懐念朋友

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秋は、山菜やキノコの採取の季節でもあります。東京電力の元社員で、現場でお仕事をされた方が、春と秋に、私を連れ出してくれ、送電線の保守点検をされた経験から、春にはタラの芽などの山菜、秋にはキノコを取りに連れ歩いてくれました。家内の友人のご主人の元同僚で、日曜日の忙しい私に合わせて、週始めの月曜日に、友人のご主人は、わざわざ休暇をとってくれました。

腰に「鉈(なた)」を下げ、地下足袋をはいた出で立ちで、退職後なのに、身軽に山を縦横に歩き回られるのです。二十も若い私は、息が切れるのに、この方は、無駄のないプロの歩きをされていました。山の斜面を斜めに登り降りする姿は、軽業師の様でした。こういった人を、“プロフェッショナル”というのでしょうか。日本語ですと、「職人」と言ったら好いのかも知れません。

キノコを見つけると、『これは食べられません!』、『オッ、これは大丈夫!』と教えてくださっての採取でした。きっと山で鍛えた足腰と、肝の座った生き方をされておいででしたから、今もお元気でしょうか。もう随分お会いしていません。そう言った方々が多くいらっしゃって、『まだ元気で生きてます!』とご挨拶をしたくなっているこの頃です。

この方を、紹介してくださった、家内の友人の夫妻のご長男が、家族に、「松茸(まつたけ)」を食べさせたかったのでしょうか、岸壁をよじ登って、岩場に入って採取しようとした時に、足を滑らせて滑落し、亡くなったとお聞きしました。この方は、まだ3歳くらいの頃から、お母さんと一緒に、事務所に来られて、実に可愛い男の子でした。青年期にちょっとグレたのですが、立ち直られて、結婚されて間もなくだったのでしょうか。

お父様の最愛の息子で、グレた時は、よく相談に来られていました。亡くなられて憔悴し切ったお顔をしておいでなのでしょうか。上高地や、乗鞍にも連れて行っていただきました。この方に2人お嬢さんがいて、上の子は長男と同級生でした。下のお嬢さんも、お子さんを連れてよく見えておいででした。お会いしなければならない方々が多くいるのを思い付きます。

一時帰国しますと、結構忙しかったり、しなければならないことの優先順位を決めはするのですが、果たせない訪問が、けっこう多いのです。来春二月には、査証の更新の時期を迎えますが、訪ねたい方が多いのです。次回は、これからの身の振り方に、もう少し熟考を要する様です。70の半ばに年齢が至りましたので、“差不多chabuduo/もうそろそろ“と言ったところかも知れませんが、『知る人ぞ知る!』でしょうね。

「松茸ご飯」や「栗ご飯 」、そして「秋刀魚飯」の匂いがして来そうな、「夜長月(九月)」の初めです。アッ、この「秋刀魚飯」をご存知でしょうか。ある方のお母さんが作って、子どもの頃に食べさせてもらって、美味しかったそうで、作り方を教わって作ったことがありました。

 

炊いたご飯の上で、秋刀魚(頭と尻尾を切り取って)を蒸して、醤油・酒・昆布などの出汁(だしじる)の味付けご飯なのです。食べる前に、骨をとった秋刀魚を、ご飯の上に戻すのですが、生臭くなくて美味しいのです。”クックパッド“に作り方があります。海から遠い、中部の内陸部でのご馳走だったのでしょう。是非お試しください。難しい料理ではありません。「怀念朋友huainianpengyou/友が懐かしい」の秋です。

(”白ごはん.com”の「松茸ご飯、“クックパッド”の「秋刀魚飯」です)

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会津


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一度訪ねてみたい街の一つが、「会津」です。栃木の友人宅にいました時、東武鉄道を利用したのです。特急に乗りますと、「会津若松」に行くことができたのです。その時は、行く機会があったのですが、足を延ばすじまいでした。。

この会津の「白虎隊」を歌った歌が、昔ありました。作詞が島田磬也、作曲が古賀政男で、1937年(昭和12年)に発表され、戦時下で、戦意高揚の歌だったのでしょう。

戦雲晦(くら)く 陽は落ちて
弧城に月の 影悲し
誰が吹く笛か 識らねども
今宵名残りの 白虎隊

紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞(とりで)
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊

〜詩吟〜
南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨(ほうこう)す
宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃(たお)る

飯盛山の 山頂(いただき)に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊

戊辰戦役(ぼしんせんえき)で、官軍の攻撃に、鶴ヶ城を死守していたのが「白虎隊」でした。藩黌(はんこう)の「日新館」で学んでいた少年たちが、『これまで!』と、飯盛山で自刃したのです(16〜17歳の紅顔の19人の美少年たちでした)。1868年、慶応4年、明治元年の夏のことでした。「潔い死」と言われるよりも、「白旗」を掲げて、父や母や弟妹のために、恥を忍んで生き残って、その使命を果たす責務が、彼らにはあったのです。

「死の美化」をするには、あまりにも悲し過ぎます。太平洋戦争末期、多くの青年たちが、死んで行かれました。やがて終わる戦争なのですから、日本の復興のために生き残って欲しかったのです。私の級友たちの、父を慕う思いが、今も蘇ってきます。「生き恥」などが、再び、叫ばれることのないことを心に念じます。

(会津若松市の市花の「あおい」です)

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秋刀魚

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佐藤春夫に、「秋刀魚の歌」があります。和歌山県新宮市が、佐藤春夫の出身ですから、七輪に網をのせて焼いたサンマに、大根おろしに醤油をかけて、それで食べる父の家の食べ方とは違って、「青いみかん」と言うのは、"カボス”で食べるのですね。私には、ちょっと“異端的”ですが、美味しかったのでしょう。次のような詩です。

あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

秋刀魚が、「塩っぱい」よりも、内臓の苦味が強く、私には感じられるのですが、冷凍物を一年中食べられるこちらでは、この時季の祖国の《秋の旬の味》とは、だいぶ味覚が違います。夕方になると、隣近所、いっせいに、モクモクと煙をあげ、七輪に団扇で風を送って焼いていた、あの日々の光景が懐かしく思い出されます。

大人になって、回転寿司に連れて行ってもらって、ご馳走になった時、この秋刀魚を刺身で食べられるのを知って、それが病みつきになってしまいました。でも、《焼き秋刀魚》は、《目黒の秋刀魚》ならずとも、下々の私でも、季節感が楽しめる大衆魚を、炭で焼いた味は最高です。何だか、もう涎(よだれ)が垂れてきそうです。

だいぶ複雑な所帯の佐藤春夫が食べる秋刀魚は、塩っぱいのには、離婚、そして道ならぬ恋の背徳的である身ゆえに、納得がいきそうです。まだ愛だ恋だのに夢中になる前、この秋刀魚を焼いた煙が、秋の夕暮れの練習中のグランドにたなびいていて、厳しい練習でお腹も空いて、ちょっと空きっ腹には、酷な匂いが立ち込めていた、十代の中頃を思い起こしもします。

(目黒区 目黒のSUNまつり(目黒区民まつり)で、秋刀魚を焼く様子です)

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ふるさとの

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9月になったら、自然反応のように、歌の文句が口をついて出てきました。小学校の音楽の時間に歌った、「紅葉(もみじ)」です。作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、実に懐かしい歌ではないでしょうか。

1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの 裾模様(すそもよう)

2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦(にしき)

作詞家の高野辰之は、長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の出身ですから、信州の秋の風景を詠んだのでしょう。私の故郷も、中部山岳の山の中で、栗の実を拾ったり、アケビを採ったり、柿をもいだり、魚影を追ったりする兄たちの<追っ掛け>をして、付いて回っていました。 枯れ草を踏みながら、山の中に入るのが楽しみでした。

この高野辰之は、「ふるさと」の作詞家でもあり、同じく曲も岡野貞一が付けています。

1 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

2 如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

3 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷

もう二度と帰らない幼い日なのですが、思いの中には鮮明に残されているが不思議でなりません。何か一コマ一コマが残像のように蘇ってくるのです。山に基地(隠れ家)を作ったり、街中に越してからも、里山の近くの地面を掘って、地下基地を作ったりしたこともありました。防空壕のに中に入っては肝試しをしたでしょうか。

父や母の顔が思い出されてきます。去ってしまった過去なのに、どうして、こんなに記憶が鮮明なのでしょうか。肩車や羽交締め、キャチボールをしてくれた、若い父の姿が思い出されます。ちょっと気取った顔をして、街に買い物カゴを下げて出かけて行く母の姿も見えるようです。

やっぱり、故郷は、人との深い関わり、運命共同体の家族との生活の記憶なのでしょうか。両親がいて、兄たちや弟がいての故郷なのでしょう。上の兄も、もう二年ほどで《八十》ですから、光陰は、まさに矢の如しです。かく言う私も、その後を追っかけているわけです。あんなこと、こんなことがあっての今日なのです。

(久し振りに陽を浴びた朝顔の花です)

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サギソウ

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まるで「白鷺(しらさぎ)」が羽を広げて、飛ぶような形の花ですね。[HP里山を歩こう]が配信くださった「サギソウ」です。東広島市の湿地に咲いているのだそうです。近くには、豪雨の影響ようで山崩れの箇所も、そこかしこにあるようです。
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ただ美しさだけを見せるだけではなく、自然には、こんな破壊する面もあることを、肝に命じておかなければなりません。人の心の荒廃と、自然破壊には関係がありそうに思えてなりません。でも、こんなに美しい花をあかせてくれる自然なのですから、楽しませて、喜ばせてもらう私たち人間は、自然の保全の努力が必要ですね。

好い日曜日をお迎えください。

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二百十日

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猛烈な暑さの八月が終わり、九月を迎えました。心なしか、ちょっと秋を感じられそうです。今日は、「防災の日」です。子どもの頃、地震が起きますと、父が大声で、『玄関を開けろ!』と叫んでいました。火の手が上がって、家から出られなくなったら大変なので、家族の身を心配してそう言ったのです。1923年9月1日、横須賀に住んでいた父は、旧制中学の一年で、関東大震災に被災しているのです。よっぽど怖い経験をしたのでしょう。

“ウイキペディア”は、『190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。』とあります。

また今日は、「立春」から数えて「二百十日」です。“日本の行事・暦”に、『この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などといわれています。』とあります。今まさに、「台風21号」が、太平洋上にああって、本州に向かって北上しつつあります。今季、最大級の勢力で、気象庁は注意を呼びかけています。

今年は、いまだかつてなかったほどの猛烈な高温の日が続きました。今日のニュースで、乳牛が、暑さで乳を出さなくなっていて、原乳が不足していると言っていました。それに、台風の発生数も異常に多く、危険降雨量も記録し、被害が多くの地で発生しています。高音は収まりそうですが、台風はまだまだ発生しそうな気配で、予断を許しません。

思うだけで実行していないのが、災害時の「非常持ち出し」の備えです。リストだけは持っているのですが、今住んでいます街では、地震がないので、現実味に乏しく、実行していません。7年ほど前でしたか、台湾で起こった地震の揺れを、友人の7階の家にいて感じた、ただ一回だけなのです。ですから、危機意識を覚えないで暮らしてしまっています。

でも、『備えあれば憂いなし!』で、大き目のザックに、家内と自分の2人分の備えをしておくべきですね。さあ、どんな九月になるのでしうか。でも、この数日、夜間の最低気温が24℃と、窓から入り込む風、射して来る陽の光に、夏の衰えが感じられそうです。好い九月をお過ごしください。

(イガに入った栗の実、秋の味覚です)

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昨日、大阪の有名店の「お好み焼き」を食べようと、家内に誘われ、家内は若き友人もお誘いして、その店で待ち合わせして、出掛けました。この街の人たちの味覚が、日本人に似ているのだそうで、街の中心地のデパートのワンフロアーに、横浜ラーメンとか、銀座の寿司店とか、ちゃんこ鍋とか、ステーキ屋とか、ケーキ店が暖簾を出しているのです。

プロの投資家と、プロの外食産業が、意見を一つにして出店したのですから、勝算があってのことなのでしょう。雨の日の週日の昼、人は親子ずれが数組いましたが、どこの店も同じ様でした。店員さんに聞きますと、週末は繁盛してると言っていました。日本人が10人も、その事業展開のためにやって来ている様です。

夜の部のステーキが、一人前で1200元(1元は16円強)だと、店の外のメニューにありました。中国の街で、そんな高価な夕食をとる人たちがいると目論んでるのですから。大変驚きました。すぐ上の兄が、そんなステーキをご馳走してくれたことがありましたが、ここでは、指を咥えるだけで終わりそうです。

もう「柚子youzi」が、果物屋さんに店頭に並び始めました。やはり秋の到来なのでしょう。長崎出身の隣家の方が、日本にいた時に、『故郷から送ってきましたので!』と頂いたことがありました。そう言えば、「栗」も見かけました。

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詩人の茨木のりこさんの「わたしが一番きれいだった時」は、多くの教科書に取り上げられた、とても有名な一編の「詩」です。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いたtg
フランスのルオー爺さんのように ね

悲しく辛い戦争体験を、詩を詠んで回想されています。私も、こちらの大学の「作文」の授業で、この詩を読んでもらいました。そして、学生のみなさんに感想を書いてもらったのです。特に詩に最後にある、「ね」が、どんな意味を持っているのかを書いてもらおうとしました。3年生で、二年半ほど、日本語を学んだだけのみなさんには、ちょっと難しかったのですが、意味をしっかり捉えた学生さんもいました。

「美しくあるべき青春」、「清くあるべき青春」、「夢多き青春」を、戦争で傷つけられ、奪われたのは、随分と悔しかったことでしょう。戦争体験と、19歳で迎えた敗戦、戦後の厳しい時代を生きた体験を、茨木典子さんを始め、多くのみなさんがされ、そこから、この日本は立ち上がったわけです。

画家のルオーが、お爺さんになって、「凄く美しい絵」を描いたように、過去の辛い経験があっても、人は美しさを求め、表現して生きられるのだと、茨木のりこさんは訴えたのでしょう。「美しく逞しく」、年配者だって生きていけるんですね。私の愛読書に、「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」とあります。八月が行こうとしています。

(ルオー晩年の作品で「たそがれ」です)

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回顧

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七十数年の生涯で、何だか今が一番充実している様に感じるのです。アルバイトに明け暮れていた学生の頃も、子育てしていた時代も、アメリカ人起業家かgら、責任を任されて従事した仕事も、自分としては、力を抜くことなど、どの時もありませんでした。

学生の頃、夏前から毎年やったのが、牛乳工場の市乳部で、製造部からコンベアーで送られてくる牛乳の木箱を、冷蔵庫の中で積む作業でした。様々な種類の牛乳、フルーツジュース、ヨーグルトなどが送られてくると、空いたスペースに、翌朝の搬出が容易になる様に、積んで行くわけです。『来年も来てくださいね!』とプロ顔負けの仕事をしてくれたと、褒めててくれた部長が、そこにいました。

子育てのために、月2回の床清掃の仕事を、スパーマーケットから請け負って、20年近くしました。午前零時までの営業店で、11時過ぎに開始し、朝七時開店に@間に合わせての店舗の床全面の掃除でした。床を、ピカピカにするワックス仕上げでした。時間に追われての作業は、緊張の連続でした。帰宅した子どもたちは、よく手伝ってくれました。系列の店も頼まれたのですが、自分の容積をわきまえて断ったり、他店の掃除も頼まれたりでした。多くの人に助けて頂いた年月でした。

アメリカ人の起業家から受け継い仕事は、26年、その前の助手時代を合わせますと34年間、従事しました。その仕事は、家内との共同で従事したのですが、大変でしたが、喜びも多くありました。年に二度くらいでしょうか、月曜日に、子どもたちを学校に送り出して、隣県の入浴施設に出掛けて行って、帰りに、焼肉を一緒に食べたのが、とても意味のある息抜きの時でした。それにテニスの交流会に出掛け、英気を養ったのも宝物の時でした。

そして不思議な導きで、ここ中国にやって来たのです。来た当初、出会った方の紹介で、大学の日本語科の学生に、日本語を教えながら、こちらの事業のお手伝いをさせて頂きました。そして今日を迎えています。学生のみなさんと過ごした時も、私の宝物です。昨夕も、家内と出掛けて、頼まれた仕事を終えて九時半頃に帰宅しました。

多くの人が、このお借りした家にやって来ては、相談に乗ったり、アドバイスをしたりしています。家内は、日本語を学びたいと言う子どもたちに、今は、週に2クラスを教えています。ご婦人たちが訪ねて来て、一緒に時を過ごすことも多くあるのです。

本来なら、今頃は孫のお守りとか、茶飲み友だちと時を過ごすとか、趣味に生きているのでしょうけど、今なお、すべきことが与えられているのは、この上もない喜びであり、充実の心境です。急(せ)かされないし、プレッシャーはないし、力を抜いて生きていられるのですから、好い老いを生きられているのだと、在華満十二年を迎えて感謝でいっぱいです。みなさんに助けられて、生きてこられた年月を思い返しております。。

(今では綺麗に整備されている竹芝埠頭、ここでもアルバイトをしました)

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花盛り

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この2日ほど、エアコンのスイッチを入れないで、過ごせるほど、凌ぎやすくなってきました。夜間の暑さがなければ、快適なので、さしもの酷暑も敗走していきそうです。それでも、11月までは日中は暑い日がありますが。

今朝も、ベランダの朝顔がたくさん開きました。

今日も、断続的に強い雨降りですが、大家さんが持っている、除湿機が、大いに役に立っていいるのです。2つあるトイレの1つに、それを入れて、洗濯物を、縦横にセットした"ツッパリ棒"に掛けて、干しています。半日ほどですっかり乾いてくれます。雨の多い季節に、いつも日本でやっていた方法です。トイレの広さと密閉性がちょうど好いのです。

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