日本文化?

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 よく見かける光景に、警察官や市役所の職員が犯罪を犯すと、この人が務めていた部署の直属の上司たちが、マスコミとの会見の席上で、四十五度の礼をして、「謝罪」をしています。頭を下げている角度も時間も、長テーブルの前での人数も、ほぼ同じなのです。一人でも駄目、角度が高過ぎても、時間が長過ぎても駄目なのです。そんな光景を見飽きるほどに眺めるのですが、異様に感じるのは私ばかりではないと思うのです。「責任の在り処」は、本人なのに、どうして『監督が不行き届きでした。お詫び申し上げます!』と、組織の長が謝らなければならないのでしょうか。大の大人であるのに、自分の部下の罪を上司が詫びているは可笑しいのです。それが「謝罪会見」なのです。

 私の長男が、幼稚園に通っていた時に、近所の薬局でガムを無断で失敬してきたことがありました。単に欲しかったのでしょう。近所の悪友と一緒でした。買ってあげなかったガムを噛んでるのを見つけた私は、それが「罪」であることを教えて、彼に納得させました。そして、彼と一緒に薬局を訪ね、息子は、『ごめんなさい』と、店主に謝罪しました。親の私は、そばにいて、日本語で都合のよい、『どうも・・・』と言葉を濁していました。この店主は赦してくれましたし、『親の躾が・・・』とも言いませんでした。それ以来、息子は同じようなことは起こしませんでした。

 芸能人の子どもが覚醒剤使用で警察に逮捕されると、マスコミは親に取材をします。『どうして、こんなことになったのか?』、『どんな躾をしてきたのか?』、『普段の生活はどうなのか?』と、詰問しています。親は長い顔をして、沈痛な思いで無言でいるか、言葉を濁すか、最近では、ブログで何かをコメントしたりしています。もう選挙権があり、三十代でしたら、参議院議員や知事選に立候補できる年齢なのに、まだ《親の責任》を問うのにも、呆れ返ってしまいます。『息子に聞いてください!彼は大人なのだから!』でよいのではでしょうか。

 そうしてもらわないと困る日本社会に、やはり問題があるのではないでしょうか。『形だけでも謝罪しておけば、それで済むんだから!』と言った思いが、その背後にあるようです。責任追及の矛先を弱めたり、反らせたりする計画的な謝罪が多いようです。この間、「丸刈り号泣謝罪」をした若い女性がいました。世界中に、その動画が配信されて、驚きの声が上がっていました。うら若い女性が、《頭を丸めた》ことは、これも「異様」なことでした。彼女の所属している芸能グループから外されて、その世界で活動できなくなることを避けるために、誰かが入れ知恵をしたのかも知れません。『ちょっと恥ずかしいけど、また髪の毛は伸びてくるし、カツラだって使えるから、ここは、ちょっと我慢して丸刈りにして、意思表示したら!』とです。『ゴメンナサイ!』をすれば赦してもらえる、《甘い社会》が、私たちの社会であって、実に「強(「したた)か」ではないでしょうか。

 中国語にも、謝罪のことばがあります。『ごめんなさい!』は、〈対不起・ドイブジイ〉でしょうか。「面子」を、極めて大切にするこちらのみなさんは、ほとんど言わないそうです。交通事故を起こして、こちらが悪くても言いません。『こうなったのには、あなたにも責任があるのだから、私は謝る必要はありません!』という接し方をすると聞いています。例えば、道路を歩いていて、肩がぶつかっても、無言のままです。日本人の私なんか、卑屈なのでしょうか、自分が《悪太郎》であることを認めてますので、《ごめんなさい人生》を生きてきました。そんなに苦にならないで、平気で言えるのです。教師や警察官や大人のみなさんに、叱られ、注意されて、当然謝罪すべきことでしたから、『ごめんなさい!』と言ってきました。でも、一度だけ、根本的な「謝罪」をしたことがあります。それで完全な赦しを経験したのです。広い大陸のどこでも行って住み替えられる中国のみなさんと、狭い村社会の中で生きてきた日本人の《文化の違い》かも知れません。『ごめんなさい!』も、一つの日本文化なのでしょうか。

その味で養われたのですから

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 子育て中に、いろいろなことがありましたから、私の両親にとっても、四人の男の子を育てていて、様々な思い出があったことでしょう。父は、「手帳」には、日々の覚えておくべきことや、すべきことの記載はしても、「日記」をつける習慣はありませんでした。ですから、どんなことを父が思い、何を考え、何をしたのか知る術がありません。それでも、『俺の小さい頃は・・・』とか、『中学に入学するときには・・・』とか、『おやじは・・・』とか、『たつえさんは・・・』とか言いながら、話を聞かせてくれたことがありました。明治の終わりに生まれたのですから、大正期の出来事であったことになります。
 
 時々、「古写真」をネットの中に見つけてみたりしますが、戦後の平和な時代に育てられた私には、想像もつかないほどに、多くの事々が起こった時代だったことを歴史から知らされます。飛行機は軍用はあったのでしょうが、民間で旅客に利用されることもありませんし、新幹線も自家用車だってない時代です。蛇口をひねると水がで、コックをひねるとガスがで、温水がでてくることもありませんでした。夏場に西瓜を冷やしておく冷蔵庫も、肉や魚を凍らせて貯蔵する冷凍庫もありません。無い無い尽くしの時代でしたが、人と人との距離が、とても近かったのではないでしょうか。父の育った家は「躾(しつけ)]が厳しかったようで、畳には踏んでよい場所と、そうでない場所もあったのだそうです。年寄りと生活をしていない私は、細々としたことを注意しない両親のもとで、自然児のようにして生きていたのです。
 
 日本の新暦の「正月」には、まだこちらにおり、こちらの「正月(春節)」には、それが終わってから戻りましたので、今年も、「正月気分」を味わうことがありませんでした。あの独特な空気が感じられる「元旦」は、もう何年もご無沙汰しております。元旦には、母が暮から、破れた障子や襖を張り替えながら作り始めた「おせち料理」と「関東風雑煮」で、家族全員で朝食を食べるのが常でした。『雅、いくつ喰う?』という声が思い出されます。コメ屋から配達された持ちを、父が定規をあてて、ほとんど同じ大きさに切った餅を、七輪に編みをのせて焼くのが、父の役割でした。鶏肉と小松菜のだし汁に、焦げ目の入ったその餅を入れての「雑煮」でした。「田作り」、大根と人参の紅白の酢の物の「なます」、「黒豆」、牛蒡や里芋や人参などを一つ一つ煮分けた「煮物」、母の故郷から送られてくる「野焼き蒲鉾」、紅白の「蒲鉾」、「伊達巻き」、それに「ハム」などが添えられて、「重箱」に盛り込まれていました。
 
 ああいうのを、「明治の味」とか「大正の味」と言って、江戸時代から伝えられてきた日本古来の味なのでしょうか。「昭和」が終わって、もう二十五年になりますから、「昭和の味」も、遠のいていってしまうのでしょうか。三月になっているのに、今日は、「正月の味」、つまり「父の味」と「母の味」とが思い出されて仕方がありません。その味で養われたのですから。食いしん坊だからでしょうか、ロマンチストだからでしょうか、いえ甘えん坊だからでしょう。「母の味」を知ってるのが、母を四十年も面倒みてくれた、すぐ上の兄嫁なのです。『私は、お義母(かあ)さんの味を教わったんです!』と、この一月に帰国した時に、義姉が話していました。今日の昼食に、家内の学生たちに、《特性サンドウイッチ》を作ってみました。美味しいそうに、大きな口で食べてくれたのです。牛肉と玉ねぎの炒め物、卵の薄焼き、チーズ、トマト、キュウリを、トーストしたパンにバターを塗ってはさみました。それに、「金柑」を添え、紅茶を入れました。そんな28度の春の昼でした。

(写真は、母が作ってくれたのに似ている「雑煮」です)

「東洋の奇跡」

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 「東洋の奇跡」、英語では、”Japanese miracle ”と言いますが、戦いに負けた日本が、焼土の中から、驚くべき経済復興をしたことを、そうアメリカが言いました。しかし、一番の復興というのは、「生きていく自信」や「夢を持つこと」だったようです。1975年に新潮社から発売された小説に、「官僚たちの夏」という作品があります。一切のものを失ってしまったように見えた日本でしたが、『まだ戦争は終わっていない!』、つまり、武器使用の戦争は負けたが、「経済戦争」が日米の間に行われているという思いの中で、圧倒的な物量で占領支配をし、日本をアメリカ製品の「市場」にしていく動きがありました。ところが、その「物の攻勢に、敢然と立ち向かった男たちの獅子奮迅の戦いを、城山三郎が描いたものです。

 この物語の舞台は、「通商産業省」であり、事務次官となってトップに上り詰めていく、佐橋滋をモデルに描かれた作品です。佐橋は、『国家の経済政策は、政財界の思惑や利害に左右されてはならない !』との信念をもって、アメリカ製品に対して、国産繊維製品、国産自動車、国産コンピューターなどの研究開発を、主に中小の経営者に促し、やがて実用化させ、ついには、アメリカのフリーウエーを日本車が満たし、疾走し、アメリカの自動車市場を席巻するまでに導いたのです。彼は『ミスター・通産省!』とまで呼ばれた名物官僚でした。

 大陸から伝えられたものに「絹製品」がありました。それは、やがて「西陣織」などに代表される高級で美しい絹織物を盛んにさせます。維新政府が、「富国強兵」を掲げて、欧米諸国に追いつき、追い越そうとして取り組んだ国家プロジェクトの事業の一つが、その「絹(生糸)生産」でした。その代表工場が、国の出資で群馬県に造られます。「富岡製糸場」です。生産された「生糸」を、そこから陸送して横浜港から、輸出していたのです。それで外貨を稼ぎ、そのお金で軍艦を買って軍事力を欧米並みにしていった時代です。私が小学時代を過ごした街に、「蚕糸試験場」がありました。そこに友人たちと出掛けて、捨てられてあった「おかいこ(桑の葉を食べて絹糸を吐く虫)」を拾って帰り、桑の葉を与えて育てたことがありました。「繭玉」が作られていくのを観察するためでした。父の家があったところから高台の大地に上がると、一面が「桑畑」だったのです。農家では、まだ「養蚕」が盛んに行われていて、そのおかげで、「ドドメ(桑の実のことです)」を〈おやつ〉に腹いっぱい食べていました。

 長野県の諏訪湖にも、「生糸工場」がたくさんあって、周りの県下から多くの若い女性がやって来て、働いていたのです。「ああ野麦峠」という作品の舞台となったところです。時代とともに衰微していった業界でしたが、諏訪湖の周りには、今は「味噌工場」が沢山あります。なぜなのかといいますと、そこで働く製糸女工たちの食事に欠かせない「味噌」が、その近辺で作られていたからです。「生糸」は、ほとんど姿を消してしまいましたが、「味噌」だけが、そんな歴史を秘めて残っているわけです。

 戦後の経済を支え、牽引してきたのも、「繊維業界」でした。「自動車」に取って代わるまで重要な産業だったのです。そう言えば、中学の時に、クラブ活動の後に、よく「中華そば」とか「カレー」をご馳走してくれたのが、八王子の繊維組合の組合長をする、お父さんに持つ先輩でした。そういった産業界を舵取りしてきた佐橋は、〈天下り(goo辞書によると、『退職した高級官僚などが外郭団体や関連の深い民間企業の相当の地位に就任すること。「所轄官庁から―する」 』とあります)〉をしなかった潔い、《戦後のサムライ》だったのです。こういった国民を思い続け、日本を再建していった役人たちがいたことは、今日の日本人の私たちは忘れてはならないのだろうと思われます。

(写真は、こちらの道路でも時々見かける、高級日本車「レクサス(トヨタ)です」

『父は父なるが故に、父として遇する!』

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 中国で日本語を学ぶ日本語学科の教科書の中に、日本の歌がいくつか掲載されています。その中で、学生のみなさんの誰もが知っている歌の一つが、「四季の歌」です。一緒に歌ったりしますが。荒木とよひさが、学生時代に怪我をして、湯治をしていた妙高高原で、あたりの風景を眺めながら作詞したのです。それに、彼自身が作曲したのが、この歌です。芹洋子などの多くの歌手が歌っていました。

    春を愛する人は 心清き人
    すみれの花のような ぼくの友だち

    夏を愛する人は 心強き人
    岩をくだく波のような ぼくの父親

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    冬を愛する人は 心広き人
    根雪をとかす大地のような ぼくの母親

 四季の移り変わりを歌った、実に清楚な歌です。やはりハイネの詩に憧れる気持を表現しているのですから、青年が詠んだものであることが一目瞭然ですね。とくに「父親像」がいいのです。毅然とし、確固としている「父」は、このところ流行りの「友達のようなお父さん」でないのがいいのです。〈ゲンコツ親爺〉、〈ガミガミ親爺〉、それでいて〈涙もろい親爺〉の方が、男の子のうちに〈父性〉を築きあげていくのに、二人の息子を持つ父親として理想的ではないかと感じるのです。さらに女の子にとっても、理想の「男性像」は、先ず父親から始まるのですから、〈男気〉が旺盛な方が、いいのではないかと、二人の娘を持つ父親として感じるのです。

 今月は、父の誕生月でした。晩婚だった父の三男として、中部山岳の山の中で生まれた私は、誰もが、そうであるように、〈父の背中〉を見ながら育ったのです。祖父に連れられていったことのある集会で、歌い覚えた、『主我を愛す・・・』を、よく口ずさんでいた父でした。旧海軍の軍港の街で生まれ育った父は、〈ゲンコツ親爺〉でしたが、拳骨だけではなかったのです。出張に行っては、「温泉まんじゅう」や「崎陽軒のシュウマイ」を買って帰ってき、会社の帰りには、「ショートケーキ」、「ソフトアイスクリーム(ド」ライアイスで凍らせたもの)」、「あんみつ」、「カツサンド」、「鰻」、「玉木屋の佃」などなどを買ってきては、『さあ、みんな喰え!』と進めてくれたのです。

 この冬休みで帰国して、次男の所で過ごしたのですが、彼が、『お父さんが作ってくれた、サンドイッチが美味しかったよ!』と言っていました。それは、8枚切りのパンをトーストしたものにバターを塗り、バターと塩コショウで味付けした牛肉、炒めた玉ねぎか長ネギ、輪切りにしたトマトとキュウリ、薄焼き卵を挟んだものでした。4人の子どもたちに、何かといっては作ってあげたのを思い出します。そう言えば、父は、「カルメ焼き」を、時々作ってくれたことがありました。七輪に金属製のおタマをのせ、そこに水とザラメを入れて割り箸で溶かし、タイミングを測って重曹を割り箸の先につけて、ザラ目液に入れると、膨らんできて固まるのです。あの味は、スーパーの菓子コーナーに並ぶ市販のものと比べて、及びもつかないほどに美味しかったのです。舌や胃袋に感じた〈親爺〉が、やはり懐かしく思い出されます。

 『大波に微動もしないで巌としてる「岩」のような父』、自分だったら、そんな言葉で〈父〉を表現して、春到来の華南の地で、心から感謝したいものです。『父は父なるが故に、父として遇する!』

(写真は、http://img.pics.livedoor.com/012/5/d/5d66eb2430e702d2c072-1024.jpgから、「波と岩」です)

Mercedes-Benz

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 子どもの頃に、バスに乗るとよく歌っていた歌がありました。三木鶏郎の作詞作曲で、中村メイコが歌っていた、「田舎のバス」です(1955年に流行りました)。

1.田舎のバスは おんぼろ車(ぐるま)
  タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない
  それでもお客さん 我慢をしているよ
  それは私が 美人だから
  田舎のバスは おんぼろ車
  デコボコ道を ガタゴト走る

(2.3.は省略)

4.田舎のバスは のんきなバスよ
  タイヤはパンク エンジン動かない
  そのときゃ馬に ひかせて走る
  それは私の アイデアよ
  田舎のバスは おんぼろ車
  デコボコ道を ガタゴト走る

 これは、『どんなバスに乗ってもガタゴト走る!』と思われたのですから、バス会社には迷惑な歌でした。それが、いつの間にか、フワフワな乗り心地に代わってきたのです。車の性能が良くなったのと、道路の舗装率が上がり、アスファルトの厚みも増したからなのでしょう。こちらに来たての頃に、市内を走る「公交車」という路線バスに乗ると、真冬はすきま風、夏場はカーテンのホックが外れ、ひどい車は車体の後部が赤く錆びていました。それに車体を支えるスプリングが、揺れを吸収しないで、少しの段差を走っても、頭に『ドン!』と衝撃がきていたのです。よく、故障して道路の真ん中に乗り捨ててありました。ところが瞬く間に、新車が導入されて、今では、運転手さんがギヤー・チェンジをしないですむ「オート・ギア」、ガソリンではない「アルコール燃料」の車に代えられてきているのです。

 今日学校が終えて、街中で家内と落合い、行きつけのパン店で、サンドイッチ(中国語は[三明治]と言います)とコーヒーで昼食をしましたが、その帰りに乗った、わが家のそばで始発着するバスが、そういったバスなのです。それに乗って帰って来ました。「長足の進歩」と言うのでしょうか、中国の社会全体が豊かになってきているのが歴然としています。

 実は最近、世界の高級車、「ベンツ」に乗せて頂く機会がありました。私の周りにも友人知人にも、このドイツ車を持っている方はいませんでした。ここ中国に来てから、初めての経験をさせていただいています。私は、車を二台も持っていた時期がありましたが、それらは何時も「貰い物」か「中古販売店で買ったもの」で、燃費の良い「経済車」でした。それで、われわれの時代は、『何時かクラウンで!』と言われていました。その後、『何時かレクサスで!』になって、今、私は、『今、ベンツで!』を、後部座席で体験しているのです。それも、日本では野球選手や有名芸能人たちの乗る、一番上のクラスの車種の「ベンツ」なのです。まるで雲海の中を走っているようです。初めの頃に持っていた「ダットサン」と比べたら雲泥の差、「月とスッポン」です。普段、徒歩で移動し、路線バスに乗り、たまにタクシーを利用している身ですので、その違いの大きさを体験してるのでしょうか。

 そう言えば、この日曜日、忘れ物を取りに家に帰って、戻る時に、タクシーのドアーに右目の下を、しこたまぶっつけてしまいました。今週は、目の下の「青あざ」で出かけています。いくつになっても、「オッチョコチョイ」が直らない私を家内が見て、開いた口のままでいる、25度の春到来の日の夕方であります。

(絵は、http://www.shinrin.co.jp/g20070223_2.htmlから、「田舎のバス」です)

「精力善用」

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 「武芸百般」とか「武芸十八般」とか言われて、古来、日本には多くの「武道」がありました。平時、武士は日夜鍛錬して、一朝事あるときに、主君のために戦う備えとして、「武芸」に励んでいました。つまり、究極の目的は、「戦場」での武闘に勝つことでした。人を打ち倒し、立ち上がれないほどに打撃を与え、殺そうとしてきたものです。それは、「死ぬか生きるか」の戦いでした。その中に「柔術」もありました。明治になってから、嘉納治五郎が「柔術」を改良して、「講道館柔道」を始めており、一般的には「柔道」と呼ばれています。それを「近代スポーツ」にするために、嘉納治五郎は、「柔術」の中にあった「禁じ手(打ち身、拳を急所に当てる技などです)」の使用を禁じる「ルール作り」をしたのです。

 この「柔道」のほかに、「剣道」、「弓道」、「合気道」、「空手」、「テコンドー」、「「カンフー」などが、「格闘技」として、一括りでいわれているものがあります。この試合で対戦するときに、『ヤア―!』、『トゥー!』、『ソリャッ!』などの「掛け声」が発せられます。それを聞くと、「戦場」で戦った戦国武将などが、死闘を戦わせた光景を思い起こさせるのです。私は、「松濤館流空手」というのを少しかじったことがありました。ボール競技を中・高でしていましたが、社会人になってから、運動不足の解消のためにでした。「柔道」は、上の兄と弟がしていましたが、私はしたことがなかったのです。

 ただ、「柔道」の開祖である、この嘉納治五郎という方は、実に高潔な人格者であったと聞いております。「柔術家」、「柔道家」だけではなく、東京第一中学校(現・都立日比谷高校)、学習院、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めた方で、「教育者」でした。また貴族院議員、国際オリンピック委員にも推挙され、その務めを果たされています。この方は、「弘文(宏文)学院」を開き、中国人留学生の世話をされており、中国文学者の魯迅も、嘉納治五郎に師事した一人でした。

 『なぜ柔道をしなかったのか?』には、単純な理由が私にはありました。「がに股(蟹股,、O脚のことです)」になりたくなかったからなのです。まあ柔道をしても「がに股」でない人も多くおいでですが、子どもころにそう思って決心したので、結局はしなかったのです。でも、「嘉納治五郎の精神」には、傾倒すべきものを感じてきております。

 嘉納治五郎は、子どの頃から虚弱体質だったので、体を強くするために、東京大学に入学した頃に、「柔術」を習い始めました。「武芸」の時代ではなくなった明治の御代に、近代的な考えをもって「柔道」を始めたのです。この嘉納治五郎の「講道館柔道」は、「精力善用」、「自他共栄」を精神としていました。この方が亡くなる前にお弟子たちに、『私を棺に収めるときに、白帯を締めてください!』と頼んという逸話を聞いたことがあります。「白帯」というのは、無段位者のことで、「初心者」が、腰に締めたものでしたから、この方は、「紅(赤)帯」を占める最高段位を得ていたのですが、「生涯白帯」で生きられたのです。きっと、『私はまだ学び始めたばかりの者に過ぎません!』という生き方をされた方だったことになります。21世紀のスポーツ選手、いえ日本人は、こういった精神や生き方に学ばなければならないのかも知れません。

(写真は、講道館柔道を始めた「嘉納治五郎」の二十代のものです)

『やり直せるなら!』

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 「羨望」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル)うらやむこと。「―の的となる」「他人の栄達を―する」 』とありました。では、「羨む」とは何か、同じく調べてみますと、『[動マ五(四)]《「心(うら)病(や)む」の意》1 他の人が恵まれていたり、自分よりもすぐれていたりするのを見て、自分もそうありたいと思う。「人も―・む仲」2 他人のすぐれた才能や恵まれた状態を不満に思う。「同輩の出世を―・む」』とありました。否定的な意味だけではないようです。

 自分が、「羨ましく思っていること」を、思いの中に探ってみますと、いくつかあります。たとえば、友人や同級生たちが、国立大学に進学したり、上場企業に就職したり、東京の山の手に家を持っていたり、馬主であったりすることは、羨ましくは感じません。それが一人ひとりの前に開かれてきた祝福の扉の向こうにあることだから、お祝いしてあげたい気持だけです。また、「ノーベル賞」を昨年とられた山中伸弥教授も、『凄い!』と思いましたが、羨ましいとは感じていません。彼が一生懸命に研究してきた「IPS」が、最大限に評価され、今後に期待されたのでありますから、賞賛すべきことです。

 では何かと言いますと、一昨日、弟からのメールにあった、『12年間皆勤した卒業生がいた!』と言うことなのです。それは、誰にもできそうではありません。「身体髪膚」を健康なご両親から、『これを受け』、頗る健康であったということになります。彼の努力や決心などの意志の力や、両親や祖父母からの激励や協力があったことも、そうできた理由に違いありません。先生たちからの激励だってあったことでしょう。こういった卒業生が、時おりいらっしゃるということを聞くにつけ、跳んで行って、褒めてあげたい気持ちになり、『ほんとうに羨ましいです!』と言いたいのです。

 なぜかと言いますと、私は小学校入学まえに、肺炎にかかって町の国立病院に入院し、退院後も、発熱や咳に悩まされ、自宅療養をしていましたので、「入学式」に出席していないのです。学校教育の最初から、もうつまずいてしまったのです。小学校1年から3年の低学年は、三分の一ほどの出席しかしていないのです。父や母は、「肺炎」と言っていますが、入院していた大きな病院は、青白い顔の痩せたお兄さんたちが、同じ病室や隣の病室にいましたので、今思いますと、どうも「肺結核」だったのではないかと憶測してみたりしています。それでも、そこは「隔離病棟」ではなかったので、「結核」ではなったのかも知れません。確かめることもなく、父も母も召されてしまいましたので、きく術(すべ)がありませんが。

 小学校の高学年になっても、中学校も高校も、よく休みました。大学の頃は、授業を《サボ》っては、喫茶店や映画館やパチンコ屋などにい、アルバイトに精出していましたから、実に意気地のない、意志薄弱男だったのです。『もし、もう一度、やり直せるなら!』、学校教育を受け直したいのです。あらゆる努力をし、お尻を叩き、這ってでも出席し、「皆勤賞」を取ろうと思うのです。『覆水盆帰らず!』と言いますから、小学校1年に戻ることはかないませんが、それでも、『もう一度、スタートからやり直したいな!』と、心から願うのです。「皆勤」したのは、どんな学生だったのでしょうか、会ってみたい気持が、今朝はしております。

教師冥利

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 いつの間にか、日本の学校では、「仰げば尊し」が「卒業式」で歌われなくなっているようです。この歌は、作詞者、作曲者が定かではないようですが、忘れられない歌の一つであります。1887年(明治17年)に文部省歌となり、多くの学校で学校で歌われてきました。

     1.仰げば 尊し 我が師の恩
       教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
       思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
       今こそ 別れめ いざさらば
     2.互(たがい)に睦し 日ごろの恩
       別るる後(のち)にも やよ 忘るな
       身を立て 名をあげ やよ 励めよ
       今こそ 別れめ いざさらば
     3.朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
       蛍の灯火 積む白雪
       忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
       今こそ 別れめ いざさらば

 昨日、私の弟からメールがありました。『・・・さて、昨日3/1(金)、本年も例年のように高等学校3年生の卒業式を迎えました。幼稚園からの15年間の生徒も数名おり、12年間の皆勤者も出ました。すごいことです。その後、保護者主催の有名ホテルでの卒業パーテーでした。今年より、来賓としての出席ですが、何人もの保護者・卒業生から個々にお礼のあいさつがあり、残念ながら食事にありつけませんでした(一杯のジュースのみでした)が、教師冥利に尽きるとはこのことでしょう。純粋な高校生、羽ばたきの時と別れを惜しむ涙涙の会でした・・・』と記されてあったのです。

 彼は母校に教師として勤務し、昨年三月をもって、管理職で定年退職しております。15歳で高校に入学していますから、人生の殆どの時を、同じ学び舎で過ごしてきていることになります。幼稚園の園児も教えたことがあり、多くの卒業生を送り出してきたのです。惜しまれて退職したのですが、退職後も、学校法人の理事、週3日、嘱託で、若い教員の相談やのクラブの世話、スキー教室の同行などをし続けているのです。《教師冥利につきる》という感慨は、素敵なものでしょうね。きっと卒業生の心の奥には、「我が師への恩」があればこそ、親も子も、恩師とともに涙を流しつつ、《感恩の情》にむせぶのではないでしょうか。実に羨ましいものです。

(写真は、日本最古の学問所建築(仙台藩)の「有備館」です)

彌生三月

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 三月を「弥生」と言います。これを語源由来辞典でみますと、『「弥生(いやおい」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」、「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る』と使われるように、草木の芽吹くことを意味する。草木がだんだんに芽吹く月であることから「弥生」となった。』とあります。

 松尾芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、その「旅立」の書き始めに、

   弥生も末の七日、明ぼのゝ空 朧々(ろうろう)として、月は在明
 (ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽か(かすか)にみえて、
  上野・谷中(やなか)の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
   むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所
  にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに
  離別の泪(なみだ)をそゝぐ。
   
と記しています。これは、中学の国語の時間に暗記させられたものですが、何となく覚えているというのは、「三つ子の魂百までも」なのでしょうか。「日本歴史」で学んだ時代区分の中に、「縄文時代」の次ぎにくるのが、「弥生時代」です。その時代の住人は、『われわれは弥生時代人であって・・・』と言ったわけではないのです。1884年(明治17年」に、東京の文京区で、土器が発見され、その土器を「弥生土器」と命名し、その土器が使われていた時代を「弥生時代(BC3世紀~AD3世紀ほど)」としたわけです。発見された町が「弥生町」だったからです。もし、「本郷町」で発見されたなら、「本郷時代」になっていたことになりますね。
 
 三月は、私の両親の生まれ月ですから、特別な感慨があります。自分が、「師走」の真冬に生まれていますから、暖かな春に生まれた父や母が羨ましく感じられたのです。これも、生まれる者の願いや、生んでくれた両親の思いでもないのですから、ありのままで受け入れる以外に仕方が無いことになります。父や母は、男の子四人に、「端午の節句(五月五日)」に、鯉幟(こいのぼり)を上げてくれていた時代がありましたが、女の子がいなかったので、「桃の節句(三月三日)」を祝うことはありませんでした。私は、偏屈オヤジでしたので、男二人、女二人の子どもたちのために、「鯉のぼり」を上げたり、「雛壇」を飾ったりしませんでした。それでも四人の子どもたちの無事の成長、人や◯に愛されて生きるようにと、家内と二人で手を合わせて育ててきました。
 
 「春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと・・・・」と芭蕉が、「序章」に記していますが、「白河の関」の以北は、3.11以降、芭蕉の時代には考えられない状況下にあります。故郷を壊されたみなさんの望郷の思いをヒシと感じます。良き思い出の中で、素晴らしい季節、「弥生」をお過ごしください。

(写真は、春の一つの象徴の野辺の「つくしんぼう」です)

「四殺」

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 愛読している「ブログ」に、漢(後漢)の崔子玉の有名な座右の銘、「四殺」が載っていました。

   嗜欲を以て身を殺すなかれ。
   貨財を以て身を殺すなかれ。
   政事を以て民を殺すなかれ。
   学術を以て天下を殺すなかれ。

 この崔子玉(AD77~142年)と言う人は、後漢の時代の人で、河北に生まれています。洛陽に学んだ学者で政治家だったようです。詳しいことは、資料が少なくわかりませんが、この言葉で有名です。「自分」を殺してしまうものが、4つあると言います。

 一つは、「嗜欲(しよく、嗜好の〈嗜〉です)」です。この「嗜欲」とは、コトバンクによりますと、『思うさま飲んだり、見たり、聞いたりしたいという心。 』とあります。人は欲を持つことで自分を殺してしまうことが多いのでしょう。人間の「安心」が、物を持つことのように錯覚されているのですが、だれも明日のことは分からない今日を生きているのですから、物の豊かさで人の価値や生きがいは測れないことになるのでしょう。

 二つは、「貨財」です。財産の相続での係争の話をよく聞きます。《骨肉の争い》ほど見るに耐えない、聞くに耐えない醜いことはありません。ある時、父の生まれた家の財産が、私たち兄弟四人に相続の権利があると知らせてきました。四人とも、相続権を放棄したのです。よく父が言っていました。《俺は金を残なさないから、自分の人生は自分で生きていけ!》とです。その父の言葉を、四人が守ったことになります。

 三つは、「政事」です。「政(まつりごと)」を間違えると、自分だけではなく、民百姓が苦しい目に遭うというのは、どの国の歴史にも見られることであります。一人の指導者の間違いが、何億という人を苦しめてきた例もあるくらいです。今では、「市民オンブズマン」がいて、勝手な政治をすることができないような、抑止力が市民にある時代には、独裁政治は行えないのです。しかし、こういった抑止力のない国は、実に悲惨ではないでしょうか。

 4つは、「学術」です。学問や教育を誤ると、人も町も国も立ち行かないということなのです。日本が、明治維新以降、欧米に追いつき一等国になり得たことを、社会学者は、「教育」の力をあげていました。すでに江戸時代から、町人たちの識字率は、当時の世界の標準をはるかに超えて高かったのです。駕篭かき人夫や漁師が、字を読み書きでき、計算能力も高かったことを、江戸期に日本を訪れた外国人が驚嘆したそうです。でも、誤った軍国主義教育の結果、多くの優秀な人材を死なせた大きな間違いには、禍根が残ります。今日でも「ゆとり教育」の功罪が再検証されて、週6日も授業を再び行う学校も出始めているようです。

 1800年も前の崔子玉の語った言葉は、21世紀の現代にも、好き忠告となるのではないでしょうか。

(書は、唐で学んだ空海が書いたとされる、崔子玉の「座右の銘」です)