上海からの船旅

 
 
 『台風11号が接近しているので、出航時間を午前9時に繰り上げます!』との連絡が前の晩に入ったのです。上海港を出た「蘇州号」は、大型船でしたが、波にもまれながら、前後左右に揺り動かされていました。これまで瀬戸内海を、フェリーで何度か利用して九州や四国に渡ったことがありますが、そこは内海で静かでしたので、大きく揺さぶられるようなことはなかったのです。ところが今回は、航路は外海でしたし、11号台風の接近で覚悟はしていたものの、幸い私は船酔いをせずに、しばらくの台風の影響を受けた後、静かに凪(な)いだ海の上を、快適に船旅をすることができました。その航路は、かつて遣唐使船が目指した航路を、反対に航行しながら、大阪の国際港に向かっていました。海には、三日月が写り、海また海の上を静かに走るような船旅でした。

 夜、甲板に出て、ちょっとオセンチになったのでしょうか、『海は広いな大きいな・・・』とか、覚えていた歌を静かに口ずさんでみました。実に神秘的で、海の広さに比べたら、大型の貨客船と言いながらも、藻屑のような船が、静かなエンジン音を上げながら、まっすぐに航行する様子を体感しながら、科学技術の進歩の凄さを感じざるをえませんでした。あの遣唐使船や遣隋使船は、風を頼りの帆前船でしたから、無風の時は、漕ぎ手の人力も用いたのだそうです。全長30メートル、幅8メートル、300t程だったといいますから、超自然的な加護を求めながらの船旅だったにちがいありません。その航路を、一つの舵を取りながら、大陸の蘇州を目指したのですから、勇気の要ったことだったでしょうし、大陸から学ぼうとする意欲の大きさ、決死の覚悟をみなぎらしていたことになります。

 日本の島影が見えてきた時に、やはり懐かしさがこみ上げてきました。4月に母の告別式で戻っていましたから、4ヶ月ぶりの帰国でしたが、やはり自分の祖国の名のない島が見えた時には、特別な思いが沸き上がってきたのです。「五島列島」に連なって無数に点在する島なのですが、島の緑は、優しく私の目に写りました。港が見えた時に、『こんな離島で、何百年も生活が営まれてきたのだ!』と思うと、日本人の勤勉さやたゆまない努力や工夫を感じさせてくれて、祖国の自然ばかりではなく、祖国を耕し、周りの海に糧を求めて続けてきた人々の毎日毎日があって、今日の時代を迎えていることが分かりました。玄界灘を航行しながら、北九州の港町が視界に入ってきました。看板も読めるようになると、瀬戸内海に入る辺りに、関門海峡の大橋が見えてきて、その橋をくぐった時に、トンネルを汽車や電車で走ったあたりを、海から眺めて、一入の思いも湧き上がってきました。

 丸二日、48時間を船上で過ごしたのですが、この静かに流れる時間には格別なものがありました。同船のみなさんが口々に言うのは、『飛行機では、身動きもしないで、じっと4時間ほど座って、隣席の人との交流もほとんどなかった!』と言っておられました。しかし、船の中では、日本に帰るといわれる、私の兄と同年の方、日本に働きに行く中国の農村からの若い女性のグループなどと交わることができました。また、中国人のお母さんが連れた4人の母子がいて、その中学2年生の少年とも言葉を交わしました。そこには中日の友好の「交わり」の一場面があったのだと思います。1000円もする、船内のレストランで夕ごはんを食べていない中国のお嬢さんたちに、『泣きたいようなことがあっても、頑張って働き、日本と日本人を知ってくださいね!』と言って、カップヌードルを差し入れしてあげました。とても喜んでくれたのですが、給与支給の問題などがある雇用の中で、日本不信に陥らないようにと願うばかりでした。

 ちょっと揺れたのですが、帰りの船で、どんな人たちに会えるかを期待しながら、下船した次第です。船から降りるのは、飛行機から降りるのとは、だいぶ感じが違いますね。ずっと液体の上にいるような気分でだったからでしょうか。これでは、船旅が病みつきになりそうです。

(図は、大阪の住之江から東シナ海を渡って、蘇州への遣唐使船の航路です)

台風接近

 先ほどの天気予報で、台風11号の予想進路が、温州と上海だと、知らせていました。そんな時に、メールに、『明日の午前11時の出港が、9時に繰り上げられました!』と知らせてきたのです。遣唐使船や遣隋使船は、風まかせでしたから、風のある季節に航行しなければならなかったのですから、台風に遭遇する可能性があったことになります。私の乗る船は「蘇州号」で、全長154m、客定員316人、14410屯、最大21ノットの5星客船 ですが、大型貨客船で、貨物の比重の方が大きな船のようです。空に浮く飛行機も、水に浮く船も、陸の足をつけているのと違って不安定ですが、船長に命を預けて、快適な旅を願っています。

 今夕のバスの中での食事を、今、家内が作っています。飛行機のエコノミーを考えますと、狭い座席で横になることができませんが、「長途汽車」という長距離バスは、中国国内を東奔西走、縦横に走っていて、車内はベッドになっていますので、体を横たえることができるのです。去年、広州に行った帰りに乗りましたが、結構快適でした。『無理をされないほうが・・・』と言ってくださる方がほとんどですが、ちょっと無理をしてみたいへそ曲がりなオヤジの私です。こんなことをブログに書き始めているのは、だいぶ不安があるからかも知れません。夕食を片手に、『ボンボヤージ!』

中国にいることの幸せ

 『人生の最良の時期とはいつか?』を考えると、それは青年期でしょうか。それとも充実し、円熟した時を過ごせる中年期でしょうか。それとも無邪気な子どもの時なのでしょうか。そういったことを考えますと、老年期というのは最悪の時期になってしまうのではないでしょうか。私は、人生の締めくくりの時期を迎えた今こそが、《人生の最良の時》だと思うのです。子育を終え、仕事も退職し、家庭や社会の責任から解放された今を、『どう過ごすか?』が問われて、新しい道に分け入ることができたからです。

 2006年の8月に、日本を出て、香港で1週間を過ごし、北京、天津というルートで、中国に導かれました。心機一転、中国語を学ぼうと思っていた私たちに、そのように門戸は開いたのです。学びの合間に、華南に旅をしました時に、訪ねた友人から、『こちらに来て、学びを続けませんか!』と勧められのです。迷いに迷ったのですが、彼の勧めを聞き入れて、2007年の夏に、この街にやってきたのです。そうしましたら、ここで出会った若い友人が、『大学で日本語を教えくれませんか!』と勧めてくれたのです。それを「天の声」の様に聞いた私は、喜んで教壇に立つ決断をし、今日にいたっております。

 《中国にいることの幸せ》を、今、強烈に感じております。中日の間の友好のためには、幾重もの壁があり、反日の動きも、ときどき、そよそよと感じてはおりますが、決定的な問題にはならないでおります。居心地はいいのです。教えながら、若者たちから多くのことを学び、多くの友人たちから愛や親切を受けて感謝が湧き上がり、『あなた達は私の家族です!』とか『お二人は、私の日本のお父さんとお母さんです!』と言われますと、居心地は更に良くなってしまうのです。よくつらい経験をされている日本人の方の話を聞きますが、私たちには、全くといっていいほど、そういったことはなく、この六年を過ごすことができたのです。

 来週月曜日の夕方に、街の北にあるバスターミナルから長距離バスに乗って、上海に行き、そこから大阪港行の船に乗って帰国します。48時間を要する船旅は、私の憧れなのです。子供の頃、船乗りになりたかった私にとって、海、潮騒、潮の香を体験することは夢だったのですから。もちろん、今、11号台風が沖縄に接近していますから、出航できるのか、また出航しても大波に揺さぶられるのかわかりませんが、今、踊るように心が興奮しています。今日の昼過ぎに、長女から電話があって、『無理しないでね!』と釘をさされました。『年を考えて!』と言いたかったのでしょうか。

 若かりし日の父が、こちらに来ました戦前の交通手段は船だけだったのです。その父が渡った大海原を、私も反対方向から渡ってみたいと、常々思ってきたものですから、その実現も楽しみの一つなのです。また遣唐使船や遣隋使船に乗って波濤を越えた人たちの思いを、共感してみたいこともあります。人や利器は変わっても、海は変わらないのですね。若い日に出来なかったことを、する自由があって、今が、一番好い時だと思っております。確かに家内も心配して、『長距離の夜行バスなんか乗らないで、飛行機で行けばいいのに!』と言いますし、『船でなく、飛行機のほうがいいのに!』とも言いますが、今だからできる行動を楽しませてもらおうと思っているのであります。

 そうしますと、今が人生の最良の時ですし、中国の華南に住んで、大学の教壇にも立たせていただき、若者たちの熱気に触れ、彼らの悩みを聞き、多くの友人たちと語らい、共に食事を採り、岩茶や鉄観音茶が飲める、今のこの生活に、幸せを感じるのです。私の行動を軽率だと言った人もいましたが、『そうできるあなたが羨ましいです!』と言ってくれ方もいました。ときどき、わずかな年金の中から、『これを使いなさい!』と、時々送金してくれた母は、今春召されたのですが、母に代わる友人家族に支えられ、励まされているのです。それよりも何よりも、中国のみなさんから、驚くほどの愛を受けていることが、《中国にいることの幸い》を切々と感じさせてくれるのです。さあ、こちらに戻ってきますと、在華七年目の始まりになります!

(写真上は、遣唐使船の航路図、下は、上海の《蘇州号》の出入港付近です)

日本に生まれた幸せ

 

 常々、『幸せだ!』と思うことがあります。それは、日本に生まれたこと、日本人であることです。ヨーロッパ諸国からは、「極東」、東の外れにある《野蛮人》の住む国だと揶揄されていました。隣の中国と比べて島国の小国で、まるで《箱庭》のようだと比喩されてきました。日本列島は南北に細長く、その中心部は高峻な山々が連なり、平地が少ないのです。大雨に見舞われると、河川が氾濫して、洪水が起こることもしばしばでした。台風の通り道で、来る年も来る年も、暴風雨にさらされ、大きな災害を被って来ました。環太平洋火山帯の上に、列島が位置していますから、《地震》が頻発し、地面が、ひっきりなく揺れ動く上で生活が営まれてきました。しかし先人たちは、この国を見捨てて逃げ出したり、諦めたりしなかったのです。『どうしたらこの国の中で生きていけるのか?』を考え続け、学び、挑戦し続けてきたのです。

 静岡県の東部を富士川がながれておりますが、この上流は「釜無川」とよばれています。河川の氾濫を繰り返すので、こういった命名がなされた一級河川です。この支流に、「御勅使川(みだいがわ)」があり、この流れが釜無川に入る辺りが、一番の氾濫箇所でした。これに苦しめられてきた住民を、どうにか助けようとしたのが、有名な戦国の武将、武田信玄でした。彼は、中国の文献から学んで、「堤(つつみ・堤防)」を築くのです。大変な難工事でしたが、完成された時に、近辺や下流の農民たちに大きく感謝され、それ故、そこは「信玄堤」と呼ばれるようになったのです。

 何年か前に、四川省に行きました時に、岷江(minjiang)という川にあります、「都江堰」を見学しました。この「堰」こそ、「信玄堤」の原型なのです。街に入った時に、大きな銅像があって、ガイドをしてくれた方が、『都江堰を築いた李氷の像です!』と教えてくれたのです。釜無川とは比べられないほどの水量の川でしたから、これを築くのは、難工事だったに違いないことが容易に分かったのです。私はいつも、中国に参りましてからは、ことのほか思わされてきているのですが、『中国人の智恵や工夫や実行力は素晴らしい!』ことです。「都江堰」に倣った「信玄堤」は象徴的であって、日本の政治、法、文化、芸能、教育など、あらゆる面で、中国に基礎を置いているわけです。ほとんどの我が国の事物の源流は、中国にあって、その知恵の恩恵を受けて、日本という国が出来上がったわけです。

 その知恵を、日本という自然環境の現実に適用し、工夫を加え、改善して、日本が国として形成され、日本人が創り上げられたことになるのです。よく言われてきたことですが、『日本は猿真似王国だ!』、確かにそうですが、真似ただけで終わるのではなく、工夫改善が行われて、真似た原型を遥かに凌駕してきたからこそ、経済大国になることができたのです。失策も失敗もありましたが、まれに見る文明国になり、礼儀や態度の面では、世界的な模範になってきたのです。『黄色の出っ歯の野蛮人!』が、こんな国を創り上げてきた、先人たちの血を吐くがごとき努力に感謝し、この国に生まれたことを仕合わせに思うのであります。私が日本人であることを、決して恥じません。この戦後の六十数余年は、過去の過ちを悔い、十二分に償ってきましたしたから、いつまでも過去に因われる必要はないと、心底から思うのです。

 若い世代のみなさんが、この国の先人たちを誇り、国を愛することができるように、心から願うのです。中国の若者たちが、国を愛し、生まれ故郷を誇り、次の時代を担おうと励んでおられます。先程もバスに乗って、招かれた昼食を終えて帰って来ましたが、家内が乗ってきますと、一人の青年がすくっと席から立って、家内に席を譲ったのです。先に乗った私は、その一部始終を眺めながら、『中国の次の時代は盤石だ!』と思わされたのです。席を譲ってくれたからではなく、ほんとうに立派に生きている若者が多いからです。彼らは、きっと「幸せな国」の国作りをしていくに違いありません。『日本の若者も、日本を誇り、日本を愛して、日本に生まれた幸せをかみしめて生きてもらいたい!』と願わされた、台風一過の午後であります。

(写真上は、山梨県のかまなしがわの「信玄堤」、下は、四川省の「都江堰」です)

金メダル 【無償の愛(ロケットニュース24)】

      40年かけて35人の道に捨てられた子どもを拾い救ってきた中国の女性が
     世界中に感動を与える

 現在ある一人の女性に隠されたストーリーが、世界中に感動を与えている。その女性とは、中国の楼小英(ロウ シャオイン)という88歳の女性で、現在腎不全(じんふぜん)のため入院生活を送っている。彼女は、浙江省の金華市(きんかし)というところで道に捨てられているゴミを拾い、それをリサイクルすることでなんとか生計を立ててきた。

 しかし貧困のなかで生きてきた彼女が、道で拾っていたものはゴミだけではない。なんと40年かけて35人もの子どもを拾い、そして救ってきたのだ。
 17年前に夫に先立たれた楼さんは、拾った子どもたちのうち4人を自分のもとに置き、残りの子どもたちは友人や親戚のところに預け、面倒を見てもらった。そして82歳の時、今の楼さんの最も幼い子ども張麒麟くんをゴミ箱の中で見つけることとなる。現在7歳になる麒麟くんを見つけた時のことを、楼さんは次のように話している。
 
 「私はすでに歳をとっていましたが、その赤ちゃんを無視し、ゴミの中で死なせることなんできませんでした。その子はとても可愛らしく、そしてとても苦しそうでした。私はその赤ちゃんを家に連れて帰らなければと思ったのです」「田舎にある小さな質素な家にその子を連れて帰り、元気になるよう面倒を見ました。そして今その男の子は、幸せで健康なやんちゃ坊主に成長しています」「張麒麟より年上の私の子どもたちは皆、彼の世話を手伝ってくれました。麒麟は私たち全員にとって、とても特別な存在なのです。私は中国語で “貴重で大切なもの” を意味する単語を、彼の名前として選びました」

 「1972年私がゴミ拾いに出かけた時に、小さな女の子を見つけたことが全ての始まりです。その女の子は、道のゴミの中に埋もれており、捨てられていました。もし私たちがあの時その子を助けていなかったら、彼女はきっと死んでいたことでしょう」「その子が成長していく様子を見るのが、私たちの幸せでした。そして気づいたのです。子どもの世話をすることが、私が本当に大好きなことだということを」「ま た、こうも思いました。もし私たちにゴミを集めるだけの力があるのなら、人の命のような大切なものを “再生” できる力もあるはずだと。道に捨てられた子どもたちは、愛情と保護を必要としています。彼らはみんな大切な命なのです。どうしたらこんなか弱い赤ん坊たち を道に捨てられるのか、私には理解できません」


 
 血のつながった実の娘・張彩英さん(現在49歳)を育てながら、道で拾った子どもたちも 我が子のように愛してきた楼さん。その楼さんのもとで育った子どもの一人・張晶晶さん(33歳)は、楼さんがどんな母親だったかをあるテレビ局のインタ ビューのなかで、次のように話している。(張晶晶さんがインタビューに答えている様子は、記事下の動画で見ることができます)「あの 頃、母は何も食べることができませんでした。母はゴミを拾うため、真夜中に出かけなければいけなかったのです。私たちが寝た後に、母は出かけていました。 そして明け方、まだ明るくなる前に家に帰ってくるのです。当時私たちは、ろくに食べることができず、大根、かぼちゃ、それからサツマイモなどが、その当時 食べていたものです」

 「私たちにお腹いっぱいになるまで先に食べさせて、その後やっと母が食べます。私たち子どもが、満腹になるまで食べたのを見て、母は心の中で『これで安心して自分も食べられる』と思っていたのでしょう」「例 えば12個のアメを3人の子どもに分ける時、母はなにがあっても均等にそのアメを、子どもたちに分け与えます。母は血のつながった実の子どもがいるのです が、拾ってきた子どもと分け隔てなく接するのです。えこひいきなんてしません。自分の子どもだけいいものを着せようとか、たくさん食べさせようとか、そう いうことは決してしませんでした」「母がこのように病気にかかってしまうとは、誰も想像していませんでした。私たちは今でも母が100歳ま で生きられると思っています。母がもっと長く生きしてくれれば、私たちも母ともっと同じ時間を過ごすことができます。もし本当に母がいなくなってしまった ら、 “お母さん” と呼べる人が本当にいなくなってしまうのです」
 
 そして楼さんの行動を支持してきた人は、地元における楼さんの存在についてこう話している。「彼 女は、捨てられた子どもたちに何もしない政府、学校、人々に恥を思い知らせています。彼女にはお金も権力もありません。しかし彼女は死のふちから子どもた ちを救ってきたのです。地元では、彼女のことはよく知られており、捨てられた子どもたちを救ってきた人としてとても尊敬されています。彼女は常に最善を尽 くす人物であり、地元の英雄です。しかし残念ながら、中国には数え切れないほどの子どもたちが道に捨てられており、彼らには生き残る希望がありません」
 
 この話の通り、つい先日、中国の鞍山市(あんざんし)で、ビニール袋に入れられた女の子の赤ちゃんがゴミ箱で発見された。その女の子の喉(のど)は、残酷にも切り裂かれていたが、幸いにも無事に救助され、一命をなんとかとりとめた。この女の子は、中国の一人っ子政策の犠牲者だと考えられている。なぜなら一人っ子政策により「女の子よりも男の子を好む」考え方が生まれてしまったからだ。そんな利己的な社会に捨てられた子どもを救ってきた楼さんは、現在腎不全のため入院しており、話すことも動くこともままならないほど身体が弱っているとい う。しかしそんな状態になっても楼さんは、自分が愛した子どもたちのことを気にかけており、病院のベッドの中から次のようなことを語っている。


 
 「私に残された人生はあと少しです。そして私が今、最も望んでいることは、7歳の麒麟が学校に行くことです。もしそれが実現すれば、私の人生にもう悔いはありません」
 
 実は楼さんは、これまで2人の娘を中学まで行かせることができたが、それより年上の3人の子どもたちを学校へ行かせてやることができなかった。それがとても心残りのようで、麒麟くんをなんとしても学校に行かせてやりたいのだろう。
 そんな愛情深い楼さんの人生が、中国で大々的に報じられると、ネット上で楼さんの入院費をカンパしようという動きが生まれ、募金を募るサイトまで登場した。

 そ してついに公的機関まで動いた。楼さんが学校の進学を望んでいた麒麟くんには、戸籍がないため、小学校へは入学できないとされていた。しかし今回の楼さん のニュースが中国で話題になったことで、戸籍の管理をしている地元の公的機関が、麒麟くんが入学できるよう戸籍問題解決へと動いてくれたのだ。それに呼応して、金華市の小学校も麒麟くんの入学を認めており、楼さんの話に感銘を受けたという校長先生は「これは楼さんの人生最後の望みであり、我々はそれを叶える手助けをしなければいけません」とその熱い気持ちを語っている。

 世界中の人の胸を打つ、楼さんが見せた子どもたちへの “無償の愛” 。確かにこれまで楼さんは、質素で貧しい生活を送ってきたのかもしれない。しかし自分を「お母さん」 と呼ぶ子どもたちの愛らしい声、そしてその子どもたちが見せる無邪気な笑顔で満ちあふれたその人生は、誰にも負けないくらい幸せな人生だったに違いない。

 楼さんの人生を明るく照らすこの無償の愛の素晴らしさ・美しさが世界中の人の心に伝わり、道で捨てられる子どもが一人でも減ることを切に願いたい。(文=田代大一朗)

(写真上は、子供たちを安なった台所、中1は、入院中の楼小英さん、中2は、楼さんの住む金華市の古写真、下は、楼さんの家です)

暮れなずむ山影

 わが家のテラスの左方向に高層アパートがあり、その間に一つの山の頂が見えます。この町の人が散歩コースにしていて、『一緒に登りませんか!』と誘われながら、一度も登ったことのない山です。以前、山の麓まで自転車で行ったことがありますが、まだ、私には未踏峰の山です。

 台湾の方で、『ケンちゃん!』と家内と密かに呼んでいる日本料理店の店長が、誘ってくれているのです。この方は、日本語が流暢で、ときどき誕生日や記念日などのイヴェントでいくのですが。行くたびに、いろいろと資料を持ってきて、彼のヴィジョンを熱く語ってくれるのです。『桜の苗を植えたけど、根付かなかったんです』、『今度、いっしょにうえにいきましょう!』とか言ってくれます。去年の7月末、あっそうです今日は、引越し記念日になります。引っ越してから疎遠になってしまったのですが、今週、家内の誕生日ですので、ここで食事をしようと、今考えています。

 私の周りの中国のみなさんは親日家で、というよりも、親日家のみなさんが、側によってこられるといったほうがいいのでしょうか。どちらにしろ、庶民の対日感情は極めて良好だと思います。今、ロンドンでオリンピックが行われていますが、そのニュースによりますと、中国の応援団が、対スペインとのサッカーの試合で、応援してくれたと報じていました。自国の参加が叶えられ中sったのですが、旅費や食博費を払って、ロンドにやってきて、日本を応援してくれているのです。もちろん、他の競技の自国応援があるのでしょうけど。抗日、反日だと叫ばれながらも、アジア圏の隣国同士、一衣帯水の関係にある両国には、同じ血の流れた人によって、それぞれの国が構成されているのです。だからでしょうか、日本の活躍に期待し、応援してくれているのです。

 こういったニュースを聞きますと、すべての両国の間に横たわっている課題は、平和裡に解決されていくのではないかと思えて仕方がないのです。暮れなずむ夏の空に浮かぶ雲が、夕陽を受けています。台湾の近くに台風が襲来しているそうで、いつもに比べて、この二日ほど、酷暑が一休みしているように感じられます。そして涼風が、窓から入り込んで、快適な夕べを迎えています。今、北京時間19時、空がだんだんと暗くなってきています。うっすらと、山影も見ることができます。今日の一日の恵みに感謝して。

 (写真は、ロンドンオリンピックで、対スペイン戦に勝利した日本チームを応援する中国人フアンです)

 久しぶりに、都会の家を離れて、海を見に行って来ました。月曜日の午前中、街中の「汽車站」から「平潭」行の長距離バスに乗り込みました。知人の男性が、『そこは家内の出身地で、家内と生まれたばかりの娘がいますので、一緒に行きましょう!』と言ってくださって、外国人の私たちだけで行く手助けをしてくれたのです。実は、友人たちに内緒にしてでかけようと思ったのですが、私たちの計画を探り出されて、家内が、『実は、平・・・』といってしまってから、その友人がみんなに電話をして、この島の出身者たちにわたりをつけてくれたからなのです。

 島に着きましたら、そこの「汽車站」に、一人の方が出迎えてくれたのです。9月から、私たちの街の大学で、英語教師を始める若い女性で、前から知っていた方でした。海を見ると歌いたくなる歌がいくつかあります。思わず、浜辺に立っている私の口からついて出たのは、唱歌の「海」でした。

海は広いな  大きいな
月が昇るし  日が沈む

海は大波  青い波
揺れてどこまで  続くやら

海にお舟を  浮かばせて
行って见たいな  よその国

海は広いな  大きいな
月はが昇るし  日が沈む

 九十九里の浜辺も、江ノ島も相良の浜辺も美しいのですが、砂浜の規模に、雲泥の差があるのです。さすが大陸の海、遠浅の海浜がえんえんと続いていて、浜の大きさと広さは半端ではないのです。対岸に台湾があるのですが、遠すぎて見ることはできませんが、さらに、その向こうには日本列島があり、はるか遠くにはアメリカ大陸があるわけで、『海は広いな、大きいな・・・』と歌ってしまったわけです。

 この季節には、毎夏、早起きして何度も静岡の海に、泊まりがけで出かけて、子供たちと過ごしました。途中、スピード違反で検問にひっかかって、切符を切られてしまったりしたこともありました。『お父さんは悪くはないよね!』と、下の息子が弁護し同情してくれたのが懐かしいです。38℃以上の高温の連続の日々でしたが、潮風は、やはり心地よく、潮のにおいも懐かしくかぐことが出来ました。泳ぎませんでしたが、海水に足を入れましたら、どうしても泳ぎたい衝動にかけれましたが、やめてしまいました。日本のような葦簀(よしず)の「海の家」があったら泳いだのですが。

 帰る前の晩、彼女のご両親が夕食に招待してくれたのです。この島独特の料理を作ってくださって、実に美味しくいただきました。海鮮の郷土料理で、ここでしか食べられないもので満腹になりました。みんなで歌ったり、お話したり、テレビまで一緒に見てしまいました。彼女は、自分と弟妹の映った写真と、お父さんとお母さんの若かり日の写真を見せてくれて、しきりにお父さん自慢をしていました。中国語で、ハンサムを「帅shuai」と言うのですが、しきりに「帅」を繰り返していて、お父さんが照れて、それで実に嬉しそうでした。胃を病んでおられて、今は、仕事をしていないのですが、他の省のトンネル工事の技術者として働いてきたのだそうです。お母さんも、始終ニコニコして歓待してくれました。

 たくさんの親切で、3泊4日の旅行を、昨日終えて、わが家に帰ってきたのです。初めての知らない島で、人と海と美味しものに出会って、帰って来ましたら、雨が降っていて、良いお湿りで歓迎されたようでした。

僕の夢

 この写真の中の文章は、小学6年生の鈴木一朗が、「僕の夢」という題で書いた作文です。『僕の夢は一流のプロ野球選手になることです!』と言って書き出しています。そのために何をしているのかといいますと、『・・・365日中、360日は厳しい練習をやっています!』と続けています。11歳の少年野球選手が、その夢の実現のために練習を重ね、プロ野球選手になります。さらにアメリカのプロ球界でも、その夢をつないで活躍し、今日に至っているわけです。

 だれもが夢をみますが、夢が実現するよりも、はかなく消えてしまうことのほうが多いのです。私の長男は、イチローよりも一学年上で、同じように、プロ野球選手を夢見ていたのです。小学校から中学と野球を続けましたが、彼の夢は成就しませんでした。決して努力が足りなかったわけでも、好いコーチに巡り合えなかったのでもありません。生きていく道、天職として付与されたのは、夢とは違ったわけです。それは挫折とは違います。別の世界で精一杯に生きている彼を見て、私はその生き方に誇りを覚えるのです。有名になることも、財産を備蓄することもないようですが、人の生きる道を、一人の人として誠実に歩んでいることに、拍手と喝采で応援しております。

 11歳の一朗が、今、38歳になりました。3歳から野球の練習を始めたといいますから、35年もの間、一つのことに集中して生きてきたことに、心からの敬意を表したいのです。どんなに素晴らしい記録を上げ、チームに貢献してきても、やはり肉体の衰えは、いかんともしがたいようです。人の全盛期、ことのほかスポーツの世界のそれは、短いものであります。40歳を過ぎても現役として活躍し続ける選手も、たまにはいますが、ほとんどは、三十代の後半は終盤でしょうか。

 『イチロー、ヤンキースに移籍!』というニュースを聞いて、アメリカのプロ野球界の厳しさを、改めて知らされたわけです。それは実績主義、成果主義の世界であって、情の入りこむ余地のない社会だからです。下の写真は、移籍会見の時のイチローの表情を捉えたものです。「男の悲哀」があふれていますが、実に男らしい顔ではないでしょうか。一つのことに打ち込んできた男の顔です。いずれ、このような時を迎えるの覚悟していたのでしょうけど、シアトル・マリナーズが「不要」を表明した直後の彼の表情です。

 戦後、芋をかじりながらほそぼそと育てられた団塊の世代の子が、イチローの世代です。敗戦で、夢が砕かれ、野望が砕かれた父や母たちが、団塊の子を生んで育てたのです。力道山がアメリカ人のプロレスラーを空手チョップで打ち破る様子を、出始めたテレビで、大声で声援して観ながら育ちました。古橋が水泳の日米競技会で活躍し、白井義男がプロボクシングで世界チャンピオンになり、日本車がアメリカ国内を疾走するようになる時代に大きくなったのです。『ベーブ・ルースやゲーリックが活躍する米球界で、まさか日本人が活躍することなどない!』と決めつけていた私の思いに反して、イチローは、さして大きくない体で、12年も活躍し続けてきているわけです。私に、力道山や白井義男を彷彿とさせてくれたのが、イチローでした。息子の叶えられなかった夢を、実現してくれたのもイチローなのです。

 今、シーズンの後半、ヤンキースの8番打者、左翼手として再スタートを始めました。彼の律儀な生き方、野球愛が、いいえ11歳の夢が継続され、ボロボロになるまで励まれるように、『ありがとう!』と言いながら、心から応援したい、そう願っております。

酷暑(猛暑)

 「暑さ」を表す言葉に、酷暑、猛暑、炎暑、溽暑(じょくしょ)、そして激暑とあるそうで、この「溽暑」と「激暑」は初めて知りました。その他に「熱波」ということばもあるようです。中国語では、「酷暑」を使うようです。何年か前のことですが、こちらに来たばかりの頃に、家内と近くのスーパーに買物に行きました。その時、道路の水たまりに、四つん這いになってお腹を冷やしている犬がいたのを見て、驚いてしまいました。犬の智恵というのでしょうか、四肢を放り出して少しでも涼を取ろうとしている光景に、思わず吹き出してしまったのです。犬の水浴びは見たことがありますが、華南の真夏、猛暑の中で生きる動物にも、それなりに生きる工夫があるのですね。

 以前は、「四大火炉」といって、南昌(江西省)、重庆(重慶)、武汉(湖北省)、南京(江蘇省)でしたが、最近、「中国最热的四大城市」は、福州、杭州、重庆、长沙(湖南省) だそうです。この数年、私たちの住んでいる町が中国中で一番熱い街になっているそうです。日本語では「暑い」と夏の暑さを言い表しますが、中国語では「熱re」と言う表現を使います。この町は、地下に温泉が埋蔵されていて、それで地熱が高くなり、気温上昇につながっているのだそうです。私たちの友人で、いつもお世話してくださる方のご両親が、空港の近くの街に住んでおられますが、今夏、体調を崩され、お二人とも、今、入院しておられます。例年になく熱い夏を迎えて、高齢者が「熱中症」にかかっているのだそうです。日本でも大勢の人が、救急車で搬送されたとニュースが伝えていましたが、こちらでも同じです。

 幸い家内も私も守られていまして、『気をつけて下さい。水を沢山飲んで下さい!』と若い友人たちに注意をされております。先々週は、クーラーを効かせて《転寝(うたたね)》をしてしまい、『寒いなあ!』と思いながらスイッチを切らなかったので、案の定、冷房病になってダウンしてしまいました39.4度の体温で、唸って3、4日伏せてしまいました。セキが出て、喉が痛かったのですが、「おかゆ」を少し食べることができましたので、回復が早かったのかも知れません。これほどの高熱は初めてのことで、家内を心配させてしまいました。私が平熱に戻ったら、今度は彼女が39度の高熱を出して寝込んでしまったのです。《夫病附随》というべきでしょうか。

 それ以来、クーラーを極力使わないことにしているのです。昨日今日と、沖縄をかすめて朝鮮半島に向かっている台風7号の影響でしょうか、猛暑から解放されてしのぎやすいので感謝しております。毎日38度ほどの気温で、体感は40℃以上と言われていますから、避暑をしているようです。今週は、東北地方へ旅行の予定でしたが、取りやめにして、来週初めに、家内と、近くの島に出かけてみようかなと思っています。

 東京も、私の生まれた古里の夏も、厳しい暑さでしたが、こちらには比べられません。誰も見ていなかったら、あの犬のように、水たまりに体を投げ出したい誘惑に駆られそうです。それにしても年年歳歳、熱さが厳しくなっているのを感じます。でも健康が支えられているのには感謝でいっぱいです。日本は、梅雨も開け、猛暑日が続いているようです。もう「暑中」なのでしょうか、みなさんのご健康を願ってお見舞いいたします。

今に見ていろ僕だって

『みなさん、まあ僕の話を聞いて下さい。ちょうど、僕が高校二年であの娘もミヨちゃんも高校二年の時でした。』

僕のかわいいミヨちゃんは 色が白くて小ちゃくて
前髪たらしたかわいい娘(こ) あの娘(こ)は高校二年生
 
ちっとも美人じゃないけれど なぜか僕をひきつける
つぶらな瞳に出あう時 何んにもいえない僕なのさ
 
それでもいつかは逢える日を 胸にえがいて歩いていたら
どこかの誰かとよりそって あの娘(こ)が笑顔で話してる
 
父さん母さんうらむじゃないが も少し勇気があったなら
も少し器量よく生まれたら こんなことにはなるまいに
 
『そんなわけで、僕の初恋はみごとに失敗に終わりました。こんな僕だから恋人なんて、いつのことやら、でも、せめて夢だけは、いつまでももちつづけたいんです。』
 
今に見ていろ僕だって 素敵なかわいい恋人を
きっとみつけてみせるから ミヨちゃんそれまでさようなら
さようなら

 これは、1960年、平尾昌晃が作詞作曲し歌った、「ミヨちゃん」という歌です。高校1年生の時に流行った歌で、思春期まっただ中の私たちの世代の《代表曲》といってもいいのではないでしょうか。純情な恋心を歌った、平凡で誰でも経験し、願っていそうなことを代弁してくれた歌だったのです。みんなが、この「ミヨちゃん」に出会えるような、淡い期待で、電車に乗り込んでは、キョロキョロしていたのではないでしょうか。中学と高校共に、男子校で過ごした私などは、金網で仕切られた向こう側にある女子部に熱い視線を向けていたのです。何時かマラソン大会があって、女子部の学生が校内の沿道に出てきて、応援してくれるといった粋な計らいがありました。『マサヒトさーーん!』と声がかかったのですが、ダレが言ったのか、60年経ってもわからない謎の声援もありました。

 『ちっとも美人じゃないけれど・・・』がよかったのです。その頃から女の魅力は、顔じゃあなくて、「心」なんだと思うほど、小生意気だったのです。この平尾昌晃は、今でこそ、作曲家として有名なのだそうですが、私の時代には、「日劇ウエスタンカーニバル」を大いに沸かせた、ロカビリー歌手だったのです。ついに有楽町まで出かけて行って見ることはなかったのですが、テレビ全盛期の時代、それはそれは、今の「嵐」などとは比べられないほどの人気があったのではないでしょうか。胸を病んで、諏訪河畔の療養所で過ごしているという噂を、後になって聞いたのですが、起死回生、とても情緒のある歌を作曲しています。

 『今に見ていろ僕だって・・・』は、将来に夢をつないでいて、今は何も起こらなくても、いつか《佳人(かじん)》と出会えるのだという望みに溢れさせてくれたのです。今でも、ときどき口ずさみますが、甘酸っぱくて青臭い香りが漂ってきそうです。今の時代の子どもたちも、あまりにも現実的過ぎる男女の話ではなく、淡い恋心を楽しんでもらいたいものです。《ときめき》って、この年になってもあるのには驚かされています!

(写真は、1960年代の渋谷駅・京王井の頭線の電車です)