様々な秋

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 日曜日の朝の「日の出」、筑波山も見えています。ベランダでまだ咲き続ける「あさがお」、8月から一輪一輪と咲き続ける「サンパラソル」、土曜日に息子が訪ねて来てくれ帰り道のうずま公園で撮った「金木犀」です。

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ありのままの闘魂

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 1948年に、作詞:吉川静夫、作曲:上原げんと、唄:津村 謙の「流れの旅路」が世に出ました。ラジオから、しっきりなしで聞こえてきたのです。歌詞の歌い出しの印象が強かったので印象的でした。

紅いマフラーを いつまで振って
名残り惜しむか あの娘の馬車は
遥かあの丘 あの山越えて
行くかはるばる 流れの旅路

旅の一座の 名もない花形
ビラの写真の さみしい顔よ
遥かあの町 あの村過ぎて
行くかはるばる 流れの旅路

紅いマフラーは 見るのも辛い
別れ惜しんだ あの娘がいとし
遥かあの空 あの星見ては
行くかはるばる 流れの旅路

 きっと戦争で失ったものの中に、「色彩」があったように思うのです。物心のつき始めた頃、そんな幼い日を思い出します。灰色か黒の一色の社会だったのではないでしょうか。ズボンも上着も下着も、黒か白だったでしょうか。時代が暗かったし、テレビもスマホもなかったのです。でも自然界にある色だけは、まさに天然色だったのです。

 そんな頃に、「赤いマフラー」を振る女性の登場する歌が流行って、まだ就学前のわたしの思いの中に、強烈な色彩が飛び込んできたのです。無色の世界に、明るい色が差し込んできたような思いがあったんだと思います。「赤い靴」を履いてた女の子も、「赤いリンゴ」に唇を寄せる歌も、いっきに、日本の社会に色が回復されてきたのです。

 そんなことを思い出させたのが、アントニオ猪木でした。日本のプロレス界を引っ張ってきた人です。いつの頃からでしょうか、赤いマフラーをなびかせて、「闘魂注入ビンタ」をしていました。自分とは一才歳上で、家内の兄と同じ、ブラジル移民で、同じような苦労をしたことでしょう。

 その彼が、昨日、亡くなられたとニュースが伝えました。われわれ世代は力道山、次の世代はジャイアント馬場、そしてアントニオ猪木だったでしょうか。行動が大げさで、国会議員になったり、北朝鮮になんども出掛けたりしていました。

 病んだ後のこの人の、在り方が素敵だったのではないでしょうか。輝かしい過去、日本を興奮させた人気、鍛えた肉体、フアンを喜ばした performance 、次に何をしたり言い出すかが期待できた、そんな人が、病気で変化していく自分を、mass media に露出したことが、すごく勇気があるのではないでしょうか。

 病んで、衰えていく自分の姿を見せたくない心理が、普通に働くのに、彼は恥じず、動ぜずに、カメラの前に、《ありのままのご自分》を置き続けたのは、素晴らしい生き方、そして終わり方だったのではないでしょうか。映像でしか知らない人ですが、病んでいる人にも勇気を与えたに違いありません。

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金木犀の花のかおる朝に

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 『恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。(詩篇8510節)』

 いつの時代でも、どこの国でも、自分の子や孫に、召集者は「赤紙(陸軍省が送付した召集令状の俗称です)」を送りたくないのです。昔、「一銭五厘(明治32年の葉書代で昭和12年からは二銭でした)」だったそうです。わたしの叔父は、これで南方に遣わされ、戦死しています。わたしの友人たちのお父さんも、行って帰らず仕舞いでした。帰らない可能性があるなら、自分の子や孫には、情が動いて出せなかったのでしょう。でも余所の子には、代わって行ってもらっても平気だったのだそうです。

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 そんな身勝手さや抜け道が罷り通ってしまった時代でした。今だって、これからだって、応召を促す「赤紙」を、彼らは理由をつけてもつけなくても、自分の子や孫には出しません。そんなことをして疚(やま)しくなかったのでしょうか。余所の子や孫は、行って当然なのです。

 ロシアでは、おおがかりな「予備役招集」が、有無を言わせずに行われ、ウクライナに派兵しようとしています。無謀な戦争を回避するのが政治の責任を負った者であるのに、そうできない狂気に驚かされます。いったん転がり出すと、歯止めが効かないことが問題のようです。

 平和教育を受けた私たちの世代は、それを希求して、二十世紀の後半から生きて来ました。あの悲惨な悪夢から覚めたと思った国々が、過去に舞い戻るのは残念で仕方がありません。わたしたちの国でもあるのでしょうか。それでも、『地に平和があるように!』と祈る、金木犀の匂いの漂う朝です。

 今日は、10月1日、中国では「国慶節」、「春節」につぐ、国民総移動の祭日です。その前日、ここ栃木市では、『ドスン!』と地が揺れて、震度4の地震がありました。elevator が緊急停止していましたが、今朝は動いています。

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主われを愛す

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 子育て中のわが家に、「案山子騒動」の一事件がありました。家内の次姉家族が、グアム島に住んでいた時に、家内のすぐ上の兄に誘われて、わたしたちの上の子二人を連れて訪ねたことがありました。下の子たちはまだ生まれていませんでした。当時、グアムのアメリカンスクールの校長を、義姉の主人がしていたのです。その滞在中にアメリカ領事の家で、” Festa “ があって、『ご馳走が出るので、みんなで出かけよう!』と言って、着いたら、皿の上には、ほとんど残っていなかったので、よく覚えています。

 それは46、7年前のことでした。急に話が決まって、帰り際に、わたしが提案して、義姉の次男を日本に連れて帰って来たのです。領事館で義姉が働いていたので、急遽、Visaの発給をしてもらうことができたわけです。

 それで、町の教育委員会にお願いして、近くの小学校に編入でしょうか、留学させてもらったのです。日本語など皆目できない小学校2年生ほどの甥っ子は、泣いたり寂しがったりしないで一学期間ほど、日本人の子どもたちと机を並べて学んだのです。

 隣家に同じ小学校の上級生がいたので、集団登校をしてもらったのです。よく頑張った Little Yankee でした。秋のことでした、私たちの上の娘を喜ばせたくて、お土産を持って帰って来たのです。何をかと言いますと、田んぼの中の「案山子(かかし)」でした。説明足らずで、わたしは叱ってしまったのです。でも彼には、その叱られたことが納得できずに、ちっと混乱してしまったようです。

 そんな happening のあった子が、大学に行く準備のために、アメリカ軍に従軍し、当時起こっていたアフガニスタン戦争に従軍したのです。もちろん、合衆国国民としての責務も感じていたのですが。その戦いの経験から、戦争終結後に、精神的な後遺症で、多くのアメリカ兵の若者が苦しんだのですが、彼は、一緒に従軍した弟と共に、無事に帰国して大学に進んだのです。

 砂漠の戦地では、弟の無事を願って、戦火の下をくぐり抜けて、無事を、兄弟で確かめ合ったのだそうです。義姉から、激戦の中にあって、生死が危ぶまれている息子たちのために、祈りの要請がありました。その子が、結婚して親になり、今は、老いて癌に伏せてる母親のそばにやって来て、その母の最後を見守っているのです。

1 主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
(くりかえし) わが主イェス わが主イェス
わが主イェス われを愛す

2 わが罪のため さかえをすてて
天(あめ)よりくだり 十字架につけり
(くりかえし)

3 みくにの門(かど)を ひらきてわれを
招きまたえり いさみて昇らん
(くりかえし)

4 わが君(きみ)イェスよ われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
(くりかえし)

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 今や終末期の緩和治療をしている姉に、今日は家内が電話を入れました。その甥が、枕元で母親の最後に立ち会おうとしていたそうです。もうことばは発することができない状態でも、電話の呼びかけに応答するのを聞いて、幼い日に覚えた讃美歌、「主我を愛す」を、家内が賛美をしたのです。もちろん義姉は一緒に歌えませんでしたが、その賛美に応答していたそうです。

 八十五になる自分のすぐ上の姉の耳元に、スマホを寄せてくれる甥がいてくれたそうです。せめても、自分の姉に、今の自分がして上げることは讃美することだったのでしょう。共にイエスさまを、「救い主」と信じ続けて来た姉に、助けられ、励まされた妹としてできること、天に送ることばで、讃美を歌ったのです。

 獨協医科大学病院の病棟で、余命半年で、家内が苦しんでいた時に、従兄弟の助けで、この姉が家内を見舞ってくれたのが3年半前だったのです。寝ていた家内が、何かを感じて目を開けたら、姉が自分を見守っていたのだそうです。まだ姉が元気だった頃でした。でも、同じように病んで今があります。素晴らしいのは《永遠のいのち》の約束を信じていることです。平安のうちに召されるように、わたしも祈っています。主の御元に行ける望みがあるからです。

(「讃美」のイラスト、「義姉の母校(都立大泉高校)への道」です)

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高知県

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 1959年(昭和34)に、「よさこい節」を歌詞に入れた、「南国土佐を後にして」」と言う歌が、一世を風靡しました。作詞が武政英策、作編曲が武政英策、歌がペギー葉山でした。

 華南の街に住み始めて、数年後、一人の中学生が、師範大学の教員住宅のわが家を訪ねて来ました。彼が、日本語を上手に話すので驚いたのです。日本のアニメが好きで、それで日本語を覚えたのだそうです。実に流暢に話をしていて、彼のはアニメの会話ではなかったのです。市内の百貨店の地階にできた日本ラーメン店(熊本拉面と銘打っていました)に、案内してくれました。

 その頃、高知県にある高校の校長先生と秘書の方が、市内のアメリカ系のホテルに来ていて、紹介してくださった方がいて、お会いしたのです。このお二人と親しくお話をしてる間に、この少年の留学の話が持ち出されました。共通の知人のいる校長と、話が合ってしまい、『私が面倒をみましょう!』と言ってくださり、翌春の留学が決まったのです。

 親御さんが来れないので、前学期が終わって、休みに入って帰国中のわたしは、彼の入学式に代理出席したqのです。式の前日に着いたわたしは、竜馬空港でレンタカーを借りて、訪ねたかった、大山岬を訪ねました。そこは万葉集研究者の加持雅澄の赴任地だったのです。そこに、彼が詠んだ短歌が、碑として建てられてありました。

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あきかぜの福井の里にいもおきて安芸の大山越えかてぬかも

 この短歌が刻まれているのを「愛妻之碑」と呼んで、土佐の海の波打ち際に立っていました。鹿持雅澄「は、高知藩の最も下級の「徒士(かち)」と呼ばれた武士でしたが、50年の歳月を万葉研究に捧げて。「万葉集古義」をまとめ上げています。赴任地から、高知城下にいる奥方を思って、一首詠んだのです。

 もう少し、高い防波堤の際の道を車で行くと、 「よさこい節」に謳われた室戸岬がありました。

土佐の高知の
はりまや橋で
坊さんかんざし買うを見た
ハアヨサコイヨサコイ

御畳瀬見せましょ
浦戸を開けて
月の名所は桂浜
ハアヨサコイヨサコイ

土佐は良い国 南をうけて
薩摩おろしがそよそよと
ハアヨサコイヨサコイ

西に竜串 東に室戸
中の名所が 桂浜
ハアヨサコイヨサコイ

思うて叶わにゃ
願かけなされ
はやる安田の 神の峰
ハアヨサコイヨサコイ

言うたちいかんちゃ
おらんくの池にゃ
潮吹く魚が泳ぎより
ハアヨサコイヨサコイ

 律令制下、ここは南海道の土佐国と呼ばれ、山内一豊(やまのうちかずとよ)から幕末まで、山内氏の統治が続く土佐藩、その他に、土佐藩の支藩の中村藩、土佐新田藩がありました。

明治以降、高知県と呼ばれ、県都は高知市、県花はヤマモモ、県木はヤナセスギ、県鳥は八色鳥(やいろちょう)、人口は68万人です。

 中学の時に、田宮寅彦の「足摺岬」を読んで、敗戦後の大学生の姿や生き方を知って、ずいぶん複雑な思いをした覚えがあります。結核を病んで、世をはかなんだのでしょう、死のうと思って、足摺岬に行くのです。旅が長かったからでしょうか、病状が悪化して、泊まった宿で伏してしまいます。宿を同じにした遍路の老人や旅の商人たちが、伏せる学生を甲斐甲斐しく世話をするのです。自殺の決心がくじけて、思い直す、そんな心の動きが描かれていました。

 学問は、人を救わないが、人の愛や助言が、自殺の決心を挫くのを知らされたのです。自殺願望を持つことなく生きて来られたわたしは、足摺岬に行こうとは考えませんでした。ただ断崖絶壁の映像を見たことがあり、あんな寂しい最果ての地で死のうなんて考える気持ちは理解できないままです。

 時間があったら行きたかったのは、「最後の清流」と言われている四万十川でした。川のせせらぎを聞き、その水で生湯を使ってもらったわたしは、今も、川辺に住んで、なかなか離れられないまま年を重ねてしまいました。

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 さて、土佐と言えば、坂本龍馬ですが、あまりにも有名なので、ここでは避けて、日本人で初めて蒸気機関に鉄道や蒸気船に乗り、アメリカへに最初の留学生であり、「ABCDの歌」一本に紹介した人物、ジョン万次郎(中濱万次郎)の紹介をしてみましょう。

 土佐の「いごっそう」で、難破船の炊事補佐の14才の文字も書けなかった少年が、アメリカで学び、帰国後は、幕府の旗本の身分を与えられ、東京大学の前身の開成学校で、英語教授になっています。

 自分の前に開かれる人生に展開に、気分の前にやって来る波に乗じて、生き抜いた人だったのです。驕り高ぶることにない謙虚な人だったそうです。貧しい人には、よく施しをしたようです。『若しも此人をして総理大臣の地位に当らしめ政府の全権を任せたらんには、国家百年の長計は兎も角も、踔励風発、満前の障害物を一掃して一時天下の耳目を一新するの快断、必ず見る可きものありしならん。』と、福沢諭吉に言わせたほどの土佐人の後藤象二郎を、土佐藩校で教えた人でもありました。

 薩長の影に隠れたのですが、秀逸な人材を輩出した県でもあります。桂浜の高台に立って、太平洋を眺めた時、娘たちのいるアメリカ大陸が、目の前に見えるようでした。九十九里の海岸線を思わせるような土佐の海は広かったのです。

 息子が、河内からの帰りに、「鰹のたたき」を買ってきてくれてことがあって、じつに美味しかったのです。大山岬ヘの途中にあった道の駅で食べ鰹のたたたきも美味しかったのです。

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一匹の虫が

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 長くソ連の指導者であったスターリンの最後の様子を思い出すと、独裁者の末路というものが、権勢を思うままにし、大粛清を行った者の最後の姿が、当然と言えば当然、あまりにも惨めだと思ってしまうのです。

 独裁者の常で、暗殺に怯えたこの人は、クレムリンの中に、同じ形の寝室をいくつか持ち、どこで寝るかは、就寝直前に、自分で決めていました。枕を高くして眠れなかったのでしょう。1953年3月2日は、いつもと違っていました。なななか起きて来なかったのです。どこで寝るかを隠して、夜を怯えながら過ごし、癇癪持ちですから、眠りを妨げたら、どんな仕打ちをされるか恐れた側近は、寝坊と判断して、起こしませんでした。

 ところが、夜中に脳卒中を起こしていたのです。昨夜は、フルシチョフらと徹夜の夕食を摂って、就寝が遅かったこともあったそうです。もし早く起こして、処置が早かったら、助かったかも知れませんが、四日後の3月5日に、74才で死にました。ベッドの中で死んだのは、独裁者としては不幸中の幸いだったかも知れません。

 この人の死後、クレムリンに半旗が翻りました。すると、電話がクレムリンに入ったのです。その半旗を見た市民からです。『どうして半旗が掲げられているのですか?』と問うと、『スターリン閣下が死んだからです!』と答えたのです。同じような電話が、同じ人から何度も入って聞く度に、『スターリン閣下が死んだからです!』答えて、ゴウを煮やした係官が、『どうしてお前は何度も同じこと聞くのか?』と聞くと、『何度聞いても嬉しいからです!』と答えたと、そんな笑話が残っています。

 どの独裁者も同じなのですが、独裁者ヒットラーにも、暗殺計画が、何と42回もありました。ヒットラーに反対した告白教会の牧師のボンヘッファーが、その暗殺計画に、義兄との関わりの中で加担したのです。その計画は未遂に終わりました。残されたメンバーの日記の名簿の中に、ボンヘッファーの名があって、逮捕されます。

 組織神学を教えたボンヘッファーは、『汝殺すなかれ(「殺してはならない。(出エジプト2013節)」』を知っていました。その殺人という罪を、ボンへッファーは免れることになるのですが、1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で絞首で処刑されます。彼の著作の中に、「主に従う」がありますが、主のおことばに従い得たのは、神さまの憐みであったのだと、わたしは思っています。

 ウクライナにも、中国にも、日本にも、〈二十一世紀のボンへッファー〉がいるのでしょうか。独裁政権に、暴力によって対峙し、対決しようと考える信仰者や伝道者がいるのでしょうか。昨日、「使徒行伝(使徒の働き)」を読んでいましたら、次のようにありました。

 『定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。(使徒122123)』

 このヘロデは、アグリッパー一世のことで、イエスさまの弟子のヤコブを殺害し、ペテロを殺害しようとしたのですが、み使いの介入で、ペテロはその難を逃れ、奇跡的に牢から脱出しています。教会を迫害した殺人者の最後を、「虫にかまれて」絶命したと、聖書は記録して伝えています。

 いのちの付与と収奪の権威を持たれる神さまは、人に殺人を禁じておいでです。どんな悪人でも殺人者でも独裁者、殺すことを許されません。でも、「一匹の虫」がかむのは許されるのです。でも、どう言い訳しても、人を殺してはなりません。神を畏れずにはおられない、わたしたちなのです。

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兵隊蟻

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 ある人から、”maple syrup“ を頂いたことがありました。娘婿のお母さんからだったかも知れません。なんとも言えない甘さに、砂糖の甘さしか知らなかったわたしは、すっかり好きになってしまったのです。pancake にかけて食べると最高な味わいです。カエデ🍁の樹液で、北米産の物が品質がよいのだそうです。

 あるところで、先日、陽陰の椅子に座って、そばにある木を見ていましたら、蟻が登り下りしていたので、木の幹と葉を見たらカエデの木でした。甘い樹液の出ている箇所があって、そこに蟻が行き来していたわけです。この蟻は、〈働き蟻〉で、食料の採取と運搬の役割を担っているのです。

 ところが、蟻の中には、ロシアの大統領が好む「兵隊蟻」がいて、蟻の colony を守っているのです。巣を、敵の攻撃から守り、家族でしょうか、蟻の国を守備するために、任じられた集団です。普段は、一般蟻のように、いそいそと働くのですが、一旦敵が襲来すると、外敵を迎え撃って戦闘をし、仲間と国(巣)を守るのです。

 この兵隊が、ロシア軍と違うのは、《専守防衛》の軍隊であることです。一般蟻の2倍ほどの体格の蟻で、頭や顎が大きくて、見るからに厳(いか)つい風貌をしているそうです。その軍務に従って、勇猛果敢に戦うそうです。

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 きっと厳つい番兵が、門に立っていたら、敵は尻込みしてしまうのではないでしょうか。わたしは平和の時代に生まれて、平和教育を受けた者でしたが、もし敵が日本に攻めてきたら、祖国防衛、母や父や弟を守るために立ち上がろうと決心していた若造でした。

 わたしの同級生に、中国戦線に従軍して、戦後、共産軍との戦いのために残留した将校を、父に持つ友人がいました。このお父さんが所属していたのが、北支派遣軍第一軍でした。将校を含めた兵士が2,600人ほどいたそうです。

 国民党軍の部隊として、戦後4年間共産党軍と戦い、550人が戦死した残留部隊でした。生き残った者も700人以上が捕虜となり、ようやく引揚げることができたのは、日本が高度経済成長の昭和30年頃だったそうです。

 敗戦が決まると、司令部の上官たちは、その日のうちに、部下を置き去りして、飛行機で国外脱出を図って帰国してしまったのです。捨て置かれた残留兵は、高級将校からの軍命で残されたのに、戦後は、自分の意志、つまり志願の残留だとされたのです。それで、戦後補償されないまま打ち捨てられたわけです。

 この残留兵を、「蟻の兵隊」と自虐的に呼んで、その経緯を本に著した方がおいでです。そしてその著書は、映画化もされているのです。その残留兵を率いたのが、わたしの友人の父君でした。中国の「百度検索」で調べると、お名前も軍歴も戦後の動向も記されています。お父さんは、山西省の地から帰国することなく亡くなりました。

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 さて、軍帽を被らない、戦車に乗らない、銃を担がない兵隊がいるのです。パウロが、共に宣教の業に携わったテモテに書き送った手紙で、次のように言っています。

 『キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。(2テモテ23節)』

 『あなたはキリストの兵士だ。立派に軍務に就きなさい!』との意味を含めて、激励しています。この「兵士」は、英語のキング・ジェームス訳では“ soldier ” 、漢訳聖書では「精兵jingbing 」で、キリストの軍隊の兵卒なのです。そう言うパウロも、霊的な戦いをして、異教世界、闇の世界と対決をしながら、司令官の聖霊なる神に導かれていたのです。わたしは27歳の妻子持ちの身で、志願して、この軍隊に入隊しました。アメリカ人司令官の従者として、戦線に立ったのです。

 軍服も、勲章もありませんでしたが、ただ「誇り」だけはありました。家々を訪ねても、歓迎されませんでした。ある前線では、取り立てで切り刻んだトマトに、山盛りの砂糖をかけたものを振る舞われたことありました。でも、ほとんどの場合は嫌われたのです。石を投げられて、額を割って、鮮血を流した兵士もいました。

 いえ磔(はりつけ)にされ、火に焼かれ、水に沈められ、剣で刺し貫かれ、銃殺されて果てた、主の兵士たちが、大勢いました。でも彼らは、神の国の門口に立つ門番であり、兵士なのです。やがて、彼ら忠臣な兵士たちは、永遠のいのちに蘇り、キリストと共同の相続人とされるのです。

(「兵隊蟻」、「福音を語るパウロ(キリスト教クリップアート)」です)

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 「」、難読漢字ですね。「あさがお」と読むそうです。今朝も、わが家のベランダには、2ヶ所で「朝顔」が咲いていて、カランコエを株分した鉢の中から、芽がのびて、今、花を咲かせる備えをしています。今季は種蒔き、芽吹き、植え替えなしで、去年の土の中に残った種から、3箇所で、朝顔が育っています。

 そうなんです。この漢字は、「しゅん」の音読で、訓読は「あさがお/むくげ」です。今季は諦めていた中に、芽が出てきて、盛りの時期は過ぎましたが、10月になろうとしている今でも咲いていてくれます。

 AD630年に始まり、二十回ほど遣わされた、「遣唐使船」が、唐の都から帰って来る時に、薬草として持ち帰ったものが、日本の地に、種が蒔かれれ蔓が出たら美しく咲き出したわけです。いつも思うのですが、大陸中国とわたしたちの国との関わりは、長く、太く、強烈です。

 初めて中国を訪ねたのは、聖書や研究書や小冊子を、旅行カバンに満杯に入れて出掛けた時でした。北京空港に降り立って、税関をを折る時に、「迷信書(税関では聖書をそう呼んでいました)」を持参したので、見つかったらどうしようかと胸が騒いだのです。ところが、その日の最終便でしたので、税関吏は及び腰で、帰り支度をしていて、カバンを開けられることなく通過できたのです。

 一番良いものをお土産にして、北京、呼和浩特(フフホト)、上海、広東の四都市を訪ねたのです。わたしの生き方を変える出会いがあったのは、呼和浩特ででした。拘束先から14ぶりに帰って来られて、5年ほど経っていたのでしょう、一人の働き人が家に招いてくれ、ご家族で賛美をし、美味しい夕食を用意してくださいました。

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 その時の交わりがあって、2006年に、天津に留学し、13年間、大陸で過ごせたのです。華南の街で4か所に住んだのですが、ベランダのあった家で、その日本から里帰りをした種を蒔いて、朝顔を育てたのです。大輪の花が、ベランダを飾ったのです。

朝顔に我は飯食う男かな  芭蕉

 「蓼食う虫も好き好き」と言われて、鮎(あゆ)などを食べる時に、毒消しでしょうか、臭い消しでしょうか、ツマや薬味に添えられるのが、「蓼(たで)」なのです。俳句の弟子の放縦な生活を戒める意味での作句だったそうです。『虫は蓼を食っても、わたし芭蕉は、きちんと米飯を食べています!』と、自分の生き方を言い表したのでしょう。

朝顔や昨日咲きとて今朝も咲き

 ここに、簾(すだれ)と風鈴があったら、昔ながらの日本情緒を懐かしみながら、行く夏を惜しむことができるのですが、雨水を集めて流れる巴波川が、15号台風のもたらした雷雨で、舟運の高瀬舟を引いて歩いた網手道を隠し、もう溢れんばかりになっていました。今朝は、いつもの流れになって、静かに流れています。いよいよ秋の感が強まってきた栃木です。

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あとの祭り

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 『 새끼들.』、このハングルを発音できますか。韓国の社会では、決して使ってはいけない禁句なのだそうです。腹を立てた者が、相手を侮蔑するために吐くことばだそうです。高慢な者の口から突いて出てしまうのでしょう。

 このニュースを聞いていたら、言葉遣いで失脚した『Mでも言わない!』と解説されていました。この言葉が、中学生同士の喧嘩で使われたなら、決して問題にならなかったのですが、K国の大統領が、しかもニューヨク国連の会議に出席のお歴々を前にし、大統領と話をした直後に、議員たちを侮辱して使ったのだそうです。

 キムさんでも、プチンさんでも、公の席では使ってはいなさそうです。日本でも国会が解散されるような、捨て台詞を、吉田茂首相!がしたことがありました。壇上から離れぎわに、『◯◯ヤロー!』とつぶやいた捨て台詞が、聞こえてしまったのです。

 東亜日報は、次のように伝えています。「大事故は尹大統領から起こった。尹大統領がバイデン大統領と会って出てくる時に卑劣な言葉を使い米議会を侮辱したかのような言葉がカメラに映し出され、それを外信が報じた。下品な言辞は外交の場に出た尹大大統領の緩んだ心と姿勢を余すところなくさらけ出した恥ずべき場面として記憶されるであろう。国民は国格を心配せざるを得ない。自尊心が損なわれた思いだ。重い反省と問責が供なければならない」

 エルサレム教会の牧師をしたと言われるヤコブが、聖書の中に、次の警告のことばを残しています。

 『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(ヤコブ326節)』

 舌を御することの難しさを言っています。日本や韓国だけのことではなく、『言わなければよかったのに!』と思っても、それは〈後の祭り〉になってしまいます。注意!注意!

二十一世紀の今でも

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 ある文学作品に登場する女性の出身地が、栃木県の河内郡の寒村だと記録されていて、わたしが住み始めた県の県庁所在地、宇都宮の北にあった農村で、今は宇都宮市に併合されています。大東亜戦争のさなか、農村がどんな経済状態だったかをうかがい知ることができます。土地を持たない小作農は、国全体が貧しい時代でも、最も貧しかったからです。

 そんな貧しい農家に生まれた女子を、借金の形にして、お金を借りなければ生きていけない時代だったようです。この女性も同じで、結局は苦海に身を沈めるのです。でも利発で明るくて、自分の境遇にめメソメソせずに、帝都東京の隅田川のたもとで生きていたのです。

 時代は、日本が「五族共和」を掲げて、満洲国を建国して、大東亜共栄圏を押し広げ、アジア制覇の野心が剥き出しにしていたのです。日華事変が勃発し、国際連盟を脱退し、米英との戦いが始まろうとしていたころの農村出身の一人の女性の姿が描かれている作品でした。

 その作品に登場する女性が、母の世代の女性であること、母の境遇に重ね合わせてみると、紙一重で、身を落とすことなく、母が生きられたことを考えてしまうのです。台湾に売られそうになるのを、すんでのところで警察に保護されて、危機を免れたわけです。

 先週、インドと同じ〈カースト制〉のあるネパールで、低い身分の女の子が人身売買で売られているというお話を聞きました。21世紀の世界の片隅に、そんなことのあるのに驚ろかされたのです。そう言った子どもたちを救出し、教育を受けさせ、自活の道を切り開くために、働いているキリスト教会の団体があるのを知りました。

 こんな人の世の現実に、聖書の教会も目を閉じていないのです。令和の代(よ)、家出や怠業で東京の繁華街に出て来る〈JK(女子高校生)〉に魔手をのばして、犯罪の中に引きずり込んで、金儲けを企む男たちがいるのです。そんな現実に、目を光らせて、わたしの弟は長く救出活動に関わり続けきています。
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 旧約聖書に、ラバブという女性が登場します。エリコに住む、「異教の女」に目を向けてみましょう。

 『ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。 (ヨシュア21節)・・・エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから(v3)・・・そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。v 15)・・・ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。(v21)』

 このようにして、ラハブは、イスラエルの民の斥候たちを匿い、逃がし、その使命を成功させたのです。このラハブは「遊女」だと特記しています。そして、

 『同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。(ヘブル225節)』

 遊女が、その神の民を助けたことによって、「義と認められた」とあります。どんなことをしていた人でも、神のみ旨の中を生きるなら、「義」とされるのです。そればかりではないのです。

 『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ(マタイ156節)・・・ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。(v16)』

 これは、救い主イエスさまが誕生された家系図です。なんと遊女ラハブ、ダビデの姦淫の相手ウリヤの妻(バテシバ)までも、救い主を生み出す母胎に選ばれているではありませんか。驚くほどの《神の謙遜》です。人がどんな背景にいたとしても、「救われる」のです。驚くべき「神の選び」ではないでしょうか。

(現在の「上河内」の位置、キリスト教クリップアートの「ラハブ」です)

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