悲鳴

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折々の季節に、中華民族のみなさんは、こぞって、同じ食べ物を食べる習慣でしょうか、そんな風習をお持ちです。この季節、「端午節duanwujie」には、《粽子zongzi》を食べるのです。「粽(ちまき)」です。蒸したもち米に豆や肉や、それぞれの家の作り方に従って、"テトラ"の形にして、笹の葉でくるんだものです。

先週、二人では食べ切れないほど頂き、先おとといも、結構な量の「粽子」を頂いたのです。 母の故郷から、子どもの日の前になると、この「ちまき」が送られてきて、母が蒸してくれて、砂糖醤油で食べました。米の粉で作られてあって、同じ様に、笹の葉で包まれていたでしょうか。こちらのとは、かなり形状も味も違っていました。笹の匂いがして、素朴な味、祖母の味でした。

中国の戦国時代、楚の国の「屈原(くつげん)」が、自分の進言が受け入れられずに、失脚を苦にして、汨羅江(べきらこう)で入水てしまいます。この屈原への同情でしょうか、汨羅の流れに、米を流して、屈原の亡骸が、魚に食べられない様に願って、行われ始めた風習が、「粽子」の始まりだそうです。ちょっと悲しい物語ですが、屈原と言う人は、民衆に、人気があった政治家であり、詩人だったのです。

ーそれが旧暦の五月五日で、その日を記念して、ここ中国では「端午節duanwujie」として、その日を守ってきています。今年は、6月16日で、中国の法定祝日的,18日まで三連休になります。日本では、新暦の5月5日が、「こどもの日」の祭日でした。

そして、昨夕も、また「粽子」を頂いてしました。朝から一日中、多くを作って、私たちに下さるつもりで、作られた様です。『どうしよう?』、冷蔵庫に入らないので、食べる以外になさそうで、うれしい悲鳴です。

(横山大観が描いた「屈原」です)

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目に森と青空が

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父は、中部山岳の山中で、鉱石を採掘する仕事を、戦時中にしていた関係で、わが家には、木こりの方が射止めたのでしょう、加工された「鹿の角」の実物が、置物としてありました。良い物を着て、履いて、使っていた父ですが、掛軸とか宝石とか刀剣など、宝物を一切持ちませんでした。きっと、《四人の息子》こそが、父の一番大切にしていたものなのでしょう。いえ、母が、父の一番の助け手だったのでしょう。

床の間に、父の掘った石英の「水晶」と、それほど由緒のある様には見えない掛軸と、この「鹿の角」が置いてありました。ところが、人に物を上げるのが好きな父でしたから、いつの間にか、それらが家からなくなっていました。それ以降、ずいぶん殺風景な床の間になってしまっていました。

この写真は、中部山岳の八ヶ岳で撮影された、「ニホンカモシカ」です(☞「里山を歩こう」から)。中央線を、松本に向かって、甲府を過ぎたあたりから、眼前に眺められる”麗峰・八ヶ岳“、実に泰然として圧倒させられるのですが、この山の東側のいくつか越えた沢で生まれた私は、そこに鹿が多く生息してるのを知っていました。

父の仕事で使っていた「索道(原石を山奥からトラック基地に運ぶケーブルカーの事です)」で、熊や鹿が、よく運ばれて来て、策動の巨大なモータの脇に寝かせてあるのを見たからです。きっと、鹿や熊や雉(きじ)などの肉を、鍋にして食べて、私たち四人兄弟は育ったのだと思います。

鹿の角には、よく刀剣が置かれているのですが、わが家にはありませんでした。気の荒い男の子だらけの家に、そう言ったものを置かなかったのは、父の配慮だったのでしょうか。「ニホンカモシカ」って、こんな可愛い目をしているのですね。この写真に、『眼に森と青空が写っていました!』と、コメントが、一言添えてありました。

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潤滑油

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この街では、「市バス」が、驚くほどの数の路線で、市内を縦横に走行しています。ほとんど路線の運賃が、「一元」で、一区間でも、始発から終点まででも、同一なのです。例外的に「二元」がありますが。それで、私たちの移動のほとんどは、歩きか、この「市バス」を利用しています。

この市バスに乗車するために、日本の“Suica“の様な「バスカード」が何種類かあるのですが、家内は一般的なものを使っていて、10%割引の「0.9元」で乗れます。同一カードで、何人でも利用できるのです。昨日は、「充值chongzhi」と言って、カードが欠費してしまいましたので、最寄りの出張所に、夕方、散歩も兼ねて行って、200元を入金してきました。

何と、そこには70人もの列ができていたのです。忍耐のない私には、この並ぶというのが、極めて難手なのですが、最近はできる様になってきているのです。その列の末尾について、小一時間並び続けて、やっと「充值」をいたしました。「新カード」に変える時期だった様で、その列の意味が分かり、真新しいカードに交換してもらって帰ったのです。

「充值」を終えたので、その業務をして下さった係の方に、『谢谢!』と言ったら、窓越しに、私の顔を見直して、意外な顔をされ、驚いた表情と、嬉しそうな表情を見せて、「不客起bukeqi」と小声で言ってくれました。なかなか、みなさんは『ありがとう!』と言わない様です。ご苦労様と感謝を兼ねての、ご挨拶でした。

あの方も、ちょっと好い気持ちになったでしょうし、私も好い気持ちで帰る事ができたのです。どこの国で、感謝と労いは、《関係の潤滑油》になるに違いありません。言われた自分が気持ちが好くなるのですから、いわんや誰でも、そう言われたら、嬉しいに違いありません。珍しく雨のない一日で、風も心も爽やかにされた夕べでした。

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草苺

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昨晩遅くに配信してくださった「里山を歩こう」の写真です。呉市の灰ヶ峰でも撮影されたそうです。

上は、「エゴノキ」です。沢山の花をつけていたようです。だそうです。
中は、「サイハイラン」です。山道に咲いていたようです。
下は、懐かしい、「草苺」がありました。とても甘いそうです。中国語は、”草苺caomei“と書いて、「いちご」です。

隔日ほどに配信していただいています。里山歩き、山歩きをしないで楽しませていただいております。感謝しております。

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うなぎ怖い

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「百足」と書いて、"ムカデ"と読みますが、これは難読漢字の一つです。実は、この百足が、父の天敵でした。一度、百足が、家の中を這っていた事がありました。それを見つけた時に、父が見せた<形相>、リアクションは尋常ではありませんでした。一歩も二歩も退いたからです。子どもの頃に刺された経験があったのだそうで、その痛みと恐怖心を忘れていなかったのでしょう。スリッパで叩くこともしないで、距離を置いたのです。余程の激痛だったのでしょう。

私の嫌いなものは、「蛇」です。ある時、知り合いの子や我が家の子を乗せて山道を、ゆっくりと走っていました。そうしましたら、一人の女の子が、その蛇を見付けて、『とって!』と言ったのです。嫌いな蛇を、手で捕まえて欲しいと言ったわけですから、獲る事などできませんでした。ところがこの子は、『撮って!』と、カメラで撮影して欲しいと言ったのです。ホッと、私は胸をなでお ろしたのです。

よく通学路の田圃道の農業用水の中を、泳ぐ蛇を見た事がありました。木に登ろうとするのも、崖を登るのも、道路を横切るのも見た事があったのです。見た瞬間、足が<竦む(すくむ)>のです。もう動けません。舌をペロペロと出していたら、卒倒してしまいそうです。台湾に仕事で行きました時に、夜の屋台で、柱に、この蛇を突き刺して、皮を剥いている光景を見て、もう食欲がなくなってしまった事がありました。折角のご馳走でしたが、残念な事をしました。

もう一つは、「ガマガエル」です。里山で遊んでいた時、藪の中を突っついていた時に、ガマガエルが足を揃えて座りながら、私をジッと見ていたのです。その時も、足が竦んでしまったのですが、遊び仲間に見られたかどうか気になってしまったのです。<弱虫>だと思われたくなかったからです。

そして、「毛虫」です。事務所の脇に、「ビワの木」が植えられてありました。そこには、葉や実が甘いのでしょうか、毛虫がいて、木の下を通ると落ちてきて、首先にたかって、刺された事がありました。ひどい痒みでした。そのビワの木の実が、甘くて美味しくて、鳥と"取りっこ"の競争をするほどでした。また、その葉に薬効があると、よく人が貰いに来ていました。この木を切るに切れないし、そんな生々しい経験のある私でしたが、決断しかねていたのです。

もう一つは、「まんじゅう怖い」で、「鰻」です。蛇に似ていますが、これは、ヌルッとしていて、可愛いし、何よりも美味しいのです。帰国中の最後になって、家内と私を、友人が食事に招待してくれました。『何がいいですか?』と聞くので、『今回の帰国中、まだ鰻を食べていないのですが!』と言ってしまったので、彼が、国産に拘る店で「鰻重」を奮発して、ご馳走してくれたのです。浅草に、本店のある人形町の支店ででした。

中国に来て、皿の上以外に、蛇を見た事がありません。みんな食べ尽くされてしまったのでしょうか。どうしたのでしょうか、嫌いな私を避けてくれているのでしょうか。大変、助かっています。『好き嫌いはいけない!』と、父や母に言われたのですが。鰻重は、本当に美味しかったのです。

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イシモチソウ

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東広島市に咲く「イシモチソウ」と「ヤマトキクソウ」です(☞「里山を歩こう」から)。黒や赤や灰色の土井の中から、こんなに綺麗な花を咲かせる芽が出て、葉をつけて開花する神秘さに、ただ驚かされるだけです。こんなに薄汚れてしまった心の中からでも、時には、人を赦したり、愛したり、我慢する思いが出てくるのも不思議です。「里山」に出かけて行って、俗世間から離れて、自然界の法則に従って命を繋いでいる、草や花や小動物たちを眺めていたら、子どもの頃の純真無垢な思いが蘇ってきて、喜びが湧き上がってきそうです。

人やコンクリートや物の間で生活していると、忘れてしまっている事が多くあります。この町の北に、森林公園があり、その近くの道から、高地にある村落に行く事ができます。去年の夏に、そこを訪ねて、ぶらりと歩き回ったのですが、山の間に村落があって、人の営みがあるのは、山の麓の都会に住んでいると気づかないものです。

この3ヶ月ほど、左足の踵(かかと)に痛みがあります。最近、庇いがちで歩くことが少なくなっているのに気づきます。何十年も歩き続けてきて、何度も捻挫したり、靭帯(じんたい)を切ったりしてきた足ですから、『もっと大事にしなさい!』と言ってるのでしょう。もう一方で、『もっと歩かないと筋肉も機能も劣化しちゃうよ!』と言う声も聞こえてきます。

もしかしたら、歩き足りないかも知れません。「里山歩き」も「山歩き」もしないといけませんね。この数日涼しいのです。今日は、「多雲」、のちに「小雨」の予報が出てきています。ここにも雨季があるからです。

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山躑躅

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この花は、広島県三原市本郷町、広島空港に近くにある、「爆雪の滝」に、密やかに、そして綺麗に咲く、「ヤマツツジ」です(先日配信の「里山を歩こう」から)。

山梨県甲府市の駅の北の方に、「城」を持たなかった武田信玄の館跡(やかたあと)があります。そこから山に向かった所には、「信玄の隠し湯」と呼ばれる、武田軍の武将や兵士の湯治場の一つだったと言われる「積翠寺温泉(せきすいじ)」があります。数年前に、娘が招待してくれて、そこの宿に泊まった事がありました。

その信玄の館跡を、「躑躅ヶ崎」と呼んでいて、「ツツジ」が綺麗に咲くのです。もう咲き終わっているのでしょうか。清里の長野県寄りの山岳地帯にも、ツツジが綺麗に咲いていたのを見たことがあります。そこは、これからでしょうか。平和の時代に生まれて、田畑を荒らされる心配も、戦に引かれる恐怖も覚えないで、花を愛で、時には、温泉に浸かれる時代に生きる私たちは、感謝しなければなりません。

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6月1日

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父が、その友人に薦められて、私立中学に進学する事になりました。小6の冬の事、東京の会社から帰ってきた父が、突然、『準、黎明中学に行け!』と言ったのです。それを聞いた素直な私は、すぐに受験準備の勉強を始めました。同じ私立中学校の女子部に行く同級生がいて、たった二人が、同じ町立小から私立に進学したのです。父の期待に応えて合格して、その4月1日に入学式がありました。

その学校には、軍隊で歌われていた替え歌があって、"ボクはレイメイの一年生 、紺の制服よく似合う”と歌う歌を、上級生に教わった様に、《紺色の蛇腹の制服》でした。旧海軍の軍服、あの<学習院>の物にも似ていました。町立中学は、ボタン式の《学ラン》だったのに、ちょっと目立ってしまったのです。

今日は、六月一日、「衣替え」の日です。あの頃、この日を迎えて、夏用の制服に着替えたのです。冬用と同じ形で、灰色の生地の制服でした。その中学校は、幼稚園から小学校もあって、医者や市長や社長や大きな商店主の子どもが、学内入学で通っていました。まさに"お坊ちゃま"の集団の中に入ってしまった様で、ちょっと浮いていた感じもあり、窮屈だったのです。父の趣味に従った結果でした。

その「衣替え」について、"暮らしの歳時記"に、次の様にありました。『中国の宮廷で、旧暦の4月1日と10月1日に夏服と冬服を入れ替えていたことから始まった習慣です。日本へは、平安時代頃に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて、四季に合わせて式服を替える習慣が定着しました。当初は、貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ定められていました。』

都立に行く事も考えていたのですが、担任の強い薦めがあって、学内進学で、中高6年間、そこに通ったのです。"都立、公立古くさい どうせ行くならレイメイに レイメイ健児は色男 一度は惚れてみたいもの"、これも替え歌の一節で、バスケット部の上級生に仕込まれました。あの頃の"男女別学"が、時勢に押されたのでしょうか、今では共学になってしまったそうで、汗で男臭い教室で、ギスギスしていたのが、今では"華やいで"いるのが羨ましいのです。

"色男(もう今では、そんな事言わず"イケメン"ですが、中国語では"帅shuai"です)"の"レイメイ健児"も、もう過ぎ去った日々を、アレヤコレヤと思い出す"老ぼれ"になってしまいました。 "男女交際禁止"で通学路で会っても、『女子部の学生に話しかけてはいけない!』との校則が、強要されていた時代でした。でも、”レイメイ小"の同級生と結婚したのが何人かいましたから、校則厳守は徹底されてなかった様です。"ああ我が青春の日々よ"、です。

(夜明け、朝焼けの「黎明」です)

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皐月

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「早乙女主水之介」、お読みになれるでしょうか。小学生の頃、週末になると、父にお金をもらって、電車に乗って、隣駅で降りて、映画館通いをしていました。その時の時代劇の主人公の名が、「さおとめもんどのすけ」でした。不思議な名だと思っていました。

その主人公の名が、漢字で読めたので、その意味を辞書を引いて確かめた事がありました。「さおとめ」の「さ」とは、〈稲〉のことを言い、この稲の苗を植える女性を、そう呼んだのだとありました。そうしますと、今日は最後の日になったのですが、「五月」を、『皐月(さつき)』と旧暦では言うのですが、この「さ」も、〈稲〉のことを言っているのでしょうか。それで、早乙女を「早苗(さなえ)」とも呼ぶのでしょう。

その早乙女主水之介の剣が強かったのです。弱きを助け、強きをくじく、確か旗本の身分の侍だったと思います。この侍が、「早乙女姓」を名乗ったのですから、農業従事者の祖先を持っていたのかも知れません。もちろん、小説を映画化したものでしたから、架空の名であることは確かです。

こちらに来て、田んぼを見たのは、何年も前に、海の近くの村にバスを3度ほど乗り継いで行った時ですから、ここ都市部の周辺には、「水田」が見当たりません。でも今頃、夜になると、カエルの鳴き声が聞こえてきますから、宅地になる前は、水田だったに違いありません。今頃の日本では、田植えの時期を迎えていることでしょう。

私は、一度だけ、田植えをさせてもらった事がありました。雨降りの日で、雨合羽を着て、裸足で田んぼの中に入って、苗束の中から、教えられたように、親指と人指し指と中指で、二本ほどの苗を挟んで、水田の中に、等間隔に差し込む作業でした。もう今では、機械で植えるようになってしまって、手植えの作業は見られなくなってしまった事でしょう。上の兄嫁の実家が、農家だったので、手伝う機会があったのです。

あの植えた苗の実った米を食べさせてもらったかどうか、覚えていません。そんな農作業をした後、越した中部山岳の街で、いくつ目かに住んだ家は、田んぼの中にありました。カエルの鳴き声が、やかましかったのです。一斉に鳴くので、 合唱になって、それはけたたましかったのです。でも自然界の声音ですから、機械の音と違って、横になると、子守唄のように聞こえて、すぐに眠りに落ちていったのです。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

東京の郊外で生活をし、準農村で仕事をしました。事務所の前も、水田だったのです。今、大陸の沿岸部の大都市の一角に住んでいるのです。大きな河川の流れのほとりに住んでいます。この何日か、雷鳴と雷光と雷雨で、この降る雨を「五月雨(さみだれ)」と呼んでも良いのでしょうか。日本は、「梅雨」の季節ですね。

(広重の「最上川」です)

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60代半ば

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高校で、社会科を教えていた時期が、私にはあります。それまで勤めていた職場の所長が、『私の弟子がいるので、彼が面倒をみるから、そこに行って教えなさい!』と言ってくれたのです。上司の命令でした。この方のW大時代の研究室の弟子が、招かれて、そこの短大の教務部長をされていたのです。そんな関係で、教師をしておりました。

実は、その教師の機会は、難関でした。某大学の大学院で博士課程で学んだ方と、一つの教師のポストを競ったのです。実力ではなく、"コネ"の強い私が、その機会を与えられたわけです。大正時代に開学された、女子教育では名門校でした。3教科を教えたのですが、高3の"ゼミ"も担当させられたのです。それで、何を教えようかと思案した挙句、女子に教えるので、「青鞜運動(せいとう)」を中心に、調べ始め、一緒に研究したのです。必死でした。

それは、『原始、女性は太陽であった!』というスローガンを掲げて、女性の復権を目指した「青鞜社」の運動でした。平塚雷鳥や伊藤野枝を中心に、1911年(明治44年)に始まりますが、残念な事に、5年ほどで終わってしまいました。具体的に、女性の権利を、日本社会で拡大していくには、まだ時期尚早、「男社会」を打ち破るには至らなかったのです。

この運動に加わった女性たちの恋愛問題などがあって、足並みが揃わずに、まとまりを欠いたわけです。「青鞜」という雑誌を発行して、啓蒙運動を展開したのです。女性は、子供の時は父親に、嫁しては夫に、老いては子どもに従うとの「三従の教え」の枷(かせ)を超えられなかったのです。私生活では、あるメンバーは同棲したりして、やはり「女性の限界」を打ち破れませんでした。

与謝野晶子も、この雑誌に歌を寄せたのですが、この人は、鉄幹の妻として、鉄幹に12人の子を産んで育て、短歌を詠む事によって、女性の道を世に主張したのでした。妻や母の道を歩みつつ、彼女は、そうしたのです。与謝野晶子の歌に、

「やは肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」

があります。実に奔放で官能的な短歌は、当時の女性の喝采を呼んだのです。晶子は22才で「みだれ髪」を出しています。、

"サッチャー"と呼ばれたイギリス首相は、「鉄の女」と呼ばれ、大英帝国の一時期、大きな責任を果たしています。立派な女性でした。女性には、妻と母という、堅実な《天来の使命》があります。私は自分を育ててくれた母に感謝しております。母には辛い過去もあり、誰もが持つ弱さを持っていましたが、第一義的な使命を忘れたり、疎かにしませんでした。『準ちゃん!』と呼んでは、色々と教えてくれ、忠告もしてくれました。『女は弱し、されど母は強し」」の「母の日」は過ぎてしまいましたね。

あの1970年代に、「青鞜運動」を学んだ教え子たちは、娘時代を経て、その後結婚し、今では、60代半ばの〈おばあちゃん〉をしているのでしょうか。どんな"生き様"をしてきているのでしょう。

(「花菖蒲(ハナショウブ)」です)

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