漢字

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漢字文化の中で教育を受けて、そして、ここ漢字誕生の地、中国で、私たちは生活しております。今では、こちらの教育も文書も、「簡体字」で行われ、表記されていますが、みなさんは、台湾や香港、そして日本で使う「繁体字」も、よく知っておいでです。これが読めないと、「古典」を学ぶことができないからです。

一昨日、生まれた知人の赤ちゃんの名前を聞いて、漢字を書いてもらったのです。「忆yi」ちゃんでした。それは繁体字の「憶」だと分かったのです。日本でつけられる名前は、ほとんど名前によって男女別が分かるのですが、中国では、その区別が、あまりなされないで決められている様に思われます。それでも女子には、「美麗」の「美mei」や「丽li(麗)」が、よく使われている様です。その赤ちゃんの「忆」とは、「(懐かしく過去や人や故郷や出来事を)思う事」との意味で、英語ですと"remember, reflect upon; memory"だそうです。記憶、憶測、追憶などの語句があります。

こちらで新生児につける名前は、最近、漢字二字ではなく、一字が多い様な気がしています。ご両親は、自分の子への名前を決めるのに、あれもこれもとの思いの中にあって、みなさんが最前を選んで決めるのでしょう。私たちには四人の子どもがいて、四人とも独断で(もちろん家内の同意を得ましたが)、私が命名してしまいました。それらしく、みんな育ってくれたのです。

この「漢字」は、表語文字(象形や表意や会意など)によって、古代中国で作られたものですが、 偏(へん) · 旁(つくり) · 冠((かんむり) · 脚(あし))· 構(かまえ) · 垂(たれ)· 繞(にょう)などによって構成されています。「木偏」の漢字の多さには驚かされてしまい、実に興味が尽きません。目で見た物や出来事を、直感的に感じ、絵文字で表した古代人の秀でた感覚に驚かされてしまいます。

「木偏」には、春には「椿(つばき)」、夏には「榎(えのき)」、秋には「楸(ひさぎ/ 画像にある花を咲かせ"ササゲ<大角豆>"に似てるので"キササゲ"とも言うそうです)」 、冬には「柊(ひいらぎ)」と、季節季節の「木」があるのです。私たちが子育てを下町の家の近くに、「榎」という地名とバス停がありました。地名の様に、そこには大きな「榎」が茂っていたのを思い出します。

ここは、私の過ごした日本とは違う季節感のする中国の南方ですが、「春節」や「桃の節句」が過ぎて、三月になった今、すっかり春の佇まいがしてまいりました。今日は「春雨」で、濡れるには、ちょっと寒い感じもしております。「魚偏」に「春」の旁のついた「鰆」は、「さわら(狭<さ>)(腹<はら>)」と読みます。成長に応じて名前が変わる「出世魚(しゅっせうお)」で、結婚式などのお祝いの席の膳に供される様です。中国には、見目麗しい女性を、「媋chun」と表す文字もあります。「漢字」は、実に面白いですね。

(楸の木に咲く花です)
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初恋

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島崎藤村の「若菜集」に、「初恋」があります。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

女性を意識し始めたのは、『何時頃だろうか?』と思い巡らしてみました。男ばかりの兄弟で、従姉妹もいなかった私にとって、兄の同級生で、「お姉さん」の様に接してくれた方が、その方でしょうか。耳が痛くなった私を、街の北の方にあった耳鼻科に、このお姉さんが、母に代わって連れて行ってくれたのです。自転車の荷台に、またがらせて乗せてくれ、お姉さんの運転ででした。

このお姉さんの腰に手を回して、しっかりとつかまっていたのです。自分の手で、<女性の体>に触れた最初の経験で、それを鮮明に覚えているのです。耳が痛いのに、その<痛み>を忘れさせてしまうほど、"いい気持ち" を感じていた、ちょっとオマセな小一の私でした。この歳になっても、あの時の感情と手の感触を思い出させてくれる、淡くて幼く、ちょっと怪しい《恋心》です。と言うか、お姉さんを求める《願望》だったのでしょうか。

その後、《ジェンダー(性意識への願いのことでしょうか)》の時期に入って、女性への関心は、性的なものに変化して行くのですが。藤村が詠む、「恋の盃」と言うには幼な過ぎる時から、心理的にも社会的にも成長して思春期に突入するのでしょう。中学の時に、女子部の高三の先輩に(中高と別学でしたが、バスケットボール部は大会参戦の遠征などで交流があったのです)、声を掛けられて、"いい気持ち"になって、憧れたのは、まさに思春期に突入の頃、「人こひ初めしはじめなり」でした。

大人になるのに、《失うもの》が沢山ありますが、《得るもの》もまた多くあるわけです。娘から時々、孫たちの写真が送られてきますが、もう子どもではなくなりつつある様です。そろそろ<思春期>に入るのでしょうか。正常に突入して、大人への階段を正しく昇って欲しいものだと願わされております。

(弘前市のりんご園の林檎の花です)
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開花

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この花は、「ノハラムラサキ(野原紫)」という、「勿忘草(ワスレナグサ)」の一種だそうです。広島県呉市の郊外に咲いていた花だと、週に何度か配信してくださる"里山を歩こう"にありました。

この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!」と出掛けて行った日々を思い出します。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩街を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。

白雪の山から吹き降ろす寒風が、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。
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先週遊びに来られたご婦人が、水仙の苗を持って来てくれたのですが、昨日今日と夏の様な気温、28℃もあって、北側のベランダに置いた水仙が開いてくれました。垣根の凌霄花も、河岸の木蓮も咲き誇って、百花繚乱の春の始まりです。創造の美、傑作に目を見晴らせている日曜日の午後です。
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木蓮

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この街の旧市街と新市街を分ける様に流れる川の岸(江滨jiangbing)に、いくつも公園があります。私が、よく散歩する所にも、「南公園」があって、そこには遊歩道の脇が、綺麗に整備されています。季節の移り変わりにそって、花が咲く様に、樹木や草花が植えられてあるのです。一昨日散歩した時に、「木蓮(モクレン)」が、紅白に花を見事に咲かせていました。春の訪れを告げていました。
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なんのその

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この十数年、つくづく思うのですが、この写真の様に、「ピョンチャン冬季オリンピック」の若い女性陣の活躍振りを見て、《日本女子》が、活き活きとしていて、圧倒されています。スポーツの世界だけではなく、日本という"システム"で、大分伸び悩みが見られるのですが、それもなんのそので、《女子力》が、多くの社会の分野で、男たちを凌駕しているのです。

われわれ男は、張り子の虎の様に、<空威張り>で、意気地がないのに、若竹の様にしなやかで、雪の中から花を咲かせる水仙の様に、寒風の中に芽を出し花を開く梅や椿の様に、踏まれても踏まれてもへこたれない雑草の様に、《日本女子》が素敵ですね。この手を振って力走する姿に、母や妻や娘たち思わされてしまいます。

昨年末、”ゴホンゴホン"と、図書館や書店の様に、昼も夜も咳き込んで1ヶ月を過ごした私に、寒さも厭わず買い物に出ては、『あれがいい、これがいい!』と言っては食事を作ってくれ、『大丈夫、大丈夫!」と、弱気になった自分を家内が励ましてくれました。威張っていた若い頃と、今や、全く逆転してしまいました。威張っていた、あの頃も、実は、<力量の差>を、密かに感じていて、その反動の<威張り>だったのです。最近は降参してしまい、ダンマリの私です。

娘たちも、<白人攻勢>の強い社会に出掛けて行って、学校で勉強をし、そこに残って仕事をし、結婚もし、結構不自由や差別を感じているに違いないのに、臆せずに、へこたれずにアメリカ社会の一員として生きています。これって家内の《強さの遺伝子》なのでしょうか。このスケート選手たちの様に、右や左に手を振って、問題を打ち払って、氷の上ではなく、異文化の社会の中を滑走している様に思えるのです。

そういえば、大怪我をして、病院に緊急移送されて、仮ベッドの上に横たわって、治療を待っていた母の事を思い出します。口を結んで奥歯をかんで、痛みに耐えていたのです。一言も痛さを口にしませんでした。初期治療のまずさで化膿してしまい、両足切断の危機があったのに、転院先の病院に、一年近くも入院したほどの大怪我でした。あまり幸せではない子供時代を生きて、《我慢》を身に付けていたからでしょうか、95歳まで、<日本システム>の中を、両足で立って力強く、その足で歩いて生きたのです。

そんな母似の私なのに、内面を受け継がなかったんだと思います。その弱さを家内にカバーされて、今日も生きています。もう家内と戦わないことにしているのです。時々、犬の<遠吠え>の様に吠えるのですが、<空威張り>で終わっています。歴然とした<力量の差>があります。よく人を訪ねたことがあるのですが、若い夫婦はご主人が、年配夫婦は遠慮がちな奥さんが、老夫婦は艶やかな奥方が主導権や実権を、完全に握っていました。男性陣は、年をとると、"ニヤニヤ笑い"をして、頷く(うなずく)ばかりでした。大陸の片隅で、私も、そんな今を生きています。はい。
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元宵節

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早春の花の便りがありました。春って、木の枝にやって来るのですね。中国もアメリカも日本も、春を告げる《花盛り》の季節に、いよいよ入っていく様ですね。オレゴンでは、梅の花も咲いている様です。さしもの寒さも、花攻勢に押しやられていくのでしょう。春には、みなぎる《力》があるからですね。こちらでは桜の花(きっと伊豆で咲き始める"河津桜"の様な早咲きの花かも知れません)も桃の花も咲いたそうです。
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今日は「元宵節yuanxiaojie(日本の"小正月"です)」です。赤いランタンに灯火を灯す風俗が残っていて、今夕、「江滨路jiangbinlu」の近くに住んでいる方に招かれていますので、「漫ろ歩き(そぞろあるき)」に、家内と出掛ける予定です。
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愚直

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「偏屈」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、かび臭い事だとでも思われてている様です。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若者たちから嫌われてしまうのです。確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人が籠や馬や舟に乗るかだったわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。

時間も人の動きも緩慢な時代でしたから、急かされることなどありせんでした。かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。芭蕉が、「奥の細道」に紀行の様子を記していますが、歩行者ならではの観察眼で眺めた事ごとが、そこに記されてあります。実に緻密に景色や人心の機微を眺めて看て取っています。以前、家内と新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、『荒海や佐渡によことう天の川』を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、のたりのたりと流れていた時代の産物なのかも知れません。

これまで、どの道の《達人》も、滅入ってしまいそうな、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代だったのです。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの職人としての高い質を作り上げてきたのです。

私たちの住む街に、アメリカ系のスーパーマーケットがあります。そこに、「鰻の蒲焼」が売られているのです。ちょっと値段が高くて、一年に一度ほど買ってしまうのですが、日本の物と、見ためも味も遜色がないのです。串焼きではありませんが、日本風の仕込みがなされています。この「鰻職人」は、『串差し三年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。その修行を、後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

ところが、現代は、「即性栽培のモヤシ」のように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの商店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、この時代の若者は『無駄だ!』と退けてしまうのです。そして、下積みなしで、数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、畑村洋太郎さん(「失敗学」の学者です)が、以前、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後、大きな人災事故が発生している様です。多くの先人が、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めています。これらは、時代錯誤なのでしょうか。芭蕉は、旅行中に、私たちが好んで食べる「鰻重」を食べたのでしょうか。

いよいよ弥生三月になりました。身も心もウキウキする様な季節の到来です。多くの人にとって、身辺の変化の時ですね。好い導きがあります様に願っております。
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訛る

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このブログは、去年の5月1日に投稿した分です。「悠然自得」から消えてしまった分ですが、原稿が残っていますので再掲載します。どうしてかと言いますと、今回の"平昌冬季オリンピック"で《カーリング女子》で銅メダルに輝いたチームが、北海道北見市の出身で、彼女たちが、『そだねー!』と、訛(なま)っていたのがニュースになっていて、去年の投稿記事を思い出したからです。

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私の生まれ故郷には、独特な「方言」がありました。そこで、のびのびと育ったのですが、子どもたちの教育のことを考えた父が、東京に住むことを決めて、南新宿に家を買おうとしました。ところが、これから思春期を迎えて行く息子たちに、歓楽街の近くに住むのは好くないということで、三多摩地区に家を買ったのです。そこにも、「方言」がありました。神奈川県に近いからでしょうか、そこと同じような「方言」だった様です。

ここ札幌に来て、同じ病室の方や、看護士さんや療法士のみなさんの話を聞いていますと、ここにも独特にあるようです。「語尾」に特徴があるのです。『しばれる』、『おおこわ』というのは有名ですから知っていたのですが。親しい人同士だと、語尾が砕けて話しています。

『俺、自動車の運転手してるんさー。』
『(奥さんに)今日市役所に行ってくれるんかい。』
『あの店の焼き鳥がうまいんだわ。』
『あのTシャツ、あの店で売ってるんだわ。』
『先週、留萌に行ってさ。』
『今日はなまら寒いんだわ(とても寒い)。』

こんなことを聞いています。これだと、真似できそうで使ってみようかなとも思っています。北海道は、アイヌのみなさんが原住民でして、金田一京助が、このアイヌ語の研究をされたようです。道民の多くの人たちは、日本の各地からの開拓者で、それぞれの地方の言葉を持って、やって来た人たちの子孫の北海道なのです。

札幌の隣に、「東広島市」がありますから、ここは中国地方の広島からの移住者が多くて、そう命名された街なのでしょう。『先祖は、どこの出身ですか?』と、何人もの人に聞くのですが、『さあ〜』と返事が返ってきます。もちろん転勤でやって来て、住み着いた人もいますし、様々なのでしょう。このところ、北海道を舞台にした映画で、主人公が使っていた<北海道弁>を、<生(なま)>で食べ、いえ聞いている毎日であります。(2017年5月1日記)

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今住んでる中国の南方でも、「方言」や「訛り」があって、独特なのだそうです。私たちは、東北の天津で、漢語の学習をしたのですが、そこは<標準語>でした。それで引っ越して来て、その<違い>が外国人の私たちにも分かったのです。『訛りは国(出身地の事です)の手形!』と言われますが、「訛り」のない私には、ちょっと寂しいのです。響きが優しくって、『そだねー!』はいいですね。

(北見観光協会のPR画像、カーリングチームです)
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雪中花

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食卓の上で、4輪の「水仙」が咲き揃いました。牙を剥くように押し寄せる日本海の波が洗う、越前岬の雪の中に咲いている事など想像もできないのですが、同じ花が、場所を変えて、「雪中花」と呼ばれるのが不思議に思えます。球根から育てた、わが家の「水仙」は、恵まれた環境の中で咲いているのですが、花の気持ちは、どうなのでしょうか。

作詞が吉岡治、作曲が市川昭介、歌が伍代夏子の「雪中花」という歌があります。

1 風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影ゆれてます

2 紅を紅をさすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも残る
雪をかぶった 雪中花
しあわせ薄い 背中を知ってます

3 いつかいつか薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
やさしい母の 笑顔が咲いてます

越前福井出身の方が、同じ事務所で働いていました。あのアメリカ人起業家と一緒に働いた同僚だったのです。芯が強く、へこたれない好い人でした。お父様と妹さんが、年に一度ほど、稲刈りを終えて、農閑期になるとおいでになっていました。その時、お米や松茸を頂いたりしたのです。海岸地帯ではなく、内陸部の出身でしたが、寡黙なギターの上手な方でした。

母も日本海沿いの出雲の出身でしたから、人としての雰囲気が、彼と似ていたでしょうか。春を待ちわびる思いは、寒ければ寒い地方ほど、期待する気持ち大きいのでしょうか。綺麗に咲いた「雪中花」を眺め、牙向く波を想像し、懐かしく人を思い出しているところです。
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食欲

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子どもの頃、私は、「無線通信士」になりたかったのです。父の机の上に、モールス信号の送信機(電鍵)があって、それで遊んでいるうちに、そんな願いを持ち始めていたのです。でも戦後、上京後の父は会社勤め、というよりは会社経営の一端を担っていました。学校を出た兄たちは、それぞれに会社員になっていました。私は、会社で働くことに魅力を感じなかったのです。

それで、「教師」になろうと願ったのです。だからといって、教員養成の教育学部に学んだわけではなったのですが。多分に問題児童だった私が、そのような願いを持つことは意外なことだったに違いありません。なぜそのような願いを持ったのかと言うと、小学校の頃の「遠足」に由来しているのです。

学校行事の「遠足」は楽しかったのです。狭い教室で学習をしなでよかったし、知らない土地に電車やバスに乗って行けるし、母は普段と違う弁当を持たせてくれてたからです。小学生の頃、「潮干狩り」に、千葉の谷津遊園に行きました。雨降りの日でした。その日の天気も覚えているのです。学校で勉強をしていた時の記憶と言うのは、ほとんど覚えてないのが悔しいのですが。

必死になって、小さな熊手で、アサリを取ったのです。家に持ち帰って、それを母が味噌汁にしてくれましたから、胃袋でも覚えていたことになります。だからと言って、いつも飢えていたのではありません。父は東京のど真ん中に、電車通勤をして、いくつかの会社にかかわっていたのです。育った町では、まだ、ケーキやソフトクリームなど売っていませんでしたが、父は、時々、買って持ち帰ってくれました。ドライアイスがあることは、冷たいソフトクリームをほおばって始めて知ることが出来たのです。美味しかった、父親と美味しさとが一緒に思い出されるのです。

さて、潮干狩りが一段落して、お弁当の時間になりました。わいわいがやがやと美味しく食べていたのです。すると、醤油と貝が焼かれているけむりと匂いが、砂浜で弁当を開いている、我々の所に漂ってきたのです。なんと、どこかに消えてしまった先生たちだけが、よしずの小屋の中で、「サザエの壺焼き」を食べてるではありませんか。『ずるい!』と思ったのです。でも、実に羨ましかったのです。

『先生っていいな!あんなに美味しいものを食べさせてもらえるんだ!』、それは、強烈な印象でした。それで、『俺も先生になるんだ!』と、本気で思ったのです。それは、嗅覚と食欲を刺激されたからでした。ところが、教員は給料が安いのを知らなかったのですね。中学校の担任が、ツルツルとテカった背広を着ていたのを覚えています。この先生が、地理や歴史などを教えてくれました。教師陣唯一の東大出でした。

とても楽しく社会科学習をさせてもらって、社会科が大好きだった私は、『社会科の教師になりたい!』と願ったのです。その願いが、何と叶ったのです。都合5年、教育畑にいることが出来ました。「食欲」に誘発された動機の不純な教師の私に、教えられた学生たちは迷惑なことだったでしょうね。
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