人は神になれるのでしょうか?

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 権威の座に上りつめて天下人となった者も、その後継者も、この人の同調者も、この偉業を遂げた人物を、〈神の座〉に就かせたい願いが強固にあるのでしょうか。

 昨日の市民大学教養講座は、徳川家康を取り上げて、国学院大学栃木短期大学の坂本達彦教授の講義がありました。「徳川家康の半生と下野国」と題してでした。この栃木との関わりを中心に、「神としての家康」についてお話があったのです。東照大権現、不動明王、神として家康の亡骸(なきがら)は、その子・二代将軍秀忠が造営した日光東照宮に納められてあるのです。

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 まず、スクリーンに、その家康を描いた絵が映し出されたのです。『徳川家康三方ヶ原戦役画像』と言われているものです。およそ江戸期以前、人物を描く時、ほとんどの画が、斜めに顔を向けた姿が描かれています。ところがこの絵は、真正面から描かれてあるのです。講師は、家康の座る椅子に聞き手を注目させて、この椅子は、戦場では座ることのない物であることを言いましたから、画が戦場の家康であるのは誤りあるとしています。表情も、足組も独特です。少なくとも、〈神とされた家康〉が、ここに描かれているのです。

 大権現、東照宮という名で、礼拝を目的に、神格化された、神とされた家康を描いたのだと解説しておられました。家康がなくなった時には、家康の子の秀忠は、亡骸を久能に埋葬し、後に日光に改葬し、日光東照宮に神格化された家康を祀ったのです。その資材は、江戸から利根川、渡瀬川、巴波川を経て運ばれています。

 織田信長(15341582年)、この人の死後に豊臣秀吉(15371598年)、この人の死後に徳川家康(15431616年)が、群雄割拠の戦国の世を平定して、征夷大将軍となり、260年の徳川幕府を開幕しました。

 死して神となって祀られている家康が、関東平野全域を、今も霊的に支配しているから、そのために祈らなければならないという人たちがおいでです。日本一の高い富士山に登って、そこから霊的な支配を打ち破り、日本を支配するキリストなるイエスの名を宣言する人たちもいました。

 全天全地は、神の支配の元にあります。イエスさまは王の王、主の主、栄光の王、万軍の王でいらっしゃいます。高い山に登らなくても、普段の場所で賛美し、御名をほめたたえ、感謝することでよいのではないでしょうか。私は、毎日、神の御名をあがめ、神の国の到来、世の初めからよいことをなされる神のみ旨の今日の分がなされるように、信じて祈っています。またエルサレムの「平安」、遣わされた自分の住む街の「平安」、これまで遣わされた街々、子どもたち四人の住む街の「平安」を、静かに祈るのです。

 霊的な格闘というようなことは致しません。あえて言うなら、イエスさまの勝利を告白し、賛美し、感謝しているでしょうか。家族や親族や友人や主にある兄弟姉妹、近隣のみなさんの祝福を願って祈ってもいます。思いの中に示されたことも祈るようにしています。もちろん自分の生まれて住む国のために、そして世界のためにも祈ります。

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 家康は、数度、この下野国を訪ねていますが、亡くなった後、棺に収められて、葬送の道を、久能山から上野国の館林、佐野、後に「例幣使街道」と呼ばれる道を通って、日光の地に葬られているのでしょう。そこで今も神として支配しているとは信じていません。すでに死した物故者であって、人や社会や国家に影響力を及ぼすことはできないのです。やがて、父なる神の御前に出るのです。

 昨日は、低冷房の市民会館で、汗を流しながらの聴講でした。テレビで、家康が取り上げられているそうですが、テレビを置かないわが家は、史実通りに描かれているのかが気になります。裏切り、謀反、寝返りのあった世を、家康が天下人に上り詰めたのには、驚きを隠し得ません。隣の小山市では、「評定(ひょうじょう)」があって、会津攻めをやめ、関ヶ原の戦いに、家康が向かっています。歴史のなかの人間模様が興味深くてなりません。

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人の顔

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『だれが知恵ある者にふさわしいだろう。だれが事物の意義を知りえよう。人の知恵は、その人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる。 (伝道者8章1節)』

 私たちの国では、いいにつけ悪いにつけ、「男の顔は履歴書」と言われるそうです。また、若い頃に、教えられたのが、アメリカ合衆国の第十六代大統領のリンカーンが語った、『40 歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない!』と言ったことばです。

 どうも〈年相応の顔〉があるのだそうで、歳を重ねたら、それなりの人間の《実り》が顔の表情に現れ、責任感や成熟さなどの重みのある顔であるべきなのかも知れません。ある時、リンカーンが会った男の人の顔が、なんとも良くなかったのだそうです。それで、はっきりとものを言うリンカーンが、そう語ったわけです。社会に対して、次の世代の若者たちに、どう生きてきたかの投影のような顔の表情に、やはり責任があるのでしょう。

 《いい男》とは、造作や容貌が彫刻の彫り物にように整った顔だと言うのではないのです。責任を持って生きてきて、それなりの経験や実績、自信や落ち着いた実りが、顔の表情の中に見られるのでしょう。少なくとも女性のように化粧をしない男性は、生き様、生きてきたように、顔が作り上げられてくるのかも知れません。

 ですから、男の履歴、遍歴によって、《イイ顔》だったり、〈ワルイ顔〉だったりするのです。朝、起き掛けに、ヒゲを剃って、顔を洗って、歯を磨いているのですが、必ず、顔色、目つきを鏡の中で、私はチェックしています。ハタチを過ぎた頃に、友だちに、『どうしてもお前と観たいから一緒に!』と誘われて、新宿の映画館で、映画を観たことがありました。

 それが、ここに貼り付けた写真の高倉健の演じた映画でした。主演の「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」で、35歳で演じた時の写真(上から2番目です)なのです。それ以降、この人は、10年ほど、ヤクザを演じたのです。日本人の多くの男性が、『こんな顔の男になりたい!』、『悪しきを切って成敗し、義理に生きるような、こんな男になりたい!』と、当時の閉塞的な社会の中で、爆発的な勢いと決意の溢れる姿に憧れ、そんな風になってみたい対象、願望のモデルが、この俳優の演じた時の顔や姿だったのです。普通の社会人では、超えられない一線を超えた男の在り方への憧憬だったに違いありません。

 デビュー当時の顔、博徒役の初期の頃の顔はともかく、四十代で浅草ヤクザを演じていた頃には、俳優なのか、本物ヤクザなのかが見分けがつかず、かえって、この演者の口調ややさぐれた生き方や目の鋭さの方が、本物のように見え、本職に一目も二目も置かれるほど、鬼気迫っていました。もちろん演じた(正確には演じさせられたのですが)時の顔です。確かに顔が悪くなっていったのです。演技でしてる顔ではなく、彼が悩んでいて、『これでイイのか!』の不安な葛藤もあって、あんなドスの効いた顔に、じょじょになっていっていたのではないでしょうか。

 そんな自分を、隠すように、大衆の目から隠れるようにして、私生活を送ったのかも知れません。斜陽な映画業界が、生き残りを賭けて打って出たのが、その博徒映画でした。一時期はブーム、旋風を吹き荒らしたのです。その動きに、ハタチの私も友人も載せられましたが、それを架空の世界の中に収めて、ただの観劇者で終わりました。一緒に観た彼は、戦死したお父さんの縁故で就職をし、自分も恩師の推薦で仕事を得たのです。

 2013113日に、秋の褒賞でしょうか、文化勲章を、高倉健が受賞しています(一番下の写真です)。その翌年の1110日に、83歳で亡くなっています。皺や表情に、その翳りが残っているように思われます。博徒や受刑者などを、おもに演じた役者でしたが、晩年は、穏やかな目になっていました。しかし、映画で役者として、outlaw の世界の男を演じ続けて、この人の顔が出来上がったに違いありません。

 まさに演じた演技が、人の顔の表情を作ったに違いないなと思わされて仕方がありません。まだ二十代前半に、大学を出て、俳優としてデビューして間もない頃の写真(一番上にある写真です)のまま、『堅気のサラリーマンや父親を演じていたら、あんな顔にはならなかったのではないのでは!』と思ってしまうのです。

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 反社会の人を演じたこの人の〈心の葛藤〉を思う時に、演技が人の顔を作ってしまったのは、残念で仕方がありません。聖書の中に、

『これは、預言者(ゼカリア)を通して言われた事が成就するために起こったのである。 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ2149節)』

とあります。《柔和さ》に溢れたイエスさまを記しています。人を威嚇したり、激しい口調で話さず、慈愛のこもった眼差しで見つめられた、救い主でした。ただ偽善や罪に満ちた者たちには、激しい叱責や怒りを示されたのです。なぜかと言いますと、《義》に生き、《義》を行ったから、罪を憎まれたのです。この救い主を信じる私も、《柔和さ》に溢れた者でありたいと願いながら、今でも生きております。

 役者を演じて、自分の人生を生き通して、この方が、国から表彰されたのは、素晴らしいことだったと思います。一事に励んで、主人公に成り切ろうと、懸命に演じ続けて、自分の生を全うしたことは事実です。その顔が、さまざまな経験の上に出来上がり、変えられ、その一生は、彼独自のものなのです。それぞれ、だれの顔も、〈表看板〉であって、きっと生き様が刻み込まれていて、拭えないのでしょうか。休みなく演じ続けた10年の年月は、重いものなのでしょう。

 顔が、〈心の鏡〉であると言われるのは、生き様や、生きる上での価値観や人生観が、顔に歴然として現れてしまうからなのでしょう。何を見ながら生きたか、何を思いながら過ごしたかと、今とは深く繋がっているのだろうと思われます。これは観相学の世界のことではありません。リンカーンが言った言葉も、その人の顔に、無責任な、変えようとしないで生きてきた生き様が、映し出されていたのを見て、『四十男の責任を持て!』と言ったのでしょう。

 高倉健の顔は、男にモデルのような顔だと思わせた顔でした。二十歳の私も、映画俳優のような顔になりたいと思ったのです。心や価値観などを真似るのではなく、架空の世界に生きる役者の演じた顔を求めたのです。もう、今やそんな願いはありません。二十代の半ばで、生きておられるイエスさまにお会いして、願望も変わって、今を迎えています。付け焼き刃ではなく、本物の柔和さを表わしたい願いなのです。

 ピカートと言う人が、『顔はなによりも、先ず神によって眺められるために存在してるのだからである。一人の人間の顔を眺めること、・・・それはあたかも、神の行いを吟味しようとするもののようなのだ。(略)人間の顔が愛によって取り囲まれていない場合、顔は硬化してしまう。(みすず書房刊「人間とその顔」p.6)』と言っています。そう、硬化してしまうことないように生きる必要が、私たちにはあるのでしょう。

( “ Christian clip art “ の「子ロバに乗られイエスさま」です)

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話すということの謙遜さ

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 ラジオに育てられた自分なので、最近のラジオ放送を聞いていて思うことがあります。朝七時、夕方六時のニュースを、NHKのラジオ放送で、ほとんど毎日聞くのですが、アナウンサー、今はキャスターというそうで、エグティブとかシニアの付く方たちでも、言い淀んだり、噛んだり、言い間違ったりする語りが目立つのです。

 父の仕事場に、街のNHKの放送局から、ラジオ放送取材に来たアナウンサーがいたそうです。東京に越してから、上の兄が、テレビに出ると言うので、父がテレビを買って観るようになった頃でした。テレビに映し出されるアナウンサーを見た時、父が、『彼の取材を受けたことがあったよ!』と、誰かも、名前で教えてくれました。ほとんど完璧という語りを繰り返しておいででした。

 放送のミスが、批判対象ではなく、楽しく語り継がれたそうで、その人柄が、ニュースアナウンスに出ていたのでしょう。大きな日本放送協会と言う組織の中にあって、『争い事が大嫌いで、権力や地位に、何の興味も無かった父でした!』と、お嬢さんが語ったそうです。民放に横滑りする人の多い中、古き良き時代の代表のようで、頑固だったのでしょう。

 自分の同窓の先輩で、人気のあったアナウンサーがいました。この方は、〈当マイクロホン〉と、一人称で自分を語る、破格の話し手でした。若い日の鹿児島放送局勤務時に、この季節の高校野球選手権の県大会で、鴻池球場で実況中継を担当していました。『お母さん、あなたの息子さんがバッターボックスに入っています!』、と個人的なことに触れたことで有名でした。

 また、〈立て板に水〉の様な、お笑い芸人の話しっぷりには疲れますが、落語家の噺には、この「間」があるのです。その一瞬が、次への期待を膨らませて、次の言葉に聞き耳を立てて、集中させてくれるのです。この方の「間(ま)」の撮り方が独特でした。どうも、この方の先輩のアナウンサーに似た話し方だったでしょうか。説教の時に、「間」を話の中に置くことの大切さを感じた私は、よく真似をしました。

 聞く人を疲れさせないで、次の話に、瞬間、期待をもってもらうために、私が学んで、真似たただ一つの説教術でした。私の恩師は、説教の方法もでしたが、態度を教えてくれたのを思い出します。昔、山室軍平と言う救世軍の大将がいました。牧師さんです。江戸時代に行われていた講話の話を、福音宣教に応用し、聴衆者、教会に来られる信者さんや、初来者に語ると、多くの人が、福音説教に応答して、信仰者とされたと聞いています。

 話せばいいのではなく、どう言う風に話すか、どんな態度で話すか、が大切だったのです。人気取りのためではなく、当然で、先輩たちが、実に厳しく指導した時代があって、その叱責や叩かれるようなこともあったようです。それが、アナウンサーでも、噺家でも、牧師さんでも、「プロ Professional 」の自覚を持った話し手が育ったのだそうです。

 今朝も、メインキャスターが、聞いていた間で、二度 ミスしていました。いつでしたか、NHKのアナウンサーが講師の「朗読奉仕」の講習会があって、家内が参加していた時期があったのです。裏話から、極意まで、間違えても心の平静を保つ方法などを学んで、実に有益だったと言っていたことがありました。四十年以上も前のことです。

 人は、だれもが話すのですが、日曜日の講壇で話した後、夕べになって家内に点検をしてもらった時期がありました。それは、自己満足させないで、改善させてくれたのは感謝だったのです。ある教会で説教をした後に、一人の方が、『私が以前いた教団の牧師さんたちの話し方、話の構成などが似ておいでです!』と言ってくれました。同じ福音を語る者として、宣教師さんから学んだのですが、日本の歴(れっき)とした説経者に似ていると言われて、若い私は、劣等感から出られたのです。

 けっこう厳しい基準で、人の話を聞く習性があって、とても印象的だったことがありました。改革派の牧師さんで、穏退後、開拓伝道をされた伝道所でなさった、岡田稔牧師の説教を聞いた説経だっでしょうか。決して届きえない素晴らしい説教だったのです。上手な人は多くおられますが、まさに《実》のある話ぶりに圧倒された若い日でした。

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 『主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。 (箴言1533節)』

 『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。 (同224節)」

 牧師にしろ、アナウンサーにしろ、噺家にしろ、「話」は、一朝一夕には成らないものだというのが分かるのです。賞賛される跳ぶような勢いの若い人には、《謙遜》が必要で、燻銀のような老成した器からは、《謙遜を学ばれた跡》が見られるのです。今、友人の説教を毎週聞かせてもらっています。大好きです。

[付録]  名物アナウンスを活字でお伝えします。ベルリンオリンピック(1936年)で、二百米平泳ぎで、前畑勝利を実況した、河西三省アナです。

 『🏅 前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲン(※引用ママ)も出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です。』   YouTubeで聞くことができます!

( 「旧式のマイクロフォン」、「謙遜な人モーセ」です)

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おめでとう!

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老いゆきて 返しし免許 惜しむ猛暑(なつ)

 照り返しの強烈なアスファルトを、歩いて買い物に行きますと、『車があったらなあ!』と思わず独り言してしまいます。先週は、家内の通院日で、2時間かけて長男が来てくれました。〈男五十〉、親孝行には、忙しい身なのに、喜んで駆け付けてくれたのです。妹たちや弟の分も、との思いででしょうか。『あの免許証を更新して、今手元にあったらなあ!』、と仕切りに思う時がある私なのですが、その犠牲に感謝しているのです。

 十三年間の運転の blank(休止中の期間)で、『被害者になっても、加害者になったらいけない!』と決断して、免許の更新をしないでいたのです。その翌々年に、急遽帰国して、家内が入院したのです。車が運転できたら、様々に便利でしたが、東武宇都宮線で直に行けるので、定期券で病院に通ったのですが、それで3か月通い、退院後は、タクシーと息子の送り迎えで過ごすことができたのです。

 今回の通院の帰り道では、回転寿司で昼を済ませ、家内は、お土産に名物菓子店で、〈あんみつセット〉を買って、帰りに息子に持たせていました。『親しき仲にも感謝あり!』でしょうか。

 高校二年生の時に、母が、交通事故にあって、11か月ほど、隣街にあった共済組合病院に入院したことがありました。怪我で担ぎ込まれた街の病院での初期処置がよくなくて、化膿し、両足切断の恐れがあったのです。病院の待合室横のベンチに横になっている母は、苦痛に耐えていて、泣き言を言いませんでした。『こんなに強いのか!』と思わされた時でした。

 隣町の病院に転院して、切断は回避でき、長期入院となってしまったのです。兄たちは、家にいない時期でしたから、父と一緒に三男坊の私が、家のことを交互にし、母を見舞ったり、父が作った野菜スープや洗濯物を、バスに乗っては届けたりしたのです。

 興味深かったのは、母の入院した部屋が大部屋で、女性病室で、「女名主(おんななぬし)」が仕切っていたのです。副名主などがいて、序列の社会で、何かと意地悪やいじめがあったではありませんか。ぶん殴ってやろうと思ったほどでしたが、女に手を挙げてはいけない、しかも病人ですから、じっと我慢の子でいたのです。母の体を、行くたびに、お湯を運んで拭いて上げるのを、快く思わずに、そんな家族の世話を受けることのない名主が、母をいじめのターゲットにしたのです。あの子分衆のヘツライは大したものでした。

 母は、辛い子ども時代を通過してきたからでしょうか、クリスチャンだったからでしょうか、そんな仕打ちに〈平気の平左〉で、相手にしなかったのです。母は自分の痛みで、それどころではなかったこともあります。心根の強い母でした。病院社会の中に、治癒の遅い患者の自暴自棄、同病者への妬みと、様々に、心も病んでしまう人がるのです。それに追随して、自分への攻撃を交わす取り巻きがいて、もう悪社会そのものだったのです。

 母の傷跡を見たことがありますが、それは、医療ミスの跡で、夏場でも母は、厚手のストッキングを、その後ずっと着けていたほどです。その後、母が五十代の初めに、子宮がんになって、日赤病院に、9ヶ月ほど入院したのです。半年の余命の診断を、父に代わって、主治医から私が聞いたのです。

 それを父に伝えたら、『準、覚悟しような!』と言ったのです。その父は、61歳で、蜘蛛膜下出血、脳溢血で、あっけなく亡くなってしまいました。母は父と死別して、40年ほど生きて、95歳で帰天したのです。かく言う私は、外科系の怪我などで、入院を繰り返して、家内の入院以後、持病の腰痛も起こらず、風邪をひかないのです。一昨日、炎天下の散歩で疲れてしまったのでしょうか、めずらしきお腹を壊したのですが、もう回復しました。

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 祈りは、『二人が同時期に倒れないで済むように!』との嘆願ですが、父なる神さまは、それをお聞きくださっているに違いないと、感謝しているところです。そんな私たちに、声をかけてくれて〈日本ラーメン〉を食べたいと、遠慮がちに言った、二人の中国の街から見舞いに来てくださったお二人を、車で連れ出してくださる若き友人がいて、隣街のラーメン店にお連れいただきました。また老舗のケーキ店の焼き菓子を、お二人に、買うこともできたのです。

 一人の姉妹は、事業で忙しいのに、一週間の休みをとって、あちらのみなさんの愛心を届けてくださったのです。ここにいる間、スマホでお仕事もされておいででした。もう一人の方は、ずっと説教の通訳をしてくださり、お世話くださった姉妹です。学校の教師を、定年退職されて、コロナも収まりかけて、『やっと機会が与えられて訪ねられました!』言って来てくださったのです。ですから、感謝のつもりで、教会のみなさんにも、日本の有名なクッキーを買って持って行ってもらいました。

 さて、ラジオ体操仲間も、入院、手術、参加不能と、入れ替わりに、体調不良のようです。加齢と病気、人間の命の現実を、自他共に経験したり聞いたりしてしています。聖書には、次のようにあります。

 『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト1526節)』

 文語訳聖書では、『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり(エホバ・ラファ)』と、最後の部分が訳されています。訪ねてくださったお二人の教会のみなさんは、このみことばの約束に立って、家内の「癒し」を、切々と祈っていてくださっといるのです。そして、『帰って来てください!』と言ってくださっています。

 一昨日は、「メディカル・カフェ・宇都宮」の集まりが、宇都宮市で開催され、家内は、家にいて、ZOOMで参加しました。会長をなさっている、宇都宮市内の病院の副院長さん、女医さんが、家内に、『お顔の表情がとってもいいですね!』と、医者の目で、映像で映し出される家内の顔を見て仰ってくれていました。そう言えば、このところ、元気が増し加わって来ているようです。ガンと闘う方、それを見守る医療関係者、患者家族、ボランティアのみなさんが、励まし合って続けている集いです。それは素晴らしい機会です。事務局の担当をされている方も、同信の姉妹で、時々、我が家を訪ねてくれ、良い交わりをさせていただいています。

主イエスの名に 主イエスの名に

癒し(勝利 救い)あり

主イエスの名に 主イエスの名に

病い(悪魔 とがめ)去り

神の御業を たれか知らずや

主イエスの御名により 勝利あり

 こんな賛美コーラスで感謝しているのです。賛美の好きな家内は、今日、八十歳の誕生日を迎えました。多くのみなさんに祈られ、励まされ、支えられて、《傘寿(さんじゅ)》を迎えられたのです。余命半年が、発病以来5年になり、回復途上にあります。まだ何かの生きる意味があるのだと、彼女も思っているのです。感謝ばかりの今であります。

 

 

身近な蚊やハエでさえも

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 『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ62631節)』

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 『ブーン!』と飛び来る天敵の蚊は、父譲りの体質を好まれているのか、毎年、刺され続けて、滞華中は、卓上におく蠅帳の大型版の「蚊帳」を買って、春頃から晩秋頃まで、ベッドの上に置いて使っていたのです。それでも、すばしっこい中華蚊は、蚊帳の中に侵入して来たのです。伯仲の対蚊戦は、毎年のことで、夏だって好きな自分には、避け難い恒例の戦争なのです。

 こちらに帰って来てから、すぐに、ネット販売で、同じ中国製の蚊帳を買って使い続けているのです。ところが、今季、どうしたことでしょうか、まだ一回しか刺されないでいます。玄関とベランダの入り口に、生協で買った「人体無害蚊取りシート」を、家内が置いたからでしょうか、また先月、帰郷した長女が、蚊対策で “ BADGER ANTI-BUG BALM Made in USAを持って来てくれ、それを塗っているからでしょうか、対抗効果が出ているのです。

 以前は、刺されて痒さに耐えられない私は、蚊取り線香を焚きました、ところが、あの煙に、今度は翻弄されるのです。また化学薬品の液体蚊取り器では、化学成分が人体に悪いのです。子どもの頃、ハエだって、大変多かったのです。ハエ叩きなんかでは間に合いませんでした。蚊にしろ蝿にしろ、夏季の生活では敵なのです。だからカやハエは、撲滅されるべきなのでしょうか。

 刺されたり、食卓の上の食べ物にたかるだけではなく、たとえば、カの一種の〈ネッタイシマカ属の蚊〉は、黄熱病、デング病といった病気の主要な媒介生物なのです。撲滅すべきなのでしょうか。『蚊なんていらない!』と日頃思うのですが、万物を創造をなさった神さまは、この蚊もお造りになられたのです。
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 「生態系の均衡」ということを考えると、蚊にだって、存在の理由、役割があるわけです。蚊を捕食して生きる生き物がいるのです。クモやトンボやハエなどです。たとえばハエですが、私たちの食卓に飛んできて、厚かましくも食べ物の上に止まって、餌にしますが、私たちは、仇のように追い払いに懸命です。でもハエが絶滅したら、どんなことが起こるのでしょうか。ハエを追い払う日本人に、『蚊は、そんなに食べませんよ!』と、どこかの国で言われたそうです。

 実は、このハエは、森や林で生活する動物たちの死骸にたかるのです。それによって、体が分解して、地に帰って、花や木などの植物の培養土を作って、その生育を助けるのです。そのために、無用な蚊だと思われてもハエだって生態系を保つという、立派な役割を担っていることになります。金儲けだけ考える人が、森林を伐採して、ビルを作って、儲けだけが優先すると、自然界のサイクルを狂わしてしまうのです。

 おびただしい数の地を這い、飛ぶ昆虫や小動物は、土の再生のために、その死骸を横たえるのです。それが、再生のリサイクルなのでしょう。神さまは、自然界をそう言った均衡の中に保っておられるのです。ところが人間が、そに生態系を壊してしまい、有毒な化学物質を生成して、自然のものと置き換えてしまったのです。

 〈暴雨〉だって〈命の危険な暑さ〉だって、人類が蒔いたものの〈刈り取り〉に違いありません。自然の恵みは、神備えたもう良きものであって、私たちは、それに浴して、この地上を生活の舞台として、生きてきたわけです。自然の摂理に従う時に、神のいますことを信じることができ、感謝が湧き上がってまいります。

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真夏の麗花にニコニコと

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 このところ「外出禁止令」、強制力のない知らせが、市からあります。きっと戒厳令が敷かれた時には、そんな命令が国からあったのでしょう。まだ平和な今日日、年配者の私たちに、『ノドは乾かなくても、水分補給を励行してください!』と勧められてもいるのです。昨日もアメリカでも、ギリシャでも、異常な高温であることのニュースを知らせていました。

 それでも、私たちの家のベランダで、青々と朝顔の葉が繁り、花を咲かせ、ペチュニアも桔梗も咲いて見せてくれています。朝方と夕べに、水やりを家内がしてくれています。明日から八月(8よりも漢字の方が涼しそうです)、そろそろ夜間の涼しさが、戻ってきそうな期待感があります。

 昔の街中は、「打ち水」が打たれ、「簾(すだれ)」が置かれ、「風鈴」が涼しげな音を立てて、涼を感じさせてくれていたのを思い出します。小学生だった二人の娘に、「葦簀(よしず)」を、店に買いに行かせ、娘たちが、騒ぎながら担いで帰って来たことがありました。恥ずかしかったそうです。友だちに、その様子を見られたのでしょうか。

 あんな夏、こんな夏があったのを思い出しますが、二人っきりの〈空の巣(からのす)〉の生活です。昨日、われわれ世代のご夫妻が、家の中で扇風機だけはかけ、空調なしで、亡くなっていたとニュースが伝えていました。熱中症だと思われます。そういえば、大きな病院に急ぐ救急車の発動があって、家の近くの昨日は、6、7件あって、サイレン音が聞こえてきたのです。〈次〉にならないように、仕切りに、《水補給》を、家内に促されています。

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 先週の木曜日は、三か月ごとに送り迎えをしてくれる長男の車で、家内の通院に、水筒係で従いました。血液、尿、レントゲンの検査で、異変なしの診断でした。《胡蝶蘭》の花びらを、主治医の机上に置いて、『少しでも涼を!』と、家内のささやかな感謝の gift に、ニコニコと喜んでおいででした。

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散歩道のマロニエの花

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 昨日の散歩道の街路樹の「トチノキ(マロニエ(/栃ノ木)」に咲いていた花です。〈命の危険〉、〈災害的猛暑〉と言われる酷暑の中、ジッとでしょうか、爽やかでしょうか、綺麗に花開き、散歩人の目を楽しませてくれました。

 マロニエの木が歌詞に出てくる歌に、「マロニエの木陰」がありました。坂口淳の作詞、細川潤一の作曲で、母と顔が似ていたと言われた松島詩子が歌った歌です。

空はくれて 丘の涯(はて)に
輝くは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
風は想い出の 夢をゆすりて
今日も返えらぬ 歌を歌うよ

彼方遠く 君は去りて
我が胸に 残る瞳よ
想い出の マロニエの木蔭に
一人たたずめば 尽きぬ想いに
今日もあふるる 熱き涙よ

空はくれて 丘の涯に
またたくは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
あわれ若き日の 夢の面影
今日もはかなく 偲ぶ心よ

 この歌に出てくるには、どこの街に咲いていたマロニエなのでしょうか。パリの街に咲くので有名ですが、先日、パリを思わせるような自作の「ケーキ」を、家内のために作って、華南の街のパン&ケーキ店の店主の息子さんが、訪ねててくれました。一緒に来られたケーキのパテシエの青年が、パリではなく、フランスの田舎町で、その地方独特なフランスの菓子作りを学んでみたいと、熱く夢を語っていました。夢が叶えられますように。

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教育

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 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 (箴言226節)』

 二十三歳の旧日本軍の青年将校が、奇跡的な復興を遂げた戦後の二十九年を、フィリピンの地で、戦争が終結しているのに、軍令に忠実に従って、軍務を続行したのです。この事実に、29才だった私は、それを聞いて、大変に驚いてしまったのです。

 その将校が、小野田寛郎(ひろお)氏でした。その「諜報活動の任務」を遂行するということは、その遵守義務のある部下が守り抜かなければならなかったことだったのです。フィリピン警察に拘束されたのですが、投降しませんでした。しかし、上官の命令解除があれば任務を終えると言ったのです。その命令こそ、軍人にとっては絶対だったからです。

 存命だった上官の谷口氏(元陸軍少佐)は、フィリピンに行き、直接、小野田氏に接見し、彼の上官として、任務から解く旨、小野田氏に告げると、それを承知して、フィリピン軍の司令官に投降して、彼の長い軍務を終えたのです。

 考えさせられのは、軍の上官の命令で、二十二歳で、陸軍中野学校二俣分校を終えて、少尉に任官した青年が、フィリピンに派兵され、そこで軍命を守り通したことなのです。職業軍人にとっての軍、上官の命令は、〈絶対〉だったと言うことでしょうか。軍隊の学校での短期の養成で、一人の青年の思いと時間を、これほどに拘束し、軍命を遵守させ、それに小野田氏は従ったわけです。

 一体、どんな教育が、その学校でなされていたのでしょうか。私の恩師の一人が、掛川駅から旧国鉄の浜名湖線の浜松の北の街で、宣教活動をしていました。その街の人たちは、駅を降りて、学校に歩いていく青年たちを怪しむことはなかったそうです。まさか遊撃戦(ゲリラ戦と言われます)の諜報や謀略などをする特殊な教育機関だとは思いもよりませんでした。社会人として、しっかり生きてきて、優秀な若者が選りすぐられていた学校だったそうです。

 私の最初の職場に、この学校を卒業生された方がいました。戦時中の経験を買われて、調査部門の責任を負っておられました。眼光の鋭い方で、お酒を飲むと、グッと暗くなっておいでだったのが印象的だったのです。この方から、学校でのこと、戦時中のことなどを聞くことはありませんでしたが、投降時の小野田氏を撮った映像や写真と、雰囲気がとても似ておられたのです。

 「教育」の力、影響力の大きさというものは、善悪や義不義や価値不価値を超えて、青年の心を縛ってしまうものなのでしょうか。古代のスパルタでなされた教育は、特別な教育だったのだそうです。生まれるとすぐに、健康に育つかどうかが点検され、軍人の適正が見分けられたそうです。不適正な子は穴や谷に投げ入れられ、そのまま放置されたのです。合格すると、7歳で軍務に服し、理不尽なことが行われ、それに耐えることが学ばされ、上下関係の厳しさを叩き込まれたようです。

 人間としての尊厳など、ほとんど尊ばれなかった社会で、国に忠誠を果たす義務を負わされたのです。でも、そんな人間観によって、成り立ったこの国は、名だけを残して、歴史から消えて滅んでしまいました。国家に有用な人材を養成するのが目的でなされたからだったのです。

 小野田氏が訓練を受けた、この陸軍中野学校二俣分校では、語学、武術、細菌学、薬物学、法医学、実習謀略、防諜、ゲリラ戦術、破壊戦術などが教えられていたそうです。そう言った特殊な軍人教育が、人の一生を、固定させ、選択肢のない生き方に連れていったとすれば、それは怖いことではないでしょうか。自由意志や選択の自由を奪って、命令が人の一生を縛ったとするならば大きな問題です。しかし教育の効果という面で、これを思いますと、旧軍の教育が、どれほど徹底していたかに驚いてしまうのです。

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 「軍人勅諭(1882年、明治1514日、明治天皇の御名で発した本分)」がありました。天皇の統率する軍隊(軍人)に、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五項目を求めたものです。その後、「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という項目で有名な、「戦陣訓(1941年、昭和16年発令)」がありました。陸軍大臣東条英機が全陸軍に発した戦場での心得です。これも軍人の小野田を縛っていたものの一つです。

 戦前、日本人は、『命を惜しむな!』と教えられ、死を恐れないで生きたのです。そんな時代を生き、ジャングルで任務を全うしようと生きた小野田氏は、次の様に言っています。『戦後、日本人は、何かを「命がけ」でやることを否定してしまった。 覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。』

 人生の大切な時期を、30年に及ぶジャングルで、3人の部下と共に、軍命を全うして過ごしたのですが、帰還後、さまざまなことがあって、小野田氏は、お兄さんのいるブラジルに行かれ、牧場経営に当たっておられました。そこから日本に帰国され、2014年に、波乱に満ちた91年の生涯を終えて亡くなられています。この小野田氏の死去に際して、ニューヨークタイムズは、『戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した。』と述べています。

 この方の生涯を思う時、一時期に、しかも短期でなされた「教育」の力の感化力の強さです。特定の思想教育が、よい分野で結果を残すのは素晴らしいことですが、例えば〈独裁者〉を生み出し、人権を踏み躙るようになるなら、大変な結果をもたらします。人命軽視を生み出すからです。ある指導者が、『4億の国民のうち、1億人の犠牲があっても、3億人が残るから、いいじゃあないか!』と言ったのですが、そう言った指導者を作った社会、その失敗の反省に立たない後継者の暗躍は、やがて国を滅ぼします。

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 『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 (エペソ64節)』

 素晴らしい教育者がいて、教育法があります。でも、「主の教育と訓戒」によって育てられた子たちは、強固な国家を建て上げていくことができるのです。リンカーンは、信仰者の義母サラによって、10歳から育てられ、聖書を教えられる養母と共に子ども時代を過ごしたそうです。喜びやさしいい女性でした。そこには、リンカーンを立派な人に育て上げた、素晴らしい家庭教育があったのです。

 もう一言、小野田氏が六歳の頃、級友に短刀で切り付けられます。その仕返しに友人の短刀を取って仕返しをし、傷付けてしまった時、お母さんは、『腹を切って死ね!』と言ったそうです。軍国の母だったのでしょうか、自分の母親やリンカーンの養母を思うと、小野田氏には、そんな幼い日に、そのように迫ったお母さんとの間に、そんな出来事があったのを知って、複雑な思いがしてしまったのです。

(「若葉」、「戦陣訓」の一節、リンカーンの育った家です)

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白髪になっても

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 漢詩の中に、次の様な詩の一節があります。 

「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず)  (代悲白頭翁 劉希夷)」

[現代語訳(漢文の原文は省略しました)]

『洛陽の町の東では桃や李の花が舞い散り、
飛び来たり飛び去って、誰の家に落ちるのだろう。
洛陽の娘たちはその容貌の衰えていくのを嘆き、
花びらがひらひらと落ちるのに出会うと長い溜息をつくのだ。

今年も花が散って娘たちの美しさは衰える。
来年花が開くころには誰が元気でいるだろう。

私はかつて見たのだ。松やコノテガシワの木が砕かれて薪とされるのを。また聞いたのだ。桑畑の地が変わって海となったのを。昔、洛陽の東の郊外で梅を見ていた人々の姿は今はもう無く、それに代わって今の人たちが花を吹き散らす風に吹かれている。

来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、
年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。

お聞きなさい、今を盛りのお若い方々。よぼよぼの白髪の老人の姿、実に憐れむべきものだ。この老人の白髪頭、まったく憐れむべきものだ。だがこの老人も昔はあなた方と同じく紅顔の美少年だったのだよ。

貴公子たちと共に花の咲く木のもと、
花の散る中、清らかな歌を歌い、見事な舞を舞ったりもした。

漢の光禄大夫王根が自分の庭の池に高楼を築き錦や縫い取りのある布を幕としたように、
後漢の将軍梁冀《りょうき》が権勢を極め、自宅の楼閣に神仙の絵を描かせたように、そんな贅沢もしたものだが、

ある日病に臥してからというもの、友達は皆去って行った。
春の行楽は、誰のもとへ行ってしまったのだろう。美しい眉を引いた娘もどれだけその美しさが続くだろう。
たちまち白髪頭となり、その髪が糸のように乱れるのだ。

見よ、昔から歌や舞でにぎわっていた遊興の地を。今はただ黄昏時に小鳥が悲しげにさえずっているだけだ。』

 人の一生を、一日に例えると、もう「黄昏時」を迎えており、越し方を思い返しますと、長いようであり、また短かったなと思い返すのは、劉希夷ばかりではなく、まさに自分の実感でもありす。「来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。」、紅顔可憐な美少年も、容色は衰え、背も縮み、歩幅も狭くなり、躓きやすくなってしまうのですが、これがまさに今の実感であります。でも、美しく咲く花、人々から好意は、心を踊らせて楽しませてくれています。

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 李白も、「秋浦歌」の中で、「白髪三千丈」と言ってもいます。その「白頭を掻けばさらに櫛にたえざらんとす」と言いました。

 杜甫も、「春望」の中で、毛が薄くなって、櫛など無用な「白頭」と言っています。

『国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり 
家書万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す』

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 この二人に感化された芭蕉も、「老い」を迎えたと告白しています。

『舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。』

『月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置』

 また、「草加」に至って、「白髪の根」に触れています。

『ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。』

 時は過ぎていき、人は歳を重ねて老いていくのですね。老いても、それを受け止めて、定められた時間を、精一杯に生きることです。旅の途上で、行路病人として倒れても、永遠の時を、どう迎えるかが、だれにでも問われているのです。聖書は、次ように言います。 

 『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ464節)』

 今は、永遠へ時や永遠の都への思いへの憧れで心が溢れている感じなのです。生まれ故郷がぼやけてきていますが、天をわが故郷として、そこへの帰郷を許された身としては、これに勝るものはない感じがしております。そこへ着くまで、なお、白髪になっても、「背負って運んできださる神』がいてくださるのです。

(「李白」、栃木県の「黒羽宿」にある芭蕉の句碑です)

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