ある夏のこと

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もう40年も前になるでしょうか、家内のすぐ上の兄が、グアム旅行に誘ってくれたことがありました。今のような七、八月の夏ことでした。まだ次女も次男も生まれる前で、長男が三歳、長女がグアムで一才の誕生日を迎えた時でした。旅行費用を義兄が出してくれて、とても楽しい旅行だったのです。その時、家内のすぐ上の姉の家族が、グアムに住んでいて、そこに家内の両親が呼ばれて、しばらく滞在していたのです。そこからブラジルの義兄のもとに行く途次でした。遠くに行ってしまおうとしていた両親を訪ねた旅行だったのです。私の母も同行しました。家内の母親と私の母は友人同士だったからでした。

この時、義姉の主人は、小学校の校長をしていました。いろいろな島内情報を持って帰ってきていました。ある週末、政府の役人が<フェスタ>と言うパーティーを開き、訪問客に食事を振る舞うと言うことで連れて行ってもらいました。到着が遅かったので、残っていた料理はわずかでしたが、異国の風習に触れることができて、結構おもしろい経験をさせてもらったのです。

この旅行の時に、グアム政府の認定の<自動車免許証>を取ったのです。三回失敗したのですが、義姉の主人に、『諦めないで!”Never give up!”』と励まされて、4回目の筆記試験で合格しました。近くの公園の中を走る、実地試験が行われ、なぜか義父が後ろの席に同乗してくれました。一発合格でした。兄の車などを闇運転していましたからだったでしょうか。免許証が交付される時、『ケイトウ!』と呼んでいました。他の誰かだと思っていたら、自分のことだったのです。本場の英語の発音と、ヘボン式ローマ字で表記した日本語読みと違っていたのです。それでも、きっと自分のことだと思って、”yes”と返事をしたのです。

その免許証は、更新手続きをしませんでしたので、もう失効してしまっていますが、今も引き出しの中にしまってあります。時々引っ張り出しては眺めるのですが、昨日のように記憶が鮮明です。義父母も義兄も、義姉の主人も私の母も、すでに天に帰って行きました。日本では感じられない、太陽のキラキラした輝き、野生の空中を飛ぶ鶏、マイマイと言った大きなカタツムリや蛙、ジャングルに鉈を持って入って行った義父が、たくさんの<アボガド>を収穫して食べさせてくれたことなど、あの時、みんな元気でした。

地上のことは、<一場の夢>なのでしょうか。現実は、すぐに過去に吸収されて行くので、そんな風に感じてしまいます。好い思い出が多いのは感謝なことです。

(写真は、グアム島の「パセオ公園」です-政府観光局より)

今朝の散歩で

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鼓楼のある旧市街の南を、大河が流れ下っています。この河は、上流で二股に分かれて、一本は、旧市街と郊外とを分け、もう一本はもう一つ外の農村とを分けて流れ下り、この二本が下流でまた合流しています。私たちが住んでいるのは、島のような形の旧市街と区分され地域で、この省都の一つの<区>に編入された地域です。かつては幾つもの村で構成されていましたが、今や工業開発の工場地帯から、旧市街から、新しい家を求めて越して来たり、新しく所帯を持とうとする若い方々が住む近代住宅地として開発されています。

聞くところによりますと、この地域と旧市街に間に、橋を架設したのは、日本企業だったそうです。それまでは、渡し舟で物や人が運ばれていたのです。水運が盛んだったそうで、その名残を感じさせる街の風情があります。今でも卸問屋の多い、川沿い(クリーク)の地域なのです。車が使われる以前は、水運を利用し、近郷近在と大量の物資の運送がなされていたと言われています。

今朝も散歩の途中に、何箇所も新しいアパート群や商業施設が、建設中なのを目にしました。驚くほどの数です。このような開発が、中国中で行われているとしたら、それは驚くべきことです。臨海部の都市への人口流入、農村部の過疎が進んで行くのでしょう。昨日、『将来、世界中の三分の二の人が都市で生活をするだろう!』と言う記事を読みましたから、まさのその動きの一つに違いありません。

河岸が整備された箇所に、数キロにわたって、この町の古代から近代までの歴史が、壁面の石板に刻まれてあります。大地震、大火、疫病などがあったこと、スペインやイギリスやアメリカからやって来た方たちが、病院や看護学校や学校を作っています。その中で、日本人の桑田何某と言う技術者が、この町の発展に尽くしたと、記されてありました。また日本軍の空襲による、家屋の消失や死者が出たことの被害の記録も刻まれていて、辺りを見回してしまいました。

この町の小学生たちが、ここで、歴史を学ぶために、好い教材となってきたことでしょう。最近気付いているのですが、この河の水量が少なくなっているのです。河の中に中州ができ、背丈のある草が生い茂っているのです。河岸の水位もずいぶん低くなって来ています。長雨が降った後、橋桁に河の水が触れそうになっていた何年か前の様子とは、段違いです。やはり、ここでも異常気象なのでしょうか。ちょっと心配です。そう言えば登り下りしていた大型の船を、最近では、ほとんど見かけなくなっています。

(写真は、”百度”による、この河に架けられた「橋(古写真)」です)

 

逆さに見ると

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この地図は、いつも見慣れて来た教科書や地図帳とは違って、上下反対、南北反対になっていて、正直言って見づらいのです。これまで、自分の生まれ育った国は、世界の中心で、<孤高の国>のように感じていましたが、実際は、ヨーロッパ社会を中心にしてみますと、日本列島は、極東、東の外れに位置していることを知るのです。

以前、裏日本を中心にした地図を見せてもらったことがあります。県庁所在地の名も、山も川も、上下反対に表記がされてありました。新潟県辺りから、首都圏の位置を思ってみると、日本海側の人たちの<立ち位置>が逆転していて、この人たちが表にいて、首都圏が裏に位置しているのを感じて、思いが新鮮でした。

置かれている位置を逆さにし、立場の違いを認めると、何時もと違ったものが見えてきそうです。これを<発想の逆転>と言っても好いのでしょうか。中国や南北朝鮮やモンゴルから、日本は、こう言った様子で見えるのですね。なんだか邪魔をされているようで、『どいて欲しい!』と感じるのではないかなと思ってしまいました。

「目の上のタンコブ」、ない方が好いのでしょう。私たち日本人は、広い太平洋の海に逃げ出すことができるのですが、これらの国々は、<タンコブ>の日本には、どいて欲しいのかも知れません。この地図を見て、きっと煩わしく思っているのではないかなと感じてしまったのです。

でも、友好関係が築き上げられ、この置かれた位置と距離で、協力したり助け合って行くには、ちょうど好い位置と距離ではないかと思うのです。だから、平安の御代には、遣随使や遣唐使を遣わして、親しく交流していたわけです。時々食べる「インゲン豆」が、中国産の野菜で、僧侶の手で運ばれて、日本の地に植えられて、その僧の名に因んで名付けられ、好んで食べられてきています。豆腐だって、味噌だって、醤油だって、この長い交流の中で運ばれて来た物なのです。

これまでは、見慣れた上が北、下が南の地図で、自分の位置を確認していて、右手に日本があるのだと思ってきました。これを逆転して、自分の住んでいる町のアパートの陽台(ベランダ)に出ると、ほとんど左手のはるか彼方に生まれ故郷があるのだと、改めて感じています。それでも、見る位置や方角によっても感じ方が違うかも知れません。今日は、不思議な感じを持ってしまったようです。

敵討ち

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「猿蟹合戦」、記憶に鮮明に残る物語です。ウキペディアによると、次のようです。

「蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。」

狡賢い猿に、この子蟹たちが、親の敵(かたき)討ちをする話です。この<敵討ち>、<仇討(あだうち)>を快く思わない人たちによって、話の筋を変えて、改作し出版する人がいるようです。『<平和の時代>には、相応しくない!』と言うのが、その動機です。日本には、「曽我兄弟の敵討ち」、「高田の馬場の敵討ち」、「赤穂浪士の敵討ち」と、有名な仇討ち話があります。この「猿蟹合戦」は、中国、韓国、モンゴルにも、似た話が残っているようです。

この「猿蟹合戦」ですが、猿の子どもたちは、蟹たちに復讐をしなかったのでしょうか。ここには、「復讐の連鎖」が起こり得るのではないでしょうか。何代にも何代にも亘る<復讐劇>が繰り返されていくわけです。第三者が、仲介の労をとって、<和解>しないかぎり、永遠に続くに違いありません。

隣国の信じられないほどの日本嫌いには、驚かされます。戦前の統治への謝罪と賠償で、日本の援助や技術指導によって、工業立国となって行く時期には、このような激烈な憎悪に満ちた動きが見られませんでした。このところ、眠っていた獅子が目覚めたように、忘れていたのを、思い出した借金取りのように、俄かに牙を剥き、爪を立て始めているのです。全国民の総意でしょうか、それとも政治手法なのでしょうか、それに驚かされています。二十年ほど前に、三度ほど訪韓したことがありましたが、その時は、極めて親日的でしたが。

『親の仇を、長崎・・・』ではなく、<今>と言ったところでしょうか。憎しみよりも赦しの方が、争いよりも和解の方が、建設的なのですが。第三者の仲介の余地はないのでしょうか。次の世代に、互いに遺恨を残し、憎しみや敵対の連鎖が起こらないようにと願う、日曜の朝です。

(イラストは、「サルカニ合戦」-yahooイラストよりー)

銀ブラ

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学校の門を出て、左側に歩くと、国道一号線があり、そこを「都電」が走っていました。最寄りの「清正公前」から乗りますと、「銀座」まで一本で行くことができました。授業が終わって、飛び乗ってはよく出かけました。お金のない学生は、ただブラブラ、キョロキョロするだけでした。まあ、本物の<銀ブラ>だったわけです。

この写真は、明治期の<銀座>だそうです。まだ馬車の時代で、後に電車("市電/府電/都電”)に代わる、<鉄路>を馬に牽かれた車が往来していたのです。街並みが整備されていて、賑やかで、道路脇に見えるのは、<電信柱>でしょうか。もう電気が使い始められていたのでしょうか。「江戸の街並み」は、幕末や明治期にやって来た外国人にとっては、驚きだったようです。当時のパリやロンドンと比較しても文化的で、よく整い、<都市機能>が優れていたのだそうです。この写真から、そう言った様子を窺うことができます。

昭和の御代に、都電に乗った私は、写真の下の方からこの辺りにやって来たことになるのでしょうか。銀座三丁目の交差点は、どの辺でしょうか。松屋とか松坂屋と言った百貨店がありましたが、その原点となるお店は、どの辺りになるのでしょうか。「歌舞伎座」などは、まだ出来る以前の写真のようです。

私の育った街には、ありませんでしたが、隣の大きな街には、御多分にもれず<◯◯銀座通り>がありました。それは<繁華街>の代名詞だったからであります。関東大震災、戦時中の焼夷弾攻撃などで、焼かれた街並みが、東洋一のお洒落な街になったのは、奇跡的なことであり、曽祖父母や祖父母や父母の世代のみなさんが、持ち前の勤勉さと、綺麗好きで、愛し、復興させからでしょうか。

今度、帰国したら<銀ブラ>をしてみたいものです。学校周辺を通るためには、地下鉄に乗ってみようと思いますが、モグラのように地下を通るのでは町並みを眺めることができませんから、都営バスに乗るのが好いかも知れませんね。車掌さんが捥(もぎ)ってくれた都電の乗車料金は、幾らだったか忘れてしまいました。半世紀も前のことですから。

明治の子どもたち

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とても好い写真ですね!笑顔が屈託無くて素敵です。貧しい時代、見なりも<綿入れ>を着て、まだ洋装にならなかった頃、明治期の子どもたちの<集合写真>です。何が面白くて笑っているのでしょうか。きっと、右から二人目の子が、面白いことを言ったので、みんなが笑い出したのでしょう。二人のチビたちは、意味がわからなかったので真顔です。後ろのおじさんは、大口を開けて笑の輪に加わっています。その時代の人と社会の大らかさを感じさせてくれます。私の祖父の世代の写真に違いありません。

こう言った時代があって、今があることになります。この賢そうな子どもたちが、読み、書き、算盤、歴史、政治、科学を学び、天職を得て、勤勉に働き、国の土台を据えてきたのでしょう。「幼馴染み」の二人が所帯を持って、家庭を築き、生まれてきた子どもたちを育てる、この繰り返しで今日に至っているのです。ある子は商人に、ある子は教師に、ある子は大臣や軍人になって行ったのでしょう。女子は、賢い家庭夫人、妻や母となっていったことでしょうか。

人は去り、人は残る。七十年か八十年の生涯の周期を繰り返して、孫や、あるいはひ孫を見て、自分の生涯を終え、世代から世代へと、責任を継承してきたのでしょう。人の世の営みとは、大方は<平々凡々>としているに違いありません。

薄暗い中を一時間半ほどの散歩に出、帰ってシャワーを浴び、家内と愛読書を読み、いただいた饅頭、買ってきたトマトとキュウリ、ブルーベリー・ジャムとピーナッツバターとバター、紅茶で朝食をとって、今、ソファーに座っているところです。今日も天気予報では晴れ、最高気温が37度、最低気温も27度とのこと、大変暑そうです。子どもたちや孫や兄弟や姉妹たちや友人たちのことを思いながら、何時もの平凡な一日が始まりました。今までなかかった<新しい一日>が始まっています。

好い家庭の建て上げを!

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昨日の宵、市内の有名ホテルで、「婚礼」があり、お招き頂いて参列しました。先日、この新郎と新娘が、『結婚歴が長いお二人から、<結婚>について、お聞きしたいのです!』と言って、訪ねて来られました。それで、しばらくの時を、この若いカップルと交わりをしての昨日の「婚礼」でした。日本でも珍しいほど、豪奢な式場で、最近の中国の豊かさが、これほどなのかと思わされた次第でした。

司会者と祝福のメッセーンジャーと司式者が三人いて、祝福の賛歌、お話、誓約、指輪の交換、結婚宣言、祝福がなされた、欧米式の婚礼でした。今春には、教え子の婚礼にも招かれましたが、花婿の家で行われ、中国の地方都市の伝統的な婚礼でした。都市部とは違った趣があって、それもまた、若い二人の門出を祝うもので、厳かでした。

日本の婚礼は、男性は黒い礼服に真っ白なネクタイで黒革靴を着用し、女性は、和礼服とかドレスアップした華やかな洋礼服で列席します。ところが、こちらは、ほとんどが平服、しかもジーンズでTシャツのサンダル履きの方もいて、砕けているのです。ネクタイ姿は、私の他に数名と言ったところでした。雄のカラスみたいな日本男性の婚礼服は、肩が凝ってしまいそうですが、こちらは、自由で身軽で好いのです。

ちょっと残念だったのは、煙草をくゆらしている方、テーブルのつまみを食べている人、世間話をしている人、歩き回っている人がいて、騒々しかったことです。式の前に、私の隣の方は、ひっきりなしの煙突で、煙に巻かれてしまった私は、咳き込むほどでした。それでも嫌な顔をしないで、我慢の子でした。

そういえば、式の始まる前に、ビデオ映像が写しがされていました。お二人のー仕事の様子、ご両親への感謝、新郎は涙を流しながら言葉を繋いでいて、『好青年だ!』と思わされました。ここまで育ててくれた父母への感恩は素晴らしく感動的でした。よく備えられた式だったと感じました。友人たちの合唱の声がハーモナイズされていて、美しかったのも印象的でした。好い家族、ご親戚、そして友人たちからの祝福を受けて、祝福の門出でした。

訪ねてくる友人たちが、励まされたり癒されたりする<好い家庭>が、このお二人によって建て上げられることを願って、帰途につきました。帰りの道は、祝福のシャワーでした。

(イラストは、新郎新婦の二人です➡︎yahooイラストより)

戸惑い

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「戸惑う」、「混乱する」、「慌てる」、「キョトンとする」、「驚く」、いくつかの動詞を取り上げてみたのですが、これは、日本を始めて旅行された中国人旅行者が、旅先での日本、日本人、日本の習慣などに対しての「思い」や「印象」や「感想」なのです。『こんなはずではないのに!』と言った意外性を表しているのです。

かつての日本と日本人による「侵略」、「屠殺(”虐殺”をそう表現しています)」、「生体実験」、「凌辱」、「焼き打ち」などを、聞き、学び、調べて、<日本鬼子ribenguizi>だと思っているみなさんが、現代の日本と日本人に接して、驚きの声をあげておられるのです。東京や横浜や大阪や京都などで見たり、聞いたり、接したりしている「親切さ」、「穏やかさ」、「礼儀正しさ」、「静けさ」、「清潔感」、さらには、買い求めて使っている「精密な日本製品」などが、日本と日本人について聞いて学んだことと脈略がないことに、「キョトン」とされているのです。

日本と日本人の実際の様子が、中国のみなさんを戸惑わせているわけです。『あんなに酷いことをした日本と日本人が、今ではこれほど違っている!』、『本当の日本と日本人は、どれなのか?』と思っておいでなのです。こんな話を読みました。ある店で、欲しい電気製品を探したのですが、在庫がなかったのです。困っていたら、近所の店にあると言って、地図まで書いて教えてくれたのだそうです。そんな親切に驚いたりしているのです。

そういえば、私の勤めています学校に、2013年度の前学期まで、年配の日本人教師が、私を含めて三人いました。一緒に五年ほど教えたでしょうか。この日本語教師への、各学年の学生さんたちの印象は、おしなべて良好のです。時間励行、礼儀正しさ、真剣な教授態度、周到な準備などを感じて、実に高評価なのです。学校教育で教えられ、テレビや映画で見てきた<日本人像>と違った三人に接して、彼らも<戸惑い>を覚えていたのです。

『名もない老境の日本人教師が、一所懸命に教えてくれている!』と、感じていてくれるのは、広い中国の多くの日本語学科を持つ学校のある街でも同じなのでしょう。杭州や南京や厦門や長春やハルピンで教えていた教師たちを知っていますが、みなさんお金のためでも名誉のためでもなく、<中日有効>にため、中国の若者が、より好い日本と日本人理解を持って欲しくて、励んでおられるのです。『そんな好い教材があるのですね、ダビングして送ってもらえますか!』と頼まれた南京の看護学校の教師に船で会いました。

民間人や日本語専攻の学生のみなさんの<日本観>、<日本人観>は、すこぶる好いのです。私たちと友人でいてくださる、多くのみなさんは、偏見や過去の経緯(いきさつ)なしの、真心で接していてくれる<好朋友>であります。この人たちには、もう戸惑いも混乱もありません。

(衛星写真は、中国や韓国から見た日本列島です➡︎WMより)

地球大の課題に取り組め!

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私の<中国人観>と言うのは、こうでした。男性は、顎髭をつけて、道端に座り込み、手に長いキセルを持って、日がなスパスパと煙草を燻(くゆ)らせている様子でした。歩き方ものんびりし、生活の仕方も長閑(のどか)なのです。女性は、<纏足(てんそく、子供の頃に足を木靴にはめて、大きくならないようにしたようです)>していて、働くことを好まない人たちだと思っていたのです。何かの絵を見て、その印象が抜け切らなかったわけです。

日本の横浜や神戸にも、<中華人街>などがあって、それほどの距離のないところで生活をされていたのに、中国のみなさんとあまり出会う機会がありませんでしたから、子どもの頃の印象を、ずっと引きずっていたのです。ところが、中国を初めて旅行した時、北京、フフホト(内モンゴル)、上海、広州の街中で出会ったみなさんが、男性も女性も勤勉で、歩幅が広く歩調も早く、サッツサッツと歩く姿を見て、驚いたのです。こちらで生活をし始めて、働き者だと言うことがさらなる強い印象になっております。昨日も散歩をしていましたら、小柄な若い女性が、私を追い越して行きました。散歩ですから、息が弾むように歩幅を大きくとっていたのにです。

一度取り込んだ印象と言うのは、なかなか抜け切らないのだと思わされたのです。それは悪意からではありませんでした。そうしますと、この時代を生きている若い世代のみなさんは、<反日抗日教育>を受けて来られていますから、大変に悪い印象を持っていると言うことになります。日本語専攻の学生のみなさんは、それを修正できるのですが、そうでなかったら、日本旅行をして、実際に見聞しない限り、改まることはありません。

かつての日本の若者が、<鬼畜米英>と教え込まれて、憎しみを持ち、敵愾心を燃やして、アメリカ人やイギリス人を罵り蔑視したことがありました。そして銃を手にとって、戦いを挑んだのです。しかし、実際に戦争被害を受けた祖父や曽祖父を持つ、中国の若い世代のみなさんにとっては、日本人は憎悪や復讐の対象であるのは、私たちの経験からしても当然なのではないでしょうか。

そのような歴史と中国のみなさんの感情を無視しては、ことは進みません。戦争末期に生まれた私でありながらも、原爆や焼夷弾を持って日本の国土を焼土と化したアメリカとアメリカ人に対する感情は、不穏なものがありました。そんな私の感情を癒すために、穏やかで紳士だったアメリカ人と出会って、八年間、一緒に働きつつ学んだのです。その年月が、私の赦せない思いを深く対処したのだと思い返しています。

中国のみなさんも日本人の私たちも、同じ時代の空気を吸いながら生きています。地球大の問題や課題は山積しています。今、猛烈な八号台風が沖縄を伺っているようです。進路からすると台湾も中国本土も圏内に位置しています。どう動くかで被災するかしないかが決まります。異常気象だけではなく、人口や食糧や環境保護やエネルギー、さらには青少年問題などの共通の課題です。仲良く対策を共に講じるか、そうではないかでは、大きな違いです。局地の問題よりも、大局的に鳥瞰的にものごとを見て行きたいものであります。

♭ うみ ♯

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夏の季節がやってきますと、懐かしく思い出す歌があります。作詞が林柳波、作曲が井上武士で、文部省唱歌の「うみ」があります。

1 うみはひろいな 大きいな
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

山奥で生まれて、海を見ることなく育った私にとって、海への憧れは、人一倍大きかったようです。初めて海を見た記憶は、母のふるさとに旅行した時に、汽車の車窓からだったと思います。土佐の桂浜から太平洋の大海原を眺めた坂本龍馬のような思いには至らなかったのですが、海の向こうの世界には、何か夢があり、その夢を果たせそうなものを感じたのは確かです。

父は神奈川県横須賀の出身で、曽祖父は「海軍工廠」の技官だったそうで、海とは近い関係があったようです。父の中学時代に、横須賀から東京湾を横断する遠泳に出たとか聞いたことがありました。当時の海は綺麗だったのでしょう。中学に入った時に、横須賀からは対岸の館山海岸で、「水泳教室」が持たれ、参加しました。赤い六尺褌をキリリと締めて、<男>になったように感じたのです。海の水の塩っぱさが、あれほどとは思いませんでした。

海を眺めたり、潮騒(しおさい)を聞いたり、泳いだりしますと、<古里回帰>のように感じるのは、父の血の故でしょうか。よく聞いたのは、潮の満ち引きの音は、母の胎内の羊水の中にいた時の記憶に通じるのだそうです。だから、潮騒を耳にすると、何とも言えないほどに、心が落ち着くのかも知れません。このところ、上海と大阪の航路を行き来する「蘇州號」に乗っていません。東シナ海の夏の潮風は、頬にとても気持ち好いのです。また乗船してみたいものです。

(写真は、三島由紀夫の「潮騒」の舞台である鳥羽・沖島です)