花や小鳥

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アメリカの北西部に住む次女から、桜とマグノリア(木蓮)が咲いたと、孫娘の写真と一緒に送ってきました。北半球には、もう春がやってきているのですね。さしもの寒冬を追いやる力強い春の息吹が、どこにも溢れている様です。広島の呉からも、「アカゲラ」の便りがありました。好い季節の到来です。

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子ども

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北欧のスエーデンの中学では、こんな事を教科書に記載して、授業で教えているのですね。「社会」の中での《自分》を見つめさせ、どんな背景の中に自分がある事を知る必要があるからでしょうか。マイナスなことだけではなく、「しかし」と記したプラスのことも、人生の様々な経験の中にははあるのです。大切なのは欠けた事ごと、足りない事ごと、経験しなかった事ごとを、どう超えて行くかです。

人間は、ずいぶん《柔軟》にできていて、マイナスを跳ね返して生きていける《強かさ(したたかさ)》を、生まれながらに持ち合わせているのです。だから人間的に不幸に生まれても、幸せになれるのです。竹の様に、ゴムの様に《遡及力》があるからです。私の父や母は、結構厳しい現実の中に生まれてきたのですが、社会性も公共性も持ち合わせた大人として生きていました。

「人の所為(せい)にしない生き方」なのでしょう。3歳児は、『こんな所に置いとくから、ボク転んじゃったんだ!』と言うんだそうです。転んでしまったのは、もう取り返しがつかないのだから、しなければいけないのは、立ち上がって、ズボンのドロを払って、前を向いて歩き始める事です。
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春分

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今日は、「二十四節気」の「春分」です。厳冬だったのが、嘘の様に陽光が暖かくなってきています。北から吹いてくる風は、今日は、結構冷たいのですが、風がやむとポカポカな感じがしてまいります。でも、日本列島は、最後の雪に見舞われている様ですね。シベリヤから張り出す寒気や低気圧が、日本海側や中部山岳に雪を降らせるのでしょう。東京では、桜が開花したそうですが、まだ満開は待たねばなりませんね。

「夏至」になるまで、日一日と長くなって行くので、やはり活動的な季節に突入になります。季節の変わり目、健康を願っております。

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FaceTimeなどで、様々な映像を見る機会が、このところあります。美しい花が咲き始めたり、小動物との交流だったり、世の中の親切や善意ある行為があったり、人の誕生や死にゆく様子などまで、実に多彩です。"ほのぼの"とさせられたり、感動させられることもよくあります。そして、映像を作る技術も色彩も優れています。

そんな中に、「空手」の組手や型(形)の演舞などの動画があります。それを観るのは好きではありません。なぜかと言いますと、幼い<空手少女>の目が鋭過ぎ、気合いが激しいからです。そこには<殺気>や<殺意>が溢れていて、<ゾッ>とさせられてしまうのです。自分の娘や孫娘が、あんな目つきや叫び声をして欲しくないし、世の全ての子供どもたちにも、そんな目や気合いを願いません。

もっと穏やかで、愛くるしい方が、幼子には相応しいのです。妙齢の女性にしてもそうです。日本武道をされる人の多くには、スポーツではなく<戦(いくさ)>の様な、まるで関ヶ原の<戦場>を駆け巡る兵の如き目をしている方が多くいます。そう、天翔ける鷹や鷲が獲物に向ける、あの目です。

藤村が、『君がさやけき目の色も』と詩に詠んだ様に、乙女らには《さやけさ(清けさ/明けさ、と漢字で書きます。目が澄んでいて明るいとの意味です)》をたたえて欲しいのです。母親が、子を慈しんで見るあの眼差しに応答している、幼な子の目の様子です。若い頃に、「松濤館流」という流派の空手をしたことが、私にはありました。でもやめたのです。そこに、先ほど記した様に、<殺意>を感じ、自分の目もそんな風になりつつあったからです。喧嘩が強くなっても、どうってことないのが分かったのです

私の恩師のアメリカ人起業家の一人の方は、実に《優しい目》をされていました。十代の頃は、<街一の悪>で、警察署にマークされた"Teenager"だったそうです。太平洋戦争に、二十歳(はたち)で兵士として従軍し、死線を越えて帰還してから、全く変えられてしまったのだそうです。そして戦時の敵の日本人に、海の様に深い愛を示そうとやって来られ、多くの時間と心を、そのために費やされました。そして、日本で召されたのです。

『目は口ほどにものを言い。』と言われます。人間性や生き方や存在そのものが、目に現れるからです。若い頃は、生意気な目つきをしていたんだろうと思いますが、仕事や子育てで、自分の弱さを知らされていた頃に、街の銭湯に行った時のことです。入浴客が兄と私以外、もう一人のおじさんだけでした。湯船の中で珍しくジッと、私と兄を見て一言、『澄んだ綺麗な目していますね!』と言ってくれたのです。世辞を言う様な知人ではなく、見ず知らずのおじさんでした。その最高のほめ言葉を、今も忘れません。

誰もが、かつて持っていた、濁りを知らない、幼な子の眼差しと心を思い出して、鏡をそっと見ています。

(生まれて間もない頃、まだ歩く以前の初孫の足です)

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はしご

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育った家に、木製の「足つぎ」と言う家具(?)がありました。高い戸棚に置かれた物を取ったり載せたりするための「踏み台」でもありました。また前面には、丸く穴が開けられていて、そこにゴミを捨てられる「ゴミ箱」と兼用として使われていました。父が大工さんに作ってもらった物で、「椅子」にもなる、優れ物の《多目的小家具》と言ったら好いかも知れません。今の様なプラスチック製のものはない時代の定番の小家具でした。

その他に、「梯子(はしご)」が家の外の壁に架けられていました。もう少し高い所を掃除したり、作業するための木製の《道具》でした。こちらに来て、高所の作業をするために使われているのは、「竹製」で、二本の太い竹の節の所に、穴を開けて、より細い竹や木片wを渡して、踏み板代わりにした物で、日本では、あまり見掛けないので、竹の多い、こちらではよく見かけるのです。

実は、昨日、家内の若い友人と私たちで、「梯子した」のです。その竹製の梯子に乗ったのではありません。水餃子屋さんと抹茶甘味処と珈琲店に、次々と入ったと言うことなのです。"デジタル大辞泉"に、『「梯子酒」の略。転じて、いくつかの場所を続けてわたり歩くこと。「映画の―をする」』とある、その「梯子」でした。

私が昨年、腱板断裂で、札幌の病院に入院して、手術とリハビリを終えて、こちらに戻った時に、『《術後の回復》のために!』と、自分のためにお母様に買ってもらった、大事な《肝油ドロップス》を、私に下さった高校生のお母様とでした。もう大学進学を考え始めているとのことで、帰国子女として日本の大学に行くか、こちらの大学に入るか、考え中だそうです。

4人の私たちの子供の進学の時を思い出したことでした。こう言ったご両親の心配や配慮によって、子供は大人になって行くのですね。自分自身、親にしてもらったことを思い出させられたりもしました。こちらでは、空前の"受験ビジネス"が展開されていて、「教育費」は、目の玉が出るほどに高額だそうです。奨学金や推薦や、好い指針が、彼に与えられることを願っている所です。

家内とお母様は「抹茶アイス」、私は「ぜんざい」、美味しかったのです。家内のものを"横取り(ピンハネ)"して食べたのですが、「宇治茶」の本物の味でした。この日本の《微妙な味》が、こちらでも大人気なのだそうです。次は「抹茶アイス」にしましょう。
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狭間

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私が生まれたのは、山深い渓谷沿いの道を通って、昔かの信仰の対象となっていた神社に至る、参道沿いにあった、参拝客用の旅籠の離れでした。父が、その神社の氏子であったからではなく、そこからさらに奥まった場所に、旧日本軍部の軍需工場(戦闘機の防弾ガラス用の原石の採掘をしていました)があって、その場長を拝命した若き父が、家族の宿舎に借り受けていものでした。

山と山がせめぎ合った渓谷の"狭間(はざま)"で、山岳信仰の行われる、山深い神秘的な地でした。そこで生まれて以来、上下左右を部屋に囲まれた集合住宅に住む事が多く、ここ中国でも、九階建てのマンションの一部屋を所有者する方の留守に、依頼されて住み始めているのです。隣家の生活音が四方八方から、k漏れ聞こえてきます。こうなると大草原の一軒家には、"シーン"としてい過ぎて、そう言った所には住めないかも知れませんね。

今まで、結構長く生きてきたのですが、その日々を思い返しますと、三種類の人の《狭間》で生きてきた様に思えるのです。『渡る世間に鬼はなし!』と言われている《善人》、『人を見たら泥棒と思え!』の《良からぬ人》、そして《普通の人》です。もちろん70年もの間に出会った人々を、この三つの枠に押し込めてしまうのは、ちょっと乱暴かも知れませんが。

みなさんにも、おありでしょうか、木っ端や拳で殴り掛かられ、暴言を吐かれ、脅され、策略に遭わせられ、騙され、奪われ、意地悪され、石を投げられ、罵られ、唾を吐かれたこともありました。被害者であったばかりではなく、若くて未熟な頃には、自分が加害者であったのも忘れてはいけませんね。好くないことを受けたのも、そうさせてしまった落ち度が、多分に当方にあったかも知れません。

それに引き換え、助けられ、励まされ、慰められ、力づけられ、赦され、褒められ、与えられ、癒された事の方が、遥かに多かったのです。それがあって、今日の自分があるわけです。

先日、家内が出掛けようとして、余所行きに着替えて、用でベランダに出たら、普段着の時にしか会っていない右隣の家の奥さんが、『ハロー、 很漂亮henpiaoliang/とても綺麗ですね!』と、声を掛けてくれたそうで、喜んでいました。このご婦人と家内は、目を合わせると声を掛け合い、安否を問い合う間柄で、ご主人とお嬢さん夫婦、2人の幼いお孫さんを世話されておいでです。まだ、行き来することはありませんが、好い近所付き合いがあるのです。

過干渉にならないで、ちょうど好い距離を保って関われるのが、一番いいのでしょう。若い友人たちが、私たちにはあって、行き来は結構多く賑やかです。ところが家内はともかく、私の同世代の退職者の男性たちとの交流が少ないのです。娘が、FaceTimeで、『何でも話せる人が近くにいないの?』と言われて、そうだと思ったのです。男は退職すると、こちらでも誰もが篭りがちなのでしょうか。

そういえば、ここに引っ越したばかりの時に、日本語で声を掛けてくれた、日本で働いて、退職後に帰国された方が、この30棟もある小区の中にいますので、近いうちに訪ねてみる事にしましょう。

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手紙

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ロケ地のアフリカから母親に、『拝啓、おふくろさま。僕、元気。』と、毎日の様に手紙を出したのが渥美清でした。『無事だよ!』と、そう知らせたのです。「日本一短い手紙 」を、全国から募集して、それを公表している自治体があります。「丸岡町(福井県坂井市)」です。もう何年も何年もされていて、23年も続いています。"クスッ!"と笑ってしまったり、涙ぐんだり、同じ様な経験もありそうです。傑作ぞろいです。

『おかあさん、
雪の降る夜に私を産んで下さってありがとう。
もうすぐ雪ですね。』
(大阪府 51歳)

『お母さん、もういいよ。
病院から、お父さん連れて帰ろう。
二人とも死んだら、いや。』
(千葉県 44歳)

『あなたから もらった物は数多く、
返せる物は とても少ない。』
(北海道 21歳)

『セーター、編めたので送ります。
素敵なピンクでしょ。
車椅子でも颯爽としていてね。』
(京都府 62愛)

『母さん、米ぐらい自分で買うから、
送ってこなくていいよ。後タオルも。』
(千葉県 21歳)
 
『待ってました、宅急便。
出てくる、でてくる、こんなのここでも売ってるよ!』
(北海道 31歳)

『親父を15越し。貴女の年に後5つ。
妻・子供・孫と生き生き暮らし。
元気な身体を、有難う。』
(東京都 63歳)

『あんなに嫌いだった、せりの佃煮や、ふきの金平が、
食いたいです。』
(東京都 31歳)

『母へ  
秘密家出チケット、送くる。
ウサばらし、夫婦げんかにお役立てを。-東京見物ー 』      
(東京都 27歳)
 
『母さん  
毎日笑って暮らしていますか?
世話になるのは身近な人よ 解っている?』            
(東京都 59歳)
 
『父よりも一品多い弁当と、
「バスケがんばれ!!」の言葉と、
笑顔の迎えありがとう。
(福井県 13歳)

『喰べてもいい 徘徊してもいい 
私を忘れても構わない
母さん 長生きしてね』                     
(福井県 49歳)

『「私だと思って下のお世話をしてあげて」というお母さん
私、いい嫁やってるよ。』
(長野県 53歳)
 
『字、へた。料理、あかん。洋裁、できん。子供 一人。
ひとつも お母ちゃんを 超せなんだ。』
(京都府 43歳)

『知らないうちにかぶってたゆうべのふとんありがとう。』
(京都府 43歳)
 
『何度も同じ話をするお母さん、
嫁や孫は逃げても、私は何度でも聞きたい。』
(大阪府 41歳)

『今日バス停で母さんに似ている人をみた
その重そうな荷物を持ってやったよ。
(大阪府 29歳)

『母上の甘酒、呑みたいです。
シベリアは寒いが元気、必ず生きて還ります。』
(山口県 68歳)

こんな手紙を出してみたくなるのですが、もう父も母もいません。甘酒を作って上げたお母さんは、その手紙を手にして、嬉しかったでしょうね。ネットのメールでは、どうしても味わえない心の交流媒体なのです。

(早春の中国山地の天翔ける「クマタカ(「里山を歩こう」から)」です)
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一世を風靡した歌に、「上を向いて歩こう」があります。御巣鷹山に墜落してしまった、「日航123便」に乗っていて、事故死された坂本九が歌っていた歌です。ニキビが酷かったのでしょうか、デコボコした顔が印象深かったのですが、いつも微笑んでいて、「好漢」でした。可愛い奥さんとの間に、お嬢さんが二人いたでしょうか。父母と一緒に住んだ街の隣にある川崎の人でした。もし存命でしたら、すぐ上の兄と同学年ですから、今年77歳になります。

この「九ちゃん」が歌った歌は、「六」の名のついた永六輔の作詞、「八」が名についた中村八大の作曲でした。アメリカでは、「Sukiyaki Song」と言う題で歌われ、人気を博したのです。この作詞をした背景を、永六輔が語っています。1960年は、「日米安保条約」の条約改定に反対する学生や労働者のデモが激しく行われている時、永六輔も反対の立場をとったのです。しかし、反対運動は押し切られて、条約締結に至ってしまいます。

その言い知れぬ敗北感の中から、仲間たちから除け者にされた中で、この詩、歌が生まれたのだそうです。

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
思い出す春の日 一人ぽっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ 星をかぞえて
思い出す夏の日 一人ぽっちの夜

幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
泣きながら歩く 一人ぽっちの夜

思い出す秋の日 一人ぽっちの夜

悲しみは 星のかげに
悲しみは 月のかげに

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
泣きながら歩く 一人ぽっちの夜

一人ぽっちの夜
一人ぽっちの夜

これを歌った坂本九の性格が明るかったので、作詞者の敗北感を敗走させて、明日に希望をつなげて生きて行きたくなる様な、人生の後押しをする<応援歌>になったのです。でも下を向いて歩いていた息子が、一万円札を拾ったことがありました。交番に届けて、半年後にお小遣いができたこともあったのです。時には下を向いて歩くのも好いかも知れません。

それにしても、「悲しさ」、「惨めさ」、「つらさ」、「哀れさ・と言った感情を、日本人は、特に好む様です。でも、どんな困難や悲嘆でも、笑って超えてきた精神風土が培われているのでしょう。それで、歌曲や演劇などに芸能が、日本では発達してきた様です。

(”wm”による「川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より)」です)
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「アップル創業者スティーブ・ジョブズ氏の最後の言葉」

私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。
  
私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。
   
神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。
   
今やっと理解したことがある。人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。もっと大切な何か他のこと。それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。
   
神は、誰もの心の中に、富によってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。

愛とは、何千マイルも超えて旅をする。人生には限界はない。行きたいところに行きなさい。望むところまで高峰を登りなさい。全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にあるのだから世の中で、一番犠牲を払うことになる。

「ベッド」は、何か知っているかい?シックベッド(病床)だよ。
   
あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。お金を作ってもらうことも出来る。だけれど、あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。
   
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。人生だよ。命だよ。手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。
   
「健康な生活を送る本」

あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。あなたの家族のために愛情を大切にしてください。あなたのパートーナーのために。あなたの友人のために。そして自分を丁寧に扱ってあげてください。他の人を大切にしてください。

スティーブ・ジョブス
1955年2月24日 – 2011年10月5日

(スティーブが多くの時を過ごしたカリフォルニア州の花の"カリフォルニア・ポピー(花菱草)"です)
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生きよ

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今、大韓民国の平昌で、「冬季パラリンピック」が開催中です。体が不自由なみなさんが、とくにスポーツの世界で活躍する姿を見るのは、素晴らしい感動を覚えます。この「パラリンピック」について思い出す事があります。

1964年10月、「東京オリンピック大会」の最終日に、マラソンが行われました。主会場の東京陸上競技場から、「国道20号線(甲州街道)」の調布の折り返し点を往復して行われたレースで、ローマ大会に次いで二連覇で優勝を果したのが、エチオピアのアベベ・ビキラ選手でした。そして3位に入ったのが、自衛隊体育学校の円谷幸吉選手(二等陸尉)でした。両者とも素晴らしい走りを見せ、その盛り上がりは素晴らしいものでした。

この両選手は、次の「メキシコ大会」に向けて準備に余念ありませんでした。ところが体調が思わしくなく、過重な期待感とで精神的に押しつぶされた円谷選手は、メキシコオリンピックの直前に自死してしまいます。私の兄と同年の生まれでしたが、彼の書き残した遺書には泣かされてしまいました。死なないで、後進の指導をして欲しかったので、残念で仕方がありませんでした。

一方、アベベ選手は、メキシコ大会のマラソンに出場しましたが、途中で棄権してしまい、三連覇は果たせませんでした。この大会の半年後に、自動車運転中に事故に遭って、頚椎損傷の重傷を負って、選手生命を奪われてしまいます。親衛隊の衛士であった彼は、8ヶもの入院治療とリハビリから立ち上がり、1971年に、ノルウェーで開催された、「身障者スポーツ週間」の《犬ぞりレース》に参加して優勝を果たしたのです。ところが、1973年10月に、脳出血により病死してしまいます。まだ41歳の若さでした。

この障害を負うという願わない経験の中で、不屈の魂、スポーツ魂が、アベベ選手にあった様に、円谷選手にもあったらと思ってしまうのです。必ず人は死ぬのですから、死に急ぐ必要はないのです。水野源三は、《瞬きの詩人》と言われ、生きている人を激励する多くの詩を残しました。お母さんが、お母さん亡き後は義姉が、五十音表の文字を指すと、《瞬き》で源三が告げて書くと言った方法で詩作したのです。

『死にたい!』と願ってしまう辛い経験は、誰にでもあるのです。『死ぬな!』と、私の愛読書にあります。障碍や失敗、そして恥でさえ負いながらでも、人は生きなければならないのです。失ったものを数える思いから、残された素晴らしきものを数えたら、そこには結構あるのではないでしょうか。『生きよ!』とも愛読書にあります。

ピョンチャン冬季パラリンピックで、参加選手の精一杯の活躍を、地続きの大陸の南方から、願って応援しています。加油(jiayou/頑張って)!

(アルペンスキースーパー複合女子座位で銅メダルを獲得した村岡桃佳選手、円谷幸吉選手の出身地の福島県須賀川市の市花の「牡丹(ぼたん)」です)
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