博多っ子

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 こんな句が残されています。

風車 風が吹くまで 昼寝かな

 オランダの象徴のように、風に身をまかす「風車」が、風の起こるまで、じっと待っている姿が、見て印象的だったのでしょう。左遷され、不遇な時期に、オランダの風車を眺めたからでしょうか、ジタバタしたり、悔やんだりしないで、読書に専念していた頃に、第32代総理大臣を務めた廣田弘毅が、「かざぐるま」と詠み始めた句なのです。このお方の生き方そのものだったようです。

 江戸期の幕藩体制化、筑前国に、黒田氏の治めた「黒田藩(福岡藩の俗称でそう呼ばれています)」がありました。この藩士たちを、「黒田武士」と呼び、明治維新後、この黒田の武士たちによって、欧米の植民地化されていたアジア諸国の解放を旗印に立て上げた政治団体に、「玄洋社」がありました。

 この団体は、ただの〈右翼〉では片付けられない、明治維新政府の偏向を正す意味でも、その主張や動きや存在に、大きな意味があった、と見ていいのではないでしょうか。後に、外務大臣、総理大臣に就任する若き日の広田弘毅は、父と共に、この玄洋社に関わっていたのです。

 この父子は、日宋貿易の商取引の中心地の博多の出身でした。そこで、お父さまは、農民野出で、丁稚奉公をし、石屋の養子とされた勤勉な石工をされていたのです。ただの石工ではなく、政治的にも目の開かれていた人でしたので、その親を見て育った広田弘毅も、父の信念に従ったのだろうと思われます。この方の半生を見た時に、いわゆる極右であったとは言えません。

 福岡の名門の修猷館(しゅうゆうかん)中学校から、一高、東大に学んだ優秀な学徒で、外交官試験に合格し、外交官となって、国に仕えようとした人でした。不遇時代に、苛立ったり、悔やんだりするのではなく、風が吹き始めるまでは、読書三昧で過ごし、日本の行くべき道筋に思いを向けていたのです。人は屈んでいる時に、力を蓄えられるのかも知れません。

 平和な時代に、生きることを許されず、大国主義の日本の怒涛のようなうねりの中で、終戦を迎えます。戦後処理の「極東軍事裁判」で戦犯として処刑されて、その生涯を終えてしまった、実に惜しい器だったのです。平和な時代に生きて、穏やかな日本に、良き導きをして欲しかった器でした。

 その東京で開廷された、日本の戦争責任を問う裁判の折、法廷に立つ被告たちの裁判に不利にならないように、自らの弁明を引っ込めたのです。二・二六事件後に、軍人畑でなく、名門出でもない廣田弘毅が、首相に就きます。また盧溝橋事件後に、外務大臣に就き、和平工作に広田弘毅は励のでですが、それを阻まれます。

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 その首長在任中の南京陥落、南京虐殺、さらに太平洋戦争開戦時の外務大臣時、さらに総理大臣時の責を負っても、自己有利な証言をせずに、断頭台に上がったのです。戦争には、直接関わらなかった非軍人に、死刑を宣告した東京裁判にも、大きな問題が残るにではないでしょうか。でも、広田弘毅の「潔さ」は、あの責任回避、責任の擦り合いのさなかで、際立っていたのではないでしょうか。

 要職にあった時、地元に道路を敷いたり、橋を架けたり、工場を誘致したりなどの、故郷への貢献などは、全くしなかった人だそうです。ただ、古里の若い人を激励したり、育てたりした人でした。また、東京に連れて行こうとしても引き返すお母さんをおぶって、家に連れ帰ったりした、市井の人だったのです。それで、私のpen name は、この方の名に因んでいるのです。

 『廣田弘毅ばよか男やけん!』、この人のような政治家を、今の時代こそ必要としているのですが、どこかに隠れて、風車を見ているのでしょうか。次の日曜日は、わが県議会の議員選挙の投票日です。

(オランダの風車のイラスト、博多湾全景です)

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納豆とくさや

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 わが家の夕食の食卓に、必ず載せられている「おかず」があります。それは「納豆」です。

 お隣の国で過ごしていた時に、その街には、日系企業で働く日本人が、けっこういらっしゃって、『あの通りの角の店に納豆があります!』と言う情報を得て、何度もバスに乗って買いに行ったのです。上海経由で、冷凍納豆が置かれてあったのです。言うまでもなく、とても高いのに閉口しました。

 その他に、オーストラリアからの留学生で、お父さんが東京の下町の出身で、オーストラリアの街で商店をされていて、功夫(カンフー)の修行のついでに、語学研修をしていた方が、〈納豆菌〉を持参していて、自家製で作ったのです。弁当箱のような器に入った物を、ニ、三度頂いたことがありました。菌がよく働いていないで、ネバネバなしの納豆だったのです。

 室町幕府の足利尊氏や鎌倉幕府を起こした源頼朝の祖に、「八幡太郎」と言われた源義家がいます。「下野守」を任じられて、この下野の地を治めていた方です。この方に、納豆の逸話が残されているのです。

 『八幡太郎義家とは通称で、平安時代後期に活躍した武将「源義家」のことを指します。義家は後の源氏勢力を形成するべく、京都から奥州平定を進めていきました。その戦でたどった道筋には、なぜか現在にも続く納豆の産地が多く含まれているそうです。なぜなのでしょうか・・・
戦に兵糧は欠かせませんが、その一つに煮豆がありました。その煮豆をワラで編んだ俵に詰め込み、馬の背に載せて携行していたそうです。でも、そのままではいくら進軍しようとも「ワラに入った煮豆」でしかありません。それがある偶然を経て、糸を引く納豆へと変化したようです。その条件とは・・・
それは「馬の体温」だといわれています。馬の体温はわれわれ人間より高い38度前後だそうですが、その38度というのが、ワラに付着した納豆菌が活発に繁殖する温度になります。(現在の納豆づくりでも納豆菌を加えた煮豆を発酵させる部屋の温度は38度ぐらいを目安に管理されています。)その条件によって元気になった納豆菌が煮豆に作用したことで、糸を引く納豆の原型のようなものができたようです。(ちなみにその戦では京都丹波山国地方よりの出兵が多く、現在もその名残で京都京北の山里では自家製納豆が作られ、「京都京北が納豆発祥の地」と村おこしをされておられます。)
現代の私たちは納豆という食べ物を認識していますから、もしその場にいたとしても「これ、腐ってるように見えるけど、食べてみたら結構いけるんやで~」などと言えるかもしれませんが、実際その場にいた兵士達は最初どんな気持ちで食したのでしょう・・・戦の中の食事ではそんな悠長なことは言ってられなかったのかもしれませんね。
そんなこんなで兵糧として納豆が偶然としてうまれ、義家が進軍した地域と帰ってきた京都にその製法が残り、その地ではいまでも納豆文化が続いているということのようですね。(「鶴の子納豆本舗」HPから)』

 スーパーマーケットなんてない子どもの頃、この納豆を自転車に積んで、売り歩いていた人がいました。同じ大豆から作る豆腐も、兄の同級生が、売っていたのです。

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 健康維持や促進に、《発酵食品》が良いことが分かっていて、どこの民族にもあります。伊豆諸島の利島で、中学校の先生をしていた方が、『ご家族で遊びにおいでください!』と招いてくださって、みんなで出かけた時、船着場付近に、伊豆名物の「くさや」作りの建物があって、そこにタンクがあったのです。くさやを漬け込む液が入っているとのことで、その匂いが強かったのを思い出します。

 その液が、「魚醤(ぎょしょう)」と言う発酵液なのです。くさやはその昔、離島の厳しい日々の暮らしの中から生まれた、生活に知恵のひとつだったようです。漁で獲った大切な魚を、より長く保存するために、桶の中の塩水に漬け込んで干し、干物にしていたのです。

 塩や水は、当時はとても貴重であったため、一度使った塩水に塩を足しつつ何度も漬け込みを繰り返したのだそうです。魚の成分から微生物が発生し、塩水が発酵、ついには独特な香りと味をもった「くさや液」が出来上がったそうです。その匂いを、豊島で嗅いだわけです。このくさや液の手入れは、主に女性が日々培ってきた感覚で維持・保存されてきています。

 母がしていた、あのぬかみその手入れと同じ手法でした。ぬかみその味がその家のお母さんの腕で決まるように、くさや液は島の嫁入り道具のひとつになったそうです。また、くさや液は古いものほど良いとされ、二百年以上前から手入れ保存されているものもあるのです。

 美味しいのですが、その匂いが嫌いな方がいるので、アパートの部屋で、買ったのを焼いて食べる勇気がありません。秋刀魚も、モクモクと煙を出す炭火のコンロで焼くのが美味しいのですが。スーパーの鮮魚コーナーんは、ほとんど見かけません。山奥で焼いたらいいのでしょうか。熊や猪が匂いにつられて出てきたら、どうしよう!

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散り始めの桜花(VTR)

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🌸Video 近くの道路脇

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 散歩帰りの桜が、41日の今日、チリ始めています。春の全国高等学校野球選手権大会で、山梨学院高等学校が優勝しました。山梨県の山奥で生まれ、子育てをした街の高校が、優勝できたのは、とても嬉しいことです。笑顔や健闘、清々しさが素敵でした。何百校の頂点に立つと言うのは、いい気持ちなのでしょう。さらなる精進を願う、卯月朔日です。

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栃木県

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 今の群馬と栃木は、毛野国(けぬのくに、けののくに)と呼ばれていたそうです。律令制下では、群馬は上毛野(上野国/こうずけのくに)、栃木は下毛野(下野国/しもつけのくに)と呼び名が替えられています。栃木を北から南に流れる、「鬼怒川」がありますが、その呼び名の漢字表記が、毛野川、衣川、絹川を経て、鬼怒川に定着したと言われています。漢字伝達以前に命名され、呼ばれていたのを、漢字表記をしたことから、そう考えられています。

 関東平野の奥まったこの地域は、氾濫原であって肥沃で、穀物、とくに米をよく産出したようです。確かに、東京から電車でも車でも乗って、栃木に向かう地は、延々とした平野であることが分かります。その地を、勤勉に、農家のみなさんは耕して植えて実りを収穫してきた姿が、見えるようです。

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 源平の合戦の折に活躍した、源頼朝に仕えた「那須与一」が有名で、大田原市に、その名にちなんだ「与一温泉」があります。これも温泉ブームで誕生した温泉であって、郷土の偉人の名を冠しているのです。関ヶ原の合戦前に、小山において「評定(ひょうじょう)」がもたれています。

 この「小山評定」は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議だと言われます。慶長五年(1600)の七月に、家康は、会津の上杉景勝を討つために北上の途上、小山に本陣を置くのです。その時、石田三成が兵を動かしたとの知らせがあって、急遽家康は本陣に諸将を招集したのです。『このまま上杉を討つべきか、石田を討つべきか?』を軍議にかけ、家康の従う者たちの結束ができ、石田征伐を決めます。これが「小山評定」なのです。

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 この軍議が行われた場の近くに、思川が流れ、今では、「思川桜」が、きれいに咲き誇り、もう間もなく観桜できそうです。

 江戸時代には、宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩がありました。とくに喜連川藩は、参勤交代なし、江戸下屋敷もなく、大名の石高は極めて少なかったのですが、高位の大名の取り扱いを受けたのだそうです。

 私たちにとっては、〈まさかの栃木〉で、住み始めるとは考えたこともありませんでした。それなのに、今や第三の故郷のように感じてきているのが不思議です。宇都宮氏の居城のあった宇都宮は、県都です。実は、栃木市が、そうなるべきだったのかも知れませんが、明治維新政府の県令、薩摩藩士だった三島通庸の一存で、そうなったのだと聞いています。この栃木は、自由民権運動が盛んだったそうで、それを嫌った三島の独断だったのかも知れません。

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 ところが、この三島は、『手にすくう水もなし』と言われた那須野ケ原に、開拓の手を入れ、その貢献は大きいのです。福島県令も兼務したので、猪苗代湖から「安積疏水」を作り、栃木には「那須疏水」を作っていますので、栃木の開発には尽力した人でした。自分の別荘を、那須に作っていますから、この地が好きだったのでしょう。乃木大将も別宅を設けていますし、大山勲、松方正義、青木周蔵らの明治の元勲たちが、この地を愛したようです。後に、三島は、警視総監を務めています。

 サキソフォン奏者の一人者の渡辺貞夫の出身地であるからでしょうか、それよりも以前からでしょうか、宇都宮は〈ジャズのある街〉と言われています。アメリカでは、ニューオルリーンズが有名ですが、そういえば、宇都宮も栃木も佐野も足利も、街を歩くと、喫茶店が大変多いのです。我々世代がよく席を温めながら、美味しそうに珈琲を楽しんでいる姿をよく見かけます。

 上野国の北に那須があります。温泉地や御用邸で有名ですが、かつては、「国造(くにのみやっこ)」が置かれ、後に大田原氏の居城のあった、現在の大田原市が中心でしょうか。この街に、大田原宿の近くに、「黒羽(くろばね)」と言う、黒羽藩があって、芭蕉は、ここを訪ねています。私たちの知人のお母さまの故郷なのです。

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 ここの「奥の細道」の芭蕉が、十三泊十四日で逗留したことで有名です。あの旅の日程の中でも長期滞在したことになります。多くの俳句を詠んでいます。

(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお) 目は泪

山も庭も 動き入るるや

木啄(きつつき) (いお)は破らず 夏木立

 居心地の良い街だったのでしょうか。ここには、那珂川が流れていて、その水流を利した「舟運」が盛んに行われていました。栃木市の巴波川と同じように、商業で栄えています。

 『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。(大田原市資料)』

 この栃木の南に、野木町があります。ここには、130年間創業した「煉瓦工場跡」があります。「近代化産業遺産群」の一つに選定されていて、日本近代化に大きな役割を果たしたのです。どんな建物に用いられたのでしょうか。

 やはり、栃木県と言えば「日光」です。家康の墓所で、小学校の修学旅行で行きました。左甚五郎の作で、陽明門に「三猿」、回廊に「眠り猫」があって有名ですが、なんか遠くてしっかり見たような記憶がありません。「鳴き龍」の下で手を打ったのですが、無反応でした。この日光は、二宮尊徳の終焉の地でした。小田原の人でしたが、請われて、現在の「真岡(もおか)」の桜町の農村改革に尽力したのです。その後、日光でも、同じように働いたのです。

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 2020年の今頃、家内を見舞いに、中国からご夫妻が来てくれました。忙しく教会のお世話をするご夫妻で、よくお招きくださって、親しく交わりを持たせていただいたのですが、家内の闘病に力になってくださろうと仰って、祈るために訪ねてくれたのです。案内して下さる方がいて、日光に行かれ、東照宮の近くにある聖公会の教会の存在を知って、大きな感動を示しておいででした。雪を知らない方で、戦場ヶ原では、雪原に身を投げ打って、子どものように雪の感触を楽しんで、はしゃいでいたのです。

 栃木から、SONYの創業者の井深大が出ています。会津藩士を祖とする家系の出で、親戚筋にあたる、井深八重は、神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた人でした。井深はクリスチャンで、Sonyの企業的な祝福に原点が、彼の信仰にありそうです。

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 かつて下野国の農村部から、国防の使命を託されて多くの若者が、「防人」として、九州の防備に当たっています。京から遠い地の足利は、足利氏の支配地で、室町幕府の開幕に携わった、足利尊氏は有名です。県都宇都宮は、軍事施設があったりで、連合軍の爆撃に遭って、多くの市民のいのちや施設が失われています。県民として五年目を迎えた栃木県は、県花は「ヤシオツツジ」、県木は「トチノキ」、県鳥は「オオルリ」、人口は190万人です。

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旬の筍の味覚を

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 「主食」と「副食」という組み合わせが、日本食には、特に強いかも知れません。米飯とおかずという考え方です。昔から、中国でも、南方は米食、北方では粉食が一般的だと言われています。ところが現在では、食の流通がなされて、南でも、餃子、餅(ビンと呼ばれる小麦粉で作った薄焼きの様なもの)、饅頭(小麦粉製の拳大のパンの様なもの)、麺が好まれる様で、街中の食堂は、<◯◯面(麺の代わりに使う漢字です)>という看板の食堂が多くありました。やはり一番目立つ看板は、近隣の田舎の名前をつけた食堂が多く、その田舎の出身者が、好んで利用していたようです。

 それで米食の南方の人に比べ、北方の東北人は背が高いのです。大連に、友人を日本から訪ねたことがあります。知り合いの方が、古着を配布したいとのことで、大量に日本から持参したのです。大連の税関で、官吏に難しい顔で調べられ、結局持ち込みが許されたのですが。

 その時、街中を散策したのです。何と、大連人は、顔が一つか一つ半ほど、背が高かったのです。そんなことがあって、南方に来ましたら、そこに住むみなさんは、それほど高くないので、その地域差に驚いたのです。

 日本人が「餃子」を食べますと、それは「おかず」になり、米飯を食べ、味噌汁を飲み、野菜の煮物、葉物のおひたし、漬物などで食事を摂ります。ところが、中国のみなさんは、「餃子」は、小麦粉の皮に、肉、野菜などが入っていますので、<主食と副食>が一まとめになっていますので、茹で汁をスープに、酢醤油に大蒜(ニラ)を入れた薬味で食べて、食事にします。帰国以来、餃子を作りましすと、〈水餃子〉ばかりなのです。

 焼きそばも、お好み焼きも、餃子と同じで、主・副込みの食事なのですが、日本人は、米食がないと物足りないわけです。ずいぶん昔、アメリカ人の事業家と一緒に食事をし、私がカレーを作ってもてなしたことがありました。つまりカレー・ライスにしたわけです。そのカレーには、「馬鈴薯(じゃがいも)」が入ってましたので、『ライスをつけると、重複してしまう!』と、彼が言ったのです。米飯と馬鈴薯では、重過ぎるのでしょう。

 そういえば、母がうどんを作った夕食に、米飯も添えてあり、おかずも添えられていたのを思い出します。母も根っからの日本人だったわけです。米飯に、いただいた美味しい南瓜をオリーブオイルで焼いたもの(ホクホクしていました)、豆腐をフライパンで焼いたものに生姜醤油をかけたもの、そしてホーレン草のおひたしで、肉・魚なしの夕食の時がありました。どうしても、〈炭水化物過多〉の食事になってしまうのは、今や時代遅れでしょうか。

 昨日は、〈100円バス〉に乗って、道の駅に、「枝垂れ桜」を観に行き、そこの売店で、搗き立てのお餅を買って帰りました。夕食に、お雑煮を作ったのです。桜の咲く時期にも美味しく頂けたのです。一昨日の作り過ぎの酢豚がおかずで、二晩連続になってしまいました。にぎやかだった子育て時代を思い出しながらの二人の夕食も感謝であります。そうそう、近くに住んでおいでの方から、筍を頂きましたので、皮をむいて鰹節などで味付けをして添えました。これも旬(しゅん)の春(しゅん)の味覚を満喫したのです。

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青森県

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青森県をイメージするイラスト画像

 

 私が生まれた翌年の秋に、サトウハチローの作詞、万丈目正の作曲で、「りんごの唄」が発表され、焼土日本の隅々に、軽快なメロディーが流れ、あふれ、無色の日本に、赤い色彩が色塗られたのです。《りんご王国》と呼ばれる青森県、弘前市は、長くりんごの産地です。

赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

あの娘よい子だ 気立てのよい娘
リンゴによく似た 可愛いい娘
どなたがいったか うれしいうわさ
軽いクシャミも トンデ出る
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

朝のあいさつ 夕べの別れ
いとしいリンゴに ささやけば
言葉を出さずに 小くびをまげて
あすもまたネと 夢見顔
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

歌いましょうか リンゴの歌を
二人で歌えば なお楽し
皆なで歌えば なおなおうれし
リンゴの気持ちを 伝えよか
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

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 東北本線の始発駅であり終着駅でもある、青森駅は、高校の修学旅行で、青函連絡船に乗るために、初めて訪ねました。人は「北げる(にげる)」ために上野駅から夜汽車に乗って逃避行をする、そんな小説の舞台の一つでもあります。私たちは、極北寒冷の地に生活してきた日本原住のアイヌのみなさん生活を見せていただくため、また、明治の開拓者たちの営みを知るために、その足跡を追いながら、オホーツクに海を見るバスの旅をしました。

 アイヌの民さんの集落にも行きました。まだ観光地化する以前でしたので、普段の生活に触れることができ、木彫りの熊を、家族への土産に、札幌で買った、バター&チーズの飴と一緒に買って帰りました。アイヌは、元は本州にも住んでいたのですが、追われて、海を渡って、北海道に住み始めたと言われています。

 さて、県下に鯵ヶ沢という町があって、ここの出身の方が、土木の仕事をされていて、通りがかりで、私たちの素人工事を眺めて、協力を申し出てくれたのです。ユンボを借りてきてくれて、基礎工事を助けてくれたのです。お嬢さんが、上の娘の同学年で、家への行き来もあったのです。いつの間にか、どこかに越して行かれましたが、工事開始の当初に出会った、漢気のある、同世代の方が思い出されます。

 私たちの母教会に、青森出身の方がおいでです。多くを話さない方で、うち溶けて話し合ったことは、あまりないのですが、実のある方です。私の家内を、聖会が行われたキャンプ場から、家内一人では帰すことが心配になられて、わざわざ別方向のわが家に送り届けてくださったことがありました。

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 母教会の下車駅の駅前に、まだ田んぼがありました。そこに大きな看板があって、それを借り受けて、「教会案内」を書いて欲しいと、兄に頼まれて、1週間くらいかけて描いたことがありました。何しろ、看板を道々に立てる広告代理店のアルバイトで、穴掘りはしたことがありましたが、描くのは初めてのことでした。描いては、駅のホームに行っては眺めて、描き終えたのです。

 そこに、[あなたの人生に勝利を!]をと、大描きしたのを、この方がご覧になって、教会にやって来られた、信仰を告白し、バプテスマを受け、素敵な姉妹と結婚をされ、お子さんたちを立派に育てられ、教会の中心的なメンバーとなられたのです。朴訥な津軽人が、東京に学びに出てこられて、お仕事をし、クリスチャンになられたわけです。

 今は駅前の区画整理で、看板はありませんが、下手な素人が書いた、《人生勝利》の主イエスさまを信じられたのは、献身直前の私への励ましでもあったのです。

 律令制下では、陸奥(みちのく)は、「陸奥国」と「出羽国」とに分けられていて、今の福島、宮城、岩手、そして青森が、「陸奥国」でした。多賀城が国府で、国分寺は、そこから離れた現在の仙台に建てられています。平安末期には、奥州藤原氏の支配に服した地でした。栄耀栄華を極めて、欧州平泉には、往時を偲ぶことのできる中尊寺に「金色堂」が残されています。源頼朝に征服されて滅びでしまっています。

 江戸期には、転譜などがあって、津軽氏が弘前藩を治め、明治維新を迎えています。県都は青森市、県花は「りんごの花」、県木は「檜(ひば)」、県鳥は「ハクチョウ」で、人口は120万人ほどです。やはり果実のリンゴを代表とする農業県で、1891年に、上野青森間に鉄道が開業してから、青森は注目され始めています。その交通網を利して、漁業も農業も発展して来ているのです。

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 「三内丸山遺跡」は、平成4年(1992年)から始まった発掘調査で、縄文時代の前期から中期(紀元前約3,9002,200 現在から約5,9004,200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土し、「世界文化遺産」に登録されています。

 大きな集落があって、秋に収穫された栗の実などが収められた貯蔵庫も発掘されています。霧の木を植えて、栗栽培が行われていたとも考えられています。それ以外にも、海産物も大き収穫されていたようです。大きな共同体があったからでしょうか。南の九州の吉野ヶ里遺跡、北の青森の三内丸山遺跡、私たちの祖先の生活の営みがあったことになります。

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「青い森のメッセージ〜青森県民の歌〜」があります。作詞が山内美空、補作詞が伊藤アキラ、作曲が鈴木キサブローで、2001年元旦に発表されています。

あなたが花になれば 私は草になろう
毎日少しゆれて 話を続けよう
氷や雪になれば 私は空になろう
こごえた指をとかす 言葉をみつけようそして春夏 秋冬がめぐり
森は大きく きのうより明日この森から lalala 夢は始まる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 人はかがやく
青い 青い森のメッセージだれかが山になれば だれかが川になって
流れる雲を招き 絵巻をつくるだろう
小枝や鳥になれば 私は水になろう
かわいた胸にしみる 雫をあつめようやがて宇宙に 星たちがめぐり
人と人とが 森になる季節この森から lalala 道はひろがる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 歌は生まれる
青い 青い森のメッセージ
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 素敵な市の県民歌です。「じょっぱり」と言われるようで、まさに《我慢強さ》が、青森県民の県民性だと、自他ともに認められていているそうです。津軽、南部、下北との違いも大きそうですが、どこの県にも頑固者もいますし、融通性のきく人もいるからです。
 高校生の頃に、弘前市の出身の石坂洋次郎の作品を、岩波文庫で読みました。活字を追いながら、出来事を想像しながら、面白くて、笑いながら、次から次へと読んだのです。街の銭湯に、学校の先生たちが入って来て、風呂屋の子が語る談義が面白くて、大笑いをしてしまいました。
 弘前高等女学校の教師をしていた経験から、学校もの、青春ものが多かったでしょうか。読書しながら、難しくて考え込むような内容ではなく、当たり障りのない日常を読み取って、至極楽しかったのです。ですから、青森県の印象は、ずっと好いことばかりでした。
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 家内は、八甲田山の麓に住む同級生を訪ねたことがあって、家人と旧級友とがする会話が、全くわからなかったのが印象的だったと言っていました。厳しい自然の中で、なるべき大きな口を開けないでしゃべるので、やはりくぐもっていたのでしょうか。基地があったり、廃棄物処理場、今では、〈原子燃料サイクル施設」と呼び替えているのですが、村の経済のためにも、そうせざるを得ずに、今の時代に必要に応えておいでです。

 さて染井吉野の桜前線が北上して、桜名所の弘前城の桜が見頃になるのは、いつ頃になるのでしょうか。

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春の色と香りと味とを

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 巴波川の土手を散歩していましたら、菜の花に手を伸ばしてる方がおいででした。挨拶をすると、『白和えに美味しいんですよ!』と言われたのです。『では、私も!』と答えると、新芽をたおって三つ、四つ下さいました。『土手沿いには、避けた方がよろしいようで!』ということばに従って、帰り道の土手沿いに、倣ったようにして摘んだのです。

 家に持ち帰って、水洗いをして、ザルに上げておいたのを、ゆがいて、辛子醤油で、夕食の食卓に載せました。家内も『美味しい!』と言って、春の旬を食べていました。枝垂れ桜も染井吉野もタンポポも、春いっぱいの弥生三月も残すところ三日になりました。

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令和の青年よ、立て!

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 同志社大学を起こした新島襄の伝記の中に、開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚えさせたのは、主でいらったに違いありません。

 アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしたかったのです。彼自身が自由と自治の国で学んだからでした。私は、この大学に入りたかったのです。

 実は、中学の修学旅行で、京都に行った私は、数日間、私たちをガイドしてくれたバスガイドの「京ことば」に魅了されたのです。男4人兄弟の中で育ち、男だけの中学校で学んでいた私は、その優しい話し振りの彼女に、ほのかな恋心を覚えたのです。それで、『大学は京都に来る!』、中学3年、14才の私は、そう決心したのです。それが志望の動機でした。  

 ところが、中学生の淡い恋は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年がたとうとしていた時に、進学を考えたのです。そうしますとB学院の入学案内が目に飛び込んで来たではありませんか。

 その表紙の写真に、楽しそうに笑っている綺麗な女子大生がプリントされていて、やけに私に微笑みかけて、『入学して、一緒に勉強をしませんか!』と誘っている様に感じたのです。それを断りきれなくて、入学させてもらいました。でも、補欠入学でした。ちょっと悔しかったのですが、結構、その4年間は、恋をしたり、泣いたり、笑ったり、楽しく過ごさせてもらいました。『勉強をした!』と言うよりは、残念ながらアルバイトをして学費を稼いだ年月だったのです。でも、本を読んだり、渋谷や新宿の「ル・ノアール(喫茶店)」で、未熟な考えで議論したり、ケンカしたりでした。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したりの意義の有った4年でした。

 振り返ってみますと、これまでの日々のすべて!が、その様にお導き下さったのだと、痛切に感じるのです。人の考えや思いをはるかに越えた主のみ心が、そのすべての歩みにあったわけです。主を信じて「神の子」とされるなら、自分の生涯に起ったすべての出来事に、意味や価値のあることが分るのです。

 新島襄の青年期の転機は、密出国の準備中に、函館で、「漢訳聖書」を読み、創世記の巻頭の「初めに、神が天と地を創造した」を読んだ彼は、『この神こそ真の神に違いない!』と信じたと言われています。上海に上陸した時に、どうしても買い求めたかった「新約聖書」を手に入れています。

 日本の行方に暗雲が立ち込めつつあります。不穏な空気が充ちつつあるように感じてなりません。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、新約聖書を読んで、信仰を持つ人たちが生まれて、明日の日本を憂える人が起こるようにと願います。令和の新島よ、立て!

(新島襄の群馬県安中の住宅です)

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凡に生きる

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 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 この水面に竿さす人の姿が、私は大好きなのです。静かな湖面に竿をさし、どこから来たのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。対岸の家に帰るのか、または友人を訪ねるのか、それを私は知りません。

 竿を肩にする姿がいいのです。目を水面に向ける真剣さが伝わってくるのです。どうも渡し舟ではなさそうです。この人は、きっと魚を獲る漁師で、漁をしているのでしょう。その魚を売って、家族を養い、子に漁を教えるのです。自分の生涯をこの一事に捧げて生きています。

 この人のお父さんも、そのようにして生きていたにちがいありません。まさに凡(おお)に生きる人たちなのです。彼も彼の子も孫も、父親の後を継いで、父のように生きるのでしょう。ありきたりの一生を繰り返して、受け止めて生きていくのでしょう。

 エンジン付きの大きな船を操縦することだってできそうです。でも、そうしないのです。大海に漕ぎ出すことだってできそうです。でも、そうしないのです。父親のように凡に、この川に生きてきているのです。

 誰かに励まされたり、また貶(けな)されることもなく、ただ寂寞の中を、流れに棹さして生きるのです。流れるのは、川ばかりではなく、時代も世代も全てが流れて、元のままではないわけです

 一人で生まれ、孤(ひと)で生きて、そして独り死んでいくのです。でも、神さまの見守りがあったのを覚えていません。この絵の水面は、今は静かなのです。大雨を受けて激流、濁流になることもあったのでしょう。わが家の下を流れる巴波川を、春夏秋冬、朝な夕なに眺めて、源流の「しめじが原」のことなどに思いを向けています。

 『それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇9012節)』

 それゆえ、私たちは、自分の分の生きる日々に思いを向けるように、神さまはおっしゃるのです。幸いな日も、辛い出来事の日もあったのです。喜んだ日も悲しんだ日もあったのです。いつか、その舟も竿も子に譲る日、死すべき日が来るのです。その日を迎えても、慌てないためにです。人の世は短いのです。

 しかし神さまは、《永遠の神》でいらっしゃるのです。そして、凡に生きてきた私たちも、永遠に生きられるのです。私の日を定められた神さまを信じ、飛び去る日が来るまで、祈りながら定められた日々を、また凡に生きるのです。神と伴に。

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