくださって、アフリカの自然栽培のウガンダ産の豆が、気に入ってしまっています。でも、四つ葉生協で注文したりで、いつも産地も違っていて、そんなに拘っていません。

 初めて飲んだ時が、いつだったか覚えていません。父や母や兄たちや弟が、家でコーヒーを飲む姿はありませんでした。だれかが買ってきて、インスタントコーヒーが飲まれるようになった日は覚えていません。学校に行くようになってから、苦い飲み物に、ミルクと砂糖で飲み始めたと思います。自分で淹れて飲むようになったのは、一緒に働かせていただいた宣教師さんの《たった一つの贅沢》だった “ Blue mountain ” を、彼が淹れてくれて、ほんとうに美味しかった頃からです。それ以来、Blender を買って、自分で豆を挽いて、No milkNo sugar Mug (和製英語はマグカップ)の珈琲党になったのです。まだ買う豆はブルマンにはなっていません。

 『むかしアラブの国のお坊さんが・・・』と言う、Coffee rumba という歌を聴いて、珈琲の起源がアラブにあると思っていたのですが、やはりアラブで始まった飲み物だったそうです。初め苦くて大変だったのが、炒り方、淹れ方、飲み方が、工夫されていったのでしょう。今や世界中で飲まれるようになって、ここ栃木には、我々世代の珈琲党が大勢おいでです。

 戦争が終わって、アメリカの生活様式が入り込んできて、このコーヒーも、American の薄めの Coffee になったと思ったのですが、喫茶店のものは、実に濃かったのです。あの宣教師さんは、喫茶店に入ると、もう一カップのお湯をもらって、それで割って、嬉しそうに飲んでおいででした。でもこの方の入れてくださったのが、一番美味しかったかな!
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