父の日後日譚

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 「父の日」だったからか、母親を気遣ってか、いやその両方で、ハワイにいる長女が、浅草に寄って、浅草名物を買い込んで、東武特急日光線で、ハワイからやって来ました。浅草名物を手にしてでした。溢れるようなお土産を満載した二つのスーツケースを羽田空港で宅配にしてでした。「コロナ禍」で親孝行のできなかった三年の後の帰省でした。

 届いたのは、食卓に載せきれないほどでした。ここでは買い出し、食事の用意、後片付けをやってくれています。昨日は、県都・宇都宮に行って、綿の手拭、駅弁、モツ焼鳥などを買って来てくれました。” Tops chocolate cake “ を夕食後に、20年以上ぶり食べて満足でした。

 前日の土曜日の昼過ぎに、新宿発の一本で来れる日光・鬼怒川行きの特急電車で、次男が新宿のデパ地下で、母親のために、来るたびに持参する浅草名物の「よもぎ団子」、それに「水羊羹」、「大学芋」、「豚の角煮」、「落雁」などなど、ちっと甘い物傾向の菓子類などを手にして、やって来たのです。家で、姉弟、積もる話が盛り上がっていました。

 その夕方に長男家族が、中華セットの夕食を手に、玄関のチャイムを鳴らしました。嫁御は、体調不良の肩のツボを、巧みに押して、アンマをしてくれました。頭痛で日本手拭いで、鉢巻きをしていたのが、すっかり無くなってしまいました。すごく上手でした。孫たちは、面白おかしく、オバと幼い日を語合い、九時近くになって、明日の礼拝のために帰って行きました。

 『今日はこちらで父の日です。日本は昨日でしたね!🙇ごめんなさい。いつもいつもブログやメッセージで励ましてくれて、本当に感謝してます!お父さんの正直な気持ちがよく分かるようで、いつも楽しみにしています。これからもご指導のほう、よろしくお願いしますね!8月の終わりに会えるの楽しみにしています!!では。』と、アメリカ時間の「父の日」の Message を、この交わりに加われない次女が送ってくれました。8月に、家族で訪ねてくれると言ってくれています。

 『多過ぎ!!!」と、何度か言われたこともあったのですが、四人四様の今を、精一杯、それぞれが生きていて、優しいお母さんとガミガミオヤジを思っていてくれています。

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この頃の散歩道の花々

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 『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイ6章29~30節)』

 こちらに住み始めた頃、前の家の近くの家の庭に、「サボテンの花」が咲いていて、『キレイだなあ!』と思って通り過ぎたまま、時が過ぎてしまいました。自転車ではなく、散歩していると、あの時以来、数年ぶりに、咲いていたのです。

 もう嬉しくなって写真に撮りました。砂漠でなく、道路に面した庭で見て、うれしくて可愛い子に逢った気持ちでのシャッターだったのです。梅雨の合間に、通り過ぎる道の端に、美しく咲いている花々に励まされています。

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へゝ、のんきだね!

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 添田唖蝉坊が、明治・大正期に、おもに浅草で活躍し、世の中を斜めに眺めて、壮士節を継承し、表現したのが、「のんき節」でした。時の政府や財閥、権力者や社会を笑い飛ばした「風刺」の演歌だったのです。路傍での演説の代わりに、壮士たちがバイオリンを弾きながら、こんな歌を歌ったのです。だれもが、呑気に生きたいのですが、この世の現実は、世知(せち)辛く、問題ばかりで、将来を見通せなく、問題や課題が山積した、邪悪なままにとどまっているからです。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて
貧民學校の 先生が
正直に働きや みなこの通り
成功するんだと 教へてる
ア ノンキだね

貧乏でこそあれ 日本人はえらい
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても
湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
ア ノンキだね

洋服着よが靴をはこうが 學問があろが
金がなきや やっぱり貧乏だ
貧乏だ貧乏だ その貧乏が
貧乏でもないよな 顏をする
ア ノンキだね

貴婦人あつかましくも お花を召せと
路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる
金持や 自動車で知らん顔
ア ノンキだね

お花賈る貴婦人は おナサケ深うて
貧乏人を救ふのが お好きなら
河原乞食も お好きぢやさうな
ほんに結構な お道樂
ア ノンキだね

萬物の靈長が マッチ箱見たよな
ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても
海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる
ア ノンキだね

南京米をくらつて 南京虫にくはれ
豚小屋みたいな 家に住み
選挙權さへ 持たないくせに
日本の國民だと 威張つてる
ア ノンキだね

機械でドヤして 血肉をしぼり
五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて
「澁澤論語」と 讀ますげな
ア ノンキだね

うんとしぼり取つて 泣かせておいて
目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
なるほど慈善家は 慈善をするが
あとは見ぬふり 知らぬふり
ア ノンキだね

我々は貧乏でも とにかく結構だよ
日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の
話がロハ臺で モテてゐる
ア ノンキだね

二本ある腕は 一本しかないが
キンシクンショが 胸にある
名譽だ名譽だ 日本一だ
桃から生れた 桃太郎だ
ア ノンキだね

ギインへんなもの 二千圓もらふて
晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ
夜はコソコソ 烏森
ア ノンキだね

膨脹する膨脹する 國力が膨脹する
資本家の横暴が 膨脹する
おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する
いよいよ貧乏が 膨脹する
ア ノンキだね

生存競争の 八街(やちまた)走る
電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が
さめりや終點で 逆戻り
ア ノンキだね

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 この歌詞以外に、〈鮹に骨なしナマコに眼なし 政府に策なし議員に抱負なし 民に職なし 愛もなし 皮肉にや抱負と骨がある へゝのんきだね〉などと歌っていました。

 この令和の御代には、どんな「のんき節」が歌われるのでしょうか、庶民の目をくらます、颯のようなツブテが上の方から飛んできます。身をかわしても避けられないで、まともに受け止めてしまうのです。

 この演歌師の気分になって、笑いを誘う、風刺やhumor (ユーモア)や、機知にあふれた歌詞で歌ってみたい気分に、私もされています。まさに物価高で経済不安、戦争や戦争の噂が飛び交い、テロリストの暴挙、軽い気分なのででょうか殺人、詐欺、強盗のニュースが矢継ぎ早です。呑気ではいられない世情の中で、神経質な世の中を、『へゝのんきだね!』と笑いでとらえてみたいものです。

(演歌師のイラストです)

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美味しい果物の季節到来.

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 私たちが、過ごした華南の家で、この時季の一番人気は「マンゴウ」でした。小ぶりな物が安く、甘くて香りが好く、南国の香りと味がして、美味しいのです。種類も多く、台湾から輸入された物は高級で最高ですが、もらって食べるくらいです。二番人気は「パパイヤ」、『3つで10元です(1っこ60円ほど)!』と売っていて、檸檬(レモン)を絞って果肉と一緒に食べた味は最高なのです。

 わが家を訪ねてくださった日本からの友人に、これをご馳走しましたら、実に美味しそうに食べていたことがありました。三番人気は「榴liulian/ドリアン」、匂いは強烈ですが、<果物の王様>だけあって、他を凌いでいます。ただ、とても高いので、素通りしていました。四番人気は「マンゴスチン」、これは「果物の女王」と言われるだけあって、冷やして食べたら、ほの甘くて、上品な舌の感触があります。

 果物は、日本では目が飛び出すほど高値ですが、それでも、あちらでは安く買い求められます。スイカ、ぶどう、桃、梨が出回って、何種類もの杏子も、果物屋の店頭に並んでいるのです。国が広いからでしょうか、それに輸入品も出回っていて、果物種類の多さ、同じ果物でも何種類もあって、名称が違っています。果物好きには、天国の様です。

 「サトウキビ」も、収穫したままの太い篠竹の様に、店頭に立てかけてあって、買うと、皮剥き機で剥いてくれたり、絞り機で果汁にして売っています。土が付いたままで売っていますのです、ちょっと買う気にはなりません。郊外の畑に植えられている、周りの様子を見ているので、買う手が引っ込んでしまいます。
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 格子戸で囲まれた小区の入り口の脇にある果物屋に行きますと、『これが美味しいよ!』と勧めてくれましたので、財布と相談しながら買ったり、手を引っ込めたりしていたのです。熱く火照った体に、夏場の果物は、最高です。毎週、水曜日にお邪魔していた家は、いつも果物を用意して出してくれたのです。なんでも美味しいのです。『これ甘くて美味しいですよ!』と、ご夫人が手で渡してくれて、美味しそうに頂いていました。

 彼女は、美味しい果物屋を知っているのです。『何処で買うんですか?』と聞きたくなる言葉を引っ込めています。そんなこと言ったら、買ってきてくれるからです。亜熱帯の地、この街の人たちは、生きることを楽しむのだそうです。それに気前が好くって、人のことを考えていてくれ、実に好い人たちなのです。瑞々しくて美味しい果物の様です。

 こんなことを思い出したのは、昨日散歩帰りに寄った、スーパーマーケットの果物売り場に、マンゴウがたくさん並べられてあったからです。一つ、980円で、メキシコからの輸入品でした。しかも追熟前で、あの甘い香りもしなかったのです。ブレンダーで、牛乳とラカント(羅漢果から取った甘味料)に果肉を入れて、撹拌して頂くと美味しいのですが、手が出ませんでした。

 もうスイカやメロンのシーズンなのでしょうか、たくさん並べられてありました。〈高級果実〉、なんだか今年は値段がとびっきり高いのです。それで、ニュージーランド産のリンゴとオレンジを買ったのです。これからは、梨がでまわり、桃も季(すもも)もイチジクも、店頭に並ぶでしょうか。果物の美味しい季節を感じております。

(「マンゴー」と「イチジク」です)

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我、山の子なれど

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 夏場の「泳ぎ」は、もっぱら多摩川でしました。中央線の鉄橋の下が、格好の水泳のできる箇所だったのです。硬質の粘土("ナメ"と呼んでいました)が、川の流れでえぐられて、3〜4mも深さがあったでしょうか。水は澄んでいて、「ハヤ」の魚影を裸眼で見ることができました。 

 病欠児童の自分が、四年生頃から元気になり出してからは、一夏中、そこに行っては泳いだのです。海水浴など行ったことがありませんでした。でも、文部省唱歌で宮原晃一郎の作詞で、作曲不詳の「われは海の子」をよく歌っていました。

1 われは海の子 白浪の
  さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ

2 生まれて潮にゆあみして
  波を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の気を
  吸いて童(わらべ)となりにけり

3 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)とわれは聞く

4 丈余のろかいあやつりて
  ゆくて定めぬ波まくら
  ももひろちひろ海の底
  遊びなれたる庭広し

5 いくとせここにきたへたる
  鉄より堅きかいなあり
  吹く潮風に黒みたる
  はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

6 波にただよう氷山も
  来たらば来たれ 恐れんや
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ おどろかじ

7 いで大船を乗り出して
  われは拾わん海の富
  いで 軍艦に乗り組みて
  われは護らん海の国

 この歌は、明治43年(1910年)、『尋常小学読本唱歌(六)』(6年生用)に掲載されています。海洋国家で、国土の狭い日本が、果たそうとしたのが、海外進出、海外制覇だったのです。戦後の教育を受けた私たちは、歌詞の3番までしか歌ったことがありませんでした。平和憲法を戴いた戦後の学校で歌うには、4番以降の歌詞は削除されたのです。

 それで、海への憧れが養われて、『何時か、海外へ雄飛するんだ!』と、自分を鼓舞したのですが、結局は現状維持の危険な冒険を冒さない、平凡な生き方を選んでしまいました。それでも18でアルゼンチンを考え、大人になってからはインドネシアも思いの内にあり、結局は、六十を過ぎた頃、職を辞して、中国に行ったのです。大阪港から上海の外灘への船旅は、結構、海に憧れた少年時代を過ごした私には、満足させてくれるものがありました。

 飛行機ではなく、船の旅は、鴎が飛んだり、トビウオが船と競争したり、海に落ちていく夕陽は、驚くほどに神秘的だったのです。二日間の船旅はゆっくりで、ボウっとする時があったり、海面が見える風呂があって、そこに入って、それを眺めたりできるのも"乙(おつ)"なものでした。

 今住んでいます栃木のみなさんは、〈海なし県人〉で、海に対する憧れが強いのでしょう、よく行かれるのは、茨城県の海だそうです。小山に両毛線で行き、そこから、水戸線で出掛けるようです。もちろん、車で出かける方たちが多いようですが、この五年間、海の潮騒をきくのが好きな私ですが、まだ出かけたことはありません。

 横須賀で育った父は、少年期に遠泳をして、夏を過ごしたと言っていました。〈六尺褌(ろくしゃくふんどし)〉をしめていたそうで、溺れた時の救助を考えた、優れた水泳着だったのです。中学一年の夏に、その真っ赤な褌をしめて、ちばのうみで行われた、臨海学校に行ったのです。山のこの私は、この「海の子」の歌を、羨ましく歌っていました。

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しゃべり言葉の面白さ

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 『あー、あー、あー』、『テス、テス、テスティング』、『マイクテスト、マイクテスト』と言って、マイクロフォンを使う時に、通じているか、音の高さは大丈夫か、エコーになっていないか、そんなことを試すことがあるそうです。

 NHKなどでは、以前は『本日は晴天なり、本日は晴天なり』と、マイクテストをしたそうです。これは、英語放送をする時に、“It is fine today”を直訳したものなのだそうで、英語では、“f”“t”の音をチェックしたのですから、日本語に翻訳しても、本来なら意味がないことになります。

 こう言うのを「猿真似」というのでしょうか。中国語ですと、“d”“t” の区別が難しいのです。「電」は"dian”、「田」は“tian”なのです。この発音がなかなか大変で、物真似をするのですが、どうも猿真似で、身に付かないのです。

 “f”“h” と区別ができないのです。「ファ」が「ハ」になってしまうは、日本語には、「ファ」の発音の言葉はないからです。逆に中国の方は、「きっと」とか「ちょっと」とか「ぱっと」という発音が、「きと」、「ちょと」、「ぱと」になってしまうのです。この「促音」の発音が漢語にないからなのです。

 英語圏では、「猿真似」を、“copy cat"といって、「猫」になるのだそうです。「猫に小判」は、欧米では「豚に真珠」で、因みに中国語では「対牛弾琴」で「牛」に琴の音を聞かせることなのです。「猫に鰹節」は「猫にミルク」と言うのだとか、因みに中国語では「虎口送肉」、肉食の「虎」の口先に肉を置くのに似ているようです。

 アルバイトをしていた時に、秋田出身の社員の方がいて、東北弁の口調を、初めて自分の耳で直接聞いて、すごく暖かさを感じたのを覚えています。性格が穏やかで、いつもニコニコしていて、恥じないで一生懸命喋っていたのです。『うんだべさ!』を聞き覚えて、時々使ったことがありました。『そうなんだ!』というよりも、本当に、その通りなのが伝わってきたのです。寒いから、あまり口を大きく使わないで話した言葉なのかな、とも思ったのです。

 鹿児島で、お会いしたおばあちゃんの「薩摩弁」は、まったく分からない、まるで外国語でした。一生懸命話しかけてくれて、大歓迎してくれましたので、ただ頷くだけでした。西郷隆盛と従道も、兄弟で話す時には、「薩摩弁」だったのでしょうね。

 在華中にも、今まで標準語を話していた方が、同じ故郷の方から電話が入ると、その「方言」に切り替えて話し始めるわけです。ある時、英語での講演を、中国語に翻訳しているのを聞いて、日本語に置き換えていたら、もう疲れてしまいました。英語だって、50年も使っていないのですから。言葉って、面白いですね。

 方言を持たない、標準語語りを自認していますが、東京弁だって、江戸の下町言葉と長州弁でできたと聞きますし、その東京弁の人が、私の標準語だと思って使っているのを聞いたら、『ちょっと違うなあ!』と思うことでしょう。

 中部山岳の地で生まれ、その地で小学校一年生の一学期まで過ごした時の言葉が、家の中だけで時々混じっていたのです。父も母も、そこの出身ではないのにです。小学校を、東京の南多摩郡で過ごしましたので、土地っ子の話す〈べえべえ言葉〉を、真似して話していました。群馬県や神奈川県でも、それを話し、栃木に参りましたら、『そうだべえ?』と話す言葉を時々聞きます。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木

 乗り換え駅では、その沿線のそれぞれの地の言葉で、同郷者どうしの話し言葉が聞こえてくるようです。新宿駅から、長野方面行く中央線の列車に乗り込むと、甲州弁、信州弁が聞こえたのです。上野も池袋も品川も、同じなのでしょうか。歳をとって、故郷の出雲弁が出てきた、緊張感の緩んだ母のしゃべり言葉を思い出します。

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カラー

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 去年、下の息子が、贈ってくれた「 カラー」が、黄色い花びらを一つ出してきました。季節に、自然界は正しく従って、芽を出し花を咲かせます。任せ切った生き方、在り方が大切なのでしょう。そういえば、力んだりしていないのです。

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[memory]こんな出来事もありました

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 もう40年ほど前になるでしょうか、ある日曜日の早朝、東京の都内のナンバープレートの車が、教会の横に停車したのです。一人のフィリピン人の女性を抱えた、ちょっと怪しい男たちが二、三で付き添っていたのです。彼女のマネージャーのRさんと言う方が、精神錯乱を起こして困っていて、『あなたなら何とかしてくれる!』と聞いたので、連れて来たのだと言うのです。無名なのになぜ知ってるのかと思いました。でも、この女性をどうにかしなければなりませんでした。

 担ぎ込まれた女性を、教会の一階の道路に面した部屋に案内したのです。子どもたちの朝の世話もありましたが、上の子たちに任せて、若い女性が、口から泡を拭きながら喘いでい、叫び続けていました。家内と二人で、“In The name of Jesus , go out ! “ 主イエスの名に 主イエスの名に 勝利あり(癒しあり) ・・・ 悪魔去り(病去り)・・・In The name of Jesu,  In The name of Jesu , We have The Victory ! “  と賛美しながら、悪霊の支配から、彼女が解き放たれるように祈り、さんびし続けました。小一時間しましたら、鬼の形相をしていた、くだんの女性が、正気を取り戻したのです。

 ニッコリ笑って、何もなかったかのように振る舞い、よく見ますと驚くほどの美人だったのに、驚かされたのです。この方をしばらく預かってから、連れが来て帰って行きました。聖書にもあり、私たちの牧会の中で、悪霊の問題を取り扱ってもいていましたので、私たちにできることを自覚し、神の支配の中に、彼女を取り戻そうとしたのです。

 カトリック教徒の同僚の踊り子たちも3人ほど付き添っていたのです。一人の方が、礼拝場の壁の十字架を外して、彼女の上に置いたのですが、その手作りの木製の十字架には力がないので、やめさせたのです。しばらくして彼女たちが、私たちの街の近くのバーで働くように、越して来られ、しばらく交わりがありました。その後も、同じような方が連れて来られたのですが、私は疲れ果ててしまったのです。

 この〈解放の務め〉は、自分の lifework だと思った時期がありましたが、教会の牧会上の責任もありますし、住宅街にあった教会でしたから近所迷惑にもなるので、『廣田さんの所に連れて行けば!』と言う要請を、主に願って、断ってしまいました。ある面で得意になってしまったのですが、日常を守れなくなっては、正しく奉仕の道を歩めないのでやめさせてもらったのです。

 この〈得意にさせる誘惑の力〉、自分の所に来たら、縄目から人を解放させられると言う務めが、魅力的にも思われたのです。でも、それは、十字架の贖罪の力、キリスト・イエスの復活の力、聖霊の力によるのであって、自分にその力があるのではないことを示され、そんな主の導きがあったのです。どんなに目覚ましく働いても、自分の本来の務めを行えなくなっては、伝道者としては相応しくないことを学ぶことができたのです。

 得意な点、成功の中に、驚くほどの誘惑があるのです。『あなたをサタンが恐れている!』と言う誘惑です。そんな罠が仕掛けられているのを見逃して、堕ちてしまった働き人が多くおいでです。お金や異性や名誉だけではなく、そんな誘惑の手があるのです。そう〈忙しくさせる罠〉でもあります。ですから、それは得意満面で買ってできる務めではなく、恐ろしく大変な闘いであるのです。

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 その頃でしょうか、井上良雄師の著した、「神の国の証人ブルームハルト父子(新教出版社刊)」を読んでいました。ドイツの南に位置する、メットリンゲンの村で、精神錯乱の若い女性の問題に、牧師や長老や村長たちが立ち向かい、2年ほどの格闘の末、1842年に、この女性のお姉さんで、同じように悪霊の支配にあり続けて、時がきて、『イエスは勝利者だ!』と告白して、解放されるのです。その記事を読んでいたわけです。

 医学上の精神病とは違った、闇の勢力が人の人格を蹂躙してしまう事態に引き摺り込む、まさに悪霊の働きが、時には見られるのです。あのフィリピンの女性は、イエスの御名と、十字架の勝利の告白とによって、完全に解放されたのです。子どもたちの養育や教育のために、スーパーマーケットで午前中は働き、月には数回徹夜でそのスーパーの床の清掃事業もしていて、私の時間や奉仕の容積には無理だったのです。

 それ以降、何もなかったわけではありませんが、《みことばの説教、礼拝、賛美》こそが、人を解放するのだと言う教訓を、子ブルームハルトのバートボルの家の働きの中から学んだのです。彼の奉仕中、ヨーロッパ中から、奇跡を認めて、人々が、バートボルにやって来ました。玄関の脇には、歩行補助の松葉杖などが、山高く積まれているほど、顕著な癒しがあったのです。ある時から、そう言って、ただ奇跡を認めてくる人のための祈りをやめたのです。『聖日曜日に、礼拝に来て、講壇から語られる《みことば》を聴きなさい!』と、ブルームハルト牧師は告げたのです。奇跡は止みました。私にも、それから静かな日々があって、導かれて、隣国に行くことになったのです。それは子どもたちには強烈な子供時代の体験でした.

(大型のバン、南ドイツの一風景です)

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夕張メロンより甘味なものあり

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 『ほんとうに美味しいですね♪』、わが家のテーブルで一緒にいただいた家内の友人と私たち、入院された病院で手術を終えて、帰宅されたご婦人が、ご夫妻で食べた、それぞれの〈食後感想〉が、これなのです。中国から来られて、所用で函館に行かれ、そこで注文されて、私たちに食べさせようとして、若き友人が買って、宅配してくださった「夕張メロン」でした。帰って行かれて二日後に宅配され、彼女は食べずじまいで帰国されたのです。

 明治維新政府の基幹産業の一つは、お雇い技師のライマンが発見した石炭の鉱脈からの採掘でした。アイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る地)」から命名された「夕張」で、黒いダイヤモンドが埋蔵されていたのです。それで製鉄業を興し、重化学工業を発展させ、戦艦や武器をも製造し始めたのです。そんな歴史のある地で、1961年に《メロン栽培》が成功したわけです。

 噂と宣伝、食べたことのある人の話を総合すると、やはり抜群の味わいなのだと聞いておりました。家の中で、唾液腺の活動を我慢しながら、添え書き通りに追熟を待っていて、やっと食べようとしたのです。飼い犬との出会いを契機に知り合った、川向こうの隣人のご夫人が、ポリープを取るために入院中でした。お茶を飲みながら、和菓子で接待してくださり、チェロの名手と、テノールの一流の歌手のビデオを、大画面と素敵な音響設備で聴かせてくださったご主人が、お一人の留守番で、孤食で寂しい思いをされているだろうと、そのメロンの半分を差し入れたのです。

 土曜日に、奥さまが退院してくるとお聞きしたのです。きっと、退院を待って、明日、一緒に食べられると思っていましたら、案の定、日曜日に一緒に食べられたと、夕奥さまから感謝の電話がありました。感動的な味だったそうで、4分の1を残して、もう一度味わうと言っておいででした。

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 冷蔵庫にしまっておいたもう半分は、いつも、お刺身や旬の果物やシャケの切り身を下さる、家内の散歩仲間のご婦人が、ちょうどお土産持参で、来られたのです。一緒に、6分の1づつで、なんと美味しいのかと、声も出さずに食べました。いつも遠慮がちの慎ましやかな老婦人も、『美味しいですね!』と、味わいながら食べてくださったのです。

 ちょっと羨ましい話で、恐縮ですが、そんな歴史のあった夕張で、こんなに美味しいメロンを作るとは驚きです。寒冷の北海道の内陸部で、どんなにか苦労して品種を改良し、育成されたことでしょうか。子どもの頃、井戸水で冷やしてくれた「マクワウリ」も美味しかったのですが、初めての夕張メロンは、格別に美味でした。

 ここに住み始め、全く地縁も血縁もない地で、素敵な出会いがあって、交流が与えられている、今は《メロン仲間》になったようです。ご主人を亡くされ、こちらに越して来られて、市内のホテルで働かれ、退職後も、こちらに住んでいる、家内の姉と同い年で、妹のように心配をしてくださる方と出会っています。

 また、もう一人の方のご主人もご病気で、何度も手術を繰り返し、好きなゴルフ打ちや散歩に励みながら闘病されておられるのです。〈真の宗教なき日本〉を嘆きながら、巡礼者のように名刹を、春と秋に巡っていて、「真理」を求めておいでなのです。医科大学の教授をされた高校時代からの親友を亡くして、自分も病んで、何かを得ようとしています。

 その奥さまの友人に、家内が差し上げる「クリスチャン新聞・福音版」を転送し、それを読み続けてこれれ級友が、先ごろ亡くなられたそうです。大きなショックだったようです。最後に、『キリストの十字架が判ったわ!』と言われたそうです。友人は若い日に、東洋英和学院で学んだ方だそうで、聖書も読んだことがあったそうです。窓を開けて、見えるお住まいの方に、主の祝福を願いながら、家内は目と心を向けています。

 《十字架の福音》は、夕張メロンよりも甘美なのが、きっと解る、解らせていただける日が来ると思っている家内なのです。口が奢ってしまい、もうスーパー売りのメロンが食べられなくなりそうです。
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背負子を負いつつの今

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 先日のメールで、鋼のような強靭な体を持っていた弟が、自分を、〈サビ鉄〉だと言ってきました。刺身に添える「山葵(わさび)」の〈サビ〉のことではなく、「錆」の〈サビ〉なのです。

 学校に行っていた頃は、登山が好きで、富士山や奥多摩の山小屋で、〈背負子(しょいこ)〉を負って、麓から資材や食料を運び上げ、山で病気になった人を担いで、麓まで下山したり、プロ並みの「強力(ごおりき)」のアルバイトをしたりしていました。体育教師になりたくて、体育学部のある大学に進学し、アイスホッケー、少林寺拳法、柔道と、なんでもこなしていたのです。

 卒業した後に、推薦があって、ある職場に就職をしたのですが、自分には相応しくないと判断して辞めて、翌年、高校時代の恩師の紹介で、都内の女子高校の教師になりました。ところが、母校から招聘があって、そこで定年退職まで働いたのです。退職後は、自分のデスクを構内に持って、若い教師の指導や相談をしていました。

 彼の転職で不思議なことがあったのは驚きました。私と親しくしてくださった、某大学の先生が、『君に紹介したい人がいるのだけど、東京に出てきませんか?』と言ってきたのです。それで所定の時間に、帝国ホテルに行ったのです。話をしていると、もう一人の教師を招こうと交渉中とのことで、誰だか知らされていなかったのですが、話によると、どうも弟ではありませんか。弟は母校ですが、私は外部者なのに、同じ時に誘いがあったので、一番驚いたのは理事長さんでした。

 課外では、警視庁の少年課のスタッフと一緒に、盛場を徘徊したり、家出している中高生たちの街頭指導をずっと、彼はしてきています。今も現役なのです。ところが先日、体調を崩して入院をしてしまいました。それで、自分に〈サビ〉が出てしまったと言ったわけです。講道館では赤帯を許された猛者なのにです。

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 先週の兄弟たち三人へのメールでは、〈ボロ鉄〉だと言ってきました。しっかりした信仰をもって、キリスト教主義の幼稚園から、高校まで、帰国子女を含めた学園で、大勢の子どもたちを教えてきたのです。ある夏、クラブの合宿で、千葉の海にいた時に、生徒たちが三人が、「ミオ」と恐れられる波にさらわれてしまったのです。遊泳禁止中でしたから泳がずに、砂浜を歩いていた時でした。二人を荒海に入って救助したのですが、三人目を助けに入ろうとしましたら、地元の漁師たちに羽交い締め(はがいじめ)されて、『一緒に溺れてしまうのでやめて!』と、強引に阻止され、涙ながらに断念したのです。

 それは、教師としては、極めて痛恨の経験でした。水難事故の時期になると、弟は、必ずこの浜を訪ねて、思いを新たにしてきたのです。それから、髭を生やし始めたでしょうか、これ髭がない方が優しい顔なのに、気を引き締めるためか、いつまでも忘れないためか、教えや指導に対する一つの決心をしたのでしょう。

 鋼鉄のごとき身体も、やはり衰える時が来るのでしょうか。でも精神は、まだまだ強いのです。私が父に叱られて、家を出されると、幼い弟は、いじめていた兄の私なのに、一緒に泣いて、外に出てくれたのを、昨日のように覚えています。まだまだ三人の子や孫たちの、相談相手でいて欲しいものです。あの背負子に、食料や資材を担ぎ上げ、病気をした病人を負って麓まで降りたように、多くの教え子(責任)を負いながらここまで仕事をしながら生きてきた弟です。彼自身は、救い主に背負われながらの七十年になります。まだまだ元気でいてほしいと願う不才の兄であります。

(「背負子」、母の故郷に近い奥出雲の「たたら製鉄」の炉鉄風景です)

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