ボントクタテ

 

 

島根県東出雲に咲く「ボントクタデ(凡篤蓼)」です。島根は、兄二人が生まれていますし、母の故郷でもあります。地域名を「山陰」と言われるのは、ちょっと日陰者の様に呼ばれて気の毒ですが、母も兄たちも、そんなことを思ってもみなかった様です。岡山や広島が「山陽」と呼ばれるのですが、島根や鳥取が、別に中国山地の影に隠れているわけではなく、陽も燦々と降り注ぐ土地柄です。こんなに綺麗な清楚な花を咲かせるのですから。☞[HP「松江の花図鑑」]

弟と私が生まれた中部山岳の山奥は、まさに「山陰(やまかげ)」でした。でも自然の美しい山村だったのです。熊や鹿や雉(きじ)などの肉が食べられ、山菜も、木の実も豊富でした。もう今頃は、紅葉で綺麗に山が飾られていることでしょう。もうずいぶん帰郷していないのです。親族もいないし、過疎の村ですから、知人も住んでいないのでしょう。

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<買ったけど読まなかった本>が数冊あります。そう言う本を<積ん読書>と呼ぶのでしょうか。その一冊は、1920年に刊行された、賀川豊彦が書いた「死線を越えて」でした。神戸の新川にあったスラムに入って、貧しく、差別されていた人たちに、「友愛」を示した青年期の体験を記した小説でした。百万部を売ったという、当時の大ベストセラーだったのです。その復刻版を、私は買ったわけです。

ところが、高級書で、硬いボール紙のケースに入っていたのを出すことも、ページをめくこともなく、書棚に置いたままでした。この人は、今では、全国に数え切れないほどある、「生活協同組合」を始めたことでも有名なのです。戦後、三度ほど、「ノーベル賞」の候補になったのですが、受賞されないままで終わってしまいます。

なぜ、その本を読まなかったかと言いますと、この人は「平和主義者」で名高かったのですが、戦時下、憲兵隊本部に呼ばれてから、自分の節(せつ)を曲げてしまったのです。アメリカにまで出掛けて、世界平和を、アメリカ国内を講演旅行して訴えた人だったのにです。その彼の語った「平和主義」を堅持する考えは、アメリカから拍手喝采を受けていました。ところが、「憲兵隊での九日間」で、日本の戦争は聖戦であって、天皇のために勝利しなければならないという立場に、この人は鞍替えをしてしまったのです。

国全体が、日本人の全体が、国策や国体に賛同していたのですから、この人の変節も分からないではありません。でも、強固な平和主義者が、急転直下、反対の立場についた、その<不徹底さ>が、この人にあったことが分かって、読もうとする願いを削いでしまったわけです。終始一貫、賛成でも、反対でも、自分の態度を変えないのが、人の道だと、若い私は思っていたからです。

私の学生時代の恩師は、国家総動員法違反で、収監され、酷い拷問を受けました。私たちを教えてくれた頃も、杖をつき、講義中に、顔を引きつらせることもあるほどの後遺症を持っていました。恩師は、節を曲げずに、戦時中が獄舎の中で過ごし、終戦を迎え、学部長をされた後に、退官されました。

この人は、戦後になって、平和主義者を偽装したことを糾弾されていますが、自分の戦争責任に対しては、沈黙したまま亡くなっています。これは、私個人の賀川観であって、彼を誹謗中傷しようとするつもりはありません。この人を尊敬する人は、それで好いのだと思います。あの時代の憲兵の迫りと言うのは、きっと先年観た映画の「沈黙」に登場する、長崎奉行の様に、人間性の底に触れるほど、変節せざるをえないほどにきついものだったのでしょう。

念のため、1943年11月の九日間に記した、「賀川書簡」をご紹介します。『・・・私の名を貴会(戦争反対者同盟)より削除されたい。思うに米国は・・・日本経済を死滅に導くことを敢えてした。その瞬間、私は永年持っていた平和論を太平洋上に捨てざるを得なくなった。(出典「戦争責任・戦後責任」62頁)』、この人は私と同窓なのです。

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朝顔

 

 

この9月に、訪ねてくれた次男夫婦が、持参してくれたタネを、10月になって家内が蒔きました。その朝顔が、今朝花開いたのです。ビロードの様なも花びらを見せています。今年第2期目のアサガオです。6時半の撮影でした。なんか子育てを、またしている様な気持ちがしています。咲くと、拍手をして上げたいほどです。子育て中に、子どもたちに拍手してあげたかな?

次兄の術後も、長女の婿殿も、術後の経過が良好とのニュースが入っています。友人が検査後に、高熱を出したのですが、熱も平熱に下がり、普段の生活に戻った様です。好い一日をお過ごしください。

謳歌

 

 

『もっと優しく、見守って上げたらいいのに!』と思うことが、このところ多くあります。健気に生きていこうとしている、少女を、あんなに無残にも罵(ののし)ったり、貶(おと)しめたりすることがあっていいのでしょうか。嫉妬か、恨みか、いたいけのない新人に対しては、酷ど過ぎます。もし、実力がなかったり、また時流に乗れなかったら、元の生活に黙って戻って、平凡に生きて行けばいのです。次の機会があったら、再挑戦させて上げたらいいのです。

私は芸能人の生活に、ほとんど関心がありません。ただ若い頃、素敵だとか、すごいとか思っていた方たちの消息に関心はあります。『最近、どうしてるんだろう?』とか思うことはあります。でも、これからの人に向かって、引き摺り下ろそうとする、あの悪意は、どうもいただけません。というのは、木村拓哉さんのお嬢さんが、芸能界にデビューした途端、物凄い叩き付けが見えるからです。

可愛くって、感じがいいではありませんか。ご両親の良いところを受け継いでいて、活躍して欲しいと思うのです。誰にでも未熟で、不慣れで、不確信な時期があったはずです。けっこう寛容で、忍耐し、将来性を見てくれて、多くの人が、その世界で、一人前になっていくのです。まだ15才ですから。

日本って、こんなに不寛容な社会を形作ってしまったのでしょうか。もう引退してもいい様な政治家の繰り返される失言や失態には、けっこう寛容だったりしているのでしょう。力ある人には、尻尾を丸めてしまって、責めるることを躊躇してるのでしょう。自分の身や立場が危うくなるなら、心の中に不満を隠して、みんな黙り込んでしまいます。彼女は、誰にも危害を加えたりしていないのに、煽り立てて、引き降ろそうとする動力には、こちらが腹立ちしてしまいます。

お父さん、またはお母さんが嫌いで、娘まで憎くなる感情っていうのが、日本にはあり続けているのでしょうか。漱石が、「草枕」で、『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』、このくらいの住みにくさ だったら、誰も傷つかないことでしょう。揶揄や嫉妬なんか気にしないで、"15の秋"を精一杯に謳歌(おうか)して欲しいものです。

([HP/里山を歩こう]の配信してくださった「リンドウ」です)

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秋の終わりの花々

 

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上は「アケボノソウ」、中は線香花火に似た「コウヤボウキ」、下は「ノコンギク」です。広島空港のそばに咲いているそうで、実に綺麗です。そろそろ秋の花のシーズンも終わりになると、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。

このホームページは、ずっと以前から送信してくださっていましたが、このブログに、今年からアップさせていただいて、楽しませてもらいました。こんなに綺麗な花々が、ひっそりと自然界の保護の中で咲いている姿に、感動させられました。 その美しさ、健気さを愛でて、山野に分け入って、人の目につかない花々を探す大変さも伝わってきました。ご許可をいただいての転載に、心から感謝しています。小動物や鳥などに報告も感謝です。ありがとうございました。人の営みではない、《創造の美》に驚愕した一年でした。まだ配信がありましたら、掲載いたします。 .

肥後

 

私のアメリカ人の恩師が、熊本の阿蘇に近い街に、しばらく滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その留守を申しつかっての滞在中でした。結婚したばかりの私は家内と一緒に、この方を訪ねたのです。教師をしていた時の夏休みにでした。

彼を慕う中学や高校生たちが、そ留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをしていた時でしたので、私たちも一緒に参加しました。それは、私の人生を、大きく変える訪問であったのです。次の年に長男が生まれ、この方の新規事業の助手として、生きて行く決心させた訪問でした。今は、その熊本郊外での事業を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねてきています。

昨秋も、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、あの大きな地震で崩壊した熊本城の城壁や益城町の被害の様子を案内してもらいました。熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。

この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。

その「小天」の前田別邸は、辛亥革命を導いた、孫中山(孫文)、その同志の黄興たちも滞在していて、彼らを物心両面で支えた宮崎滔天(とうてん)の夫人も、前田案山子のお嬢さんだったそうです。不思議な巡り合わせが、歴史を作るのは、実に興味深いものがあります。肥後熊本の片田舎と、「国父」と仰がれる孫文と同志たちと、微妙に結びつくいていることになります。一国の命運を左右する様な語り合いや、互いの信頼の再確認が、そこでなされたのでしょう。

昨年札幌に入院中、リハビリセンターの責任をとっていた理学療法士の方が、『私のお婆ちゃん夫妻が、孫文と関わりがあったんですよ!』と言っていました。北に南に、狭い日本が、広大な大陸中国と、細やかな繋がりが歴史の中に見られるのも、歴史の妙なのでしょう。いつかまた熊本に行ったら、今も残る「小天」の湯に、そんなことを思い返しながら、ゆったり浸かってみたいものです。

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小谷の秋

 

✳︎写真をタップすると大きくなります!

一周2㎞ほどのブナ原生林に囲まれた小谷村鎌池の秋です([HP/里山を歩こう]に東京多摩のKAさんが投稿された写真と言葉です)。『紅葉と云うより黄葉と云った方が的を得ているかも知れません!』と付記されていました。きっと、秋に引き込まれそうな経験だったのでしょうか。こんなに美しい秋を眺めたら、人の世界に戻りたくなくなってしまうのではないでしょうか。

春には、盛り上がる様な新緑を見せてくれるのでしょう。また冬になりと、一面が真白な雪に覆われるのでしょう。息を飲む様な自然が眺められて、ちょっと羨ましくなってしまいました。紅葉黄葉、それを池の水が映していて、飛んで行きたいほどです。

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衰微隆盛

 

 

最近、この街のテレビ局に勤務される方とです交わりの時が与えられています。先日は、ご夫婦で、わが家に見えられて、一緒に食事をしました。小さなお子さんがおいでで、奥様は、学校の事務や管理をなさっていらっしゃるそうです。お二人ともしっかりと社会人として生活をされていらっしゃいます。

ご主人のお話ですと、テレビの業界が、少しずつ斜陽化傾向にあるのだそうです。というのは、“スマートフォン”の出現と、その隆盛に圧されて、放送の広告主がつかなくなってきている様です。新聞もテレビも、情報媒体として、取って代わられる時がくるのではと、危惧されておいででした。テレビ局勤務は、どこの国でも、若者たちの憧れで、「花形」の職種だったのですが、今では、そうではなさそうです。

そういえば、何かのイヴェントが開催されたり、また事故や事件が起きて、テレビ局の取材陣が現場に駆けつけ、到着してから資材を準備している間に、スマホで撮られた動画や経緯のコメントは、即時に配信されて、国中に、いえ世界中に拡散されて行っている時代なのですね。情報は、即時的に伝えられてしまっていることになります。

交通機関の遅れなどが、どこで起き、どれほどの遅れがあるのかが、会社から広報される以前に、現場から情報が配信され、代替交通機関や回り道などをどうするかが知らせられているのですから、昭和のおじいさんは、『もうついていけないなあ!』と思わされている有様です。

そうなると、正確で信頼できる情報と、そうでないものとを見分ける必要がありそうです。いよいよ複雑で、混迷の時代に突入してしまっているかも知れませんね。そうなら、当事者の交通機関や、信頼できる筋の情報が必要になりますね。お遊びやからかいが、最近は大手を振って、罷り通っているからです。発信者のはっきりしない情報に踊らされない注意が必要なのです。

好い時代なのか、そうではないのか、責任は自分にあるので、いっそうの注意が、この時代は求めれそうです。もう一つは、<情報過多>の問題です。情報の流れに溺れないための判断や判別や選択が必要です。人の主観や意見が入り込んでしまった情報は、正確とはいえないからです。『惑わされないようにしなさい!』という注意勧告に耳を傾けたいものです。

間も無く、テレビも新聞も、消えてしまうのでしょうか。あんなに、小さな画面に、まるで敵国の虜にされているように見える人が、街中に溢れて溢れています。子どもは右手に、おもちゃの機関車や人形を握り、大人はスマホを目の前にかざしながら、わが家の前を、器用に歩いて行きます。実に上手に歩いてるのを見て驚かされます。

(上海のテレビ塔の「東方明珠」です)

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いよいよの秋

 

 

[HP/里山を歩こう」に寄稿された、東京多摩のKAさん(10月23日)の写真です。『10月15〜16日、泊りがけで長野・新潟の県境周辺に出掛け、深秋の訪れを全身で感じて来ました!』と添え書きされてありました。

中部山岳の秋ですね。もうこんなに秋が深く、そして濃くなってきているのですか。山歩きをしたら気持ちがいいでしょうね。私の故郷も、一番充実して忙しく過ごした街から、よく訪ねた清里周辺、長野と山梨の県境も、今頃は、こんな感じなのでしょうか。

これに温泉があって、美味しい食事があったら、 至福の時を過ごせそうですね。ええ、今のここが、幸せでないと言ってるいるのではありません。窓に外も、秋が見えています。日本もこちらも、いよいよの秋です。

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紅とんぼ

 

 

いつも配信してくださる[HP/里山を歩こう]が、一昨日、「赤とんぼ」の写真を送ってくださいました。この「赤とんぼ」は「総称」であって、多くの種類の「赤とんぼ」が棲息しているのですね。

よくNHKラジオで聞いた、「にっぽんのメロディー」の最後に、昭和の郷愁を呼び起こすかの様に、この曲が流れていました。この番組は、とても人気があって、ご自分が口ずさんだり、お聞きになった思い出の歌をリクエストして、毎夜、2曲が放送されていました。中西龍アナが、リクエストに添えられた思い出を代読されて、最後には、俳句を紹介していました。その時に、この「赤とんぼ」の曲がBGMでw流れていたのです。

この童謡とは別に、「赤」を「紅(あか)」にした、「紅とんぼ」という歌もありました。作詞が吉田 旺、作曲が船村 徹、ちあきなおみが歌っていました。1988年(昭和68年)に、レコードが売り出されています。

1 空(から)にしてって 酒も肴も
今日でお終い 店じまい
五年ありがとう 楽しかったわ
いろいろお世話に なりました
しんみりしないでよ ケンさん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々は

2 いいのいいから ツケは帳消し
貢ぐ相手も いないもの
だけどみなさん 飽きもしないで
よくよく通って くれました
唄ってよ騒いでよ しんちゃん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々は

3 だから本当よ 故里(くに)へ帰るの
だれももらっちゃ くれないし
みんなありがとう うれしかったわ
あふれてきちゃった 思い出が
笑ってよ涕(な)かないで チーちゃん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々

 

 

「新宿駅裏」にあった、酒処の名が「紅とんぼ」で、そこに通った馴染み客の名前が歌い込まれていて、実に、「昭和晩期」に、「昭和」を感じさせる歌でした。そこは、JRの新宿駅の中央線や山手線の線路脇にあって、「思い出横丁(通称は”しょんべん横丁”でした」と言われている飲食街です。その西口周辺には、まだ小田急や京王のデパート、駅ビルのない時代でした。今も、この横丁が残されている様です。

ここは、高等部のバスケット部の東京都の大会の試合の応援と、"ボール持ち"に駆り出された帰りに、新宿駅西口で降りて寄った飲食街です。つまり<ご苦労さん会>で連れて行かれて、ご馳走にになった食べ物屋が密集していました。大学に通う様になってからも、時々行ったことがあります。終戦後の掘建(ほったて)小屋から始まっていた様です。

空腹を満たした一時を、そこで過ごしたのですが、ドンブリ飯は本当に美味しかったのです。高校生やOBが振舞ってくれました。私立の中高校で、市長や国会議員や医者を親に持った先輩は、たくさんお小遣いを持っていて、何でも注文させてくれたのです。その楽しみでついて行ったのです。1950年代の終わりの事ですから、中学生の頃で、60年も前の事になります。この<ジュンちゃん>も、"ジーン”とくる様に、思い出が鮮明であります。

(「このしめとんぼ」と昭和30年代の「新宿駅西口」です)

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