好きなもの

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 好きな映画は「ジャイアンツ」と「柘榴坂の仇討」、好きな男優は「ジェームス・ディーン」と「緒形拳」、好きな女優は「フランソワ・アルヌール」と「栗原小巻」、好きな音楽は「ジャズ」、好きな楽器は「ハーモニカ」、好きなアナウンサーは「中西龍(りょう)」、好きな音楽家は「モーツアルト」、好きな噺家は「金原亭馬生」、好きな浪曲師は「東家浦太郎」、好きな歌は「黄昏のビギン」、好きな男性歌手は「水原弘」、好きな女性歌手は「ちあきなおみ」、好きな唱歌は「ゆうやけこやけ」、好きな漫画は「赤胴鈴之助」、好きな画家と絵家は「ミレー」の「晩鐘」、好きな野菜は「トマト」、好きな果物は「山梨shanli(中国産)」、
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好きな洋菓子は「エクレア」、好きな和菓子は「きんつば」、好きな乳製品は「チーズ」、好きな飲物は「アールグレイの紅茶」、好きな日本食は「出雲そば」、好きな西洋料理は「ラザニア」、好きな正月料理は「ごまめ」、好きな中華料理は「卤面lumian」、
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好きな調味料は「ケチャップ」、好きな味噌汁の具は「しじみ」、好きな漬物は「奈良漬」、好きなことばは『詩人たれ!』、好きな本は「ばいぶる」、好きな詩人は「山村暮鳥」、好きな小説家は「石坂洋次郎」、好きな小説は「堕落(高橋和巳)」、好きな寓話は「イソップ」、好きな政治家は「チャーチル」と「廣田弘毅」、好きな経営者は「井深大」、好きな思想家は「Gerrit Cornelis Berkouwer /ヘリット・コーネリス・ べルクーワ」、好きな学者は「矢内原忠雄」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな教師は「内山先生」、好きな時代は「鎌倉時代」、好きな文化は「オホーツク文化」、好きな国は「デンマーク」と「日本」、好きな街は「ブエノスアイレス」と「伊達(北海道)」、好きな季節は「夏」、好きな島は「ハワイ島」と「利島(伊豆諸島)」、好きな岬は「日御碕(島根)」、好きな港は「敦賀港」、好きな海浜は「霞浦(福建省)」、
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好きな湖は「クレーター・レイク(オレゴン州)」、好きな海は「オホーツク海」、好きな川は「多摩川(東京)」、好きな山は「入笠山(長野県)」、好きな高原は「安曇野」、好きな草原は「パンパ(アルゼンチン)」、好きな景観は「九寨溝(四川省)」、好きな木は「ひのき」、好きな花は「むくげ」と「ノウゼンカズラ」、好きな香りは「挽きたてのコーヒー」、好きな動物は「ビーバー」、好きな鳥は「すずめ」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな帽子は「麦わら帽子」、好きな服は「絣(かすり)の着物」、好きな履物は「下駄」、好きな乗り物は「肩車」、好きな鉄道は「飯田線(長野県〜静岡県)」、好きな駅舎は「日野駅(JR中央線)」、好きな街道は「甲州街道」、好きな観戦スポーツは「アメリカン・フットボール」、好きなスポーツは「テニス」、好きなテニス選手は「キャロライン・ウオズアニッキ」、好きな野球選手は「与那嶺要」、好きな相撲取りは「琴ヶ浜」、好きな光景は「朝焼け」、好きな時間帯は「東雲の頃」、好きな色は「緑」、好きな音は「潮騒」、そして「家内」です。

(2018年2月改定版、「凌霄花(のうぜんかずら)」です)
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セツブンソウ

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この花は、「節分草(セツブンソウ)」と言うそうです。初めて知りました。広島県北部の庄原市で咲いたとの事です。春の近い事を告げる様に咲くのだそうで、可憐な花ですね。配信してくださる「里山を歩こう」に掲載してあった花です。絶滅危惧種の一歩手前にランキングされているようです。
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悲喜交交

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2月も下旬、寒い日もありますが、「春節」を迎えたこちらは、春の佇まい(たたずまい)が感じられて参りました。今朝、球根から出た茎に、二輪の花が咲きました。「水仙」です。この花は、日本では海岸の段々になった地に咲き、越前では、「雪中花(せっちゅうか)」と呼んで親しまれています。

この「水仙」は、地中海沿岸が原産で、陸路で中国に運ばれ、黄河だか長江の河岸に咲いていたそうです。その花の球根が、海に流され、海の上を漂って、日本の海岸に漂着して、そこかしこに咲き始めた、そういった一説もある様です。真冬の雪の中から咲き出すのですが、わが家の北側のベランダの花棚に置いていたのを、昨夕家の中に入れ、食卓の上に置きましたら、そこで開いたのです。実に綺麗です。

昨日は、私たちの住む棟の入り口から入る9階までの左右に、16所帯があるのですが、どこだか分かりませんが、「葬儀」が行われていました。楽隊が賑やかに演奏し、爆竹を鳴らしていました。入り口には花輪が並べられ、しめやかに行われていました。何度目か迎えた「春節」の間に召されたのです。近所付き合いがありませんので、私たちは外出をした次第です。悲喜交交(ひきこもごも)の春です。
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生涯の光

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「三波春夫」、若い方は知らないのでしょうけど、私たちの世代では、「歌謡浪曲」という芸能界で活躍した歌手で、よくラジオでもテレビでも、この方の歌を聞くことができました。矢張り、時代物、股旅物が多かったでしょうか。とくに、ご婦人層の絶大な支持を得ていたと聞いています。1964年開催の「東京オリンピック大会」や、1970年開催の「大阪万博」でも、《テーマソング》を、この方が歌ったのです。『こんにちは、こんにちは・・・』と歌い出していました。

この方のことを、以前、聞いたのです。あんなに上手で美声の持ち主だったのに、片方の耳の聴力がなかったのです。浪曲師や歌手にとって、それは致命的な欠陥だったのですが、それを隠し通して、浪曲調の歌謡曲を歌っておられたのです。ご本人と奥様だけの秘密で、それを守り通して、歌謡の世界で、引退するまで活躍されたのです。

世の中、意外と隠れたところに、問題、障害、欠陥、不足があって、それぞれが、そう言ったものを抱えながら生きているのです。それは個人の事だけではなく、家族、学校、会社、自治体、国家にもある事なのでしょう。要は、それをバネにして、残された《好きもの》を磨き、鍛え、整えながら生きることに違いありません。

優れた政治家一家のケネディ家には、優秀な息子たちの他に、障碍を負っていた娘がいたと言われています。実業家の父親は、それを<家族の恥>として、ひたすら隠し続けたのです。大統領を出そうとする家系に、そういった障碍を持つ子を欲しなかったからです。ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、『・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲し
い・・・』と言っていました。彼は、自分の妹のために、何をもとめて、して上げたのでしょうか。自分の病気も隠して生きたのですが、死後に、全てが白日の元に晒されたのです。

ところが、"ソニー"の創業者の井深大は、障碍を持った自分の娘を隠そうとしませんでいた。また見世物の様に、<広告塔>にすることもありませんでした。『多恵子は、十字架であるとともに、生涯の光です!』と言っています。経営者として、健常者だけではなく、障碍を持った方たちに雇用の機会を開き、そうの方が働くことのできる工場を建設し、そこでも操業をしていました。

"SONY"の名を刻した《カセット・テープレコーダー》を、新発売にあたって、購買予約をして買って使いました。《優れもの》でした。自分の願いや選び取りで得ることのできない事や物、決して願わないものが与えられ、備えられたら、それをありのままに受け入れて生きることに、私はしたのです。私の母が、自分が産んだ三男の私に、自慢していた一つの事がありました。体に傷がなく、脚がすらっとしてる事だったそうで、そんな事を二、三度、私に言ったことがありました。ところが自分は頭や唇や耳の格好が、子ども頃に嫌いでしたし、小刀や喧嘩で、身に多くの怪我を負ってしまいました。

もうこの年になると、どうでもいい事なのですが、子どもの頃には、誰もが自分の足りなさに悩むのでしょうか。両親、兄弟たち、家内、子どもたち、そしてこの自分も、みんな造物者からの頂きものです。すべて最善だという事で、足りなさは《謙る》ために、良きものは《感謝》するための《天賦》なのです。三波春夫は、痛み、疲れ、意気阻喪した日本人に、舞台やテレビから、しばしの娯楽を与えたのです。自分にも<痛み>があったからではないでしょうか。

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京の都

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中部山岳の「山猿(山深い渓谷の流れの畔りの鄙びた旅館の離れで生まれたのでそう言っています)」の私にとって、「京の都」は、古都と言うよりは、結婚した父と母が、最初に「所帯を持った街」という思い入れが強いのです。この街を、中学の修学旅行で初めて訪ねました。バスガイドさんの語る、柔らかな京言葉、とくに語尾の柔らかさを聞いていたら、思春期の私は、すっかり彼女の虜にされ、憧れてしまいました。

そういえば、仲の好かった友と、一緒に、新島襄が設立した「同志社大学」に入りたかったのですが、叶えられませんでした。その友とは、バスケットボールを一緒にやっていて、彼と上級生との間にトラブルがあって、彼に同情して、一緒にやめてしまいました。そんな彼が、三十代の半ばで病気で亡くなってしまったのです。

一時帰国の折に、2、3年続けて、関西空港で降りて、京の街の郊外の大原で過ごしたことがありました。「大原女(おはらめ)」が、薪を頭に載せて、売り歩く写真だか映像を見たことがあったので、どんな山里か知りたかったのかも知れません。また、<日本情緒>に浸りたくて、そこに宿を見つけたのでしょうか。その民宿の二月の露天風呂に入って、大陸の垢を落として、夜空を見上げたら、小雪が舞っていました。

そんな京都を思い出させるかの様に、そこから一人の方が訪ねて来られて、一週間ほど泊まってもらったことがありました。その次の年の秋にも、おいでになられたことがあったのです。京都人の男性の言葉も、標準語を話すのですが、語尾が独特で、好いものです。「雅(みやび)」とか上品さを感じてしまいます。また来られると言っていました。

この「京都」は、私のアメリカ人の師が、「終の住処(ついのすみか)」に選んだ街でもありました。でも病を得て、新大阪駅の近くの病院に入院され、その後、東京のホスピスに転院され、そこで召されたのです。恩師が選んだ京都は、彼なりに期することがあったあったようです。でも志半ばで、すべてを果たし得なかったに違いありません。彼の生き方とか、終わり方に、「京都」は独特なものがあったのかも知れません。師が召されて、すでに17年になります。私にも「京都」は、彼の<教え子>として期すべきことがある街なのでしょうか。
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友情

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GANGNEUNG, SOUTH KOREA – FEBRUARY 18: Nao Kodaira of Japan and Sang-Hwa Lee of Korea celebrate after winning the gold and silver medal, respectively, during the Ladies’ 500m Individual Speed Skating Final on day nine of the PyeongChang 2018 Winter Olympic Games at Gangneung Oval on February 18, 2018 in Gangneung, South Korea. (Photo by Maddie Meyer/Getty Images)

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小平奈緒さんと韓国の李相花(イ・サンファ)さん、ライバル同士の「友情」、素敵ですね!("スピードスケート500m"の1位、2位です)
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昭和

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1955年(昭和30年)に、宮川哲夫の作詞、利根一郎の作曲で、宮城まり子が歌った「ガード下の靴みがき」がラジオから流れて聞こえてきました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない 
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった…
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

戦争に行ったお父さんが戦死し、女手一つで子どもたちを育てているお母さんが、栄養え失調で病気をしてしまいます。家計を助けるために、いたいけのない子どもたちが、親方から仕事を教えてもらい、道具を借りて、街角で靴を磨いて、日銭を得る、そんな生活をする子どもたちが多い時代でした。中には両親のない子どももいて、<孤児>と呼ばれていました。

親戚に預けられ、喜ばれないので家出をしてしまって、<浮浪児>になった子たちも大勢いました。上野や新宿で見かけた事があります。そんな境遇から、教師になった山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の神戸空襲による死者は約5700人でした。一人っ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。

『……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
 秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
 上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
 <狩り込み>にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」所収)。』

この山田さんは、養護施設に入って、やがて夜間の学校に行き、大学にまで行って、中学校の教諭になっています。様々な人生を生きて、今や70〜80代になっている世代です。<華の昭和>には、そんな事もあったのです。兄や私たちの世代は、敗戦の憂き目をもろに受けて、厳しい時代を、歯を食いしばって生きたのです。《昭和史》には、そんな暗さが色濃かった事を忘れてはなりませんね。

(昭和20年の東京大空襲の焼け跡です)
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好青年

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「ピョンチャン・オリンピック冬季大会」の"フィギュア・スケート"で、《金メダル)》に輝いた、羽生結弦選手の快挙に、目を見張ってしまいました。こちらの"百度daidu"のサイトで、その演舞をビデオ放映をしていて、それを観ることができました。2大会連続の優勝は、66年ぶりとか、凄いことです。怪我が癒えて、痛みが残る中での演舞だったのです。

SP前日に撮影された写真に、この羽生選手が写っているのを、"MSN"が掲載していました。銀メダルを獲得した宇野昌麿選手が、その 前日にインタビューを受けていて、自分が取材撮影に映り込むのを避けて、羽生選手が四つん這いで床を這って、その場を去ろうとしている様子が写されていたのです。随分と気を使う青年なのを知って、さらに驚いてしまったのです。スター選手としては異例の仕草だからです。

何よりも人として素晴らしいのを感じて、敬服のいたりです。こう言った子を育てられたご両親の事を知りたくなってしまいました。仙台の出身で、東日本大震災で被災した故郷の様子を見て、引退を心密かに決めたのだそうです。でも止めず練習を重ねて、今回の《金メダル》を獲得した事は、どんなに故郷の誇りとなった事でしょうか。

著書の印税から、福祉施設に寄付をし続けている事も漏れ聞きました。今後も、意味のある人生を生きて欲しいと願いつつ、初春の陽を背に感じながら、我が事の様に喜んでいます。羽生結弦さん、おめでとう!
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梅園

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先日、街の北の方の山の頂上付近にある「梅園」を訪ねました。若い友人の家族(ご主人と奥様と息子さん)と一緒でした。かすかな梅の花の香がして、初夏を思わせる様な日差しがあって、若い方はTシャツでした。白梅、紅梅など、梅の木の種類の多さに驚いたりしたのです。

果物屋街の銘菓やジュースなどを持って来ていて、東屋(あずまや)で一緒に食べたり、談笑したりしたのです。山から下りましたら、大晦日、食堂はほとんどが休業で、大きなショッピングモールにある、この街の美食街で、昼食までご馳走になってしまいました。支払いをしようとしたら、"スマホ決済"をしてしまっていて出来ませんでした。

この"スマホ決済"が大流行りで、財布を持たなくなっているそうです。それで、中国の"スリ"は、完全失業中で、求職中だと言っておいででした。今月下旬に、ご家族で日本旅行をするそうで、京都、奈良、東京を観て回るのだそうです。お二人とも大学で教えておいでで、春節休暇中の旅行なのです。春節中、爆竹も止んで、正月気分がしております。
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もう

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もう刺されてしまいました。2月17日の零時過ぎ、中国の「元旦」が、半袖でも大丈夫なほどの暖かさ、いえ暑さだったせいで、夜中に耳元で、"ブーーーン!"としていた【蚊】に、左手の腹を、思いっきり刺されたのです。まだ日本から寒波や雪便りが届く季節なのに、もう<刺され始め>で、ムヒの<塗り始め>をして仕舞いました。

何か思いやられる"2018年"になりそうです。一番の<蚊対策>は、<蚊帳(かや)>を吊る事ですが、まだ早過ぎますね。今晩は、去年の残りの<蚊取り線香>をつけて見る事にします。4時過ぎに起き出して、あたりを窺えど、どこかに潜んでいるのか、敵は姿を見せません。いよいよ"戦闘開始"です。<ペットボトル作戦>を、どこかのサイトで去年の夏に見たのですが、探してみる事にします。

(「蝋梅(ろうばい)」の花です)
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