ゆっくり生きる

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 『私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくりと歩いて行ったことなどを。 (詩篇42篇4節)」

 「偏屈さ」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、〈かび臭い遺物〉だとでも思われているのでしょうか。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若いみなさんに嫌われるのです。

 確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人は、籠や馬や舟に乗ることができたわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。時間も人の動きも緩慢なことは、急(せ)かされませんので、かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。

 芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、歩行者ならではの観察眼が、そこに記されています。実に緻密に景色や人心の機微を観察しています。新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、

 『荒海や佐渡によことう天の川』

を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、〈のたりのたり〉と流れていた時代の産物なのかも知れません。

 これまで、どの道の達人も、滅入る様な、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代がありました。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの高い質を作り上げてきたのです。

 間もなくやってくる7月23日は、「土用丑の日」です。鰻職人は、『串差し何年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

 ところが、現代は、「即性栽培」のもやしのように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、『無駄だ!』と退けてしまうのです。数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

 日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、以前、「失敗学」の専門家の畑村洋太郎さんが、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後に、大きな人災事故が発生しているのだそうです。

 聖書も、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めます。「あわてること」が、失敗の原因何でしょう。失敗の多い日を生きてきたわたしは、あれやこれやと思い出しては恥ずかしくなっています。暑い日本に、「ゆっくりと生きる!」、そんな生き方が、一番なのです。 

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裏街通りに

 

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 この古びた家は、看板によると「自転車屋さん」だったのです。車社会がやってくる前、自転車が、とても便利でな交通手段でした。近所に自転車屋さんが、今でも三、四軒ほど散歩道にあります。タイヤの空気入れやパンク修理で、この店先は、かつてはにぎやかだったことでしょう。とくに高校が8校もある街ですから、近辺の村や町からの通学生が多かったので、『おじさん!』と声が掛けられて便利に利用されていたことでしょう。なにやら、『チャリン!』がしてきそうでした。最近では、空気入れに〈100円〉もとられ、もうservice ではなくなっているんですね。

 ここ栃木の街は、下野国の国庁が置かれ、古代から中心的な位置を占めていました。とくに家康の亡骸を埋葬した久能山から、日光に改葬して建てられた東照宮ですが、その建築資材や備品などの「日光御用」の物資を、江戸から利根川、渡瀬川、そして巴波川を利用して、ここ栃木には、舟運の「河岸(かし)」があり、その跡が残されています。その集積地が、ここ栃木で、ここから陸路で日光まで運んだのです。

 その後、こちらの農産品や木材や米などを、江戸の街に運んでおり、帰り舟には、塩や塩漬けの魚や蝋(ろう)などが運び上げられていたのです。その集積地である、ここ栃木には、商人たちが買い付け、陸路を馬車などで運んでいたのです。物質や人の往来もにぎやかで、栄えていました。

 家康の墓参を、徳川幕府に課された京都の朝廷は、毎年春には、「例幣使」を送り、その一行が宿を取ったりし、そのために名付けられた日光例幣使街道は、人の行き来があって、この街の人は多くを語りませんが、ちょっと怪しげに感じられた街並み、遊郭などもあったようです。その辺りは取り壊され、新しい世代の新築の住宅地に変わっているようです。

 九十二歳で詩集を出した詩人の柴田トヨは、この巴波川の界隈で奉公に出されて働いたそうで、幸来橋の袂にやって来ては、奉公仲間と話をした懐かしい思い出があるようです。多くの人が渡って利用して来た橋は、語ることなく時の流れと巴波の流れを二重に写して、今も健在です。豊田トヨの詩集「くじけない」に、次の詩があります。

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何か 

つれえことがあったら

母ちゃんを 思い出せ

だれかに

あたっちゃ だめだ

あとで 自分が

嫌になる

ほら 見てみなせ  

窓辺に

陽がさしてきたよ

鳥が 啼いてるよ

元気だせ 元気だせ

鳥が 啼いてるよ

聞こえるか 健一 ( 『倅に』)

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市立図書館への道筋に、先年廃業された「下駄屋さん」の看板が下がっています。店舗と工場があって、高級な下駄材の桐などの原料材が運ばれてきては作られていたのです。店で売られ、東京などの需要にも応えていたのでしょう。散歩の途中に、ガラス戸越しに店内を眺めたりしましたが、懐かしい下駄が陳列されていました。もう利用する人もわずかになったり、主人が亡くなったりしてしまっています。

 小学校の通学は、そんな高級なものではなかったのですが、下駄でした。母の婦人用の細身の物が履きやすくて、緒をすげてもらっては、カランコロンと歩いていました。石を蹴るといい音がして、気持ちよかったのを思い出します。今でも、下駄履きで、この街を散歩してみたい衝動に駆られていますが、家内は、『うん!』とは答えてくれません。

 昔恋しい巴波の桜や柳、幕末、明治のご維新には、戦いも繰り広げられて、公園には亡くなられた侍の墓も残されてあります。栄枯盛衰、そんな殺伐な時代があったなどとは、思えないほど、静かで長閑な街並みに、最近では観光客が戻ってきています。

栄えた街の影には、負の遺産も残されているようです。過去には、何もなかったようにして、今のたたずまいがありますが、人の営みにも、街並みにも、光と闇、笑いと涙、美と醜を併せ持っているのでしょう。

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追憶

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 小学校に通った街に、大きな工場が何社もあったからでしょうか、旧国鉄線の引き込み線があって、原材料や製品の上積み下ろしが行われていた関係で、そこに止まっている貨車などで遊んでいました。また「保線区」の作業所なども、近くにあって、そこに出入りするのを、子どもなのにl許されていましたから、まだそんな呼称のない頃の「鉄道フアン(鉄チャン)」の端くれでした。踏切の遮断機の上げ下ろしもさせてもらった、そんな子ども時代がありました。

 上の写真は、かつて日本の技術力や開発力の粋をこめて作られた「特急あじあ号」を牽引したのが「パシナ形機関車」でした。次は、やがて諏訪や岐阜県下から名古屋に至る中央線の多摩川鉄橋を渡った機関車です。そして、東武鉄道の蒲生駅で最後運行を記念した機関車です。さらに、小山から高崎に至る両毛線の途中駅の栃木」を走った列車です。そして一番下は、母のふるさとに帰る山陰本線の余部鉄橋を渡る蒸気機関車の雄姿です。

 年を重ねたせいでしょうか、nostalgie を感じてしまう令和の代(よ)です。鉄路の上を、煤けた汽笛の音と蒸気の発する音と車輪の金属音で引いた列車で、何百万、何千万、何億もの数えきれない人と物を運んだ蒸気機関車の古写真です。出雲に行ったのも、東京に越して行ったのも、立川から五日市に行ったのも、『ポーッ!』と鳴らしながら、ゴトゴトと言いながら走り継いだ機関車でした。

 ここでは、週末に限って、東武鉄道の鬼怒川線、真岡(もおか)鉄道線(JR水戸線の下館と茂木を運行)で、蒸気機関車を走らせているようです。コロナ騒動が少し落ち着いたら、出掛けてみたいなと思っているのです。煤(すす)の匂いは、鼻腔が覚えているでしょうか。「鉄道員(ポッポ屋)」で機関手を演じた高倉健が、「テネシー・ワルツ」を口笛で吹いていたのも、そのもくもくした煙と煤の中でした。

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こう言った写真を見ていると、蒸気や煙が目の裏に浮かんでまいります。ジェームス・ディーンが演じたキャルのお父さんが、キャベツを大都会に出荷した時に、それを運んでいたのも、蒸気機関車でした。何かの理由で、キャベツの出荷できなくなってしまって、大損をしましたが、キャルが大豆の取引で儲けて、お父さんを助けようとしていました。また離婚した母親のいる街に、貨車の天井の上に乗って、無賃乗車の汽車も、蒸気機関車が牽引していました。懐かしい場面です。

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ラジオ体操会

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 ここの町内会には、日曜日の朝ごとに、「ラジオ体操会」があって、誘われて、家内と参加するようになりました。この写真は、今朝、家内が撮影したもので、じーさんズ&ばーさんズです。真冬に入る前に、一区切りする時に、ご苦労さん、よくやりましたの「即席ラーメン」が、市長からもらえるのです。

 この写真には映り込んでいませんが、コリー種の犬が、ご主人に連れられて来ているのです。日差しが強かった昨日は、会場になっている市の駐車場の端にある木の下にいて待っていました。ラジオ体操第二の最後の段が聞こえたら、立ち上がってご主人さまのところに走って来たのです。その賢さに驚きました。

 自治会の仲間、老人会や行事に参加して、日曜日の午後は、「カラオケ会」があって、〈紅多数〉の中に〈白一点〉で参加しました。コロナ自粛で歌わずに、「綾小路きみまろ」のVTRを視聴したのです。その演題は、「あれから40年」でした。

 ずいぶん不躾な芸ですが、爆笑の連続で、まずこれまでに経験したことのない時を過ごしてしまいました。見知らぬ土地に住み始めて、《ご近所を大切に!》で、交わりに積極的に参加しています。去年の秋には、出流川の上流の名水で打った、新蕎麦を、ご馳走になりました。百円で乗れる「ゆうゆうバス」に乗ってでした。

 余所者ですが、みなさんにうちとけようとしているのです。昨日は、お米屋さんをしてこられて、道路整備で近くに越されておいでの同世代の方が、お二人の子育てを終えて老後を過ごしていると言っていました。息子さんが、大手の自動車会社の北京工場に出張されているとのお話で、わたしも中国にいたことを話したのです。また、この街で、明治に入って曾祖父さんが始めた写真屋を、今は息子さんに譲っていると言うご夫婦もおいでです。

様々な人生を過ごされて、お一人お一人の今です。伝統ある街で、それぞれにお仕事をされてきて、今は悠悠自適に過ごしての一週一度のラジオ体操です。

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聞かれ答えてくださる

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 『ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。 (イザヤ3019節)』

 一人っ子で、養父母の家庭にもらわれたのですが、養父は、物心がつく前に亡くなって、養母と二人の家庭で育った母は、『寂しかった。自分には、友だちの家のように兄弟姉妹がいなかったの!』と、私に言ったことがありました。わたしが育った家の中では、親子や兄弟のケンカがよくあって、それがかえって母の寂しかった子どもの時の記憶を消し飛ばしていたのでしょう。

 そんな母は、4人の男の子を産んで、懸命に育ててくれました。三男の私は、小学校入学前に、肺炎に罹り、街の国立病院に入院したのです。母は、奥深い渓谷沿いの家に兄たちと弟を残して、今にも死にそうな私の寝台の下で寝て、入院中、懸命の世話をし続けてくれました。

 また当時、高価だったペニシリンを、父は使うように主治医に言ったようです。このペニシリンは、1928年にイギリス・スコットランドのアレクサンダー・フレミングによって発見された、抗生物質でした。母の献身的な世話と、この父の犠牲的な出費で使ってくれた薬のおかげで、死ぬところを、生き返すことができたのです。親への感謝は尽きません。

 父も、母に似た家庭環境の中で育っていて、「めんこい仔馬」とか「主我を愛す」を涙ぐんで歌うほどで、実母の愛に恵まれない子ども時代を過ごしているのです。あの時代、「庶子(しょし/父親の最初の男でありながら相続権のない子)」としての父の境遇は、辛いものがあったに違いありません。

 でも、そんな背景の父も母も、よく、わたしたち4人を育ててくれたのです。上の兄の子、父の孫二人は抱いたことがありましたが、すぐ上の兄と弟、そして私の子を抱くことなく、帰天しています。人の一生とは、ままならないものですが、しっかりと受け留める時を経て、自分の子たちを一人前に育て上げてくれたのです。

 だれも、人は孤独なのですが、ことさらに今日日、物や情報は溢れ、人は増え、生活は便利になり、美味し物を食べられ、世界中に出掛けられるのに、心の空洞が大きな問題とされる時代になっているようです。身の回りに、心を打ち明ける人を持たない時代であります。

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 人がいないことはないのに、打ち解けて、心の思を吐露できる間柄の人、家族でさえも何か疎遠な時代になってしまっています。先日、ラジオに出ていた方が、弟さんを「孤独死」で失ったと言っていました。現代人は、他者に迷惑をかけることのないような生き方をしているようで、かえってそれが迷惑になってるのです。心の内にあることを、兄にでさえも漏らすことのできない、そんな身近な関係を持っていない人の多い現代なのでしょう。

 そして、人に会わないですむ生き方をしている人が多そうです。生まれて、甲斐甲斐しく世話をしてくれた母親がいて、下の世話から食べ物や洗濯やPTA出席、喧嘩で怪我をさせてお詫びに行ったりしてくれた親がいて、大きくなっているのを忘れてしまっています。今や〈関係の疎遠〉の時代になってしまっているのです。

 まだ若かった時に受けた教えの中に、“ heart knitting (心と心を編み合して重ね合うこと)の勧めがありました。一番は、心の中で鬩(せめぎ)合う思い、肉の欲、異性からの誘惑など、なんでも話せる友、祈り手、先輩、同輩、助言者、叱責者を持つことの大切さを学んだのです。

 今は、人と関わらなくなって、関係が希薄になっています。億劫になっているのです。人と関わらないで、多くの人が生きています。独りぼっちなら、相手に気遣いしないですむし、言葉や態度で傷つかないですむからです。いよいよ、人はそうなっていきます。

 よく行く日帰り温泉の横に、〈⬜︎⬜︎ club〉と看板のある “ internet cafe “ があります。そこには個室があって、何時間も、何日も、何週も過ごすことができる生活空間なのです。トラブルを避けたいなら、独りぼっちで過ごせるので、そう言った cafe 、食事もできる場が多くでき始めています。

 かたや温泉は、今は〈黙浴〉ですが、裃も鎧兜もつけないで、裸で行き合う、湯気の立つ空間なのです。初老、中老、長老、たまに若者のいる、わたしの行く入浴施設です。譲り合い、気遣いしながら垢と過去を洗い落とそうとして、神経系統をしっかり緩めて、ボーッとして時を過ごしているお湯空間です。脛に、お腹に、背中に、そして心に傷を負う老人たちの憩いの場です。

 『これまで何をなさって生きて来られたのですか?』と、喉まで言葉が上がってきますが、その言葉を飲み込んで、空を見つめている2時間ほどの時間は、至福の時です。回数券のお得意さんばかりのようで、曜日によりますが、もう顔馴になってしまっています。このオジイさんたちは、面倒な人間関係を嫌わず、避けないで生きてきたのでしょう。お湯をかぶるにも、飛び散らないような工夫の人も、相手構わずの人もいて、さまざまな人間模様の世界なのです。

 きっと今日日の若い世代の人たちの多くは、〈お金で済ませたい〉と言う生き方なのでしょう。相手に迷惑や面倒をかけて、生きない生き方に拘るのです。聞かなくてもいいことを、あえて聞いたりしないのです。人と人に接点を置かないで、〈ボッチ〉の世界は、人間の世界ではないようです。

 私たちの創造主でいらっしゃる神さまは、私たちの魂の叫び、声にならない声をお聞きくださるのです。そして、優しく、静かな細い声で、語ってくださるのです。その孤独を熟知される神さまが、慰め、励ますように、ある時は叱るようにも語ってくださいます。

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別離

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 『心頭滅却すれば火もまた涼し!』と言われても、2022年夏の日本列島は、もうしょうがないほどの「猛暑」、「酷暑」です。言うまいと思いますが、どなたの口からも、“ ATUI ❗️がもれてしまっています。この七月、どうなるやら心配ですが、荒野の40年、雲が人々を覆って守られた様に、21世紀の私たちの「覆い」は、主でいらっしゃいます。『外出しないで!』、『エアコンつけて!』、『水分摂って!』、『梅干し食べて!』と、Message が、子どもたちから届いています。

 大平山の紫陽花を観に、親しくさせていただいているご婦人が、お連れくださる約束が、昨日あったのですが、一昨日、友人の招きで、県南の野木まで出掛けて、疲れたこともあり、子どもたちの忠告もあって、申し訳なくもお断りしてしまいました。蕎麦、卵焼き、焼き鳥は、次の機会に延期になってしまったのです。

 戦争や酷暑の夏、砲弾炸裂のウクライナの地に、平和が回復されることを祈り続けていますが、人や国の欲や憎しみや謀略はやみません。でも、主なる神さまは、全てをご覧になっていらっしゃいます。「人の血を流す罪」」は、決して蔑ろにはされないからです。

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 良くしてくださった方が、亡くなられたとの知らせが、昨日、アメリカにおいでのお嬢さまからありました。中国に参ります前、週日の夕方、この方の会社の売り上げ計算のアルバイトの機会を、わざわざ設けてくださったのです。1時間ほどの作業に携わったことがありました。

 交わりをしたい、助けたいと言う思いがあって、そうしてくれた、同じ時代の風を浴びながら生きて来た、一歳上の同世代の兄の様な方でした。仕事が終わると、焼き鳥屋、鰻屋、寿司屋、中華料理店と連れ出してくれました。帰りには、必ずと言っていいほど、帰りを待つ家内に、その「折り詰め」を用意させていただき、持たせてくださったのです。その家内も、鰻屋さんや中華飯店に同席したことがありました。

 子どものような目を向けて、シャイな兄でした。彼もまた、天に凱旋しているのでしょう。良き理解者、友、兄でありました。主に仕える者への敬意を示してくださったのです。愛する方を亡くされた奥さま、お嬢さま、息子さん、お孫さんたちの悲しみを、主が涙を拭って慰めてくださいますように願う、文月七月であります。

 そう言えば、あの何種類もの鳥の部位を、注文して焼いてもらい、日に二串ほどしかない希少部位まで注文してくれたのです。25でやめた酒でしたが、『これは美味しいから、今日だけ、猪口いっぱいだけ!!』と、菊ちゃんに言われて、30年ぶりに飲んだこともありました。あれ以来、口にしていないお酒ですが、美味しかったのです。つい1週間ほど前に、そんなこと思い出して、家内と懐かしく話していた矢先の人生の後半に出会った友との別離でした。主の平安!

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教師を見続ける

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 『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 (イザヤ3020節)』

 もう今では、卒業式に歌わなくなったと言われる「仰げば尊し」ですが、恩師への感謝が溢れていて、素晴らしい歌だと思っているのは、もうわれわれの世代だけなのかも知れません。

 諸国漫遊をしていた河井継之助が、備中松山を訪ねています。道後温泉に入るためではありませんでした。そこに農の出で、漢学者となり、武士の身分を授けられて、松山藩の財政危機を救う敏腕を振るった、山田方谷がいました。十万両(今のお金に換算して三百億円)の財政赤字を、七年間で黒字に転じた藩財政の担い手でした。

 松山藩の領地であった西方村(現高梁市中井町西方)で生まれていますが、五歳の年に、丸川松庵の門に入って学ぶほどの「神童(しんどう)」の誉れが高く、京都で学び、帰藩すると、松山藩の有習館の会頭(教師)となり、三十五歳で学頭(校長)になっています。

 四十五歳で、松山藩主、勝静から元締役兼吟味役(財政担当責任者)に任命されて、その財政改革を行ったのです。主君が徳川幕府の「老中」になると、それを補佐したり、家老として藩政に関わっています。ですから、その方谷の名は、全国に広まり、多くの他藩の若者たちが、方谷のもとを訪ねています。

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 後に長岡藩の家老となる河井継之助も、その一人でした。西方村にいた方谷を、安政六年(1859年)に訪ねたのです。方谷が五十五歳、継之助が三十二歳ほどでした。訪ねて来た継之助の卓見ぶりを見抜いた方谷は、継之助を村外れまで見送ったのです。継之助は、川を渡って少し行きますと、継之助は立ち止まって振り返り、笠を取って、地に土下座して方谷を拝しています。また歩き、また歩いて、このことを三度も繰り返したのだそうです。

 ですから戊辰戦争で亡くなった継之助が、どれほどの人物だったかが分かります。小藩には、そんな世に隠れた逸材がいたことになります。戊辰戦争が、箱館戦争で終結して、明治維新政府が、薩摩、長州、土佐などの藩の藩士たちによって、機能していく上で、さまざまな身勝手さがあったのですが、朝敵で反旗を上げた河井継之助の様な人物がいたら、明治の世は、もっと違って、国民主導の政が行われていたことでしょう。

 そうならない歴史の不思議さに、残念な思いがありますが、責務を正しく果たさない者への審判は、後の世に任せて、自分は、真実、誠実、忠実に、創造者の前にあり続けたい者です。今日でも、この困難な国際情勢のもとで、他者のために働ける人材が、多く隠れているのではないでしょうか。

 わたしは、良き師に恵まれて、今日をあるを得ているのを覚えて、心からの感謝を覚えるのです。学校でもそうでしたし、教会でも伝道訓練でも、愛と仰いで学んだみなさんは、病んで召されてましたが、天に凱旋されて、喜び迎えられる、主の僕たちでした。その教えは残り、真理に目を開き続けています。わが救いの君、イエスさまは、今も「まことの師」であり続けていらっしゃるのです。

(“ キリスト教クリップアート “ からです)

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「生きる」 

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私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

(浦添市立湊川中学校3年 相良倫子)

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 戦争のあったことを語り継ぎ、若い世代が平和を願っていく想いは、今まさに切り広げられている「ウクライナ戦争」を目(ま)のあたりにすると、当然なのだと思います。かつて戦場だった沖縄で、生まれ育った若い人たちは、祖父母のもうひとつ前の世代の体験談を聞いたり、書物や写真集や映像で見て、また記念碑の前に立ったたりし、戦没者の記名碑を見ての想いなのでしょう。

 この詩を読んで、日中友好下に、中国から来られて、日本の理工系の大学院で学んでいた方が語った言葉が忘れられません。広島の原爆記念館に行かれての感想です。『日本は、戦争の被害者の記念碑を作って、その被害を忘れない様にしていますが、どうして「加害者だった記念碑」をなおざりにしているのでしょうか。それでは片手落ちではないでしょうか。』とです。

 『エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。 (ヨエル3章19節)』

 穏やかな口調でしたが、被害者の子や孫の想いとすれば、この想いも当然ではないでしょうか。祖国を軍靴で踏み躙(にじ)られたのですから、多くの命が犠牲になった事実を、忘れないで欲しかったのでしょう。今、「広島県」をブログに載せようとしていますが、そんな思いがあって、草稿が進まないのです。

 後の世代に、加害者だった時代の出来事、歴史的事実を、正しく伝えられていないと、被害者意識だけになってしまうのはいけません。事実の誇張もありますが、数の問題ではなく、事実は厳然として残されていて、戦争を知らない大人が、作為的に「歴史の改竄(かいざん)」をしていますし、事実全部を伝えてはいません。偏らない歴史教育は、IT教育の強化と同じ様に大切ではないでしょうか。

 昨日、屈託ない小学三年生のお二人と会って、しばらく話したり、フレスビー遊んだりしたので、殊更に、そんな思いにされました。「似非(えせ)軍国少年」の歪んだ時期を通って来た自分としては、令和の世の子どもたちの無邪気さが羨ましかったのです。

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あれから17回目の夏

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 小さな絵ですが、どこで入手したか覚えていなのですが、強烈な印象を受けた一枚です。還暦を過ぎて、みなさんが引退される時期に、家内の手を取って、人生の双六の上がりをするような気持ちで、2006年に香港に行きました。中国語を本場で学び、学んでいる間に、上がりの道すじが開けると信じてでした。

 その香港の樹木の茂る閑静な施設で、1週間後には、香港九龍駅から寝台列車で北京に行くまでの間過ごしたのです。真夏の8月のことでした。中国での volunteer 活動を志すみなさんが集まっていました。世界のいろいろな国から来ていたのです。スイス、ブラジル、イギリス、カナダ、アメリカなどからで、ほとんどが若い方々で、家内と私が一番の年長でした。

 美味しいイギリス風香港料理の賄いを受け、とても好い静かな時を過ごすことができました。長女が休暇をとって、英語のおぼつかない私たちのために、通訳の労をとってくれたのです。『心の中にあることを分かち合ってください!』と、事務局の方に言われて、聖書から1時間ほど、長女の通訳でお話をしましたら、イギリスから来ておられた夫妻に、感謝の握手を求められました。

 彼らは、雲南省の昆明(Kūnmíng)に直接行かれ、私たちは北京に向かったのです。その他には、青海省や黒竜江省などに、やがて行くことになる若いみなさんがいました。あの日から16年の歳月が過ぎました。まだ元気が旺盛で、歳には見られず、実際の歳を答えると驚かれていました。そして、さらに歳を重ねた今、北関東の栃木に住んで、越し方を思い返しているのです。

江雪    柳 宗元

千山鳥飛絶
万径人蹤滅
孤舟蓑笠翁
独釣寒江雪

 この絵は、「孤舟(こしゅう)」と呼べるでしょうか。この船頭さんは、どこに向かっていたのでしょうか。にぎやかな子育て時代を終えて、自分を見つめ直したり、人生の上がりのために、環境を変えて静かに過ごしたかったからではないと、あの時を思い返しています。その気分に、この舟の絵が似通(にかよ)っていたのです。

 実際は、キャセイ航空機で行ったのですが、気分は、「孤舟」に乗って、新しい地に漕ぎ進んでいたようです。自分で櫓を漕いでも、人生を導かれる神さまが、荒れた海をしずめて、背中を押されて進むようにして、歩み始め、ここにたどり着いたのです。未知の大南原を、自分一人で懸命に漕いでいるように感じても、追い風を受け、手を引かれるようにして、今日まで生きてきました。

 見守られ、声援を送られ、激励され、天からの送りで生きて今日あるのは、ただ「恩寵」なのです。どこに進んで行くのでしょうか。これからの日々にも、新しい驚きの出会いや出来事が待っていることでしょう。38度の酷暑の日の昨夜、雷光が光り、雷鳴が響き渡って、雷雨が強烈に降っていました。水かさが少なくなった巴波川に、雨水が注がれ込んで、流れがイキイキとした朝です。

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