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鳩とカナリヤ
すぐ上の兄は、伝書鳩を飼ったり、十姉妹の餌付けをしたり、小動物を可愛がっていたのです。とくに鳩は、小屋を作って、餌を上げたり、飛ばしたりしていました。あの頃の中学生たちの間で、この鳩の飼育が流行っていたのです。鳩の習性は、素直で帰巣本能を持っていて、放つと、しばらくして飼い主の元に、帰って来るのです。
鳩の足に、文書を収める筒(軽量なアルミ製でした)を付けて、通信のために有用なのです。初めは、軍事や報道や医療(緊急に薬や血清の送致が行われていた様です)などの情報などを送受信するために用いられたのです。1960年代頃まで有用でしたが、通信手段が発達してからは、それらに取って代わってしまったのです。最も古い通信手段は狼煙(のろし)、伝書鳩、飛脚や伝馬など、郵便料金が上がっても、前島密が、ヨーロッパに郵便制度を導入した貢献は今に至り、IT時代でもまだまだ役割がありそうです。
この伝書鳩として用いられるのは、カワラバト(河原鳩)と呼ばれるもので、人懐こい性質を持っているそうです。もう5000年前にはシュメールで、3000年前にはエジプトで飼われていたとの記録があります。またギリシャのポリス(都市国家)間で、古代オリンピアードの競技結果の知らせなどで用いられていたそうです。
その他の動物が、役割を担っていた例では、「カナリヤ」がいます。作詞が西条八十、作曲が成田為三の「歌を忘れたカナリア」という歌があります。
♬ 歌を忘れたカナリヤは
後ろのお山に棄てましょか
いえいえそれはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋け(埋め)ましょか
いえいえそれもなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相
歌を忘れたカナリヤは
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思い出す ♫
捨てられるカナリアが可哀想だと言って、同情した子どもの優しい気持ちが込められた歌です。作詞者の西条八十は、歌謡曲の作詞をした人で、「だれか故郷を思わざる」、とか「東京行進曲」などで有名ですが、もともとは児童文学を専門としていた童謡詩人だったのです。
『捨てる神がいて拾う神がいる』のだそうですが、初期には、炭鉱経営者が、炭鉱夫のみなさんの作業の安全のために、このカナリヤを重用しています。炭坑の中に入っていく作業員の先頭に、鳥籠を持つ作業員が、まず入っていったそうです。
炭鉱の中を進んで行きますと、カナリアの鳴く声が止まったり、力を失って死んでしまったりすると、炭鉱内にメタンガスのような有害ガスが発生していることを知らせてくれるのです。それが起こると、緊急避難で、退出することができたわけです。
化学的な器具ではなく、生物学的な方法で、ガス発生を検知するカナリヤが、そう言った役割を担っていたわけです。そう言ったことから、英語には、
“ like a canary in a coal mine (炭鉱の中のカナリア)」
との言い回しがあるのです。まだ何も起きていないのですが、その自体が危険だということを知らせることを言っています。カナリアの嗅覚を通して、危険が回避できるわけです。私の家の台所に、ガス検知器があって、ガス保安の係の方が操作した時に、けっこう大きな音でガス漏れを知らせてくれていて驚きました。
炭鉱員をいち早く危険地域から退避させる役割を果たした鳥でした。人間に感知できない有毒物質を敏感に感知し、危険を知らせてくれたのは感謝なことだったのです。この歌は、歌い出しはかわいそうですが、同情する子どもによって、優しくせっしようとする気持ちが現れていて、何か安心した子どもの頃を思い出しました。
昨今、世界中で危険な事態が起こっているニュースが溢れています。その危険を検知できる、鋭敏な感覚を鈍らせないことが肝要だと、「ガス検知カナリヤ」のことを思い出して、考えさせられるこの頃です。
(ウイキペディアのカナリヤ、死にかけたカナリヤを蘇生させる装置です)
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秋の陽を浴びて
父の涙
クリスチャンの国会議員と共に、国のために祈る「国家朝祷会」に参加させていただいたことがありました。その会に、招かれていたのが、福音歌手の岩渕まこと氏でした。以前、自分たちの教会にお招きしたことがありましたが、その朝祷会の席上、ご自分で作詞作曲された「父の涙」を歌われたのです。
心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よ彼らを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの
神さまの目に涙があるのに驚かされますが、人の涙とは違います。自分の父が、涙をこぼしていた姿を、どうしても思い出してしまうのです。父は、歌謡曲を歌っていたのを知りません。ただ、何度か「めんこい仔馬」を歌うのを聞いたのです。父が歌っていた頃の歌詞は、戦時下でしたから、軍馬としてのめんこい仔馬でした。作詞がサトウハチロー 、作曲が、仁木他喜雄でした。戦後は、歌詞を変えています。
濡れた子馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝の露
よべばこたえて めんこいぞ
オーラ
かけて行こかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
わらの上から育ててよ
今じゃ毛並も光ってる
お腹こわすな 風邪ひくな
オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
西のお空は夕やけだ
仔馬帰ろうお家には
お前の母さん 待っている
オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌
月が出た出たまんまるだ
仔馬のお部屋も明るいぞ
よい夢ごらんよねんねしな
オラあしたは朝からまたあそぼ
ハイドハイドウ またあそぼ
濡れた子馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝の露
よべばこたえて めんこいぞ
オーラ
かけて行こかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
わらの上から育ててよ
今じゃ毛並も光ってる
お腹こわすな 風邪ひくな
オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
西のお空は夕やけだ
仔馬帰ろうお家には
お前の母さん 待っている
オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌
月が出た出たまんまるだ
仔馬のお部屋も明るいぞ
よい夢ごらんよねんねしな
オラあしたは朝からまたあそぼ
ハイドハイドウ またあそぼ
自分が持っていた馬への愛着があって、馬の世話をしていた方が、病気の子どもに栄養を摂らせたくて、父の馬を潰して、肉にしてしまったのです。父の所にも持ってきたのだそうですが、それとは知らずに、父も食べてしまったそうです。後で事情を聞いて、戦時中に食糧難のこと、病気のことで、責めることはしなかった様です。愛馬への思い出からの涙だったのでしょうか。
それに、もう一つは、「主われを愛す」でした。
1 主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
(くりかえし) わが主イェス わが主イェス
わが主イェス われを愛す
2 わが罪のため さかえをすてて
天(あめ)よりくだり 十字架につけり
(くりかえし)
3 みくにの門(かど)を ひらきてわれを
招きまたえり いさみて昇らん
(くりかえし)
4 わが君(きみ)イェスよ われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
(くりかえし)
子どもの頃に、『親爺に連れられて、教会学校に行ってたよ。』と、父が言っていましたから、よく聞き覚えて、自分でも歌っていた歌だったのでしょう。涙ぐんで歌っていたので、父が泣くのには驚かされたのです。人の子ですから、もちろん懐かしくなったり、寂しくなったりしたら泣くはずです。
御子を十字架に、贖いの代価として、死なせなければならない父の神に、涙がありました。自分たちの父親とは比べることはできませんが、自分も泣くのかなあと思ったりしている今です。父は、兄の導きで、信仰を告白していました。その後間もなくして、父は、入院先の病院で、退院の朝に召されたのです。
その突然の父の死に、敷く場から病院に着くまで、今度は自分が泣き続けたのです。父に愛された子として、もっと親孝行をしたかった悔いの涙でもあったのかも知れません。主の前で、泣けるのは、感謝なことに違いありません。
(”Christian clip arts“ の父に抱き抱えられる弟息子です)
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騒音の諸相
子どもの声や行動が、「騒音」だという騒動があります。子育てを、私たちが始めたのが、長男が東京都下の街で生まれ、ついで彼が2ヶ月で新しく越した街からでした。2階建てのアパートの二階の角部屋に住んだのです。近所の公民館をお借りして、日曜学校を始めました。20〜30人もの子どもたちがやって来て日曜学校を始めました。その中の何人かの子たちが、週日の午後の下校後に、わが家に、よく遊びにやって来たのです。
壁も床もが造りが薄く、音が漏れるに十分の古い普請のアパートで、階下や隣は迷惑だったことでしょうか。階下の家は天井、わが家では床下を、きっと箒の先でしょうか、口でではなく、トントントンと築突き上げて、抗議されたことが何度もありました。
それに、『越して来て空気が変わったからね!』と、近所のお母さんたちに、同情されて言われた様に、長男がよく泣いたのです。『泣く子は育つ!』で、あの泣き虫は、187cmの青年に、いえもう五十の中年になっています。今は魂のお世話をする仕事に励んでいるのです。
社会全体に、今や余裕や愛情や労りが少なくなってきているのではないでしょうか。忍耐を超えてしまう限界点があって、それを「受忍限度」と言うのだそうです。電車や飛行機の中で、幼い子どもが泣くのを、同乗客が我慢できないで怒鳴ることが、チョクチョクあるのだそうです。また、保育園の保育場で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、送り迎えの車の音もうるさいのだそうです。そう言った騒音で、事件だって起きている様です。
聞き方によって、ある人には、[成長期に発せられる好ましい音]、[将来性を告白している音]と捉えられる人と、まさに騒音でしかない人がいるわけです。やはり、今流の社会問題として騒がれています。
父の家に育った男の子たち四人は、兄弟喧嘩をし、父子喧嘩をし、外でも喧嘩をし、怒鳴り声や物を壊したり叩いたりする音で満ち溢れていました。ビックリした近所の方は、はじめの頃は注意しに来たのですが、父に、『うるさい!』と、怒鳴られて、『はいっっ!』と言って、追い返されてから、もう何も言われなくなってしまいました。道の向こう側の家の一家は、窓の上のガラス越しに、みんなで、我が家の様子を見ていました。
家内が働いていた職場の上司が、『大丈夫なの?』と心配して聞いてきたのだそうです。結婚を決めた相手の私で〈大丈夫〉なのかと言う、そんな心配と同情のこもった質問を受けたわけです。その人は、街一の[騒音一家]の父の家の評判や実情を知っていた方だったのです。家内は、『大丈夫です!』と言って、嫁入りして来て、五十三年経った今も、どうも「受忍間度」内で大丈夫そうです。
騒音に忍耐してくれた近所の人がいて、きっと『大きくなったら、どんな子たちになってしまうんだろう?』と、心の内では溢れるほどに心配していた近所のみなさんが、いつの間にか、ちゃんと高校に進学し、大学まで行き、一部上場の会社に就職し、外資系のホテルマンになり、高校の教師になっていった四人に、予想外、当ての外れた私たちを見ていて、どう思っておられたのでしょうか。
上手に感情を発散したのがよかったのでしょう、危機の思春期を上手に越えられ、だれも極道者にもならずに、八十を迎え、迎えつつある四人の今を、もし知ることができたら、奇跡だと思われたに違いありません。これは、万物の創造者なる神の「憐憫」に違いありません。
あの映画で人気の寅さんが、久し振りに帰宅し、おいちゃんの和菓子屋の茶の間に座っていると、『おい!トラ、こんなところでクソひっちまって!』と、サクラの夫が裏口から帰って来るくだりがあります。自分のことを言われたと勘違いして、『俺がどこに・・・?』とお尻を見ながらトラさんが言い返します。おいちゃんもおばちゃんも、サクラもハラハラしています。『いつもみんなでトラ、トラと言ってオレの悪口を言ってるんだろう!』と寅さんはイジケます。そこへ隣の印刷工場の社長が、『トラ、トラ、このヤロー!』と、トラを追いかけながら裏口から入って来るのです。それで堪忍袋の尾が切れた寅さんが、喚きながら、社長に物を投げたり大暴れをする、そんな場面がありました。
そんな場面が、我が家にもあったなあ、と思ったものです。翌朝になると、子どもたち四人は、学生服を着て登校し、父は、Yシャツにネクタイ、ピカピカに磨いた靴に紳士姿で出勤していくのです。昨夜の騒ぎが嘘の様に、何もなかったかの様に、すずしい顔で家を、みんなが出て行くのです。そんな繰り返しだったなあ、と家内に話しました。
家内と子育てをしたのは、みんなで建てた教会堂の一階の奥の部屋や、道路の反対側の借家でした。私たちに4人の子どもたちも、元気イッパイ、声まで大きく、六匹の秋刀魚を焼いた煙でモクモクさせて、隣家から苦情が出るほど、まあ迷惑な騒音一家だったかも知れません。そこから、市営団地、県営団地と引っ越しをしていく頃に、一人の姉妹が礼拝に見える様になっていました。
彼女が、市内の高校に通っている頃、教会の前をよく通ったのだそうです。教会や借家の玄関から、勢いよく出てくる子どもたちの姿や声を見聞きして、『楽しそうでいいなあ!』と思っていたのだそうです。そんな高校時代を過ぎて、留学中の時だった時にでしたか、クリスチャンになって、礼拝に見える様になっていたのです。
その騒音一家が、この方にとっては、自分の家庭と違った和気藹々の楽しそうな一家に見えて、羨ましくて仕方がなかったのだそうです。そんなことだってあるのですね。その頃には、上の子たちは、学びのために留学したり、東京に行ったりして家にいない頃でした。
思い返せば、楽しくもあり、騒騒しい時々でしたが、いつも、忍耐の神さまの憐れみが溢れていたでしょうか。それに、隣人のみなさんの忍耐もあった様です。それに、母の祈りや家内の祈りがあったからでしょうか。
(ウイキペディアの柴又駅前の寅さん像、焼き秋刀魚です)
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はえある日
いのちの躍動する音が
“ monitoring ”とは、観察とか監視をすることを言っていて、主に医療の面で言われれている用語です。先々週の日曜日に、次男が、心電図測定の機能を持った医療用時計(medical watch)を持って来てくれました。細かく使い方を説明してくれて、それ以来、朝夕に測定しています。
その測定情報は、スマホに自動的に送信され記録されるのです。運動のエネルギーの変化などの測定などの様々な機能が搭載されていていて、一目瞭然です。医院に行って測定しなくとも、心臓の動きがよくわかります。
手首の脈拍の様子、また手の振り方や回数から、歩行時の運動量もわかるのも、万歩計には比べられない情報を得られるのです。それに、病院のCTやMRI などの検査によって、さまざまな身体の様子を知ることできるのも驚きです。それよりも何よりも、親を気づかう子どもたちの思いが嬉しく、その愛情効果は感動的なのです。
全速力、全神経で走ることができた頃と比べて、体力も筋肉量を落ちていますが、それを事実として受け入れるのも必要だと思わされています。ちょっと弱音を吐いたのか、「ポンコツ」だと言ったら、『そうなっちゃうからやめて!』と、そうも言われてしまいました。
もう親子逆転の時節を迎えて、もう苦笑いするしかなくなく、感謝な時が与えられております。歳を重ねたカレブが、族長のヨシュアに、
『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア14章10~11節)』
と言いました。カレブは、「壮健な八十五の今」を、民族の指導者にアピールしているのです。もう五年ほどで、その年齢に自分もなりますが、彼の確信と告白が羨ましいかぎりです。
『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)』
そう詩篇の記者は記しています。一番元気だった十七の頃、「誇れる頃」を、はっきりと覚えています。学校から市道や都道に出て、その道路沿いの電信柱ごとに、緩急に、全速度力で走り、そして次には流して走る、それしかを繰り返して走り込んだ日の光景が浮かんでくるのです。
全国制覇の道を、そんな走りを通して目指した日々です。自分たちの時には果たせませんでしたが、一級下がインター杯と国体とで全国制覇を遂げています。今は川辺を、汗ばむ程度の歩きで散歩していますが、穏やかに身体に過負担なく、咲く花や飛ぶ鳥やトンボを眺めながらなのです。
生かされいる今への感謝が溢れてきます。休みなく心臓🫀は鼓動し、血流も休みなく体全体をめぐり続けてくれています。生きようとする意思の力ではなく、いのちの付与者の恵みによって、この体や意思が機能しているのです。自分ができるのは生かされていることを認め、そして感謝するだけなのでしょう。
思い返せば、その十七でイエスを告白し、二十二でバプテスマを受け、二十五で聖霊に満たされて、十字架が分かり、生きる道を見出したのです。一人の妻を得て、四人の子を与えられ、四人の孫がいての今です。たくさんな人と出会い、関わってきました。数限りない出来事が内や外にあって、そしてここに居ます。
先日は、散歩帰りに、キャベツやさつまいもやみかんや鰯の丸干し、サランラップなどの買い物をし、夕べは、ビーフンと葛を麺に、牛肉とトマトと胡瓜としめじと卵を錦糸卵にして冷麺を作りました。タレも自家製です。『美味しいわ!」と家内が言ってくれました。47、8年してもらったお返しに、食事当番をして6年になります。お昼は家内の登板なのです。
そんな平凡で静かな日を送っています。それでも隣り街の教会に呼ばれて、お話をさせていただく時も与えられてもいます。先週は、その教会の牧師さんの奥さまが、季節の栗羊羹を届けてくださり、一緒に知覧茶を飲みながらいただき、談笑の時を持ちました。
けっこう素敵な時が与えられており、体の中で、いのちが躍動する音がが聞こえてくる様です。秋の盛りに、静かに時もまた過ぎていきます。
(ウイキペディアのサツマイモです)
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もっと重大な落球のないことを
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「プレッシャー(pressure)」、どんな人でも、どんなに経験を積んだ人でも、どんな栄光や称賛を受けた人でも、この「外からかかる精神的・心理的な圧力」を避けることができない様です。
ヤンキー・スタジアムで、ホームランバッターのジャッジ選手がセンターを守っていて、ドジャースの選手の打ったボールの捕球を誤って落球してしまいました。
どうも、それがきっかけとなって、勝ち試合をヤンキースが失ってしまった、と酷評されています。その落球を米紙は評して、『結局のところ彼らには才能ではなく技術が欠けている。』と記しているのが、おおかたの捉え方です。
それだけが原因でしょうか。あれだけの人に観覧され、驚くほどのお金が動き、悲喜交々、驚くべきエネルギーがみなぎっている中で、ボールを投げたり、打ったり、捕ったり、走ったりの野球の総本山、MLBの最終戦が抱えている心理的緊張があったに違いありません。あんなに活躍した選手だって、打てないし、投げれないし、走れないし、補給できないのです。人間がするゲームだからです。
名アナウンサーだって話をカムことがあり、高明な説教者だって引用を勘違いし、名政治家だって失言し、将棋名人も差し手を間違え、ホームラン・バッターのジャッジだって打てないし、落球するのです。人には、「失敗」、「ミス」が付き物なのです。だから面白いのではないでしょうか。
イエスさまは、『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(新改訳聖書 ヨハネ8章7節)』と、姦淫の現場で捕まえられた女性を取り巻いて、糾弾する男たちに、そう言いました。すると、どうなったかが記されてあります。
『彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。(9節)』
そこにいた誰もが、黙して、その場を去ったのです。誰も女の罪を責められる男がいなかったのです。心の中で情欲いだいても、それは姦淫だと、イエスさまはおっしゃいました(マタイ5章28節)。そのイエスさまだけが、人の罪を責めることができるのです。ところが、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11節)』と、この女性に言われました。
失敗のデパートの私も、石で、この女性を打てませんし、このジャッジを責められません。みなさんはいかがでしょうか。これが人です。「捕球ミス」が端を発して、World champion shipをヤンキースは失いました。だから、野球も人生も面白いのかも知れません。アーロン・ジャッジには、落球のミスを忘れて、来シーズン、また活躍してほしいとエールを送ります。決して「戦犯」などではないのですから、自分を責めないでほしいのです。
さて、人類最後の「ミス」は、核ボタンを押すことです。何時、誰が押すのでしょうか。それこそが、現時点の最大関心事になってきています。その時の備えができているでしょうか。いえ、神の前に「信仰」を持たないことこそ、最大、最終のミスと言えるにちがいありません。もっと重大な落球のないことです。
(ウイキペディアにアーロン・ジャッジ選手、石、点灯用ボタンです)
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栗の実を食べて思うこと
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一昨日は、家内が散歩で出会ったご婦人が、手荷物いっぱいで訪ねてくださいました。一昨日が誕生日でしたので、家内がお祝いを届けたので、律儀なこの方がお返しに見えられたのです。その袋の中に、甘栗があって、一緒に、知覧茶の茶葉でお茶を淹れて飲み、夕方まで、三人でお交わりをしたのです。
栗を食べながら、作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実、歌が川田正子の「里の秋」を、なんだか条件反射の様に思い出したのです。
1 静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた
2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜はー
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す
3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります
栗の実を、煮るのか茹(ゆ)でるのか、または焼くのか、はたまた和菓子の金鍔(きんつば)に載せるのか、秋到来の最もふさわしい味覚が、この栗なのです。先日も、店頭に栗があって、つい手を出して買い求めて帰ったのです。その栗も、この甘栗も、金鍔の上の栗も、秋そのもの、舌でお腹で味わえて、やはり母を思い出してしまいました。
割烹着を着て、台所に立つ母です。父と私たち四人兄弟のために、食事のために食材を買いに行き、調理をし、ちゃぶ台に配膳してくれ、今の季節ですと、栗ご飯、焼き秋刀魚、ちらし寿司、硬焼きそば、たまに東京から父が買ってきてくれた牛肉ですき焼きにしてくれたこともあったでしょうか。それらをすさまじい勢いで、みんなで食べたのです。洗濯や掃除をし、何かやらかした息子の件で学校に呼び出されたり、息つく暇なく、献身的に子育てに励んでくれた母でした。
母の励みは、日曜日の礼拝、週日の祈り会や婦人会などで、教会に集うことでした。近所の方を何人もお誘いしていたのです。男五人を手玉に取って、家を支配、切り盛りしていたのは、外で働いてくれて、怖かった父ではなく、結局は物静かな母だったのです。黙々と、モグモグと勢いよく食べる子どもたちを育てた母は、やはり「すごい」と思い返すのです。
父(てて)なし児で、養父母に育てられ、兄弟姉妹のない一人っ子で、カナダ人宣教師の家庭が羨ましかった子供時代を送った母には、自分が産んで、自分の手で養って、成長して行く四人、父を加えた五人のにぎにぎしい団欒を、目を細め、微笑みながら楽しんでいたのでしょうね。聖書に、次の様にあります。
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『しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(新改訳聖書 1テモテ2章15節)』
文字通り、それこそが、母の「救い」の一面だったのでしょう。聖書は、「女は産みの苦しみ」を、善悪を知る木の実を採って食べ、夫のアダムにもそれを勧めた、エバの犯した罪の結果だとしています(創世記3章16節)。でも母は、「信仰と愛と聖さとを保つなら」と、パウロが記した条件を満たした信仰者でしたから、その報酬を受けたのでしょう。
King James 訳聖書では、「聖さ」を、“Sobriety” と記しています。それは、「しらふ」、酒を飲まないで、酔わないで生きることを意味して言っているのです。とても面白く興味深い訳です(原典のギリシャ語は多くの意味を持つ言語なのです)。私たち兄弟の母は、悲しんでも悩んでも、お酒で、その気分を紛らわそうとはしませんでしたから、四人の子を産んだことでも、「救い」に預かれたのでしょう。
この「救い」には、多くの祝福があるのです。一つは、女性が罪ゆえに失ったものの復権を言っているのでしょう。さらに母親としての使命を果たすことをも含んでいるに違いありません。永遠の命への「救い」に預かった女性への祝福でしょう。まさに、「矢筒(詩篇127篇5節)」に「4本の矢」を納めて満ち足りていた母の顔を思い出すのです。
母の育った出雲、父の育った横須賀、二人が過ごした京都、京城、山形、甲府などは、訪ねてみたいし、住んでみたいと思い続けた街々なのです。私の前で、心を許して、『お母ちゃんに会いてえよう!』と、酔って突っ伏して叫んでいた一歳上の同輩が、まるで迷子になった幼い子が母を求めていた様に感じたのです。そんな一瞬を思い出します。あんな風に、泣き叫べた彼を羨ましいと思ってしまう、「十一月の秋」であります。
(ウイキペディアの甘栗、ばら寿司です)
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あなたがた三人の交わりに
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「三人寄れば文殊の知恵」と、日本では言うのですが、お隣の中国では、「三人寄れば無責任」、と言うのだそうです。中国の人は行動力があるのです。それで、群れて何かをするよりは、個人での行動が多い様です。と言うことは、大同団結という様に、複数の人が協力して物事を進めるのが得意ではないのかも知れません。だからこそ、人が多く集まると、他人任せ、人任せになってしまうのだそうです。
同じ三人でも、日本では、それに真反対なことを言うのです。東シナ海を挟むと、そんなに違うのでしょうか。日本では、狭い国土ですから、遠くに逃げることができない地理的な環境の中で、足並みを揃えて生きていかなければならず、意に沿わなくても我慢して、我を引っ込めて同調していかなければならなかったのでしょう。それで、他者の三人の意見を聞いて、賢く生きてきたのかも知れません。
同調圧力が迫ってきて、みんなの意見に不本意ながら合わせでしまいます。それが無難だからです。ところが、大陸中国のみなさんは、広い大陸を縦横に移動して生きていけるわけです。中国の南に、福建省があって、「永定」と言う町があります。出会って知り合いになった若い方に誘われて、彼の「老家laojia/故郷」を訪ねたことがありました。そこには、「土楼tulou」という、土で塗り固めた城壁、要塞の様な集合住宅がありました。
古く、中国の北部、東北地方から、内乱の戦さを逃れて、移って来て住み着いたのだそうです。厚く強固な土壁の中に、たくさんの家族が生活を営んでいて、今も住居として住んでおいででした。その中心に深い井戸があって、そこから生活用水を汲み上げていました。それを「土楼tulou」と呼び、私たちを連れて行ってくれたのは、世界遺産になっていた所でした。
共同で、砦の様な、お城の様な住居は、現存で二万もあるそうです。漢民族の知恵が溢れていました。この人たちは、「客家」と呼ばれ、極めて賢い人たちを生んでいます。シンガポールが、アジア一の貿易国となっていますが、その国を導いた李光燿(Lee Kuan Yew)も、中華人民共和国の国家主席であった胡耀邦、最高指導者の鄧小平、台湾の総統の李登輝と蔡英文などは、みなさんが客家人です。
狭い土楼の中で、揉め事も多かったに違いありません。どう言うふうに、その争いを収めたのでしょうか。きっと、決め事があって、懲罰もあったことでしょう。そこで知恵が求められ、長老たちがいて、調停や和解、また罰則が決められていたに違いありません。人の集まる場所に起こることが、丸く収められる方法があったわけです。
「世間」は、味方につけると救われますが、敵に回すと大変な目にあいます。その駆け引きを心得なくては生きてはいけませんから、それに苦労しながら、中庸な物の考え方や主張、そして行動を選ぶのです。ですから、「世間知らず」では、この社会の中では生きづらく、いえ生きていけないと言えます。それで、「世間慣れ」や「世間ずれ」をしていかねばなりません。
それで、「世間通」の人がおいでです。どう見ても、自分は、「世間外れ」していて、なかなか同調できない場面に出くわして、世間に沿わずに生きてきてしまいました。もしかしたら、「我を通す」生き方なのかも知れません。聖書には、世間の人、逃散した人も群れも、みな罪人だと言うのです。
『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(新改訳聖書 1テモテ1章15節)』
自分を「罪人の頭」だと断罪していたパウロは、「罪人を救うキリスト・イエス」、復活されたイエスさまとの出会いを通して、赦されて、その赦しを信じて、全く変えられたのです。「神の子」と、今度はみとめることができたのです。それから、そのキリストを宣べ伝えるために、将来の栄誉を捨て去って、面倒な世間を捨てて、伝道の生涯を送り、最後には、ネロ帝の迫害で殉教してしまったと伝えられています。
パウロを、急転直下、全く変えてしまった、神の御子イエスさまは、今話題にしている「世間」に来られたのです。ユダヤ人の社会も、世間そのものであったのです。伝統と慣習でがんじがらめの社会でした。その世間のただ中に、いのちの共同体である「キリストの教会」を形作るために働かれたのです。
そこに一石を投じたのです。「福音」です。その福音に応答して、人は変われるのです。日本の社会も、とかく面倒な世間があったのです。長い宗教的な伝統やしきたりや慣習があって、それを逸脱すると、仲間外れにされて、村八分になったりしてしまうわけです。それと同じ同じユダヤの社会の状況下で、世の伝統や慣習に流されたりしないで、33年半の生涯を生き抜いたのです。
『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章20節)』
ただの三人では、やかましいだけかも知れませんが、「わたし(イエス・キリスト)の名において集まる・・・三人」の間には、イエスさまがいてくださるのです。そこが祝福の場となるからです。それこそが、真の「キリストの教会」と言えます。
(Christian clip artsの変貌山の三人、ウイキペディアの土楼、Christian clip arts のパウロです)
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