ジョナサン

                                                     ,

 吉祥寺の駅の近くのガード下に、小さな青果市場がありました。暮のアルバイトで、夜勤で荷受をする仕事をしたのです。昼間は授業、バイトまでの時間つぶし、夜10時からのバイト、終わってからの時間つぶし、授業のある日は、そのまま中央線に飛び乗って学校でした。荷待ちの間、バイト仲間で、どうっていうことのないことを話していました。『若いうちに、思いっきり遊んでおこう。そうしたら大人になったら遊ばないですむからさっ!』といった〈遊び〉が話題でした。自分の父親や、周りにいる大人たちの様々な悲喜劇を見聞きしている学生たちでしたが、〈遊び〉の誘惑を正当化しようといった企みもあったからなのでしょうか。『先輩、バイト料が入ったら何をするんですか?』と、A大の4年生二人に聞いたところ、『バンコックに行って女遊びをするつもりだ!』と答えていました。まだまだ海外旅行などは、学生には高嶺の花の時代でした。成田が出来る前の話で、羽田は信じられないほど小さな国際空港だったころのことです。

 そのような、とりとめもない話を聞いていた初老の従業員(おジイさんにしか見えなかったのですが、今の自分くらいでしょうか!)が、『若い時に遊びたいだけ遊んだって、大人になって遊びが止むわけないよ、君たち!』と、われわれ学生には想像もつかない将来のことを予見して口を挟んだのです。そのおじさんのことばは、48年も前に聞いたのに、これまで重いまま忘れられないものを感じ続けています。〈遊び〉は、年を重ね、量を満たしたら離れられるというのは間違いだということは、明名白白のことであります。どれほど多くの若者が、この罠にかかって滅んでしまったことでしょうか。モニカというお母さんがいました。当時の地中海世界で、最大の街ローマに、息子が遊学したいと願ったのです。そこは酒池肉林(しゅちにくりん)、遊興、肉欲の地獄でした。快楽に誘(いざな)われた息子は、お母さんの静止の手を振りきって出掛けてしまいます。これまで何百何千というお母さんと同じ、いい知れない不安や諦めの思いで、モニカは息子を見送ったことでしょう。ただ、モニカのできたことは、手を合わせて無事を祈ることでした。人の母親の思いに反して、快楽主義者の息子は、素晴らしい人とローマで出会って、人生の方向転換を果たし、歴史に大きくその名を残すのです。この息子こそ、若き日のアウグスチヌスです。


 これまで教えていただいた人生の教訓を総合しますと、『〈酒〉と〈金〉と〈女〉と〈博打〉と〈名声〉とに気をつけなさい!』という結論になります。それはそれは、くどいほどに同じことを繰り返し言われました。なぜかといいますと、彼ら自身が、その誘惑の真只中を潜り抜けて、嵐にさらされ、火の粉を浴びてこられたからなのです。その強烈さというのは、今年、3月11日に東北地方の太平洋岸を襲った津浪のように激しいものではないでしょうか。テレビの中継で見た、大きな船やトラックや飛行機でさえもが、ゴム毬のように翻弄されて、波の上に踊らされ、破壊されていく光景、車や家の中にいた人々、何百年と耕し続けてきた畑地が、一瞬のうちに砕けた波に飲み込まれていく様子を忘れることはできません。受け継ぎ、あるいは築き上げた財産も、自分自身も人生計画でさえも、躊躇なく藻屑のように波に飲み込まれて消えていってしまいました。『夢や映画であったらいいな!』と思わされましたが、決して否定出来ない現実は、日本だけではなく、東北地方でもなく、私への厳しい「警告」となったのです。

 私の知人が、『少年期の自分は〈落ちこぼれ〉だった!』と言いましたが、彼はそこから起死回生、人も羨むような立場と名声を得ました。その経験を本に書いたほどだったのです。負け組から勝ち組に再編入され、その世界では名の知れる人となりました。最近、彼のことを知らされたのです。未処理の問題が、彼を追いかけ、追い越していって、致命的な過誤の中に陥落したと聞きました。生命保険の調査員をしていたハインリッヒが、1つの法則を見つけ出しました。『1つの大事故の前には、29の小事故があり、そして300の予兆がある!』という、「ハインリッヒの法則」です。予兆は、大事故が怒らないための警告なのです。『ヒヤリ!』、『あれっ!』という経験をしたら、その『ヒヤリ!』、『あれっ!』とした分野で、『決定的なことにならないよう、気をつけなさい!』とのメッセージなのです。彼にも、『ヒヤリ!』、『あれっ!』の予兆や警告があったのです。そういった時期が私にもあったことを、ありありと覚えています。でも彼は、それを蔑ろにしてしまったようです。


 ある方にこう言われました。『あなたには、自分のことを包み隠さずに、何でも言える人がいますか?』とです。まだ血気盛んな三十代の前半の頃のことでした。『いなければ、そういった人(英語では”mentor”といいます)を、見つけなさい!』と、彼は付け加えたのです。妻以外の女性からの誘惑、心のなかの騒ぎについても、話せる同性の友のことです。私は、その友のことを「ジョナサン」と呼びたいのです!

(写真上は、「吉祥寺駅(京王井の頭線)」、中は、中国の著名な先生「老子」、下は、「ハインリッヒの法則」です)

花と根

 
  
 東日本大震災が起こって後、被災者を含め日本人が、前代未聞の困難に出合いながら、冷静で沈着で秩序だっていていること、スパーマーケットの襲撃や夜盗などの犯罪に走らない様子を知って、洋の東西を問わず、世界中が、『どうしてなのですか?』と声を上げています。『なぜなのか?』、私も自分に問いかけてみましたら、次男にもらって読んだ本のことを思い出したのです。

 「武士」を、『ぶし』、『もののふ』と読みますが、その誕生を簡単にいますと、農民が、自分たちの家族や田畑や家屋敷の財産を敵の襲撃から守るために、武闘を余儀なくされ、専門職として防備や攻撃の訓練に日頃励む武装集団のことと言えるでしょうか。その後、《荘園》が誕生してきますと、さらに尖鋭化して、強力な集団となていきます。そういった集団の中で有名なのが、関東で誕生した《坂東武士》だといえます。さらに、勢力を貯えて強固な武士集団を形成していくのが、《源氏(第56代清和天皇を祖とし源頼朝が有名)》と《平氏(第50代桓武天皇を祖とし平清盛が有名)》であります。この二つの武士集団の中から、「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼし、鎌倉に武家幕府を開き、《征夷大将軍》に任じられるのが、源頼朝(1147年5月9日~1199年2月9日)なのです。


 この武士の生き方や道理を、「武士の道(もののふのみち)」といいます。札幌農学校(現在の北海道大学農学部)で学び、国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長、東京女子経済専門学校校長などを歴任した、新渡戸稲造(1862年9月1日~1933年10月15日)が、1900年1月、アメリカで、「武士道(英語で”BUSIDO THE SOUL OF JAPAN ”)」を刊行します。これが、読んだ本でした。流麗な英語で書かれて、世界中から多くの読者を得ました。日本語に何度か翻訳されていますが、私の手元にあるのは、2000年12月、佐藤全弘訳、教文館で出版されたものです。新渡戸稲造自身、南部盛岡藩の藩士の子として、江戸の上屋敷で生まれ、武士の子(明治以降は士族の子)として厳格に教育されます。なかなかの《硬骨漢》で、ヤンチャだったようです。札幌の学校を終えて、東京帝大に学ぶのですが、その学びにあきたらずに、単身、アメリカに渡り、ジョンズポプキンズ大学(ボルチモア)に留学し、ドイツのボン大学などで学んでいます。農学校時代、クラークの感化を受けた内村鑑三らとの交流を通して、新渡戸が強烈な影響を受けたことから、物静かな紳士へと変えられて行ったことを、内村が書き残しております。

 この本は、新渡戸稲造の生き方を、傍らで見続けてきた妻・メアリーが、『日本ではなぜこういった考え方や習慣が行われているのですか。』との問い掛けが動機となったようです。つまり日本では宗教教育がなされていないのに、高い道徳律を持っている日本人の新渡戸を見て、不思議に思ったからでした。学校で道徳教育を受けた覚えのない新渡戸は、即座に答えられなかったのです。それで、『私の正邪善悪の観念をなしている、いろいろな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた(上掲書26~27頁に記述)。』と記しています。


 同じような疑問を、東北大震災の後、世界中が発しているようです。新渡戸は、第15章の「武士道の影響」という箇所で次のように記しています。『・・・過去の日本は、サムライのおかげであった。彼らは国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。〈天〉のすべての恵み深い賜物は、彼らを通して流れでた。[武士は社会的には、民衆からは高く身を持していたけれども、民衆の道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。〈武士道〉には、その内向きの教えと、外向きの教えがあったことが認められる。後者の教えは、一般市民の福祉と幸福を求めるので幸福主義的であり、前者は、美徳を徳それ自身のために実行することを強調するゆえに徳中心であった]・・・〈武士道〉の精神が、すべての社会階級にどのように浸透したかは、またオトコダテ(男伊達)として知られる特定階級の人達、すなわち平民道の天成の指導者たちの発達によっても知られる。彼らは頼りになる男であって、頭の頂きから足の先まで、堂々たる男子の力を逞しく備えていた・・・』とです。

 武士の生き方や価値観が、農民や手工業従事の技術者や商人、さらには女性や子どもにまで、多大な影響と感化を与えていたというのです。彼らの外での仕事、内での生活に、武士の在り方、生き方が浸透していたことになります。。『礼儀正しく授業の仕方が真面目です!』、『日本人は違います!』と、私を評価してくださる中国の学生のみなさんがおいでです。彼らは、「徳」を大変大切にする文化伝統の中に生まれて育っているのです。板書した黒板を消して、教室を後にするのは当然なことですのに、このことまでも、『偉いですね!』と言って、手伝ってくれます。このような百姓(中国語では、「平民」とか「庶民」の意味で使われます)の子である私ですのに、少しは「徳」のある生き方ができ、よい態度をもつことができるのは、「武士道」が、下々にも行き渡って、今日にまで脈々と受け継がれていることになります。この時代の私たちの手柄ではなく、日本文化の継承になるのでしょうか。

(写真上は、「江戸名所図会」、中は、「侍(映画・小川の辺)」、下は、「札幌時計台」です)

ことば


 ”Never give up!”、ドイツのロンドン空襲に際して、オックスフォード大学の卒業式で、当時の首相、ウインストン・チャーチル(1874年11月30日~1965年1月24日)は、これを三度繰り返して、祝辞としました。彼は、イギリスがこの危機を必ず脱することができる、という確信に満ちていましたので、学窓を巣立とうとしている青年たちを、そう鼓舞激励したのです。このことばを日本語に訳しますと、「不撓不屈(ふとうふくつ/中国語ですと、〈不屈不挠buqubunao〉)」が一番いいかも知れません。goo辞書は、『どんな困難にあっても決して心がくじけないこと。「―の精神」』 、とあります。とても意味の近いことばに、「堅忍不抜(けんにんふばつ)」があります。このチャーチルのことばほど、戦時下のイギリス国民を奮い立たせたものはありませんでした。人の語る「ことば(言の葉)」に、どれほどの力が込められているかという証明でしょうか。

 私の義母は、終戦後の食料難の時代に、肋膜を患いました。九州久留米から嫁いでくるときに持参した和服を、西武線沿線の埼玉の農家に出向いては、食べ物と交換して、8人家族を養っていた時期ですが。子ども優先で、本人は食べなかったのでしょうか、発病してしまいました。清瀬に専門病院があって、通院治療をしていたのです。そこに多くの女子大生たちも来ていて、いわば義母の若き病友だったわけです。薬も乏しくて、満足な治療も施せないで捨て鉢になっていた医者が、一人の学生に、『あなたの寿命は長くありませんよ!』と語ったのだそうです。その言葉に衝撃を受けたのか、間もなく彼女は亡くなってしまうのです。それを知った義母は、『先生、不用意なことばを慎んでください。権威ある人のことばには力があるのですから!』と窘(たしな)めたのです。それ以来、「ことばの持つ力」に思いを向けるようになり、この一件が、義母の人生を激励する「力あることば」と出会うことになります。今も、義妹の介護の中で、甲府で生活をしていますが、何と百歳なのです。義母は、自分の語る「ことば」で、どれほどの人に生きる目的や勇気や力を与えてきたことでしょうか、私の母も彼女と出会って励まされた友の一人です。

 このチャーチルに、こんな逸話が残されています。彼は実に聡明な人で、母国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を理解していたのです(学校での成績は芳しくなかったそうですが)。国際会議に出る機会が多く、彼の能力ですと、ヨーロッパ諸国の国際会議に出ても、通訳を必要としなかったほどでした。英語力に難点のある私たちの国の政治家の話が、よく取り沙汰されていますが、実に羨ましい限りの才能ではないでしょうか。ところが彼は、決して相手国の国語を話さないで、必ず通訳をつけたと言われています。その理由を、チャーチル自身が語っています。

 『私は英国の利益を代表している。それなのに、たとえばフランス語を知っているからといって、フランス語で話し始めると、とたんに自分の脳が《偽フランス人》のようになり、フランスの政治文化や価値観に、自分を合わせてしまう。英国の利益を主張するときは、やはり英語で考え、英語で語り、通訳に逐語訳をしてもらうしかない。』

 外国語が分かっても、国の成り立ちの歴史、政治的変遷、文化の成立過程、その国の利益や資源(有形無形の)からなる価値観の違いは超えられないというのでしょうか。日本語のことばの多くが、中国語に由来していますが、だからといって全く意味が同じではないようです。《微妙な意味合い(ニュアンス/nuance)》が、それぞれにあるからです。一国を代表して語り聞くのですから、このことは理解しておかなければなりません。国際結婚をしている次女も、生まれてから15歳まで(高校からアメリカで学びましたから)に身につけた日本文化や価値観によって形作られているのです。一方、生まれてからこれまで、ずっとアメリカ文化と価値観で育った主人との違いが必ずあります。それを認めつつ、二人が共通に持っている文化と価値観と目標に目を向けていくなら、この違いを超えていくことができるに違いありません。


 ドーバー海峡を境にしてそんなに距離のないイギリスとフランスであるので、フランス語を聞いているうちにフランス人のようになてしまう自分をチャーチルは認めて、避けたのでしょうか。うーん、黄海と東シナ海を境にしている日本と中国ですが、互いの国際理解、国際協調、国際交流って、やはり難関があるのかも知れませんね。でも中国に生活している私は、一人の人間として、中国のみなさんとは、実に似た者同士だということが分かるのです。もちろん国土が広い分、箱庭のような日本で育った私との違いは歴然としていますが。『ここは違うなぁ!』と感じますが、『ちょっと!』なのです。これこそ在華6年目を、来月迎えることが出来る理由の一つなのかも知れません。60を超えてからの中国語の学びは、遅々としていますが、人生最後の《挑戦》として、まだまだ諦めてはおりません。

(写真上は、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、下は、「中国からの漂流物」です)

水団


 私の愛読書に、『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。』、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 』とあります。食糧問題が、人口問題や異常気象の問題に関連して、今世紀の世界の最大課題だと言われています。自分のこれまでを振り返ってみまして、『食べ物がない!』といった経験は一度たりともありませんでした。戦争末期に誕生しましたが、田舎に住んでいたこと、さらには軍関係の企業に父が従事していましたので、食料に窮することはなかったようです。『お父さんが東京に出て行くと、頬がこけて帰ってきました。』と、母が言っていましたから、大都会の食糧難というのは甚だしかったようです。

 就学前に肺炎になって、街の国立病院に入院しました。死にそこなって息を吹き返し、退院した私のために、父は、どこから手に入れたのでしょうか、栄養価の高い《バター》を、潤沢に備えて食べさせてくれました。兄たちと弟には食べることを禁じたほどでした。そんな両親の愛のゆえに、私は死線を越えることができたのです。爾来、パンにバターをつけて食べる、といった食生活を離れることができないで、朝食は、それを守り続けているのです。今は、ピーナツバターやジャム(いちごやブルーベリーなど)やチーズも添えられ、紅茶かコヒーを飲むのです。病欠児童だった私は、小学校4年ころから健康児になって、クラスの番長にもなったほどでした。まあ、それは明智光秀の《三日天下》だったのですが。


 世帯を持ってからも、養育を委任された4人の子どもたちに、食べさせるものがなかった食卓の日は一日もありませんでした。今、子どもたちに聞きますと、『うちって、しょっちゅう小麦の団子の入った《すいとん(水団)》だったよね!』と言われます。そのせいでしょうか、脚気にならないで、4人とも標準以上の体格に育ったのだと思われます。贅沢することはなかったのですが、食に困ることなどありませんでした。静岡のアメリカ人の家に招かれたときに、《タコライス》をご馳走になりました。セミナーが開かれて、その日の食卓に供されたものでした。『美味しかった!』の一言につきました。それで、家に帰ってきた私は、それを真似て、子どもたちに作ってあげたのです。それ以来、我が家の《もてなし料理》になり、何かあるたびに、『今日は《タコライス》がたべたいな!』ということで、何度食べたことでしょうか。そのレシピを知っている子どもたちも、今やそれぞれが自分の《もてなし料理》の一つにしているようです。

 もう何年も前ですが、世界の食糧事情を、分数で言い当てた話を聞いたことがあります。『世界の3分の1は、有り余っている。もう3分の1は、ちょうど備えられている。そして残りに3分の1は、足りない!』というのです。戦後の歌謡界で長く歌い続けてきている田端義夫は、母子家庭で育って、学校の昼食に弁当を持っていくことができないで、校庭の片隅に座って、「赤とんぼ」を歌っていたそうです。そういえば、小学校の同級生に、長島くんという子がいて(実際は二歳年上の学年なのですが就学が遅れて私たちのクラスにいました)、一緒に廊下に立たされたことがありました。食べ物がないということで、立たされ仲間にカンパを呼びかけて、彼の手にお金を握らせて、『パンを買ってね!』と言ったことがありました。市長になった同級生もいますが、そんな長島くんのほうが気にかかります。


 そんなこんなで、我が家の家訓は、最初に書きました愛読書のことばなのであります。もちろん、子どもたちの間には、ご多分にもれず、激しい喧嘩もありましたが、よく彼らに話した故事がありました。『奴隷船があって、奴隷狩りをしていた頃に、マサイ族(アフリカのケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民 )は、奴隷になって売られていくことがほとんどなかったんだ。なぜかというと、マサイ族の母さんは子どもたちに、常に次のことを言い聞かせて、「それを守るように!」と言ったのです。「食べ物があったら、それを自分ひとりで食べないで、仲間と分けあって食べなさい!」とです。みんなも、そうしないさい!』とです。仲間意識が強かったマサイ族は、奴隷狩りに追われても一致協力して、その罠や追跡を免れることができたのです。これって、我が家の《家訓》に似た実話ではないでしょうか。野菜やかわいたパンを食べて、それを分け合うようになるなら、何時か分けてもらった人から、おいしいステーキがお返しにやってくるかも知れませんね。我が家には、よく食客(しょっかく)が何人かいました。その中には、『おかずはこれだけですか?』と、ご馳走になっているのに、文句を言った人もいますが、彼は今、何を食べているでしょうか。少々気がかりなのであります。

(写真上は、中近東やインドで食される「ナン(パンの一種)」、中は、美味しそうな「すいとん」、下は、「マサイ族の青年たち」です)

コネ


 最初の職場で三年目の暮が過ぎて、年を越した頃、所長に呼ばれました。『私の弟子が、◯◯短大で教務部長をしています。そこに高等部があって、社会科の教師を募集しているので、行ってみませんか!』と言われました。教員免許状を持っていましたし、中学校の3年間教えてくれた担任の影響ででしょうか、『教師になってみたい!』と思っていましたので、二つ返事で、『はい。お願いします!』と答えたのです。その時、大学院を終えて、同じ教師の口を求めていた方がいました。確か日本史専攻で、ある研究所の研究員をしていた博士だったのです。ところが、《コネ(縁故)》というのはすごいもので、ごまんといる学士の私が、正式に教諭として採用され、その博士は、時間講師になったのです。まあ、これは雇い入れる方の決定であって、私の選びとりではなかったのです。ですから世の中は、《縁故(コネ)》というものを大切にするのだということを、実体験で学んだのです。

 採用する側は、誰ともわからない未知の人を職員とするよりは、出所や経歴が分かり、推薦状の付いた人を雇うほうが、組織にとっては安全だということを前提としているのです。公務員は、法律に基づいて公開試験で合格したかたを採用候補にしますが、それでも人物調査(本人の思想や素行、家族の様子など)をした上で、採用を決定します。兄の就職が内定した段階で、我が家に調査員が来られました。家には、父も母もいなくて、高校生の私がいましたので、この方は私に、父のことや兄のこと、家族のことを聞かれて、『ありがとうございました。』と言われて帰って行かれました。その応対と返答が良かったからでしょうか、兄は採用された経緯があります。とても良い会社でした。社会は学歴や成績だけで人を判断するのでないということを、その時に学んだのです。

 私がその学校の面接試問に呼ばれたときに、卒業証明者や成績証明書を持っていかなければなりませんでした。それでしばらくぶりに学校に参りましたら、校門にバラ線でバリケードが築かれていて、その隙間から構内に入ったのです。当時、70年安保反対の学生運動が起こっていた時期で、全国の学校で、『安保反対!』の叫び声が起こっていました。穏健な学校と目されていた母校でしたが、ここも例外ではなかったのです。幕末に開校されて伝統ある母校の校門に、バラ線が巻かれているのを見たとき、本当に寂しい思いをしたのを、昨日のことのように覚えているのです。私は、政治運動や思想運動には、全く関心がありませんでした。社会を騒乱の渦中に投げ込むような暴力には大反対でした。新宿駅の中央線や山手線の線路のレールを、敷き詰められていた小石によって、しっかりと受け止めていましたが、全学連の学生たちによって持ち出され、運び出されていたのです。機動隊に投石するためでした(それ以降、新宿の駅のレールは、コンクリートに支えられているようですが)。

 その時の学生運動の真只中にいたのが、今(20011年6月現在)の首相や前官房長官です。私の弟と同学年だったと思いますが。国家権力を敵に回して、国を混乱に陥れ、社会不安を煽った過去を持つ者たちが、考え方を変えないで、同じ思想と価値観、政治信条を持ちながら、一国の政権を担っているというのは、空恐ろしいものを感じるのですが、私だけでしょうか。私は右翼でも、国粋主義者でもありません。平和な社会を願う一市民です。どんな理由があっても、暴力によっては、国を変えたり、平定したり、発展させたりすることは、絶対にできないことを、歴史から学んだからなのです。あの時のニュースをテレビの中に見ていて、機動隊と安保反対の学生は、同じ世代の若者同志が、憎み合い、反発し合いながらせめぎ合っている《青春の坩堝(るつぼ)》でした。後に、軽井沢で「浅間山荘事件(1972年2月19日に始まる)」が起こって、国家転覆を謀った過激な学生運動が、内部分裂を起こし、仲間同士が殺し合う凄惨な解体劇を演じていたのです。後になって、ハイジャックや拉致に加担していく者たちの仲間です。その仲間が、それと同じ思いを持った者が、現首相や前官房長官なのですから、これでいいのでしょうか。あの頃の世相を悲しんだ私たちの世代としては、二重丸、二十(!?)重丸で疑問を禁じえず、たいそう不安なのですが。


 健全な人が責任を取るのがいいのです。経歴や素行に汚点のない、『この男なら、この人なら!』と太鼓判を押される人が、東北大震災後の日本にあって、昏迷の只中にある日本を導き、国民の命に関わる原発事故の収束、解決を手掛けて欲しいものです。そんな《縁故》の人はいませんか。四十代、せめて五十代に、《人》を見出したいものです。あの西郷隆盛(明治維新の時に40歳位ほどだったのです)のような、冠も地位も金も求めない、《無欲の人》が出てきたらいいですね。たしか彼の愛したことばは、「敬天愛人」だったと思いますが。私の弟は、機動隊側に加わって、暴力革命から国と国民を守り、善戦したのだったと記憶していますが。お陰さまで、平和な時代を迎えられたわけです。さらなる平和を願う《コネ》に恵まれて生きてきた私であります。

(写真上は、全共闘の「安保反対」の学生運動、下は、西郷隆盛筆の「敬天愛人」です)

 

 昨夜(ゆうべ)、PCで調べ物をしていましたら、スカイプのコールが鳴りました。画面を見ましたら、長女と次男が一緒に応答を求めていましたので、そのキーを押してみたのです。シンガポール・東京・こちらの《三者会話》が行われたのです。『いやー、便利な時代になったんだ!』と改めて思ってしまいました。子どもの頃、わが家にあったのは、右手でハンドルをグルグルと回して呼び出す《有線電話》だったのです。右手で持った受話器を耳にあてて、ラッパ型の送話口に近づいて話す、もう今では博物館にしかない電話機が、壁にかけられていました。父が街中にあった事務所と、郡部にあった工場と自宅とを結んで、仕事上不可欠なものだったのです。《有線》ですから、電話線の中を信号に変えられた音声が、行き来する道理は大体は分かったのですが、幼い私にとって、きわめて不思議な世界でした。

 仕事上、あったほうが便利だということで、発売間もなく《ポケベル》を手に入れました。電波の届く距離にいるなら、《無線》での連絡が入って、公衆電話を見つけては、発信先に電話して、用件を聞いたりしましたが、その利用も短い間のことでした。その後に《PHS》を使い始めたのです。いやー、ほんとうに便利だと思ったものです。その後、今のような《携帯電話》になったわけです。昔の映画などを見ていますと、『携帯電話があったら、こんな悲劇は起らなかっただろう!』とか、『もっと意思の疎通ができたのに!』といった場面が出てきて、やきもきしてしまいますが。便利な分、どこにいても電波に追いかけられてしまう、強迫観念に縛られてしまうのは1つの問題ではないでしょうか。静かにしていたいときは、便利さを捨てて、携帯放棄をしたくなる時もありますが、みなさんは如何でしょうか。こちらでは、もう年配の方々も必要不可欠の利器として持ち歩き、家族や友人との間で重宝されているようで、その普及率は、ものすごいものがあるようです。

 近況を分かち合ったり、とりとめもない話がつきなくて、家内と長女と次男と私とで、1時間近くも話していたのではないでしょうか。これを《会議通話》と呼ぶようで、遠く離れた家族の間では、とても優れものです。九十四歳になった母の介護のことが話題になりました。私は三男坊で、今は国外におりまして、母の近くにいてお世話をすることができないので、二人の兄と弟には申し訳なく思っているのです。それで、子どもたちに、『母の面倒をみようと思っているんだけど、どう思う?』と、以前、意見を求めたことがありました。とくに娘たちの考えは、『お父さんは無理!』という結論でした。というのは、『しないでいい!』ということでも、『おじさんたちに任せたらいい!』というのでもないのです。彼女たちは、科学的なのでしょうか、実際的な眼で、祖母の最善の《今》を考えてくれているのです。しっかりと介護の方法を学んで、より良いケアーを提供しようとしてきているプロの集団の中にいることの安全、さらには、介護施設では、毎日一日中、様々なプログラムや行事があって、最期の時を生きる環境としては、家で個人で世話をするよりはよいとの結論なのです。愛がないのではありません。苦労してきた分、彼女たちは総合的に見ているのです。それで、兄弟たちに《提案》をしたいと思って、文書を書き始めました。


 5月16日夜7時半、NHKのニュースの後の「クローズアップ現代」で、介護の問題をちょうど始めていました。その日に限って、普段は見ない「KeyHoleTV」なのですが、たまたまチャンネルを合わせましたら放映していたのです。その番組で学んだのは、(1)失敗や約束を守らないことなどを決して叱らないこと、(2)叱られた感情だけ記憶に残って、傷つき、不安と怖れが増し加わるので注意すること、(3)笑顔で接し、笑顔が母親の日常の表情になるように、(4)面倒みている人の優しさが一番記憶に残るので注意すること、(5)老いることへの恐れと不安に苦しんでいる母親への理解してあげることを学ぶことができました。

 山陰の出雲で生まれ、兄弟姉妹もなく養父母に育てられ、十代の前半で、カナダ人の実業家夫妻との出会いで多くのことを学び、父と出会って結婚し四人の子をなしたのです。子供の頃は、《今市小町》と呼ばれて、お転婆だったと、おばさんから聞いたことがあります。父の仕事の関係上、出雲、松江、京都、山形、甲府、京城(現・ソウル)、東京と転居を重ね、今は、上の兄の家におります。やはり加齢は体力・気力・胆力を衰えさせているのでしょうか、家での介護の限界を、上の兄がたびたび言ってきています。それで、私は、「お母さんの今後について」という《提案》を掲げて、兄弟にメールで書き送ったのです。一番子育てで手を掛けた三男の病弱だった私ですが、年を重ねた母が、人生の最期のステージを、ハッピーで、満ち足りて、平安の中で生きて欲しいと願ったからです。子どもたちも、それぞれに祖母を思う心を知って感謝でした。


 甲州街道際にあった「福島時計店」のおじさんが、通りを歩いている母を、鼻の下を長くして、首を回しながら見続けていた様子を、何故か私は母ではなく、このおじさんを感心して眺めていたのです。『お袋っていい女なんだ!』と、中学生の私は、へんに関心したものでした。その母が94歳、中学生の私が66歳、人生って短いものですね。でも、病気はなく、食欲も旺盛で、まだまだ書も読む母に、今の最善を切に願う、ジィージィーと蝉の暑い鳴き声の聞こえる華南の盛夏であります。

(写真上は、母が乗った「一畑電車(出雲~大社間)」の車内、中は、生きながらえてきた「古木」、下は、日野のかつての「街並(甲州街道)で右側の奥に時計屋がありました)」です)

夏至

 

 二十四節気の一つ「夏至」です。今日は、無花果(いちじく)を食べるといいとか、栄養価の高い果物だからでしょうか。小学校の帰り道、武井さんの家の庭から道り路に枝を伸ばした無花果が、『食べていいよ!』と言っているようで、たびたびご馳走になりました。さて、こちらでは、もうとうに真夏になっていますが、関東地方では梅雨の真っ只中にあって、鬱陶しい天気が続いていることでしょうか。この時期の思い出をたぐりよせてみますと、どうしてもアルバイトに精出してしていたときのことが蘇ってまいります。北海道の会社であった「雪印乳業」が、東京に進出して来て、東京都下にも工場を作りました。八王子から立川に向かって走る甲州街道(国道20号線)から200メートルほど入った所にあった農地を、牛乳工場としたのが、1963年だったと思います。この会社に勤めていたお嬢さんを持つ母の友人から、アルバイトを募集してると聞き、渡りに船で応募して、その夏にアルバイトを始めたのです。

 三ヶ月の間、遊ばないで働きました。授業料の足しにしたり、本を買ったり、実入りの良いバイトを4年間毎夏させてもらいました。200ccの牛乳瓶が45本入った木箱が、製造部からベルトコンベアーで、向こうの壁が霞むほどに大きな冷蔵庫に送られてきますと、そのラインの脇に立って、その木箱を出庫に便が良いように積み上げていくのです。もちろん、なん種類もの牛乳がありますし、明日の天気予報によって製造計画が立てられていますから、指示は、プロの職員から出て、搬出口ごとに、これを振り分けて積んでいくのです。あの電動のベルトコンベアーの金属音と、積み上げたときの瓶と瓶の『カシャッ!』となる音が、今に至るも耳に残っています。最初の夏に、石原裕次郎の歌った「赤いハンケチ(作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎)」が、映画化されたり流行っていました。

    1 アカシアの 花の下で あの娘がそっと 瞼を拭いた
      赤いハンカチよ 怨みに濡れた 目がしらに
      それでも涙は こぼれて落ちた
    2 北国の 春も逝く日 俺たちだけが しょんぼり見てた
      遠い浮雲よ 死ぬ気になれば ふたりとも
      霞の彼方に 行かれたものを
    3 アカシアの 花も散って あの娘はどこか おもかげ匂う
      赤いハンカチよ 背広の胸に この俺の
      こころに遺るよ 切ない影が

 健康管理上、交代シフトで、何組かに分かれて作業をしたのですが、休憩時間には、だれかが歌い始めると、この歌をみんなで歌ったのを懐かしく思い出します。バイトの時に、ヒゲの生えた大学生たちが、子どものように声を合わせて大合唱していたのですから、あの時代の学生は純情だったのでしょうか。「北国の春」が終わって、真夏になっている北海道の様子を思い描き、旅行も恋もできない淋しさを、「遠い浮雲」を「しょんぼり観て・・」、紛らわせていたのです。そういえば、事務所に、みんなのお気に入りの女子事務員がいて、彼女の「おもかげ匂う」ポケットにラブレターを忍ばせたことがありましたが、それも実りませんでした。

 仕事を終え自転車に乗って、空が明けそめようとしている中を、家まで帰ったのですが、ある時、警察署の前で、警官に呼び止められました。タバコを吸って、人通りのない道を走っていたのですから、職務尋問でした。『バイトの夜勤の帰り!』と言ったら、納得したようでした。夏休み前からバイトを始めて、平常な生産に戻る頃までしたのです。『牛乳は好きなだけ飲んでいいから、瓶をわらないでね!』、『よくやってくれるね!』、『来年も来てくれますか!?』と言ってくれた主任の宇田川さんは、今もお元気でしょうか。今はこの会社名が消えてしまいましたが、美味しかった、「スパー牛乳」や「チョコレート牛乳」の味は、まだノドが覚えているのです。さあ、いよいよ盛りの夏の到来ですね。こちらから、《しょんぼり》して日本の空の夏雲でも思っている、そうお考えでしょうか?いいえ、暑さにもめげずに張り切っていますのでご休心のほどを!


(写真上は、「アカシア」の並木道、下は、「雪印・乳製品」です)

人柱


 『だれが好きか?』と聞かれて、『織田信長!』と答える中国人の学生が、意外と多いのです。ゲームの主人公であることも否めませんが、日本史に登場する人物の評価として、内外を問わずに高いのが、やはり織田信長のようです。日本史を学んでいまして、群雄割拠の戦国時代が実に興味深いものがあります。国同士のせめぎ合い、領地の拡大、親子の確執、養子縁組、姻戚関係の樹立、内通策謀、下克上、立身出世物語、栄達など話題が実に豊富なのです。裏切り、謀反を防ぐために、娘を息子たちの妻に迎えるのは、戦国武将の常套手段でした。信長の妹・お市も、その一人だったのです。近江国の浅井長政に嫁ぎ、後には、柴田勝家の妻になっています。子に、秀吉の側室となった茶々(淀殿、秀吉との間の子・豊臣秀頼がいます)、江(秀吉の甥・豊臣秀勝の妻、後に第二代将軍となる徳川秀忠と正室として再婚)がいますが、その人脈や家系は、こんがらがってしまった綾の糸のように複雑怪奇です。

 政略結婚でありながらも、『女は子を生むことによって救われる!』ということばがありますから、母や祖母としての喜びが、悲しみの狭間にはあったのでしょうか。でも37歳での夫・勝家と共に自刃の最期は、戦国武将の娘ならではの悲しいものがあります。NHKの大河ドラマは、お市と同時代に焦点が当てられることが多いのは、得心がいきますね。私の父の誇りの鎌倉武士の家系は、戦国時代には何をしていたのでしょうか。私がいるということは、何代も何代も前の祖が、それぞれの時を生きて、何かを生業(なりわい)としていたわけですから、不思議な感覚に襲われてしまいます。きっと三浦半島の片隅で、農地を耕して、三浦大根でも栽培したり、菜の花を植えて菜種油を抽出していたか、ミカン園を切り盛りしていたのかだと思われます。父と同じように、『今は土を耕しているが、わが家系は由緒ある鎌倉武士の末裔で・・・・』と言っては、農民の身分に甘んじていたのでしょうか。


 日本史を学んでいて、実に悲しいのは女性の生き方だけではなく、《人身御供う(ひとみごくう)》とか《人柱》になった人たちが多くいたということです。民俗学の研究の中に、東北地方には、「座敷わらし(童子)」という風習が残っています。座敷や蔵を守る精霊、守護神で、幸運や富を来たらせると言って、鄭重(ていちょう)に祀られていたようです。民俗学者の佐々木喜善が、『座敷童子は、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと思われる。』と言っています。前に、「水に流す」で取り上げたように、岩手県下を南北に流れる北上川では、口減らしのために間引かれた子どもが川に流されて、流れの蛇行地点には地蔵が多く祀られていることについて触れましたが。ある家では、石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったようです。そのように死んだ子の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった話が伝えられ、それで、その迷える霊を鎮めるために神として世話をしてきたのでしょう。うわー、悲しい話の連続で恐縮です。この類の話は世界中にあるようです。

 そういった犠牲だけではなく、たとえば、『雲州松江城を堀尾氏が築く時、成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした。』という話を、南方熊楠(くまぐすく)が、「南方閉話」で紹介しています。こう言ったことを思い出したのは、福島原発の収集のために、現場に駆り出された従業員の「被爆量」の調査のために、調査対象としてあげられた人の数が、3639人だということがわかったのだそうです。しかし、何と杜撰(ずさん)なのでしょうか、69人の今日現在の所在が分かっていないのだそうです。この種の業務を担当するのは、子会社、孫会社、その下請け、そのまた下請けと、劣悪な賃金と労働条件で働く人達が多く、きちんと名前や住所などの記録を残していないような労務管理が、東電の現場でなされていたことが暴露されたのです。

 まさに、これって平成版の「人柱」、「生け贄」ではないでしょうか。使い捨ての労務者、昔、「タコ部屋」という牢獄もどきの現場に収容されて、極悪の条件下で働かされていた労務者の方々の話を思い出したのです。「背広組」と「現場労務者」との、あらゆる面での格差の大きさが、この企業の収益の根底にあるのではないでしょうか。その杜撰さには、呆れてしまいます。「人柱」のように、働く人があって、想像を絶するような報酬をもらう役員がいるというのは、社会主義者でない私でも腹が立って仕方がありません。腹がたったので、昼ご飯にしようと思います。信長だって、これには怒るに違いありません!ちなみに中国語で、「怒る」を、「生気了(sheng qi le)」と言います。


(写真上は、「お市の方」、中は、三浦半島の海、下は、福島原発に事故現場です)

水無月


 広島と長崎を壊滅させた驚異のエネルギーを、平和利用するには、考えられるだけの危険を、最大限防ぐ必要がありました。少なくとも被爆国として、その怖さを身を持って体験したのですから原子力発電事業を始め、続けていく上で、どうしても万全、万無一失の安全対策をすべきでした。喉元過ぎれば・・・で、その怖さを忘れ、原子力発電事業を始めてからも、危険認識がなさすぎたのではないでしょうか。電力の供給は、私たちが生きて行くための絶対不可欠なもので、公益事業なのですから、企業収益の多くを、必要経費として危険対策費に回さなければなりませんでした。今日の外伝のニュースで、原発全廃を決めたスイス原子力安全局が、この5月5日に、『福島原発事故は想定内のことである!』との報告書を出してしていました。

 (1)緊急システムに 津波防護策が施されていなかった
 (2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった
 (3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実 な冷却機能もなかった
 (4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった-と指摘されている

とです。ここに報じられているのは、『・・しなかった!』の羅列です。無為無策での軽視、怠慢(中国語の「怠慢(daiman)」の意味は、『もてなしが行き届かない!』で、接待がうまく行かなかったことです)だったことになります。企業は、政治家への《もてなし》が慣例、さだめなのでしょうか、大きな見返りを期待するからなのです。私が、文部省傘下の一研究所に務めたとき、総務的な仕事をさせられました。研修会などを開きますから、事務研修関係の器具や事務用品の購入の経費も相当な額でした。その春、腕を骨折して、そのリハビリに山梨県の増富の温泉に行きました。その時、同宿している客の中に、研究所の近くで事務器具を扱っている会社の社長がいました。『取引させてくださいませんか。その見返りに10%、あなたに個人的に差し上げますが、如何でしょうか!』と誘ってきました。臨時の小遣いが入って、高級車だって手に入りそうな誘惑の話でした。ところで、『不正を憎み、義を愛すること!』を、両親に教えられて育った私でしたから、はっきりとお断りしました。小さな研究所だって、そんな誘惑の罠の中にあるのですから、日本有数の電力会社や委員会や議員たちにとっては、底知れない誘惑の谷が、大きな口を広げて飲み込もうと待ち受けているはずです。


 3月11日の地震と大津波のあと、福島第一原子力発電所が大津波の被害を受けたらしいとのニュースがありましたが、当初は、報道規制がひかれていたので、その厳粛さが、息子の家にいた私にも伝わって来ませんでした。後になって分かるほどの、国や近隣諸国を根底から震撼とさせる事態は感じていませんでした。かつての旧ソ連やアメリカや国内の原発事故のどれよりも、事態は極めて深刻だったのにです。次男は、この初めての経験に身も心も震わせていました。220キロも離れて住む東京都民にとっても、それほど深刻でしたから、福島県民はいかばかりだったことでしょうか。『事実が隠蔽されていて、伝えられていない!』との近隣住民の声が聞こえていましたが、これも無視されていたのです。利害関係、損得、責任回避、根回しなどの思惑が、どす黒く渦巻いていたのが、私の眼にも見え見えでした。

 息子の家に家内といる間、『お父さん、今日は放射線量が多いので、なるべく外出しないほうがいいよ!』と言い残して、次男は渋谷の反対集会、代官山の講演会へと出掛けていき、インターネットで正しい情報を流し続けていました。『お母さんを連れて、シンガポールのお姉ちゃんのところに行ったらいいよ!』と気遣ってくれました。中学生の時にあった、阪神淡路大震災のおりに、学校を休んで給食活動に出かけて行った彼でしたが、社会人となって責任もあって、今回は自由な行動もままならないのですが、先日は、福島の知人を激励に出かけたと言っていました。深刻な原発事故の放射線の空中飛散や海水汚染、土壌汚染の収束、終息は、いつなるのでしょうか。

 『・・・しなかった!』ことの責任はやはり大きいのではないでしょうか。この時代の過誤、怠慢、蔑ろにしたことを、今の子どもの世代が、結果を受け継ぐのですから、厳粛なことに違いありません。こう言った警鐘の声が、外国の専門家から出されているのに、東大や東工大の学者や専門家たちが、公表や公言できない学問の世界の封建制、前近代的な在り方こそが、最も根源的な悪がこんなところにあるのです。そこに一枚、政治の世界の闇が噛んでいるのでしょうね。学者だと自他共に認める学者のみなさん、あなたは学びの途上にある者だとの謙遜な認識が必要なのではないでしょうか。私に影響を与えた老練で義を愛した、その道の専門家は、『学び始めて、やっと少しばかり分かり始めたばかりです!』と言っていましたが。


 家内に昨日、『どう?』と聞きましたら、『気にしないこと!』と名言を漏らしていましたから、禿げないので安心しました。ハゲてもハゲなくても、この事態の収束(終息)を心から願う大陸の水無月の夕べです。

(写真は、福島県「会津の風景」、中は、原発の「建屋の中の惨状」、下は、帝都・東京湾上の「花火大会」です)

ひめごと

 

 だれにでも《秘密(中国語では、mimi)と読みます》があります。昨年秋に家内が発病、入院治療、そして、今年の1月、日本に帰国後、また激痛に見舞われ緊急入院、退院、入院手術と繰り返しましたので、今学期の授業担当を取り消していただいて、ほかの教師に代講をしていただきました。帰国中、息子の家で、NHKテレビで放映されています連続テレビ小説「おひさま」を観始めたのです。朝の時間帯にテレビを観るなんて、これまで殆ど無かったことですが、出勤時間を心配しないでよい私は、こっそりと、この番組を見続けているのです。どうして、ここ中国で観られるのかといいますと、インターネットに「KeyHoleTV」というサイトがありまして、これを偶然見つけて、ダウンロードすることができたのです。私のノートPCで、約8cm×5cmの画面で、とても小さいのですが観ることができます(拡大できますが不鮮明になってしまうのでしません)。最近は音質も画質も、少し良くなってきて、我慢すれば日本の茶の間で観ているような錯覚に陥るのです。

 兵庫県明石の標準時の日本時間と比べて、北京時間は1時間遅れるので、放映時間は、北京時間7時になります。幸い、5時半頃には目が覚めていますので、ゆっくりした早朝のたたずまいの中で観させてもらっています。実に面白いのです。昭和10年代の信州安曇野が舞台で、暗雲急を告げ、戦争の深みに国全体、アジア全体、全世界が沈み込んで行く時代の物語です。戦争中に生まれた私は、安曇野から南東に位置する山梨県下で生まれましたから、さほど遠くない田舎の雰囲気が似ているのかも知れなく、興味はつきません。もちろん安曇野は中部山岳に位置していますが、平野が南北に広がって、ゆったりした自然が豊なところです。もちろん冬は厳しいものがあるのですが。作詞・やしろよう、作曲・伊藤雪彦の「安曇野」という題の歌があります。

    1 大糸線に 揺られて着いた ここは松本 信州路
    安曇野は 安曇野は 想い出ばかり どの道行けば この恋を
    忘れることが できますか せめて教えて 道祖神

    2 湧き水清く ただ一面の わさび畑が 目にしみる
    安曇野は 安曇野は 想い出ばか あの日と同じ 春なのに
    あなたはそばに もういない 恋は浮雲 流れ雲

    3 なごりの雪の 北アルプスを 染めて朝陽が 今昇る
    安雲野は 安雲野は 想い出ばかり あなたを今も 愛してる
    恋しさつのる 旅路です 揺れる面影 梓川
  (midiで聞けます http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/jsengo2-frame.html)

 先週末から、杏子ちゃんという東京の両親の元から、叔母の家に疎開してきた小学生が登場しています。この叔母が敵役で、杏子ちゃんに少々いじわるなのです。でも彼女は、じっと歯を食いしばって耐えています。病気で入院した父、その看病をする母への理解があって、親元を離れて健気に生きている様子をうかがうことができ、戦時下によく見られた光景なのでしょうか。前回から、その杏子ちゃんに笑顔が戻ってきているのです。クラスメートが、絵の上手な杏子ちゃんに、象の絵を書いてもらうくだりが演じられていました。書き終わったあとに、ニコッと笑う初めての笑顔を、主人公の陽子先生が見つけるのです。頑なな子供から、笑顔を回復させるのですから、陽子先生の学級の雰囲気は極めて人間的な暖かさを持っていることになりますし、そういった学級運営をしている陽子先生も、当時の教育のあり方への違和感を覚えるのですが、子どもたちへの情熱は素晴らしいのです。細かいことに感動して、つい涙を誘われてしまい、よくテレビの悲しい番組を見て涙を流して泣いていた父を思い出してしまいます。


 この杏子ちゃんには妹の千鶴子ちゃんがいて、姉を慕って千鶴子ちゃんが教室にやって来るのです。そうしますと担任の陽子先生は、椅子を杏子ちゃんの隣に並べて、妹を座らせるのです。私の5学年上の兄が、小学校が焼けてしまって、近くのお寺で授業をしていたときに、ノコノコとこの教室にやってきた私は、兄の隣りに座らせてもらって、弁当を分けてもらったり、アメリカの《ララ物資》として送られてきた「粉ミルク」を溶かした牛乳を飲ませてもらったことを思い出しました。今日日の学校では、こんなことは許されないのでしょうね、いたずらな私は座っているというよりは、教室を徘徊しては、兄の級友にチョッカイを出していたのでしょうか。その教室替わりのお寺を、二人の兄と弟と4人で、35年ほど前に尋ねたことがありました。山奥の村里は、変化がなかったのです。その時、消失後再建された小学校も訪ねたのですが、次兄の担任が校長をしていて、その奇偶を驚き喜んでおられました。


 こんなにゆったりした気持ちでテレビを観るなんて、よいものですね!これが私の《ひめごと》でした。ぜひ内緒に!

注記:「ララ物資」とは、(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと、アメリカの教会が中心になって敗戦国の復興を願って示された愛でした。

(写真上は、「おひさま」のそば畑の一場面、中は、安曇野の「位置図」、下は、昭和24年に昭和天皇がここに来られた時、皇后陛下が読まれた「感謝の歌碑」です)