今頃咲く花

 


 

広島県神石郡神石高原町で咲く「ヤブラン」と「ハグロソウ」です。この様な花を、山に分け入って、見つけて撮影するのは、大変でしょうね。私達に生活圏から離れたところで、ひっそりと咲くのですが、実に美しいものです。[HP里山を歩こう]の配信です。

ただ、台風24号が台湾、中国大陸に向かって西進しています。かなり強烈な勢いに発達しているようです。

 

 

今日は日曜日、好い1日でありますように。

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よく、『あの方は心のある人だ!』と言います。その方の生き方が、愛とか親切とか優しさに溢れていて、善人や義人なので、そう言った表現をします。そうでない人は、『心の欠けた人!』と言ったりします。ユダヤの格言に、『顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。』とあります。人の心にあることは、顔にも生活にも雰囲気にも現れてしまい、隠したり、誤魔化しができないので、そう言うのでしょうか。一体、人には、どんな「心」があるのでしょうか。

「向上心」 今よりも、少しでも、好くなろうとする思いです。これは年を加えてきた今でも、忘れまいとして、心がけております。`

「克己心」 自分の内にある<可能性>を信じて、昨日よりも今日、今日よりも明日に、自分を高めたいとする思いです。なぜなら自分の<弱さ>が、やっと分かり始めてきたからです。

「向学心」 どなたでしたか、ある文学作品を、原典で読もうと決心して、老境に達しながらも、その言語を、新しく学習し始めた人の話を聞いたことがあります。また老学者が、若い学徒に、『最近、やっと分かり始めた事が、多くあります!』と言っていました。

「執着心」 諦めないことでしょう。危機に直面した首相が、決して諦めなかったので、その国は敵の潰滅作戦に耐えて、国を守り抜く事ができたそうです。

「独立心」 謙遜は大切ですが、隷属する思いはいけません。従順は大切ですが、自分の力で立つ事もまた、人には必要です。

「競争心」  競ろうとする思いのない友情では足りません。好き競争相手としての友を持った人は、切磋琢磨されて成長します。老境に至って、その相手を眩しく見る時、好い人生だったと思い返せるに違いありません。

「自尊心」 卑下ばかりしててはいけません。それは謙遜ではなく、自己不信だからです。自分が、どんなに尊い存在であるかを知ったら、自分を大切に保とうとするからです。

「好奇心」 人、物、機会など、新しく出会うことへの関心を失ってはいけません。収容所を生き抜いた人たちの心には、新しく迎える明日への期待がありました。『ここを出られたら!』と。

「義侠心」 これは博徒の志の事ではありません。「正義」のために願い、行う原動力です。弱者を守ろうとする心意気を言ってるのでしょう。

「老婆心」 近所のおじさんやおばさんが、老婆の様な心で、bいたずらをしていると注意してくれたことが、よくありました。それで事の善悪を学べたのかも知れません。今は、他人の子への無関心が普通になっていますね。

「探究心」 どうしてエンジンのない地球が自転して、太陽の周りを動いてるのか不思議でなりませんでした。みなさんは答えを得たでしょうか。私は、分かったのです。きっと私の知りたいという思いが通じたからなのでしょう。

「競争心2」 脚が遅くて運動会が嫌いでした。それでも負けん気が強かったので、バスケットボール、ハンドボール、テニスをしてきました。でも今現在の最強の競争相手は、自分です。楽をしようとする私、欲をかこうとする私です。なかなかの強敵です。

「平常心」 時々慌ててしまうことが起こります。落ち着いていられないのです。何を食べたかを遡って思い出すといいと言われますが、なかなか思い出せません。でも上を向くことに気づきました。地上ばかり見てると、落ち着かないからです。

「愛郷心/愛国心」 魯迅は、同朋への強い思いを持った人でした。同国民が強い精神性を持つようにと、医学を捨て、文学に生きました。そう言った魯迅に共鳴するのが日本人なのだそうです。彼は、故郷や国を思う思いが強かったからだそうです。

「敵愾心(てきがいしん)」 敵に対する憤りや負けまいとする気持ちだそうです。相手への闘争心は、それが昂じてしまうと、民族間や国家間の戦争になってしまいます。<敵を愛する心>があったら、地上に争いはなくなるのですが。そんな心を持ちたいものです。

「猜疑心(さいぎしん)」 騙されるかもしれない、と人を疑う気持ち。自分が不利になるのでは、と相手を信用できない気持ちだそうです。私の父と母には、この心がなかったのです。それでよく騙されていましたが、平気でした。

「功名心(こうみょうしん)」 立身出世、名を上げ、身を立てる思いのことでしょうか。自分の生涯に欠けていたものです。でも、これで好かったと思います。低い所にいると、倒れても軽い怪我で済む様です。誰にも覚えてもらえなくても好いのです。自分が走るべき行程を走りきれば、それで好いに違いありません。

「射幸心(しゃこうしん)」 まぐれ当たりによる利益を願う気持ちのことだそうです。失敗の多い人生でしたが、人生に、運の良し悪しがあるとは思って生きてきませんでした。怪我をしたのだって、運が悪かったのではなく、不注意だったり、慌てたりしていたからに違いありません。人生は、サイコロやトランプカードの目の様に、良い悪いで、決まらないのです。一回きりの人生を、悔いなく生きたいだけです。

「虚栄心」   自分をよりよく見せようと、見栄(みえ)を張りたがる 心のことだそうです。自分の周りにある物を、見回すと、金銭的な価値のあるものは、全くありません。ただ、愛の籠った頂き物があります。精神的な価値のことでしょうか。持ち物の誇り、暮らし向きの自慢ができる物や人脈やタイトルや称号がないのは、身軽で好いものです。痩せ我慢でしょうか。

「依頼心」 人に頼ろうとしてやまない思いのことでしょう。これまで多くの人に助けられ、励まされ、強められて生きてきました。でも、彼らの持ち物や立場にすがろうとする思いはありませんでした。また自分を頼ってきた人には、貸したり、上げたりしてきました。特にお金を借りに来た人には、私に借金をして私の奴隷にならない様に、差し上げてきました。私には、信頼するお方がいるからです。

自分の心が、生き方に反映されると言うのは、ちょっと怖いことですね。でも正直に生きているなら、人生のどこを切られても、その切り口は、非難されることはないのでしょう。ユダヤの格言に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 』とあります。自分の心は、見張り、見守る必要があるのですね。

恥じず

 

 

中国語には、多くのことわざがあります。例えば、「不耻下问(不恥不問)」です。

この意味は、『年令や地位が下の者に教えを乞う事は、恥ずかしいと思わない!』という意味です。解説は会話や会議の中で、自分がわからない時は、体裁を気にせず素直に聞くことが大切であるという戒めのようです。このことわざの出典は、「論語」の中に出てくるそうです。次の様な解説があります。

孔子の弟子の子貢(しこう)が、師の孔子に次の様に質問をしました。『衛(えい)の国の儀式を行う芸人のおくり名に、文という字が ありますが、これはなぜなのですか?』と聞きますと、孔子は、『彼は頭がよく学問が好きで 、自分よりも目下の者に質問することを恥ずかしいと思わなかったら!』と答えました。

日本で会議すると、若輩な経験の浅い人の意見を、聞こうとしない傾向が見られます。『嘴の黄色い者は黙っておれ!』という不文律があるからです。ほとんど無いですが、求められれば、言うことはあっても、率先して具申などしたら、《生意気》とか《でしゃばり》というレッテルをつけられてしまいます。

ところが、中国での会議では、年配者が、若者にも、進んで聞こうとするのだそうです。そう言った場面に出会ったことはないのですが、一般的に、子どもでも、大人の会話に割って入って、自分の考えを、堂々と述べているのを、よく見かけます。小学生が、自分の意見を話し始めても、『まだ子どもだから黙っていなさい!』と静止することは、ほとんどありません。

「長幼の序列」の社会の様にみられますが、そんな素晴らしい社会なのです。学校を出たばかりの私は、どこの県だったか忘れてしまったのですが、研究所の代表者として、研修会の準備の会議に行ったことがりました。会議の間に、『研究所の意向はいかがですか?』と意見を求められた私は、何か言ったのです。それは、研究所を代表した者としての発言でしたから、受け入れられたのでしょう。

多分、『生意気な若造め!』と思っていた理事たちが多かったのでしょう。それなのに、<親方日の丸>の私は、臆面もなく話したのを覚えています。日本の社会は、年齢的な序列社会でしたが、今でも同じでしょうか。三十代や四十代の学長や社長など、経営者の息子娘以外は、ほとんどんど知りません。

私の知り合いの方は中卒で、仕事のできる人でしたから、管理職になっていました。大卒の自分の部下に、『この字、何て読むの!』とか、『どういう意味?』と平気で聞ける人でした。『辞書を引くよりも、その方が早いから!』と言っていました。学歴の低さに臆することのない、潔さがあって、素敵な人でした。高学歴の部下にも、よく慕われていました。こう言うのって、日本では例外なのでしょうね。

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一路平安

 

 

9月20日、午前6時半のベランダの寒暖計は、26℃を示していて、最高気温は36℃の予報が出ています。今朝は、七輪の朝顔が咲いて、今夕、訪ねて来る次男夫婦を歓迎しています。家内の若い友人が、車で出迎えてくれると、言ってくれましたので、三人で海浜の空港に出掛けます。

夏が戻って来てしまったので、金木犀が香らなくなってしまっています。秋と夏とがせめぎ合っているかの様なこの頃です。旅の無事を、《一路平安yilupingan》と願う朝です。良い一日であります様に!

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戻りの夏

 

よく聞かされ、覚えてしまった歌謡曲に、作詞が佐藤惣之助、作曲が古賀政男の「男の純情」がありました。このレコードが売り出されたのは、1936年(昭和11年)でした。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮 男のゆく道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

ナンパな男になりたくなくて、『男は純情!』と志を立てたのは好かったのですが、世の中の誘惑は、そう甘くなかったのです。と言うよりは、<くすぐったい誘惑>に、自分を晒(さら)してみたい思いが強かったからでしょうか、そんな大人の社会に飛び込んでしまったのです。

勤め始めた職場で、仕事はきっちりしたのですが、上司のお供で、バーやクラブやキャバレーに連れて行かれました。また、地方へ出張すると、理事長が芸者を呼んだ酒席に招待され、立ち飲み屋では、角に塩を盛った一合升で、お酒を飲まされたりでした。いつの間にか、一端(いっぱし)の〈呑み助〉に仕上がっていました。

「純情」など忘れてしまって、〈薄汚れた男〉になってしまいました。まさに「人生の海の嵐に揉まれ」てしまった私だったのです。この世の風も波も、けっこう強くて、小童(こわっぱ)な自分を吹き飛ばし、押し流してしまうほどでした。大人の世界を、ちょっと覗(のぞ)こうと思ったのですが、とっぷり浸かりつつありました。『こりゃあヤバイ!』と思って、引き返そうと決心するのですが、その力が、自分にはありませんでした。

そんな時、元ボクサーの中近東系のアメリカ人と出会いました。当時40代後半でしょうか、斜視で、口髭を生やし、歌の上手な人でした。ニューヨークの学校で教えておられて、アフリカに赴任した教え子を訪ねる旅の途中でした。その途次に、この方は東京に寄ったのです。実に明るい性格の方で、物の考え方が積極的でした。すっかり魅せられた私は、自分の師匠になって欲しいほどの惚れ込み様でした。

でも私の弟子願望は叶えられませんでしたが、この方の感化で、生きる方向と路線を切り替えられる様になったのです。酒もタバコも遊びも、きっぱりと離れることがーできたのです。翌年、三年勤めた職場の所長の紹介で、都内の高校の教師に招聘されたのです。女子校でした。同じ敷地に併設されていた短大も専門学校も、教員から学生まで<女性一色>でした。

再び、『こりゃあヤバイ!』とのことで、結婚したのです。いえ、《結婚してもらった》と言うべきでしょう。まさに、「♯金もいらなきゃ 名もいらぬ 愛の古巣へ 帰ろうよ♭」でした。その歌の文句のままの今です。帰って行く家がなくて、帰国する度に、<大陸寄宿人>の私は、"塒(ねぐら)”探しをするのですが、弟や友人は"塒"を提供してくれるのです。

これもまた、『こりゃあヤバイ!』なのです。一切合切を処分した身ですが、家内には、祖国に一部屋の家でも残して上げたいと思っているのですが、彼女は、『要らない!』と言っています。無鉄砲で、計画性に欠ける生き方の私に、呆れるでもなく悔やむでもなく、<大陸寄宿女>の様に、私に似た身に、不満なく甘んじていてくれるのです。

このところ、災害に遭って、一切を失ってしまうみなさんの様子を見聞きして、持っていけない物への執着を捨てて生きている自分が正しいような思いにさせられます。あの「空の鳥」と「野の花」の様に、自然に身を任して生きるのも、一つの選択と決断なのでしょうか。秋風が吹き始めたのに、「戻りの夏」の今日この頃です。

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一葉の写真

 

 

これまで、数多くの人と出会い、そして「サヨナラ」をしてきました。最も身近なのは両親です。天の配剤としか言いようのない出会いでしたし、その恩に報いたいと思ったのに、それが果たせない、父との突然の別れだったのです。戦後の物資欠乏の時に、餓えさず、裸にせずに育ててくれたことには、感謝の言葉もありません。95で召された母が、老いて行く姿をしっか見納めて、こちらに戻りました。

子どもの頃に、よく喧嘩をした2人の兄と弟との出会いも感謝でした。四人兄弟で撮った写真が残っいます。上の兄が大学生、下の兄が高校生、私が中学生、弟が小学生の時に、それぞれが制服を着て、街の写真屋さんに行って撮ってもらったものです。その後、何度か四人で撮った写真があるのです。昨夕、訪問客があって、その最初の写真をお見せしたのです。

実は、その小中高大の四人兄弟の写真が、母の生みの親の臨終の床の枕の下に置かれてありました。母が送ったのではなく、母の故郷にいる、お世話になった方に、その一葉の写真を送ったのが、多分複写されて、奈良に住む母の生母の元に、何かの方法で届けられていたのでしょう。一度も会うことが叶わなかった孫たちを、時々、その写真を取り出しては、どんな思いで眺めていたのでしょうか。祖母は、十代で母を産んで、養女に出して、私たちの母を産んだことを隠して嫁いでいったのです。

この祖母なしには、私たち兄弟が生まれることがなかったのですが、人生の数奇さに翻弄された母にとっては、その別れは、辛い経験だったのでしょう。台湾に売られようとして警察に通報されて、すんでのところで保護された子どもの頃の経験を、母が話してくれたことがありました。もちろん私が大人になってからでしたが。

実母の葬儀の時に、奈良の父違いの妹から連絡があって、母は会葬したのです。その時、その経緯を聞かされ、その写真を手渡されたのです。実母が、自分の産んだ四人の子を認めて、思い続けてくれたことを知ったことは、母にとっては、大きな慰めや、子育ての報いになったのではないでしょうか。それもこれも、人生の現実ですね。親族の様々な思惑や進言で、人生が厳しいものにされるのですが、その辛い経験が、益となっていくことにも繋がるわけです。

17才の母が、奈良に生母がいると、親戚から初めて聞かされて、急遽訪ねています。しかし、『帰ってほしい!』と言われて、母は生母の元を辞したのだそうです。17才の母には、それも実に辛い経験だったのでしょう。そう言った経験が、子たちを産むことによって報われ、私たちを精一杯育て上げてくれたことに繋がったのです。

(母の故郷の島根県出雲市の近くの里に咲く「有明菫(すみれ)」です)

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薩摩隼人

 

 

古今東西、「教育論」が多くあります。私が中高6年間に受けた教育は、「大正デモクラシー」の思想的な背景から始められた教育で、父が心酔していた方が、建学した学校でした。この方は、吉田松蔭の感化を、個人的に受けた方だったようです。

二十代の松蔭は、「松下村塾」で、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠などの青年たちを教育したのです。その教育は、師が弟子に一方的に教えるではなく、お互いに意見を交換したり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」を行なったのだそうです。

松蔭の孫弟子のような実感は、私にはありませんが、青年たちを「進取の精神」を持つ人に作り上げたことは、素晴らしいことでした。日本海に臨んだ、山口県の萩市に、史跡が残されています。また、薩摩藩では、「郷中教育(ごじゅう)」がなされ、幕末の志士たちを生み出したと言われています。

それは、薩摩藩の伝統的な教育法で、子どもたちを、年齢別に4つのグループに分け、それぞれのグループからリーダーを選びます。リーダーが生活の一切を監督し、責任を負う形をとったものです。「小稚児(こちご/6~10才)」、「長稚児(おせちご/11~1才)」、「二才(にせ/15~25才)」、「長老(おせんし/妻帯した先輩)」という年齢で分けられていました。先輩が後輩を指導しながら学問や武術を学んでいたようです。そこには、相手への思いやりがまず必要ですし、相手の能力を把握しそれに適した伝え方を工夫することも必要でした。自発性、協調性、思考力が涵養されたのでしょう。

その教育の要点は、

◯用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな、

◯何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要であれ、

◯仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ、

◯グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきであれ、

◯嘘を言わない事は士道の本意である、

その旨をよく守るべしだったそうです。

その教育を受けた西郷兄弟、大久保利通、大山巌、桐野利秋などを輩出したのです。そんな日本の近代化を担う人材、要人を、薩摩から日本に送り出したのです。しかも下級武士の子たちが、薫陶を受け、新日本の誕生に貢献したことになります。

この大久保利通は、「初代内務卿(事実上の首相)」でした。維新後の「明治政府」で、辣腕を振るって、様々な改革を導きます。富国強兵・殖産興業・実行廃藩置県・版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令などを主導したのです。「近代日本」の基礎作りをした優れた人でした。西郷隆盛に勝るとも劣らない逸材でしたが、明治10年に、東京の紀尾井坂にて、5人の士族によって暗殺されてしまいます。

ご維新後、「武士」の世ではなくなったことを、大久保利通が強調したため、士族(旧武士階級)から恨みを買っていたようです。47才でした。こう言った「英傑(<維新三傑/西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通>」の一人を生み出すために、「郷中教育」があったのです。薩摩の男子を「薩摩隼人(さつまはやと)」と言うそうです。

(桜島の噴煙です)

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ミソハギ

 

 

広島県庄原市・国営備北丘陵公園の小川に咲いている「ミソハギ」です。“ウイキペディア”によりますと、「湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。の断面は四角い。は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。紅紫色6弁の小さいを先端部の葉腋に多数つけるー」とあります。☞[HP里山を歩こう]

秋に咲く花なのでしょう。こんなに多くの種類の花々が、野や山に咲いているのを知って、驚いてしまいます。栄華を極めた賢王でさえ、この野の花の一輪ほどにも、着飾ることができないのには、さらに驚かされてしまいます。

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小雨

 

 

今朝は小雨で、ベランダの寒暖計の気温は28℃です。この二、三日、金木犀の匂いが、どこからともなく微かにしてきています。暑いのですが、確かに秋は来ています。

台風22号のフィリピンでの被害が大きいそうで、広東省、海南省に向かっている様です。確かに今年は台風もハリケーンも、異常に発達しています。被災者のみなさんが、早く困難な状況を脱する様に願っています。今日は日曜日、祝福の一日でありますように!

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明治は遠くになりにけり


 

十代の終わりだったと思いますが、父の会社に連れていかれた時、一人の方を紹介されて、挨拶したことがありました。父が、『桐野利秋のお孫さんの桐野さん。』と言ってでした。この桐野さんの祖父が、幕末の志士、薩摩藩士の桐野利秋でした。この方は、薩摩藩の藩士で、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通と共に、幕末の政変の渦中で活躍された人物なのです。西郷、大久保に比べると、それほど有名ではありませんでしたが、「幕末」から明治初期を生きた一人でした。

父の会社の顧問に、「明治維新」に関わった人物の係累がいるということを聞いて、一遍に、幕末と明治を身近に感じるようになったのを覚えています。長州藩や土佐藩、そして薩摩藩の若手の侍が、日本の近代化のために立ち上がったのですから、この時期の出来事は、実に興味津々だったのです。

明治元年で、西郷隆盛は40才、大久保利通は38才、坂本龍馬は生きていれば32才、高杉晋作は生きていれば29才、木戸孝允は35才、桐野利秋は30才、幕府方の勝海舟は45才でした。若い世代が、日本の夜明けのために東奔西走して封建社会から、近代社会へと移行させたことになります。

明治10年に起こった、「西南戦争」の首謀者で、「人斬り半次郎(桐野の別名が中村半次郎です)」とか汚名を着せられますが、人を切ったのは、信州上田藩の赤松小三郎で、しかも藩命によるものだったそうです。もちろん「示現流」の剣の使い手で、幕末最強の侍だったのは事実です。きっと、後に面白おかしく記す小説に、そう描かれたものによるのでしょう。

明治維新政府の要職にあったのですが、西郷隆盛が官職を辞して、薩摩に戻る時に、桐野利秋も一緒に下野(げや)しています。故郷に戻った桐野は、鹿児島の農地の開墾のために鍬を握ったのです。そして「西南の役」が、明治10年に起こります。桐野が首謀者と言われていますが、歴史家は、1人であのようなことは起こり得ないのだと結論しています。西郷隆盛と共に、戦役で、40才で亡くなります。「賊軍の将」とされますが、大正五年に、復権されています。

男っぽい生き方をされた、まさに「古武士」のような人でした。私がお会いしたお孫さんの桐野さんは、椅子に掛けられた初老の紳士で、穏やかな方でした。

(鹿児島市の市花の「夾竹桃(キョウチクトウ)」です)

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