『日本人とは?』

.

 明治になって、『いったい日本人って何だろうか?』という思いで、〈日本人のアイデンティティー〉を探ろうとした人たちが、何人かいました。政治の側面では、〈欧化〉の動きがはなはだ強くて、遅れをとっていた日本が、その挽回に躍起になって、国際社会に踊り出ようとしていました。その頃の動きを、三島由紀夫が書きました、「鹿鳴館」という戯曲で、井上馨という明治政府の要人を主人公に描き、映画化もされてきています。躊躇狼狽している明治人の姿が見えてきます。人種的にいえば、縄文人の中に、大陸からの渡来人の血が混じって(ある方はイルクーツク周辺のルーツを求めている説もありますが)、形作られているのですが、精神的に、日本人とは一体何なのか、これが求められていた時代だったわけです。

 上州・高崎藩士の子であった内村鑑三は、「代表的日本人」を書き上げました。1894年のことでした。同じ年に、岡崎藩士の子で地理学者であった志賀重昂は、「日本風景論」を書き、大ベストセラーになります。その五年後の1899年に、盛岡藩士の子で、後の国際連盟の事務次長を務める新渡戸稲造は、「武士道」を書き、福井藩の下級武士の子で、明治の日本を代表する画家の岡倉天心は「茶の本」を1906年に書き上げています。鎖国の閉鎖社会、諸外国と交渉しない時代には、『俺って誰だ?』、『お前は誰だ?』と問われる必要も答える必要はなかったのです。ところが、欧米の列強諸国の間に出て行って、接触していくためには、どうしても、この「日本人論」が必要であったのです。それで書かれ、自分で自分を認知し、諸外国に知らしめる必要があったのです。日本と日本人が、劣等意識にさいなまれ、不安なただ中で、こういったものが書き著されたわけです。内村、新渡戸、志賀の三人は、札幌の農学校に学んだという共通項を持っているのも不思議です。

 これらの著作が刊行される伏線に、外国人が書いた「日本人論」、「日本論」があって、十二分の理解があって書かれていない間違いや偏見があり、それに承服できなかったからでした。『俺たちの手で!』と言った意気込みと、焦りがあっての執筆だったことになります。内村も新渡戸も岡村も、英文で執筆しているのです。やがて英文の著作が、日本語に翻訳されて刊行されるのです。そして、これらの本を読んだ日本人が、ここで初めて、『日本人とは、こういった者であるのだ!』と認めるにいたったわけです。私はこれらを読んで、改めて日本人とは何か、どうあるべきかを教えられたのです。

 私の恩師が、「『甘え』の構造(1971年刊行)」という、医者で大学教授の土居健郎の著した本を読んで、日本人を理解しようとしていたことがありました。日本人の持つ「甘え」が強調されすぎているのは、日本人の全体像を捉えるには足りないと思います。また、ベネディクトは「恥の文化」を掲げ、日本人の「恥」を強調しているのは、一面だと思われます。この「不思議な日本人」について、多くの人たちが書を表していますが、数学者などの科学者が書いているのも興味深いと思います。

 外国生活を始めて七年、日本人の理解に苦しむ人たちの間で過ごし、距離をおいて日本を見つめてきました。いくつもの「日本人論」に目を通しますと、自分なりの「日本人観」が出来上がってきているのが分かります。しかし私の願いは、「日本人であること」に、拘りすぎて、中国や朝鮮半島の人々との間で、齟齬(そご)をきたしている現状を鑑みて、「アジア人」、「地球人」、いえ「人」であることに、関心を向けたいのであります。もちろん、日本人であることは自明の事実ですから、感謝の思いはあふれています。でも感謝や誇りが行き過ぎるなら引き、同じか弱い「人」の立場で、互いを理解し合ったほうがよいと思うのです。

(挿入画上は、「代表的日本人」岩波文庫版の表紙、下は、「『甘え』の構造」文堂版・表紙です)

大雄飛

.

 アメリカに住んでいる私の友人に便りを出す時には、

     Mr.James Dean
     123.Hawaii main st. Honolulu、Hawaii、
     USA  12345678

という風に、封筒に宛先と住所と名前を書きます。ところが、中国も韓国も同じなのですが、日本の友人に宛てて書くときには、

     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
           山田太郎 様

と記します。国際郵便の表記というのは、アメリカに出すようにして書かなければならない決まりがあるようですが、私たちの国内郵便は、大きな世界から、だんだんに小さい行政単位に降りてくるように、〈ズームイン〉して書きます。ところが、アメリカなどは、家の区画の番号から、通り、市、州、国と言った風に、小さな世界から大きな世界に向かって、広がっていくように、〈ズームアウト〉に記すわけです。どちらがいいのか、郵便配達をする人に聞いてみるとはっきりしますが、彼らは、『日本式のほうがいい!』というのに決まっています。このほうが、人を探し出しやすいからです。

 名前の書き順でも、違いがみられます。「山田太郎」、私たちは「姓」そして「名」の順、すなわち「苗字(家名)」を先に書いて、名前を後にします。ところがアメリカなどでは、「James Dean」、個人の名前を先にし、姓を後にするのです。私は、ひねくれていますので、Masahito、hirota と書く時があります。「名刺」にも、このような傾向がみられます。日本の会社に務める山田太郎の名刺は、

     アジア商事株式会社
     第一営業部アジア課東アジア係
    係長  山田  太郎
     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
     電話 0312ー3456ー7890

と記されています。ところが、アメリカ人の方の名刺ですと、

      James Dean
     Chairman&CEO
    AMERICAN FIRST COMPANY
   123、Hawaii main st. Honolulu、Hawaii
    Phone 12345678901

という風に印刷されてあります。やはり、東洋的な考え方と、西洋的な考え方には、根本的な違いがあるようですね。石川啄木の有名な短歌に、「東海の 小島のいその 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」がありますが、〈東海➽小島➽磯➽白砂➽我〉に、詠まれているのにも、〈ズームイン〉していく、日本人的な表現法になっているのに納得させられます。
 
 何だか、われわれアジア人は、大きな世界から、狭い世界に向かって萎縮していくように感じられてしまい、大海原や大地に向かって、雄飛しにくさがあるように感じてならないのです。明の時代、四川省の出で、「鄭和(1371年 – 1434年))」という人がいました。『コロンブスよりも前に、アメリカ大陸を発見しているのではないか!』と言われるほどの大航海をした冒険家でした。アラビヤやアフリカなどとの交易で、男のロマンを生きた人だったようです。〈外に出たがらない症候群〉の現代の若者たちに、『こういった気概を持って、大雄飛をしてもらいたい!』、そう思う11月中旬の晩秋の宵であります。

(写真は、鄭和の乗った船(復元)です) 

『さようなら!』

.

 時代劇映画で、鞍馬天狗だったでしょうか、人前から離れ去って行く時に、『さらば!』と言っていました。こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、『see you again!』と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

 こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになりました。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

 このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

 アメリカ人の恩師と一緒に歩いていて、近くの学校の知り合いではない中学生たちが、行き合うときに、『こんにちは!』と言ってきたり、ある中学生は、『さようなら!』と挨拶をしていました。恩師は、『この「さようなら」はおかしいよ!』と言ったのです。中学生たちは、アメリカ人だし、珍しいので、声を掛けたかった。それで言葉を見つけてみても、どう言ったらいいのか迷ってしまう。だけど、日本語には、『お早うございます!』、『こんにちは!』、『こんばんは!』があるし、『さようなら!』もある。それで、それらの用語を、意味なく使って、表敬の挨拶をしているわけです。すれ違って、離れていくのだから、一番ふさわしいのは、『さようなら!』になるわけです。それは、私はおかしいとは思わなかったのですが、英語圏の文化で生きてきた人にしてみると、『さようなら!』は、やはりおかしいのだということが分かったのです。

 太宰治が、「さよならを言うまえに」という随筆や「グッド・バイ」を書いています。この太宰を慕い、彼の墓前で自死した田中英光も、「さようならの美しさ(昭和17年)」を書いています。この田中英光は、遺書の中で、子どもたちに向かって、『さようなら!』と言って死んで行きました。この遺書を読んだ時に、この『さようなら!』があまりにも悲しいので、背筋が寒くなったことがありました。流行歌にも、この『さようなら!』という言葉を歌ったものが多くありますが、やはり、けじめを大事にする日本人は、この言葉が好きに違いありません。

 私は、一つの決心をしているのです。死ぬときは、『またね!』と言おうと思うのです。言えるかどうかは分かりませんが。きっと、死でけじめを付けられない自分だと思うので、訣別や惜別よりも、《再会》の願いを込め、後日譚(ごじつたん)を語りたいので、『またね!』と言いたいのです。《さようならの死》は、『仕方がない!』とか〈諦め〉に通じるようですから、《またねの死》にしたい!

(口絵は、田中英光が著した「オリンポスの果実」の表紙です)

好きな歴史人物は「高杉晋作」

.

 日本人が活き活きしていた時代はいつなのか、最近考えています。鎌倉時代には、体格も大きく、活発で溌剌とし、大らかであった、ということを、歴史の時間に教師から聞いたことがあります。三百年に及ぶ江戸幕府の支配の中で、もしかしたら日本人は萎縮してしまったのかも知れません。ところが、幕府自身が、統治力を弱め、財政的にも行き詰ってしまいます。そんな国内事情に追い打ちをかけるように、欧米から開国を迫られる事態に直面してしまうのです。『この事態をどうするか?』と、それぞれに主張して、「尊皇攘夷」を叫ぶ青年たちが台頭してきます。彼らと、幕藩体制を堅持していこうとする「公武合体」を掲げる人たちの間で、激しい「勤王」と「佐幕」の対立が起こり、日本を二分してしまいました。

 青年武士たちが、自分の生まれ育った国の将来を考えていた時代、この時が最も活き活きとしていたのかも知れません。今年の8月に、船で瀬戸内海を帰路と往路とで、通過したのですが、関門海峡あたりにさしかかった時に、かつての長州藩が、海に向けて大砲を据えて、フランスやイギリスとオランダとアメリカと一線を交えたことを思い返させられたのです。花器の性能などからして、やはり刃が立たなかったのです。この戦いの時に、「奇兵隊」を結成して、雄々しくも欧米列強四国と戦ったのが、高杉晋作でした。責任者を罷免されたのですが、この彼の「志」は高かったのではないでしょうか。

 この戦争の前の年、1862年に、三ヶ月の短期ですが、上海を視察しています。清国がイギリスの植民地化していく様子や、太平天国の乱で荒廃した上海の様子を、つぶさに見たのです。その時代の動きを肌で感じたわけです。『このままでは、日本は清国と同じように植民地化していく!』という危機感を持って帰国しているのです。高杉晋作、22歳の時でした。私は、自分の22歳を思い返してみたのですが、ある研究所の職員として採用され、言われたことをし始めているだけで、天下国家を論じたり、国の行く末を憂えたり、国家存亡の危機感など、まったくもってはいませんでした。東京オリンピックが終わり、新幹線が列島を走り始め、経済界は活況の時を迎えていたのです。もちろん、右肩上がりの成長期には、危機感などなかったわけですから、仕方が無いといえば仕方が無いのかも知れません。

 しかし、今の日本は、「危機」に瀕しているのではないでしょうか。トヨタもパナソニックもソニーも、飛ぶ鳥を落とす様な勢いをなくしてしまいました。また30年も努力して、関係の改善や友好の促進のために骨折ってきた中日関係に、大きな亀裂が生じています。夢を見る時期の青年たちに夢がなく、不安材料ばかりが目に付いている低迷期にあるのでしょうか。こういった時期が、普通であるのかも知れませんね。あまりにも高度に経済力を強め強めたのですから、衰退期も、当然にように迎えなければならないのかも知れません。半年ほど前になるでしょうか、こちらの方が日本に出張をされ、経済不況だというのに、『日本には、活気がありましたし、購買力も大きいように見えました!』と話してくれました。まだまだ国力は残っているのでしょう。

 こういった時期に、高杉晋作のような器が、『この国のために!』と覚悟して、登場して欲しいのです。多くの高杉晋作が、この国の置かれている立場を鳥瞰し、『何をすべきか?』の答えを得て、日本人の心を強めて欲しいのです。軍人を求めていません。真に国を愛し、隣国の立場を理解をし、和して行くことができる策を講じられる器が欲しいものです。40代の体力も気力も活力も宿す、そういった指導者が欲しいものです。高杉晋作、弱さもあった人でしたが、時代の動きに敏感だったのです。「おもしろきこともなき世におもしろく(おもしろきこともなき世をおもしろく」、これが27年を生きた高杉晋作の辞世の句です。やはり、歴史的な人物として、興味が尽きず、好きなのは、この高杉晋作なのです。

(写真は、馬上の高杉晋作の銅像です)

勘違い

.

 1922年(大正11)、野口雨情‥作詞、本居長世・作曲の童謡、「赤い靴」が世に出ました。

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 姉も妹もいない男四人兄弟でしたから、我が家に赤い色の服、ズボン、靴などは、まったくありませんでした。母もけばけばしい色を好まなかったので、男所帯の殺伐さ、無味乾燥さがあふれていたのだと思います。ラジオから時々流れてきたのが、この「赤い靴」でした。女の子のイメージは、『オカッパ頭をし、赤い靴を履いている!』、これが一番の印象だったわけです。この童謡で歌われている「女の子」は、異人さんにさらわれて(?)、横浜の港から船に、むりやりにのせられて(?)、遠い国に連れて行かれる、といった暗い印象が強くて、この歌を好きになれませんでした。この悲劇(?)の女の子は、『どんな生活をしているのだろう?』と、考えてみたこともありました。

 もちろん姉妹がいなかったので、『いたらいいな!』とは思ったことはありましたが、五番目も男の子の確率が高かったのですから、母にお願いするわけにもいきませんでした。家内が、ついこの間、「勘違い」でしょうか、間違って聞き覚えてしまったという話を聞いてきて、話してくれました。「うさぎおいし」を、『美味しいい兎!』と思い続けててきた人もいるのですから、他にも大勢いるのですね。この、「いじんさんに つれられて 行っちゃった 」というところを、『いいじいさんにつれられて・・・』と覚えていた人がいたようです。〈好い爺さん〉だったら、きっと幸せになっているわけです。すごく肯定的で、可能思考の聞き方だなと思って感心してしまいました。

 以前、「通販生活」という雑誌の中に、「子は鎹(かすがい)」を、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈不良の子〉を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げた、一人のお母さんの〈勘違いの話〉を読んだことがあります。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、遠い日本の空の上に目を向けると、感謝が胸の奥からあふれてきそうです。

(写真上は、http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=15554148の「赤い靴」です)

好きな野菜は「トマト」

.  

 よその家の庭に、赤く熟したトマトを見つけた子どもの私は、あたりを見回して、そっと一つ失敬して食べた夏の日のことを思い出します。美味しかったのです。そういったことを許してくれた時代だったようです。何ともいえない青臭い、トマト独特の匂いがしていました。ああいった臭いが、ほとんどの果物や野菜から消えて行ってしまうのは、品種改良をしているからなのでしょうか。最近のトマトは、異常に甘かったり、大きかったりしていますが、昔のほうが美味しかったのは間違いありません。

 何度か家庭菜園で、トマトを苗から育てたことがありました。ナスは栽培が簡単なのですが、トマトは、結構難しかったように思います。もぎたての初生りを食べたときは、ほんとうに美味しかったのです。こちらでも、『〇〇産が美味しい!』と言われていますから、きっと土の質に関係もあるのかも知れません。時期によるのでしょうか、異様に皮が硬く、実も堅いのは、土が肥えていないからなのでしょう。こちらでは、「西紅柿」とか「蕃茄」と呼んでいます。アンデスで栽培され食用にされていたのが、ヨーロッパに持ち帰られ、そこから種として中国に伝えられ、海をこえて長崎に伝わったのは、江戸時代の1660年代半ほどだったようです。はじめは観賞用だったそうですが、食用とされたのはご維新以降のようです。

 私の大好物も、御多分に洩れず大陸渡来の経緯があるのです。こちらで面白いのは、「ミニトマト」が最近みられますが、これは、野菜売り場ではなく、果物売り場で売られる「果物」なのです。大きいサイズのトマトは八百屋で、ミニサイズはくだもの屋で売っているのが、不思議でたまりません。時々、料理をするのですが、カレーに入れたり、ラーメンに入れたりして食べます。熱湯につけて皮を向いて、それを細かくして煮込むと、実に押ししいラーメンとカレーが出来上がります。

 家内が、今、4人ほどの中学生に、日本語を教しえているのですが、〈昼食付〉で、大体は、料理当番に私がされています。スーパーで、日本ラーメンを売っていまして、それを使って作ります。鍋に、玉ネギ、長ネギ、しめじ、キャベツ、ニンニクなどを入れ、それにトマトを加えてスープを作ります。鶏肉、豚肉、牛肉、ベーコンの4バージョンがあります。結構人気で、美味しそうに食べてくれます。カレーは、日本のカレールウを使います。こちらの大きなスーパーには売っていますので入手可です。これにもたっぷりのトマトを入れるのです。ちょっと酸味が強くなって、自画自賛ですが、実に美味しいのです。

 中学や高校の門の前で、沢山の屋台が出店して、下校時の学生さんたちに、様々な食べ物が売られているのですが、このカレーとラーメンをやったら、きっと人気が出ると思うのです。それで、『この屋台だそうか!』と、家内に提案すると、『こちらに来た目的は?』とやり返されてしまいます。あっ、そうです、〈トマトケチャップ〉も大好きなのです。ラーメンのレシピに使っている野菜を、このケチャップと玉ねぎやリンゴやニンニクを、ミキサーにかけて、これを煮込んで自家製のケチャップを作るのです。これを先ほどの野菜に絡めて、炊きたての御飯や、麺にかけて食べるのも美味しいのです。

 毎朝欠かさないで食べるのが、このトマトでして、家内も私に付き合って、トマトが好きになってきています。冷蔵庫に買い置きがなくて、食卓に並んでいないと、一日が始まらなくなるので、急いでスーパーに跳んでいって、買い求めてきます。『同じ物ばかりを食べてははいけない!』と言われますが、ビタミンCやAやリコペンが多い野菜で、体には大層いいのだそうです。トマトの歌もありましたね(荘司武・作詞、大中恩・作曲)。

トマトって かわいいなまえだね
うえからよんでも と・ま・と
したからよんでも と・ま・と

(写真は、エクアドル(南米アンデス)の山地です)

♫ ことし六十のおじいさん ♬ 

.

 子どもの頃、「おじいさん」の印象というのは、舟をこぐ「船頭さん」のことで、年は六十歳、それでも元気イッパイに生きている人、そういったものでした。この「船頭さん」という歌を、今でも、子供たちは歌うのでしょうか。武内俊子・作詞、河村光陽・作曲で、1941年(昭和16年)に発表されています。

村の渡しの 船頭さんは
ことし六十のおじいさん
年はとっても お船をこぐ時は
元気一ぱい ろがしなる 
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

 父が六十だと聞いた時、また兄が六十になり、今度は自分が六十になった時、「六十」が、おじいさんであるという感覚はありませんでした。まだ顔はつややかでしたし、背もぴんとしていましたし、現役で働いていたからです。まあ若干、髪の毛が白髪が多くなっていましたが、おじいさんの実感はなかったのです。

 実は、この「船頭さん」の歌は、私たちが覚えた時代は、いなかの田園風景を彷彿とさせる童謡でしたが、作られたのが戦争中で、〈戦意高揚〉の目的で作られた「戦時歌謡」でした。元歌には、次のような二番と三番とがありました。

2.雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

3.村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 舟をこぐ
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 『六十になったおじいさんが、今でも、軍馬を戦地に送るために、頑張って仕事をしているのだから、銃後にある国民は、このおじいさんに倣って、懸命に、お国のために働き、生きていかなければなりません!』と言いたかったのでしょうか。幼子も大人も、歌って戦意を高めていったのです。平均寿命の短かった当時、雨の日も休む暇なく働き続けれる六十の労働は、少々、過酷な労働を強いられていたようで、気の毒になってしまいます。戦争に負けて、この歌は、一番はそのままで、二番と三番は、改作されています。

 今では五歳ほど繰り下げて、「65歳以上の高齢者」という表現が使われてるようです。映画館のスクリーン、学校帰りに友人と固唾を飲んで見守っていた三十代の高倉健が、そこに映し出されていました。彼が、八十代になっていると聞いて、やはり驚きを隠せません。憧れて観ていた私たちも、六十代の後半になっているのですから、当然といえば当然なのですが。この高倉健が主演した、「君よ憤怒の河を渉れ(中国の題名〈追捕〉)」という映画が、1978年に中国で公開され、何億という観客を動員したと言われています。日本の映画人で、最も有名なのが高倉健だと言われているそうです。彼も「おじいさん」、私も「おじいさん」になりました。

(絵は、琵琶湖の渡しの舟をこぐ「船頭」です)

あんころ餅のチョットしょっぱい思い出

.

 格言に、『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ!』とあります。何もかもうまくいってる時には、手放しで〈喜べ〉というのです。しかし、何をやっても失敗の連続、家の中も仕事も、そして対人関係も、何もかも駄目なときには、〈反省〉することだというのです。反省したら、逆境を乗り越えることができるし、順境の日も糠喜びすることなく、感謝して注意深く生きていけるに違いありません。私も落ち込むことがありますが、そんな状況下に長居しないことにしています。楽観的な生き方をしていくほうが、遥かにいいからです。大波小波、晴れの日も嵐の日も、上昇も下降も、様々な日々が、これまでありました。低迷の時には、必ず誰かが助け上げてくれたのを思い返すのです。家族や友人や見知らぬ人によってです。

 1週間臥せっていて、昨日、腰の疼く痛みが消えましたので、バスに乗って、授業をしに行きました。『無理かな?』と思ったこの一週間でした。反省をしてみても、痛みは引いて行かなかったのですが。4コマの授業は大丈夫でした。今まで、どんな仕事をしていた時でも、大体、始業時間の30分前にはスタンバイしています。今は、授業のポイントを板書をしたり、準備してきたことに思いを巡らしているのです。そうすると、そろりと一人二人やってくるのです。『いつも早いですね!』と学生さんたちが聞いてきます。『実は・・・』と、早いわけを話すのです。約束時間を破って友人を失ったことがあるのでと、いつもの話をするのです。『へえ!』という顔をして聞いていました。きっと、気が小さいのかも知れませんね。『遅れたらいけない!』との思いが強くて、そうするのだと思います。

 学校の教師の中には、始業ベルがなってから、やおらタバコに火をつけて吸いだす輩がいました。私は、ほとんどベルがなると同時に、ドアーを開けて教室に入っていましたが。私立の学校にいましたから、高い授業料を払って学んでいる学生さんたちに、それなりの努力をして接しなければいけないと思っていたからです。十二分に努力をして、教壇に立ちました。時間があると、用務員室に行っておじさんやおばさんと、渋茶を飲んで、世間話の仲間に入れてもらいました。職員会議で出たお菓子を、おばさんに、そっとあげたら、数日たって、『ちょっと、ちょっと!』と、そのおばさんが手招きをするので、そばに寄ると、ご自分で作った〈あんころ餅〉をくれたのです。『三月でやめるんです!』と言ったら、『好い先生は、みんなやめてってしまう!』と言てくれました。そのお世辞を〈勲章〉に、新しい仕事に転職しました。

 私の中学の担任が、いろいろな教材を引っさげて、ベルの前に教室に入ってきて、セッティングをしていたものです。『三つ子の魂百までも』といいますが、そんな中学3年間、社会科を教えてくれ、担任までもしてくれた恩師の仕事ぶりを見ていたので、真似て同じようにするのでしょうか。この恩師には迷惑をかけたのです。退学させられなかったのは、この恩師のおかげだったからです。勉強も素行も何もかも駄目な時期がありました。そんな私を見守もり続けてくれたのが、この先生でした。JR横浜線のある駅名と同じ名前の先生でした。

 高校に進学する直前の中3の長男を連れて、『ここが、俺が6年間学んだ学校なんだ!』と、自分の出た学校を見せたくて、卒業以来初めて母校を訪問しました。その時、恩師は女子部の中学校長をされていたのです。『息子さんは大丈夫ですね!』と太鼓判を押してくれました。ということは、私は大丈夫ではなかった、ということになります。まあ恩師の言うことですから、そうだったことにしておきましょう。もう亡くなられたでしょうか。誰にも連絡先を告げずに、こちらに来てしまったので、連絡の方法がなかったのかも知れませんが。大きな感謝をしたかったので残念でなりません。何だか、最近は、『蛍の光・・・わが師の恩・・・』を歌わないのだそうですね。

(写真は、「あんころ餅(錦盛堂:岡山県倉敷市)」です)」

好きな花は「ムクゲ」

.

 「菊薫る十一月」、昔住んでいた家の大家さんが、小鉢に観賞用の背丈の高い菊を栽培をしていて、実に綺麗だったのを思い出しました。日本の国花は、この「菊」と「桜」だと言われていますが、法律的な規定はないようです。春に桜を、秋に菊を愛でるのは、贅沢でいいのではないでしょうか。私が一番好きな花は、「木槿(むくげ)」です。大韓民国、韓国の国花です。東洋的な趣があり、清楚なので好きなのです。どうも日本原産ではなく、大陸からの渡来の花のようです。この花を好むのは、私の祖先は、中国か朝鮮半島の出身なのかも知れません。

 昨日の「中央日報・日本語版」によりますと、『日本人のルーツは韓半島系混血」…日本がDNA分析で明らかに!』というニュースを伝えていました。

 『日本列島の先住民である縄文人と韓半島から渡ってきた弥生人が混血を繰り返して現在の日本人になったという「混血説」を後押しするDNA分析結果が出たと日本経済新聞など日本のメディアが1日、報道した。

  東京大学や総合研究大学院大学などで構成された研究チームが、先月31日、このような研究結果を総合して発表した。日本経済新聞は、「今 までも似たような研究結果があったが、今回の研究は1人当り最大90万カ所のDNA変移を解釈して、信頼性を大きく高めた」と評価した。研究チームは、今まで 公開された日本本土出身者とアジア人・西欧人約460人分のDNAデータにアイヌ族と沖縄出身者71人分のデータを追加して分析した。アイヌ族は紀元前5 世紀ごろから北海道をはじめとする東北部地域に住んできた日本の原住民だ。

  分析結果、アイヌ族は遺伝的に沖縄出身者と最も近かった。その次が日本本土出身者、韓国人、中国人の順だった。また、日本本土出身者 などはアイヌ族や沖縄出身者などより韓国人、中国人と遺伝的にさらに近いと分析された。アイヌ族は顔の輪郭がはっきりしていて白人に似ていて、沖縄原住民 は肌が黒く東南アジアなど南方系に似て容貌上は互いに明確な違いが生じる。

  読売新聞によると、日本列島の本土などでは3000年前以降、 韓半島から渡ってきた弥生人と縄文人の混血が活発に進んだ反面、南北に遠 く離れている北海道と沖縄地域には混血の波及が遅かったという意味だ。それでこれらの地域に相対的に先住民の遺伝的特徴が多く残っているということだ。朝日新聞は、「縄文人と弥生人の混血が日本人の起源になったという説を遺伝子レベルで後押しすることができるようになった成果」と意味を付与した。

  日本人の起源に関連した「混血説」は「二重構造説」とも呼ばれる学説で、東京大学名誉教授の人類学者、埴原和郎(2004年死亡)に より1990年に提唱された。このほかに日本学界には先住民である縄文人が各地の環境に合わせて適応したという「変形説」、弥生人が縄文人を追い出して定 着したという「人種置換説」などがある。研究チームは今後、縄文遺跡で発見された遺骨のDNAを分析して日本人の根元追跡を継続することにした。』とありました。

 そうだったら、兄弟で内輪もめしている場合ではありません。憎み合ったり、そねみ合ったりしないで、血の近さを感じ合いながら、和解をしていきたいものです。豊臣秀吉の時代以降の恨みを忘れていただき、兄弟の契りを再確認したいものです。

晩節を汚さず

.

 あるブログへの知人のコメントに、「晩節を汚す」とありました。weblioの辞書を見ますと、『読み方:ばんせつをけがす。それまでの人生で、高い評価を得てきたにも関わらず、後に、それまでの評価を覆すような振る舞いをして、名誉を失うこと。 』とありました。十代の若い時に憧れ、その主張や事業観に共鳴し、『この人の弟子、門下生になりたい!』と思わされた人がいました。しかし、その方は、事業を投げ出さざるをえないほどの人格的な欠陥を見せて、業界から消えてしまいました。彼の失敗を、「晩節を汚す」ということばが、言い当てているのでしょうか。彼の弟子になる道が開かれなかったのは、幸いなことだったかも知れません。

 そんな私のために備えられた師は、目の青いアメリカ人実業家でした。八年間、彼のもとで仕事を学び、様々なことを教えてもらいました。そればかりではなく、この師の友人たちが訪ねてきては、この私に興味を示して、いろいろな刺激を与えてくれたのです。その中に、ニューヨークの学校の教授で、自分の教えた学生たちを、世界中に送り出していた方がいました。休みには、そういった教え子たちの事業を手伝うために出かけていて、旅の途中に、日本にもやってきたことが何度かありました。彼の事業というのは、世界を事業対象にしていたのです。そんな彼が、アフリカで働こうとした時に、私を一緒に連れていこうとしたのですが、実現しませんでした。そんなに大きなビジョンを持っていたのですが、十数年前に、ニューヨークの病院で亡くなってしまいました。

 若い時の、そういった出会いとか学びとか刺激というのは素晴らしいものだったと思うのです。学校での学びではなく、実務を学ぶ機会に恵まれたからです。私は失敗したからではありませんが、その受け継いだ事業から身を引いたのです。投げ出したのではありません。父が若い時に過ごしたこの国の東北部に行って、人生の最後を生きたいとの願を果たそうと思ったのです。ところが私は、遼寧やハルピンではなく、華南の地に導かれて、ここで6年目を過ごしています。天津で過ごした一年を加えますと、もう七年目になります。今思うのは、高い評価など受けたことのない、この人生を生きてきましたが、この期に及んで、「過去の生き方を汚す」ことのないように、また「師の教えに悖(もと)ることのない」、そういった日々を送りたいと思うのです。

 でも、明日のことは、どうなるか分かりません。「明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」という和歌があるようです。何が起ころうとも、子どもたちや、孫たちを辱めるような生き方だけは、『したくない!』と思っております。あれっ、ちょっと暗くなっているでしょうか。『お父さん。明るい話をしようよ!』と、話題が暗くなるときに、きっと言っていた次男の言葉を思い出してしまいました。きっと、腰痛のせいかも知れません。私の師が、病院でコルセットをはめて、牽引されていたのは、腰痛治療だったのを思い出してしまいました。その見舞いの時の写真が残っていて、彼の「腰痛」も受け継いでしまったのかと、思う、久しぶりの雨の日の午後であります。

(写真は、Tシャツの「弟子」です)