悲喜交々



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石川啄木は、自分の故郷である、岩手県の渋民村(現在の盛岡市)を思いながら、
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠みました。

室生犀星は、複雑な家庭の事情で故郷を後にして上京し、久々に故郷金沢に帰った時に、
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と詠みました。故郷を思う想いも様々なようです。

作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」がありました。1965年に発表された、「昭和の歌」です。

砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

鳴る花火 ならぶ夜店に
縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
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海辺の村、下町、桃畑の丘のある村を歌って、望郷の思いが駆り立てられた歌で、よく聴いた歌です。自分の山の中の村、夏の日が強く照りつけていたのを、まざまざと思い出させてくれる 歌です。誰にも、「原風景」があり、『ここが俺の故郷だ!』と思う村や街があるのでしょう。胸がキューンとするのが、「故郷」です。

”ペペ・ル・モコ”と言う主人公の「望郷」と言う、戦前のフランス映画がありました。パリから北アフリカの街、アルジェ(アルジェリアの首都)に逃亡した犯罪者を、ジャン・ギャバンが演じていました。何度も何度も観た映画でした。アメリカ映画とは違ったものが、フランスの映画にはあって新鮮でした。この名優ジャン・ギャバンよりも長く生きている異国の異時代の自分を思うと、映画と言う創作の世界の出来事や望郷の思いが、現実のように思い出されてまいります。

帰りたいのに、帰れない事情があったりで、悲喜交々(ひきこもごも)、故郷には、様々なことがあるのでしょう。この街にも、電車もバスもない時代、遠い村から、学びや働きにやって来られた方、一旗上げたくて住み始めた方たちの様々な思いが積まれた街なのです。アモイも、海外に職を求めて出掛けた数限りない「華僑」の故郷の街であることを、ホテルの窓から海や島影を眺めて感じていました。

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山紫陽花

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東京・多摩市に住む投稿者が、8月13日に撮影された、渓流に咲く「ヤマアジサイ」です。『滝と光芒撮影の合間、渓流風景を撮りました。』、『楚々として咲く』と解説されてありました。HP”里山を歩こう“には、もう8月の中旬ですから、小動物の生態を撮られた写真が多くなっています。暑さの中、それでも里山は、けっこう涼しいのかも知れませんね。

十代の君へ

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帰国時も、こちらで生活していても、観ることがないのはテレビです。そんな私ですが、泊まったホテルのテレビ案内に、<NHK視聴可>とありました。それで、スイッチを入れたのです。同時刻放映ではなのでしょうけど、「10代の君へ(広島放送局政策)」が放映されていました。きっと、原爆投下記念日に放映されたものではないでしょうか。

その番組で、被爆体験をされた4人の方の「手紙」や手記をもとに、大学生グループなどのアニメーション作品が、紹介されていました。ほのかな恋心を覚えていた級友が、亡くなっていく様子を、一人のおじいちゃんが回顧したり、また東北大震災の被災者で、愛する家族を亡くされた方の体験と重ねたものなどがありました。

色褪せることのない生々しい体験に、被爆後の日本を生きてきた方が、それぞれに語り、記していました。私は、山梨県の山岳地帯で生まれたのですが、甲府も原爆投下の候補地であったと聞いたことがあります。また、広島に投下される前に、どういう情報入手経路があったのか、『広島を離れる様に!』との勧告が伝えられていたという話も聞いたことがありました。

『戦争を止めさせるのに、やむなく投下した!』と言う、投下決断を下したのが、時のアメリカ合衆国の大統領のトルーマンだったのです。原爆投下反対の立場をとっていた、極東の最高司令官であったマッカーサーへの打診や相談なしに決断した様です。後に大統領になるアイゼンハウアーも投下に反対でした。

結局、長崎と広島に原爆が投下され、被爆死者と、後遺症を負われる被爆者が出たのです。広島市内の小学校(市立大芝小学校でしょうか)に、樹齢九十年の柳の木があります。この柳が、番組で紹介されていたのですが、今も青々と葉をつけている映像が見られました。焦土と化した土地から、生命の再生はないと思われていたのですが、翌春、柳の枝に芽が出て、葉をつけ、今日に至るまで命を輝かし続けているのです。

被爆者の子でいらっしゃる被爆二世も、大勢おいでです。プロ野球で活躍した張本勲氏も、大相撲の千代の富士も、その一人だと聞いています。平和ほど求められて、裏切られ続けた願いは他にありません。人は、過去に学ばないからでしょうか。この番組を観て、わが子、わが孫に、平和な時と国を残したいものだと、改めて願った週末でした。

(大芝小学校の生き残った柳の木です)

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奮発

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昨日から、中国の南、福建省の"アモイ(厦门xiamen)"に滞在しています。ビザの滞在要求事項で、3ヶ月に一度、国外に出なければならないので、中国版の新幹線("动车donche"と呼ばれています)に乗って、ここに来ました。"五通码头wutongmatou"の港から、アモイと金門島間を就航してる「和平之星」に乗って、金門島に着いたのです。

そこで、いつもの様に昼食に、"牛肉面niuroumian"を食べて、その足で、アモイに戻り、税関手続きを終えました。今回は、家内の誕生祝いと、在華12周年を記念して、ちょっと奮発したのです。結婚式の後、すぐ上の兄が、泊まれる様にセットしてくれた、「東京ヒルトンホテル」以降、二回目の《五つ星ホテル》に投宿しました。市内の中心部の海浜に位置している日系ホテルです。

けっこう家内は満足しています。これまでの中国での生活を、様々な場面を思い出しています。来ました当初、まだまだ、ここ中国は開発途上でした。その後、目覚ましく更なる発展を見せて、それには驚くばかりです。「改革開放」を掲げた鄧小平氏が力を入れた街の一つが、このアモイでした。かつて、"コロンス島(鼓浪屿)"に、欧米諸国の領事館があった街だったのです。l"ウイキペディア"に、次の様にあります。

『福建華僑のふるさとの街としても知られ、19世紀から世界各地の華僑の増加に伴い、「アモイ (Amoy)」の名で国際的に知られた。廈門の古い地名「下門」は、閩南語の漳州方言では白話字 (POJ) ローマ字表記で Ē-mûi と書くようにエームイと発音され(廈門方言と泉州方言では Ē-mn̂g エームン)、これがアモイに転じたと思われる。』とあります。

台湾との交流が深く、台湾語は、この地域の"闽南话minnanhua"と同じで、文化的にも民族的にも同じルーツを持っています。私たちが初めて、この街にやって来たのは、2007年でした。ちょうど、マラソン世界大会が行われる時期で、その準備に余念がありませんでした。シンガポールやホノルルに、ちょっと似た感じがしたのです。

この年月は、この国にやって来て、好い人たちと出会い、多くの友人を得ることができ、この街にも、懇意にしている方たちが与えられた日々でした。もうしばらく、友人の要請に従って、こちらに滞在させてもらおうと再決心したところです。友人の会社の顧問をしながら、生活をしており、私たちにとっては、《第二のふるさと》であって、まさに"习惯了xiguanle/日本語では『慣れました』"です。感謝しつつ。

(コロンス島からのアモイの街の発展した様子です)

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立秋

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酷暑のせいでしょうか、七日の「立秋」を忘れていました。日の光が、心なしか、秋めいてきているのでしょうか。きっと、秋の訪れへの願いが、そう言う風に感じさせているのかも知れません。ここは、『♭カナカナ、カナカナ♯』と“蜩(ひぐらし)“の鳴く声を聞くことがありません。

でも、何年か前に、避暑地で、今再び開発されている、街の北の山の峰に行った時、夕暮れに、蜩を聞いたのです。これを聞くと、さしもの一日の暑さが一段落した様に感じられたのです。赤とんぼも飛び始めているのでしょうか。きっと、暑くて空調の効いた室内のいる時間が多くて、外出が少ないから気付かないのかも知れません。

今日は、次男の婚礼で一時帰国して、こちらに戻ってから、3ヶ月が経ちましたので、ビサの必要条件を満たすために、金門島に出かける予定でいます。昨晩は、知人宅に招かれて、ご子息とお姉様のご子息二人の誕生会を兼ねた食事会で、共に過ごしたのです。好い時でした。

今月は、私の家族でも、3人が誕生日なのです。ずいぶんと暑い時期の生まれたわけです。母親は大変だったことでしょう。新しい台風が、またフィリピン付近で発生して北上している様です。今年は台風の当たり年になっているのでしょうか。被害の少ないことを、切に願っています。

またインドネシアで、大きな地震が発生し、多くの犠牲者があった模様です。捜索や復旧が必要です。暑さの中ですから、健康被害が少ない様に願っております。こちらに来たばかりの時に、大学の語学学院の同級生の中に、四、五人のインドネシアから来ていた方がおいででした。一緒に親睦会をしたり、食事に招いたりしました。もう帰国されて、ご活躍されておいででしょう。ご無事を願っております。

(ジャカルタの風景です)

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人様々

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「人様々」、世の中は多様です。驚いたのは、下着を裏返しに着る人がいることです。誰にも見えないのですが、普通の人は、縫い目が見えない様に、表向きにして着ます。ところが、縫い目や縫いひろが、体に触るのが不快だとして、裏返しに着るのだそうです。敏感過ぎるのでしょうか。

また、人に見えないのだからと言って、下着に気を使わない人もいます。破れていても、シミがついていても、どうでもいいのです。でも、怪我をして、服を脱がなければならない時に、恥ずかしい思いをしたくなくて、まさかの時を想定しつつ、身嗜み(みだしなみ)に、下着まで注意深く気配りをする人もいます。人様々なのです。

私の父は、下着も靴下もワイシャツも靴も背広も、自分で買い、自分で管理していました。恰幅(かっぷく)が良かったので、体に合う様に、ある物は注文して、誂(あつら)えで作ってもらっていました。着終えると、きちっと母に洗濯させて畳ませ、ある物はクリーニングに出させて、タンスに整頓して入れていました。靴も三足ほどで、いつもピカピカに磨き上げて履いていました。無精髭などを生やしていたのを見たことがありません。

タンスや引き出しは、上下をはっきりして、着る順序も決めていました。多く持っていませんでした。そんな父は、ワイシャツの襟や袖口が薄くなると、襟や袖を外して、生地を裏返しにして着られる様に、母に繕わせていました。母も器用でした。ですから実に、物を大切にし、几帳面(きちょうめん)な父でした。ずいぶん厳しく躾けられたと、父が言っていましたから、そのせいでしょう。軍人の家庭でした。

でも自分の几帳面さを、子どもたちに要求しませんでした。この私は、思い立つと整理整頓するのですが、本でも下着でも、所定の場所に納めずに、時折、積んで置くままにしてしまうのです。それでも引き出しやタンスの中は、きちんと整理してあり、どこに何があるかが分かる様にしてあります。父の物入れが、そうだったからです。父に比べると、ずいぶん杜撰(ずさん)で、乱雑な自分を恥じます。人様々なのです。

今住んでいる小区は、実にきちんと整備されています。インドネシアの華僑の方が社長で、売り出した、数千所帯の規模のマンション群で、一人の資産としては驚くほどのものです。その管理のさせ方が、厳しく決められていて、夕方には、音楽が流れ、以前は、“ベッサメムーチョ”が聞こえたりしていました。社長さんは、先月高齢で召されたそうです。

ですから、ここは、この省で、管理の評価が、第2位なのだそうです。こんな高級住宅に中に、留学中の大家さんの留守を、私たちは住まわせてもらっているのです。ここにも様々な生き方、在り方、付き合い方があって興味津々です。これまでの様に、近所の付き合いが近しくなく、ほとんど言葉を交わすこともないのです。前の小区は、庶民的でしたので、物のやり取りもあったりでしたから、今は、ちょっと寂しい感じです。

まあ「住めば都」、酷暑の華南の街を、汗を流しながら過ごしております。それにしても、夏休み、子どもの声がしないのです。両親の故郷に帰っているのか、旅行をしているのか、はたまた暑過ぎるから、家の中にいるのでょうか。これも、それも、あれも人様々なのです。

肥後

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阿蘇山の近くに住む友人を訪ねた時、そこに滞在していたある夜、『今晩咲きますから、ぜひ観に来てください!』と、ある方が迎えに来てくださって、出掛けたことがありました。十数年前のこの時季だったのです。年に一度(ある花は3〜4度ほど咲くそうです)、しかも夜九時過ぎに開き、午前零時にはしぼんでしまうのだそうす。その花が、「月下美人」でした。

そんな花の神秘さに触れて、その夜、私は大いに興奮してしまいました。この様な花の一つほど飾ることのできない私なのに、花を見て感動することができるのは、生かされている人の特権だと思ったのです。これこそ、「目の喜び」と言うのでしょうか。また、阿蘇の外輪の美しさにも魅了され、本州の山の様に、急峻でないなだらかさが新鮮でした。肥後を唄った童謡があります。

あんたがたどこさ 肥後(ひご)さ
肥後どこさ 熊本さ 
熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それをりょうしが 鉄砲(てっぽ)で打ってさ
にてさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で チョッとかぶせ

加藤清正が築城した熊本城も、巨石が美しく堅固に積み重ねられ、その城壁の石の曲線が、何とも言えず美しいのです。昨年、この同じ友人を訪ねて、地震後の熊本城に連れて行ってもらいました。地震の爪痕は、城壁にも見られ、復元工事が丁寧に行われていました。前の様な雄姿を再び見たいものです。被災された多くの方々の精神的な痛手は、まだ大きなものが残っておいでだそうです。その恢復も求められています。

この肥後熊本は、海の中に点在する天草諸島も、実に美しいのです。私の恩師が、半年ほど、熊本においでになっていたことがありました。そこを家内と友人夫妻とで訪ねたことがあったのです。まだ四十代の恩師でした。清い白川の流れの渓谷に足を浸して、真夏の岩陰で、涼を楽しんだことも、恩師との語らいも思い出されます。もう45、6年も前になります。

また、「だご汁」と言う、伝統の郷土料理、水団(すいとん)が美味しかったのです。狸は食べませんでしたが、ここのもう一つの名物は、「馬刺し」で、これも美味しいのです。あの時、最初の訪問で出会った中学生、高校生の若者たちも、今や、退職年齢に達していると、昨年の訪問時に聞いて、驚いてしまいました。歳月の過ぎ行く早さに、自分の年を重ねてみました。

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冷やし中華

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おはようございます。今朝のベランダは、28℃、暑い一日が予想されますが、このところ朝は、ちょっと涼しさを感じられています。伊豆諸島をを北上している台風13号は、やがて熱帯低気圧になりそうですが、大雨の被害をもたらしそうです。昨夕は、お母さんと、この秋から、日本の大学院で学ぼうとしている青年が来られました。『先日、ご馳走になった"冷やし中華"を、また食べたくなったので、お邪魔していいですか?』とのことで、来宅されたのです。

お母さんと息子と家内で、いつもの食材で、一緒に作っていました。お母様は、ご自分の故郷で、彼のおじいちゃんが、引き潮の時に、やって来た孫兵衛に食べさせようと、朝早く獲った、小粒の巻貝を調理して持ってきてくれました。夏場だけの故郷の味覚何だそうで、これが美味しいのです。楊枝で上手に巻き取って、話をしながら食べるにが好いのだそうです。

私の父の故郷も、海浜でしたが、漁村から軍港に変わってしまいましたし、父は孫兵衛の私たちを連れて、帰郷することがなかったのです。夏休みに田舎に帰る、という経験がありませんでした。当時の日本は、そんな時間的、経済的ゆとりのある時代ではなかったのですが。

ですから三浦半島突端の海の味覚が、何か知らないのです。きっと、鯵の小魚や貝などが、ちょっと軍港から外れると、穫れたに違いありません。父の青年期に亡くなった祖父を知らないのですが、もし元気だったら、四人の男の子を連れて行ってくれたかも知れません。

かくいう私も、孫兵衛が遊びに行けない、大陸にいますので、母方の故郷に帰っている様です。"実家"がないのは、子どもたちにも、孫たちにも物足りないことでしょう。今朝は、朝顔が、今季最高数の6個咲いています。一本の蔓に大賑わいです。好い一日をお過ごしください。"冷やし中華"と呼ばれながらも、こちらにない中華料理に、舌鼓を美味しそうに打っていました。

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女医

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『もし医者がいなかったら?』、と想定しますと、今、私は生きていないのです。そうでなければ、ずいぶん不自由な体になっていることでしょう。もし、あの肺炎が奇跡的に治っていても、両腕の肩の鍵盤を断裂してますので、手を挙げることができずに、ぶらりと下げているだけで、かろうじて、振り子の様にするなら、挙げられことができるだけでしょう。中耳炎で、切開手術をしなかったら、耳は聞こえなくなっていたでしょうし、鼓膜も破れてしまったので、聴力が劣ろえていたことでしょう。

医学の力によって、この年まで生きてこれたのを実感しています。昔、《医は仁術》と言われ、憐れみが社会の中に満ち溢れていたそうです。私は医者に助けられて生きてきた割りには、医者になりたいと思ったことがありません。でも、心の医術ならしてみたいと思ったのです。自分に術があるのではないですが、《善き医者》を紹介することならできます。

日本に近代西洋医学をもたらした人に、シーボルトというドイツの医師がいました。1822年に来日し、長崎の出島に「鳴龍塾」を開き、多くの日本人に、医学を教えた功績は実に大きなものがありました。教え子に、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴らいがいます。伊藤の養子は、明治天皇の侍医、その孫は、昭和天皇の最後を看取った侍医でした。

このシーボルトは、来日初期に、楠本滝と結婚し、イネと言う娘がいました。イネは、日独混血でしたので、偏見からいじめを受けます。それにめげず、医学を学び、日本最初の西洋医学医、産科医となって、明治期に医学会で活躍した、誇り高き才女・女性医師でした。

いまだに、日本の社会は、女性軽視、差別、蔑視をするのです。先進諸国の間では、女性が、どの分野でも多く登用されない稀な国です。出産するから、生理があるからでしょうか。でも、上は大臣から、下は私まで、みんな母の子宮に宿って、産道を経て産まれたではありませんか。

どうして大相撲の土俵に、女性は上がってはいけないのでしょうか。高校野球で、バッターボックスに、女性部長は立っったら、どうして叱られなければならないのでしょうか。日本神話の天照大神は、女神ではないでしょうか。大英帝国では、国民の上に、「女王」を戴いているではありませんか。威張っていたヒトラーもムッソリーニもスターリンも、みんなお母さんに頭も上がらない子どもでした。

(長崎の出島の図です)

アオノリュウゼツラン

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この「アオノリュウゼツラン」は、数十年に一度、黄色の花を咲かせるのだそうです。上の写真は、ポルトガルの海岸で咲く様子を写したものです(☞ウイキメディア)。人の一生に一度か二度しか見られないと言う花は、何とも神秘的ですね。私も、『一度は、美しく花開いて見たいものだ!』と思いながら、今日まで生きて来ました。大輪でなくとも、薔薇の様に艶やかでなくても、スミレの様に愛くるしくなくとも、そしてクチナシの様に芳香を放たなくとも好いのです。ただ、天に向かって黙々と、健気に咲く、《野の花の如く》生きたいだけです。

私の愛読書に、『明日は明日自身が思い煩うであろう!』とあるのです。「杞憂(きゆう)」と言う言葉を、中学の時に学んだことがありました。“故事成語の解説“に、次の様にあります。

『昔々中国にあった杞(き)という国がありました。紀元前の周の時代、今の河南省杞県にあった国です。この国にある男がいて、天地が崩れ落ちてきて住む場所もなくなったらどうしようとひどく心配していました。この男、心配のあまり食欲を失い不眠症になってしまいました。この男を心配する人がいて、こう言ってきかせました。

「天とは空気が集まっているところだ。空気のない場所などない。われらの動作や呼吸はまさに天において行っているものだ。天の崩壊など心配する必要はまったくない」

すると心配性の男が「天が空気でできているとしても太陽や月や星は落ちてこないだろうか?」
「太陽や月や星はその空気の積もった中で光っているだけだ。落ちてきてもそれにぶつかってケガをすることはないさ」
「では地が崩れたらどうなるんだ?」
「地は土が積み重なっているだけだ。それが四方を埋めつくし、土のないところなどない。われらは歩き回り、終日この地の上で動いている。地が崩れる心配をするなんて必要ないさ」

この話を聞いて心配性の男は心配が消え大いに喜びました。さとした男もまた心配が消え大喜びしました。」』

とあります。確かに、暑い日が続き、願っている降雨もなく、台風が次々に発生して被害を与え、地震がそこかしこで起こり、人心も乱れ、人の愛が冷えている現代、ちょっと心配なことが多いのです。でも、まだ起こりもしない先に、明日の病気、怪我、失敗、躓き、悪意などを恐れているよりも、今日を精一杯生きることが求められているのでしょう。明日のことは、明日に心配してもらうのが、好い様ですね。

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