栗の実を食べて思うこと

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 一昨日は、家内が散歩で出会ったご婦人が、手荷物いっぱいで訪ねてくださいました。一昨日が誕生日でしたので、家内がお祝いを届けたので、律儀なこの方がお返しに見えられたのです。その袋の中に、甘栗があって、一緒に、知覧茶の茶葉でお茶を淹れて飲み、夕方まで、三人でお交わりをしたのです。

 栗を食べながら、作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実、歌が川田正子の「里の秋」を、なんだか条件反射の様に思い出したのです。

1 静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜はー
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

 栗の実を、煮るのか茹(ゆ)でるのか、または焼くのか、はたまた和菓子の金鍔(きんつば)に載せるのか、秋到来の最もふさわしい味覚が、この栗なのです。先日も、店頭に栗があって、つい手を出して買い求めて帰ったのです。その栗も、この甘栗も、金鍔の上の栗も、秋そのもの、舌でお腹で味わえて、やはり母を思い出してしまいました。

 割烹着を着て、台所に立つ母です。父と私たち四人兄弟のために、食事のために食材を買いに行き、調理をし、ちゃぶ台に配膳してくれ、今の季節ですと、栗ご飯、焼き秋刀魚、ちらし寿司、硬焼きそば、たまに東京から父が買ってきてくれた牛肉ですき焼きにしてくれたこともあったでしょうか。それらをすさまじい勢いで、みんなで食べたのです。洗濯や掃除をし、何かやらかした息子の件で学校に呼び出されたり、息つく暇なく、献身的に子育てに励んでくれた母でした。

 母の励みは、日曜日の礼拝、週日の祈り会や婦人会などで、教会に集うことでした。近所の方を何人もお誘いしていたのです。男五人を手玉に取って、家を支配、切り盛りしていたのは、外で働いてくれて、怖かった父ではなく、結局は物静かな母だったのです。黙々と、モグモグと勢いよく食べる子どもたちを育てた母は、やはり「すごい」と思い返すのです。

 父(てて)なし児で、養父母に育てられ、兄弟姉妹のない一人っ子で、カナダ人宣教師の家庭が羨ましかった子供時代を送った母には、自分が産んで、自分の手で養って、成長して行く四人、父を加えた五人のにぎにぎしい団欒を、目を細め、微笑みながら楽しんでいたのでしょうね。聖書に、次の様にあります。
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『しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(新改訳聖書 1テモテ2章15節)』

 文字通り、それこそが、母の「救い」の一面だったのでしょう。聖書は、「女は産みの苦しみ」を、善悪を知る木の実を採って食べ、夫のアダムにもそれを勧めた、エバの犯した罪の結果だとしています(創世記3章16節)。でも母は、「信仰と愛と聖さとを保つなら」と、パウロが記した条件を満たした信仰者でしたから、その報酬を受けたのでしょう。

 King James 訳聖書では、「聖さ」を、“Sobriety” と記しています。それは、「しらふ」、酒を飲まないで、酔わないで生きることを意味して言っているのです。とても面白く興味深い訳です(原典のギリシャ語は多くの意味を持つ言語なのです)。私たち兄弟の母は、悲しんでも悩んでも、お酒で、その気分を紛らわそうとはしませんでしたから、四人の子を産んだことでも、「救い」に預かれたのでしょう。

 この「救い」には、多くの祝福があるのです。一つは、女性が罪ゆえに失ったものの復権を言っているのでしょう。さらに母親としての使命を果たすことをも含んでいるに違いありません。永遠の命への「救い」に預かった女性への祝福でしょう。まさに、「矢筒(詩篇127篇5節)」に「4本の矢」を納めて満ち足りていた母の顔を思い出すのです。

 母の育った出雲、父の育った横須賀、二人が過ごした京都、京城、山形、甲府などは、訪ねてみたいし、住んでみたいと思い続けた街々なのです。私の前で、心を許して、『お母ちゃんに会いてえよう!』と、酔って突っ伏して叫んでいた一歳上の同輩が、まるで迷子になった幼い子が母を求めていた様に感じたのです。そんな一瞬を思い出します。あんな風に、泣き叫べた彼を羨ましいと思ってしまう、「十一月の秋」であります。

(ウイキペディアの甘栗、ばら寿司です)

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あなたがた三人の交わりに

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 「三人寄れば文殊の知恵」と、日本では言うのですが、お隣の中国では、「三人寄れば無責任」、と言うのだそうです。中国の人は行動力があるのです。それで、群れて何かをするよりは、個人での行動が多い様です。と言うことは、大同団結という様に、複数の人が協力して物事を進めるのが得意ではないのかも知れません。だからこそ、人が多く集まると、他人任せ、人任せになってしまうのだそうです。

 同じ三人でも、日本では、それに真反対なことを言うのです。東シナ海を挟むと、そんなに違うのでしょうか。日本では、狭い国土ですから、遠くに逃げることができない地理的な環境の中で、足並みを揃えて生きていかなければならず、意に沿わなくても我慢して、我を引っ込めて同調していかなければならなかったのでしょう。それで、他者の三人の意見を聞いて、賢く生きてきたのかも知れません。

 同調圧力が迫ってきて、みんなの意見に不本意ながら合わせでしまいます。それが無難だからです。ところが、大陸中国のみなさんは、広い大陸を縦横に移動して生きていけるわけです。中国の南に、福建省があって、「永定」と言う町があります。出会って知り合いになった若い方に誘われて、彼の「老家laojia/故郷」を訪ねたことがありました。そこには、「土楼tulou」という、土で塗り固めた城壁、要塞の様な集合住宅がありました。

 古く、中国の北部、東北地方から、内乱の戦さを逃れて、移って来て住み着いたのだそうです。厚く強固な土壁の中に、たくさんの家族が生活を営んでいて、今も住居として住んでおいででした。その中心に深い井戸があって、そこから生活用水を汲み上げていました。それを「土楼tulou」と呼び、私たちを連れて行ってくれたのは、世界遺産になっていた所でした。

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 共同で、砦の様な、お城の様な住居は、現存で二万もあるそうです。漢民族の知恵が溢れていました。この人たちは、「客家」と呼ばれ、極めて賢い人たちを生んでいます。シンガポールが、アジア一の貿易国となっていますが、その国を導いた李光燿(Lee Kuan Yew)も、中華人民共和国の国家主席であった胡耀邦、最高指導者の鄧小平、台湾の総統の李登輝と蔡英文などは、みなさんが客家人です。

 狭い土楼の中で、揉め事も多かったに違いありません。どう言うふうに、その争いを収めたのでしょうか。きっと、決め事があって、懲罰もあったことでしょう。そこで知恵が求められ、長老たちがいて、調停や和解、また罰則が決められていたに違いありません。人の集まる場所に起こることが、丸く収められる方法があったわけです。

 「世間」は、味方につけると救われますが、敵に回すと大変な目にあいます。その駆け引きを心得なくては生きてはいけませんから、それに苦労しながら、中庸な物の考え方や主張、そして行動を選ぶのです。ですから、「世間知らず」では、この社会の中では生きづらく、いえ生きていけないと言えます。それで、「世間慣れ」や「世間ずれ」をしていかねばなりません。

 それで、「世間通」の人がおいでです。どう見ても、自分は、「世間外れ」していて、なかなか同調できない場面に出くわして、世間に沿わずに生きてきてしまいました。もしかしたら、「我を通す」生き方なのかも知れません。聖書には、世間の人、逃散した人も群れも、みな罪人だと言うのです。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(新改訳聖書  1テモテ1章15節)』

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 自分を「罪人の頭」だと断罪していたパウロは、「罪人を救うキリスト・イエス」、復活されたイエスさまとの出会いを通して、赦されて、その赦しを信じて、全く変えられたのです。「神の子」と、今度はみとめることができたのです。それから、そのキリストを宣べ伝えるために、将来の栄誉を捨て去って、面倒な世間を捨てて、伝道の生涯を送り、最後には、ネロ帝の迫害で殉教してしまったと伝えられています。

 パウロを、急転直下、全く変えてしまった、神の御子イエスさまは、今話題にしている「世間」に来られたのです。ユダヤ人の社会も、世間そのものであったのです。伝統と慣習でがんじがらめの社会でした。その世間のただ中に、いのちの共同体である「キリストの教会」を形作るために働かれたのです。

 そこに一石を投じたのです。「福音」です。その福音に応答して、人は変われるのです。日本の社会も、とかく面倒な世間があったのです。長い宗教的な伝統やしきたりや慣習があって、それを逸脱すると、仲間外れにされて、村八分になったりしてしまうわけです。それと同じ同じユダヤの社会の状況下で、世の伝統や慣習に流されたりしないで、33年半の生涯を生き抜いたのです。

『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章20節)』

 ただの三人では、やかましいだけかも知れませんが、「わたし(イエス・キリスト)の名において集まる・・・三人」の間には、イエスさまがいてくださるのです。そこが祝福の場となるからです。それこそが、真の「キリストの教会」と言えます。

(Christian clip  artsの変貌山の三人、ウイキペディアの土楼、Christian clip arts のパウロです)

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もう大きな秋が

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 「ちいさい秋みつけた」、作詞がサトウ・ハチロー、作曲が中田喜直、編曲が菊川廸夫による、日本の名曲の一つです。

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
よんでる口ぶえ もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
おへやは北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

 もう今年は、「小さい秋」でもいいから、早く、この暑さを追い出して欲しいと、どなたも思っておいでだったのではないでしょう。自然のリズムが狂っている現状を、人間が、この天然自然に、長年してきたことの刈り取り、結果であることを認めねばなりません。

 何十年も前に、アマゾンの密林や、東南アジアに広がる熱帯雨林は、その地域だけではなく、地球全体に大きく寄与して、自然界の均衡を保ってきたのだと言われていました。ところが、原生林や密林を伐採して、警告を無視してきたのです。ことの反対が叫ばれていましたが、その声を無視してきたのです。

 “ globalism(グローバリズム/地球を全体的に捉えていくこと)” の考え方で、地球の将来を捉えるべきでしたのに、自分の国の発展が優先してしまって、今の問題が生まれているのでしょう。工場建設用地にしたり、山を切り崩して都市化を図り、河川の流れを、都市の延長を図るという理由で変えてしまったことなど、自然破壊の結果です。アスファルトをひきつめ、コンクリートの建物を建て続けて、土の地面が消えて行きました。

 地球全体に均衡が取れていたのが、人の都合で変えてしまったことが一番の原因でしょう。子どもの頃、主要道路だって未舗装でした。川は土の土手で流れが守られていました。車の排気ガスも少なく、広場は土で覆われていたのですが、経済成長とともに、どこもかしこも、コンクリートやアスファルトで覆われてしまいました。家も木造だったのが、火災予防との理由で、アスベストやモルタル作りになっていきました。

 私たちの時代の遊び場は、あちらこちらにあった、小川や池、とくに里山が多くありました。そこに分け入って、自然観察や木の実などの採取、虫や小動物の捕獲をしていたのです。スズメを獲るのだって、「バッサリ」や「かすみ網」という道具や仕掛けを置いたりしていましたが、農薬散布が原因でしょうか、今ではスズメが見られなくなりました。虫や動物の糞や尿の排泄物や死骸が、土を生き返らせ、動物が住む場所を提供して、自然のサイクルが機能していたのに、そう言った自然のサイクルが壊れたのです。

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 化学物質、とくにプラスチックが海に流れ込み、巨大な鯨などの胃袋に入り込み、チップ化したり、粉化したプラスチックが、人や魚や動物に体内に入り込んで、機能不全を起こしたりしている現状を嘆いている科学者が多くおいでです。

 目の前の巴波川も、嵐の後の水流には、ペットボトルや食品用のトレイが流れの澱みに溢れているのを見かけます。木の葉や野菜は還元できますが、どんなに水にもまれても、プラスチック製品のゴミはそのままの形であり続け、今では Microsoft chip化した物質の被害が取り沙汰されています。

 自然保護は急務、そう叫ばれても自分の territory だけは保護しますが、公共の場や他人の場では、全く不注意に生活しています。それでも昨日の散歩道にも、運動公園にも、風に吹かれた木の葉は舞い、地の上を転がっていました。吹く風も秋らしく感じられてきた様です。もう「大きな秋」がきているのは感謝なことです。まもなく北風が吹き始めて、自然界が縮こまっていくのでしょう。

(ウイキペディアの里山と落ち葉のイラストです)

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秋明菊

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 近所の家の玄関に咲く、「秋明菊(しゅうめいぎく)」と言う名の秋の花です。 中国大陸から、伝わってきたものだそうです。これは、キク科の花ではなく、アネモネの一種だそうです。下の画像の花は「アネモネ」です。

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(ウイキペディアにアネモネです)

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アジア圏訪問記

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 「写真」、ある街の中華ラーメン店の壁に、一葉の写真が貼られてあります。世界中探しても、そして、ここ日本で見つけようとしても、この手の写真はありません。選挙や宣伝のためではなく、ただ、ラーメンや中華料理を食べた記念に、その店で撮ってくれたものです。

 この街は国でもあり、80%以上の国民が、中華系ですから、写真は、公用語では picture、通用語では照片(zhaopian)と言うのでしょう、そうシンガポールなのです。かつて、「苦力(kuri)」と呼ばれて、中国大陸から出稼ぎでやって来た人たちが多く住み着いて、スラムの様な中国人街を形作ったそうです。

 ここでは英語なんか聞こえません、中国語、とくに福建省からの移民が多いので、闽南语(minnanyu)や福州話が飛び交っているのです。そんな中で、甘肃省(Gānsù Shěng)出身の方がやっている中華料理店で、その店の壁一面に、写真が貼られている中の一葉が、家内と娘と私、そして店長さんが写ったものなのです。

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 長女が贔屓(ひいき)にしている店で、人懐っこいので、友だちの様に店主ご夫妻と交わりを持っていました。英語でです。シンガポールでは、きっと一番の美味しい店で、店主が大陸の中央部の出身で、麺を手作業で伸ばして、伸ばしてを繰り返して細麺にする手延べの様子を、performance してくれるのです。中国でも、これほど美味しい「蘭州(兰州lanzhou)拉面(麺)」や餃子や他の料理は食べたことがありませんでした。

 学校が休みに入ると、娘が呼んでくれて何度も訪ねたのです。一度、市内を散策していた時に、家内が体調を崩して、救急車で運ばれて、国立病院で診てもらったこともあるのです。娘が納税者だからでしょうか、単に旅行の訪問者だからでしょうか、その治療費を請求されなかったのです。それで、すっかりこの国が気に入ってしまったのです。
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 もう一つは、中国語で、榴莲(liulian)と言うドリアンが美味しいのです。街中に、ドリアンだけを売る市場が、繁華街を外れた所にあって、山積みにされてあるのです。その中から、店の方が選んでくれて、独特のナタの様な包丁で割ってくれ、テーブルで食べさせてくれるのです。シンガポールでは獲れずに、タイからの輸入なのだそうで、新鮮で、しっかり熟していて食べ頃の物は、ほっぺが落ちるほど美味でした。

 匂いで嫌われる南洋の果物ですが、味は「果実の王様」で、家内もすっかり好物になってしまったほどでした。このシンガポールでは、公共交通に、これを持って乗れないように、法律で禁止されているのだそうです。

 赤道直下に位置しながら、暑さを感じないほど住み心地の良い街なので、また訪ねてみたいと思うのです。そう、蘭州面やリューレンの味に誘われてしまうからかも知れません。旧日本軍が、北の国境付近から自転車部隊で南下して攻め込んだことで有名です。その戦争被害の monument があって、ちょっと辛い思いもしたのです。

 アジア圏は、そう言った話が多いのですが、戦後は、植民支配を脱したアジア諸国は、日本人の謝罪を受け入れ、戦後の復興の様に驚かされて、経済躍進のモデルの様に思っていてくれるのです。

(ウイキペディアのチャイナタウン、蘭州拉麺、ドリアンです)

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義を愛し行う人を

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『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2章1節)』

 国政選挙、衆議院議員の選挙が、本日、10月27日に投票が行われます。何時も思うのは、アメリカの第三十九代のカーター大統領が、大統領に選ばれた時に、お母さまが、一つの聖書のことばを、息子のジミーに送ったことです。それが、次の聖句なのです。

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書 ミカ6章8節)』

 義に立って、義を行う政治家、誠実な心で政務あたり、謙遜に、世界と一国を治める神と共に歩むことを、このお母さまは息子に願ったのです。信仰者の母の助言を聞く政治家こそ、神が一国を治める者に求めている資質や思いや気構えなのです。カーター大統領は、その主任演説で、この聖書の箇所を引用しています。

 また、アメリカでも、大統領選挙が、来月早々、11月5日に行われます。これからの世界情勢にとっても、極めて重要な選挙になります。日米両国で行われる選挙で、ただに神を畏れ、神の御旨にかなった人材が選ばれる様にと願っております。私たちの持つ参政権の義務を果たそうと思う朝です。

(ウイキペディアのアポロ8号から撮った地球です)

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平和と平安を祈る

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 アメリカのWest coast のRainbow で、次女が送ってくれた写真です。そして家内の散歩の道にタワワに咲き、芳香を放っていた金木犀です。自然界は、香り高く、美しいのです。こんなに美しい地球の上で、人間だけが、どうしてこんなに争い合うのでしょうか。人と人、地域と地域、民族と民族、思想と思想、価値と価値の間に、いつも争いが見られます。

 「平和(平安)」を祈る様に、万物を創造なさった神が願っておいでです。心の中に平和が来ます様に、また、神の都である「エルサレム」の平和を祈ります。さらに住んでいる街、県都、国都、遣わされ街、そして子どもたちの住む街の「平安」を祈っています。そんな日の繰り返しの今なのです。

(ウイキペディアのエルサレム、Rain bow 、金木犀です)

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博多でなくだれを待つのか

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 「待合室」、昔々の物語で、大陸に渡るために、博多の駅で、連れの男性を待っていた婦人が、そこにいました。やり直しの人生を海を越えた地で始めようとしていた様です。ところが最終列車が着いても、待ち人は、そこにやって来る様子がありません。駅長さんが来て彼女に何か話しかけていました。不安の中で、木製の長椅子に座って待ち侘びる顔が大写しにされて、その映画は終わろうとしていました。

 実は、そこに来ようとする直前に、その男性は殺されてしまっていたのです。期待が裏切られ、大陸への夢敗れ、実に悲しいエンディングの場面のセピア色の待合室が、とても印象的でした。悲喜交交(ひきこもごも)、喜怒哀楽、さまざまな人生の場面があるのが、この待合室なのでしょう。

 これまで駅やバス停や港や空港や船着場のベンチに、私も座っていたことが、何度も何度もありました。出雲市駅、高尾駅、上野の何十倍もの広い上海紅橋駅、サンパウロの空港、アモイの港などなどの待合室で、一人ポツンと座っていた自分の姿が思い出されるのです。

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 もしかすると、人生の旅路のターミナル駅の待合室で、だれを、何を、何時かを座って待っているのが、自分の今なのかも知れません。今や乗換を待っている状況にあるに違いありません。どこから来て、どこにいくのでしょうか。

♬ 福音の汽車に乗ってる 天国行きにー(ポッポー)
罪の駅から出ーて もう戻らない

切符はいらない 主の救いがある それでただ行く(ポッポー)
福音の汽車に乗ってる 天国行きにー 🎶

 子育て中、教会学校で、私たちの子どもたちが思いっきり賛美していたのが、この歌でした。出発は「罪の駅」、行き先は「天国」、列車名は「福音」だとあります。罪が赦されて、神の子の身分をいただくと、この始発駅から乗車できるのです。乗車賃は「無料」なのです。先払い、代理払いと言った方が正しいでしょうか。親がではなく、救い主イエスさまが、十字架の上で払ってくださった、《血の代価》によって、その切符を握って、人は赦されるのです。

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 私たちの一番下の子が、『イエスさま、ありがとう!』と泣きながら祈った日がありました。もう今や四十代半ばで、体調不良の親父を気遣って、この日曜日の昼過ぎにやって来てくれたのです。新宿で、お菓子や干し芋をたくさん買って、それを手にぶら下げながらです。もう一つ、医療用ウオッチを持ってでした。いつもは、浅草名物の「草餅」持参なのです。父親同様に親を泣かせた子でしたが、彼の帰っていく姿を眺めながら、この歌を歌っていた日々を思い出したのです。

 二時間ほどいたでしょうか、「赦されること」とか、主の再臨が近い世界情勢とか、日本の罪の根源、日本政治の問題などを話していました。もう、この汽車に乗る準備ができている様です。新幹線やリニヤモーターカーではないのがいいですね。乗車準備は、「罪の悔い改め」のみです。それで、切符が発券されるのです。もう遠くから、汽笛が聞こえて来そうです。東武の新宿行き特急に乗るために帰って行く息子を、ベランダで、彼の母親がジッと見送っていました。

(ウイキペディアの待合所、D51機関車、Christian clip artsのイラストです)

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お米にまつわるお話

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 今秋、まだ真夏の様な暑さの中の米騒動の頃のことです。散歩道の田んぼに、稲穂を垂れて、収穫を待っていた稲を撮ったのが、この写真です。人の思惑一つで、米価が高騰していく現実に、人の浅はかな儲け主義、便乗主義を見て悲しくなりました。  

 実って首(こうべ)を垂れる、この稲の様に、人が謙遜であり、他者を思う心があったら、我欲を張ったりなさらないのでしょう。あの騒動の時にも、きちんと米俵、いえ米袋が並んでいたお店がありました。わが家では、無くなる寸前に、新米をいただき、スーパーの棚から米がなくなったのに気づいたのは、だいぶ経ってからでした。その新米がなくなる頃に、注文しておいた5キロ袋の県内産のお米が届いたのです。

 持て余すほどには持たない、丁度の分で生きてきたので、慌てることも、不足することもありませんでした。ただ、500円ほど米価が上がっていたのです。流通上の問題が原因なのでしょうか。急激な物価高をうんでしまう世相なのです。

 子どもの頃、米は俵に入って、米屋の店頭に積まれていました。ここ栃木の出の文学者の山本有三が、昭和18年(1943年)に、「米百俵」を戯曲として書き上げ、それが何年か前に、再注目されて、学校で教えられる様になったそうです。

 長岡藩が、戊辰戦争で、幕府軍に与(くみ)した結果、長岡の城下町は、長州藩の兵士たちに焼き払われてしまいます。食べるに事欠いた時、支藩の三根山藩から、「米百俵」の寄進がありました。藩の大参事であった小林虎次郎が願ったことがありました。次の様に、長岡市のサイトにあります。

『虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」「この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。」

 教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。

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 それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。』

 お米もお金も、どう用いるかによって、その結果は歴然とします。そんな長岡からは、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、そして海軍の山本五十六元帥などの日本を背負った逸材が輩出されているそうです。

『わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。 それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。(新改訳聖書 箴言3章21~22節)』

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4章23節)』

 知性の豊かさと思慮深さとは、「いのち」と深く関わっているので、それに磨きをかけるのを怠ってはいけないと、聖書は言います。霊的な、信仰上のことだけを求めて、知性を軽視する様には、聖書は言ってません。また感情的になってしまって、思慮に欠けてもいけません。心を、精一杯見張り、見守ることも忘れてはいけない様です。

 それに、この長岡は、花火で有名でもあります。いつか行こうと思いつつも、まだ一度も訪ねたことがありません。河井継之助という人材をうんだ街に、何か惹かれるものがあります。越後は、日本有数の米所で、美味しいご飯が食べられます。

(ウイキペディアの江戸時代の長岡を描いた錦絵です)

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