残る悔い

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日本に帰化された、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、次の様に語っています。

『・・・私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。』

このキーン氏も、アメリカ軍の語学学校で、やがて占領する国で、戦後処理をするために、日本語を学んだ人でした。その学校のカリキュラムは、驚くものだったそうです。短期間の学びで、日本の日刊紙が読める様になったそうです。そう言えば、私が、“サンノゼ(サン・ホセ/カルフォルニア)”を訪ねた時に、一人のアメリカ人兵士と会いました。彼は、二十歳でしたが、『私は日本語を半年学んでいます!』と、流暢な日本語で話しかけてくれたのです。

戦時下だけではなく、1990年代の終わり頃にも、アメリカ軍は、希望する兵士に、外国語の学習をさせて、軍務だけにではなく、学問や文化の面で、人材を要請していたのです。日本語の上手な方に、何人もお会いしましたが、短期習得の方法があるのですね。私も、中高大と、何年も英語を学び、アメリカ人起業家とともに働いたのですが、英語力は不足しているままです。

後になって、『もっと熱心に学んでおくべきだった!』と、<後の後悔>をしたのです。どなただったか忘れましたが、「嵐が丘(Wuthering Heights )」を翻訳本ではなく、原典で読みたくて、イギリス英語を学び直した人がいると聞いたことがありました。それを聞いた時、決心して学ぼうと自分も思ったのですが、そのまま、今日を迎えてしまいました。孫たちと交流するためにも、学び直さないといけないと思っているところです。

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作文

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こちらに来てから、一昨年までの7年間、毎年、50〜70人ほどの学生の「作文」の科目を担当しました。作文の仕方を教え、自分の習得した語彙を使って、毎週毎週、様々な資料を作り、それに沿って作文してもらいました。その書き上げた「作文」を家に持ち帰って、”赤ペン“で添削し、翌週、学生に手元に返しました。「修正点」を板書して、どう正すかの作業をしてもらいました。

ある時、「三行ラブレター」を書いてもらったことがあります。ご両親、祖父母、教師などに、愛と感謝を込めての短い作文でした。結構、泣ける様な文章を書く学生もいて、感激しながら読んだり添削したりする楽しみもありました。学生数が70数人の年は、大変でしたが、週毎に、作文の腕を上げて行くのを知る喜びもありました。

先日、ある少女の書いた「作文」を読みました。学齢前の、五歳の少女にしては、素晴らしい文章でした。ただ、それは《謝罪文》であり、《誓約文》でした。『どうして、こんな事を、父親は書かせたのだろうか?』と思う事しきりでした。そして多くの読者が、読まれて悲しくなり、涙したことでしょう。

「 ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんからきょうよりかもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします。」

大学ノートに、“ひらがな“で書かれてあったそうです。お母さんの連れ子の少女を、お母さんの新しい主人は愛せなかったのでしょうか。その感情が歪曲してしまい、長期の虐待で、とうとう亡くなってしまったのです。こう言った事件が頻発する日本の社会は、異常です。

先日、カルガモの一行の移動の様子を映した動画を見ました。九匹の雛を、母ガモが見守る姿に、《母性愛》が溢れていました。少なくとも、カルガモの母以上のお母さんが、あの少女をかばえなかったのは致命的です。虐待を続ける夫に、嘆願や哀願だってできたはずです。愛が異常です。世界中のお母さん、カルガモに倣って、子どもを守り、かばってください!結婚と家庭が深く傷ついているからです。

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西郷山公園

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明治維新政府の元勲で、海軍大臣や内務大臣を歴任した、元薩摩藩士の西郷従道(じゅうどう)がいました。兄の隆盛が「西南の役」で、逆賊の汚名を着せられた事で、総理大臣に推挙されても、従道は、それを固辞し続けたそうです。一国の命運を担っその責務を果たすのに、的確な器だったのですが、そういった名誉を、潔く捨てたのです。

この従道が、お兄さんのための邸宅を建てたのが、東急東横線の代官山駅からしばらく北の方に歩いた所にありました。従道は、兄思いの弟だった様です。その建物は、ずいぶん前に、明治村に移築してしまったので、その敷地は、今では「西郷山公園」になっています。お兄さんの隆盛は、粗衣粗食の人で、物欲のない人だったそうで、そんな立派な住宅を好まなかったのでしょう、そこに住むことがなかったのです。

とても好い場所にあって、建てられた頃は、閑静な所だったのでしょう。私たちも、<お上りさん>で、この公園に、二、三度行ったことがあります。今では、代官山は、東京でも人気のある地域で、小さな駅や小道は、多くの若者、乳母車を押した若い母子で賑わっています。美味しいケーキの店、喫茶店があって、とても好い街です。

渋谷区に近い目黒区にあって、都立第一商業高校が近くにあり、ハンドボールで、何度か対戦した学校なのです。周りには、多くの外国大使館があって、国際色も豊かな地域で、日中の賑わいはともかく、夜間は静かな住宅地です。次男が、しばらく住んでいた事もあって、馴染みを感じる街です。

西郷山公園の今頃は、花々で綺麗な事でしょう。紫陽花(あじさい)の花も咲いていた記憶があります。梅雨の時期、どこも紫陽花が、雨の中に綺麗に咲き誇っている事でしょう。そういえば、私たちに住んでいる街の北の山の中にも、紫陽花が咲いていたのを見た事があって、『ここでも咲くんだ!』と、嬉しくなった事がありました。

(西郷山公園と河口湖の天上山の紫陽花です)

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夫婦

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『昨年の年末に、大喧嘩をしてしまったんです!』と言うご夫婦がいます。それまで、そんなに本気で、夫婦で衝突したことがなかったのですけど、本気で思っていることを、感情に任せてぶっつけ合ったそうです。小学校三年生の息子さんmがいるのですから、10年以上の結婚生活を共にしてきて、正直に気持ちを込めて言い合ってから、夫婦の関係が強くなり、吹っ切れたそうです。

それ以来、ご主人と共に過ごすことが多くなり、よく、”カード遊び“に出掛けていたご主人が、家にいるようになったようです。おっとりしているご主人に対して、"やり手"の奥さんは物足りなさを感じていたのかも知れません。ご主人への期待が大き過ぎたのでしょう。それ以降、そう行った気持ちが少なくなってきているようです。

吉野弘に、「祝婚歌」と言う詩があります。夫婦のあり方への勧めとして有名です。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと
気付いているほうがいい
完璧をめざなないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい

改めて、この詩を読みますと、『そうだよなあー!』と思ってしまいます。お互いに肩や肘を張らないで、期待過剰、また関心希薄にならない関係を保つことの勧めでしょうか。この奥さんは、『夫への愛が強くなったのです!』と言うのです。自分の思うような夫になって欲しいのが、夫にふさわしい妻になろうとしたからでしょうか。円満円満。

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宝庫

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あの「入笠山」に、こんなに多くの種類の花が咲いてるのには驚かされます。頂上を極めるだけの「登山」だけしかしなかったのが、随分損をしていたんだと、今になって分かりました。「湿原」を歩いたのですが、観察ではなく、ただ雰囲気を味わうだけで、花々を見る事をしなかったのは、残念なことでした。

あそこは「自然の宝庫」、「花の宝庫」だったのですね。中学一年の時に、一人で、五日市線の終点駅で降りて、そこから山に向かって歩き始めたのが、初めての登山(ハイキング?)でした。ただ山の中に分け入ってみたくてでした。道の脇で働いていた木こりのおじさんが、猥雑な事を言っていました。中一の私には、父が、そんなことを言ったことがなかったので、ちょっと驚きでしたし、大人不信に陥ったりの経験でした。

でも、奥多摩の山の匂いと、踏みしめる山道の感触は、快適でした。まだ登山ブームが起こる前の事でした。五十くらいの頃でしたか、深田久弥が登山中に亡くなられた、「茅ヶ岳」にも登った事もありました。この花は「サクラソウ」、「キバナアツモリソウ」、「ツマトリソウ」です(☞「里山を歩こう」から)。花を理解しめでる人は、生きている、こんな喜びや楽しみがあるのですね。

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柳絮

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2007年の5月頃でしょうか、天津の語学校で、中国語を学んでいました時に、自転車で通学していました。その朝、街の中を、白い「わたげ」のようなものが飛んで、幻想的な光景を見せていたことがありました。タンポポが咲き終わった後に似た光景でした。吹き溜まりに、雪の様に集まって、吹く風に揺れているのです。

街いっぱいにあふれるといった感じでしょうか。それを、「柳絮(りゅうじょliuxu))」と言い、学校で、先生に聞くと、北京や天津など東北地方の風物詩なのです。まるで雪が降っているよう様に感じられ、私が育った田舎や東京の都下の街では見たことがありませんでした。

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昨日配信された「HP里山を歩こう」に、この「柳絮」の写真(このサイトに投稿されてあったものです)が載っていました。埼玉県の志木市辺りを流れる「柳瀬川」で撮影された写真(上の写真です。下は、中国のサイトからダウンロードしたものです)です。今頃の日本でも、飛ぶのですね。

11年前の天津では、街中が、まるで雪が降った様に、白くされていて、その「柳絮卯」を避けたり、手で払いながら自転車をこいでいました。『ああ、中国に来たんだ!』と思った事でした。

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入笠山

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いやー懐かしい!これは「入笠山(にゅうがさやま)」に咲く花だそうです(☞「里山を歩こう〜八ヶ岳編〜」から)。この山は三度登った、いえ、正確に言うと、二度半登った事があります。二度は、子どもたちを連れて、駐車場から登山道を登りました。頂上に立つと、まさに360度の眺望が開けて、晴れていましたから、爽快でした。それで大好きな山になったのです。

3度目には、爽快な気分を満喫させて上げたくて、家内を誘って、同じコースで登り始めたのです。登るに連れて、雪があって、徐々に多く、深くなって行くではありませんか。二日ほど前に、諏訪周辺は雨だったのです。それを考えないで、11月に、山登りを実行したわけです。平地や麓は雨でも、11月の山(2000m弱)では初冬の雪だったのです。このままでは、"初老の夫婦、入笠山で遭難!"になってしまうと、登山を中止し、林道に向かったのです。

閉まっている案内所の軒下で、お弁当を食べて出た林道は、雪が積もっていて、鹿やウサギの足跡さえ残っていました。凍ってもいたのです。家内には、凍った雪道を歩くためのゴム製で、着脱できるスパイクを履かせたのですが、一人分しか持っていきませんでした。三回ほど、私は滑って転倒していまい、家内は泣き出してしまったのです。

林道を幾つも曲がっては進み、曲がっては進むのですが、車を停めた駐車場に、なかなか至りません。もう夕暮れになってしまっていました。スズランが群生していたり、原生林が広がる綺麗な山なのに、ここで死んでしまっては、申し訳ないと、家内を励まし、家内は私を励ます、そんな家内の手をとって、やっと下山した、そんな思い出のある山なのです。

「サラサドウダン」、「ホテイアツモリソウ」です。今頃の入笠山には、こんなに綺麗に咲いているのですね。もう一度、春か初夏にでも、四度目の入笠山に登ってみたくなりました。

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クリンソウ

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これは、八ヶ岳に咲く「クリンソウ(九輪草)」です(☞「里山を歩こう」から)。この深紅の花の鮮やかさは素晴らしいですね。

現在の中国、内蒙古に、「満州里」があります。ロシアとの国境にある街で、戦前は、日本人も多く住んでいたそうです。そこを歌った「満州里小唄」と言われる歌があるのです。その歌詞の中に、「アゴニカ(下の写真)」という花が出てくるのです。これも真っ赤、深紅の花を、春の到来を告げる様に咲くのだそうです。和名は、「モミジアオイ(紅葉葵)」と言うそうです。

種の中に、こんな深紅の色を蓄え持つ事に驚かされます。満州里でも八ヶ岳でも、春は鮮やかに、《真っ赤に萌えるが如し》、なのでしょうか。

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不協和音

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先日、出先で、一人のご婦人 とお話をしていました。家内は、隣で他の方と話をしていて、途中から、私たちの話に加わってきたのです。近くに住んでいるご主人のお母さん、「姑」との関係についてでした。結局のところ、どんなに素晴らしい姑でも、それは、どうすることもできない、《母親の性(さが)》なのでしょう。はっきり言ってしまうと、<夫の母親は嫁が気に食わない!>のです。時の古今、洋の東西を問わない、繰り返され続けている諍(いさか)い、不協和音です。

自分のお腹を痛めて産んだ息子に、最善の嫁を願うのですから、どんなにできた嫁でも、<帯に短し襷(たすき)に短し>なのです。その「姑」も、嫁に来て、夫の母親に、そのように思われていた可能性が大きく、結局は、繰り返されて来た問題なのでしょう。時には、『うちの嫁は最高です!』と聞く事がありますが、お嫁さんの意見も聞かないといけませんね。

お姑さんの好物を、時々届け、感謝や関心を示す内に、『この息子も私に似た息子だし、まあいいか!』になるのを、忍耐して待つことなのでしょう。このご婦人も、一人っ子の息子が結婚した時、同じ思いになるのではないか、とおっしゃっていました。

歩くのもやっとになっていたお婆さんを時々訪ねると、優しくって、いいばかりの方でした。でも、嫁に行った娘たちは、一緒に暮らしている、お兄さんのお嫁さんを、<鬼嫁>だと言うのです。陽の当たらない脇部屋に追いやってしまって、私たちが訪ねると、座敷に招き入れ、そこからお姑さんを呼ぶのです。

私は、訪ねる時、この兄嫁に同情を示して、その労を労う(ねぎらう)事にしていたのです。何かお土産を持参する時も、お嫁さんに、『何時もご苦労様!』と言う気持ちで渡したのです。この可愛いお婆ちゃんは、若かった時に、しっかり<姑業>をやって来たに違いないと見たからです。辛い思いをしてきて、ご長男に代を譲って、お嫁さんが、台所の主になってから、<仕返し>までもいかずとも、されたことを、少しはしてるに違いないと踏んだのです。

この関係は、他人が軍配を上げるわけにはいきません。先程、申しました様に、感謝や関心を向けて、愛を示す以外にないのでしょう。私の母と一緒に住まなかった私の家内でも、結構、姑の矛先(ほこさき)を感じていたようです。母には、『三男の嫁には!』と意中の嫁候補がいた様です。もし、その女性と結婚しても、やはり母の理想には程遠かったに違いありません。息子の母親とは、そう言ったものなのでしょうか。

この戦いは、『何処まで続くぬかるみぞ!』に違いありません。もちろん例外もあります。『うちの嫁は・・・』と訴える姑もいます。賢く、適当の距離を置く事なのでしょうか。姑が弱くなると、攻守が交代になるのかも知れません。もちろん、素晴らしい関係をお持ちの方々もおいでです。察するに、この地上には、嫁や姑の沢山の涙が零されてきた事は事実なのでしょう。

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朝顔

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今年の一月に咲き終わった「朝顔」の鉢の土に、手を入れて、そのままベランダの隅に置いておきました。ところが、その鉢から2つの芽が出てきました。

実は今季は、日本に帰国したら、新しく種を買って、その種を持ち帰って植える予定でした。ところが、忙殺されてしまい、買い忘れて、こちらに戻ってしまったわけです。この何年か続けてきましたから、『今年も!』と思っていたので、残念だったのです。そこに、芽が出たのです。

どんな花をつけてくれるか楽しみです。また、「2018年版あさがお便り」ができたらいいと、ワクワクしている朝です。

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