「郷愁」、大日本国語辞典によりますと、[名詞]①異郷にいて、故郷を懐かしく思う気持。懐郷の想い。ノスタルジア。[初出の実例]「灯前聴レ雁抱二郷愁一、飛レ月穿レ雲宿処投」(出典)常山文集(1718)七絶)②昔のことを懐かしく思ったり、ひかれたりする気持。(以下省略)
先週金曜日の朝食で、焼き秋刀魚をいただきました。フライパンで焼き、おろし大根を添えて、醤油をかけて食べたのです。小学生の頃に、、映画「二等兵物語」で主演をされた、“ばんじゅん(伴淳三郎)” が、その秋刀魚の出てくる主題歌を歌っていたのです。それを思い出して、すっかり郷愁に浸ってしまったのです。
1950年代のこの時季、日本中の夕餉(ゆうげ)の食卓に登ったのが、「秋刀魚」でした。どの家も、外に七輪を置いて、炭火を起こし、そのコンロの上に金網を置いて、焼けてくると油が火の中に、ジュッと音を立てて落ちて、燃えてモクモクと煙を上げて、煙と秋刀魚の焼け焦げた匂いで溢れかえっていました。
それは、1950〜60年代の「昭和の光景」の一つでした。大漁だったのでしょうか、値段も安かったのでしょう、「一億総秋刀魚」は、今で言うと、社会現象だったことになります。スーパーマーケットなんかなく、ましてや冷蔵庫なんかない時代でした。母が買って来たのは、新鮮な秋刀魚だったのが不思議でした。流通だって、冷凍や冷蔵のトラックなどなく、トラックに、氷詰めで乗せられて運ばれて来ていたのでしょう。そんな頃に、秋刀魚の出てくる歌が流行っていました。
1955年から61年頃まで、続編続編の劇場映画で上映され、主題歌が、巷の有線やラジオ放送で流れていたのです。戦時中、兵隊さんが戦地に行く前に、各地の原隊で、軍事訓練が行われていて、ずいぶん厳しいものだったそうです。そんな中で、新兵さんたちに、気晴らしのようにして歌われていたのが、このような「◯◯小唄」と言われたものでした。
同じ頃、あの映画の終盤編の頃、月が出て来て、辺りが夕闇に包まれ始めてきた頃、近所の市営住宅から白い煙が、ハンドボールの練習するグラウンドに、たなびいてきていました。空(す)きっ腹に、秋刀魚を焼く匂いと煙とが攻めて来たのです。あの光景と秋刀魚の臭いとが、この季節になると、決まって16、7の頃の思い出が甦ってくるのです。
曼珠沙華の真っ赤な花が、校庭の隅っこに咲いていたでしょうか。頭の薄かった中学の担任、慶應ボーイで上品な高校の担任、一緒にスコップで土を掘り返して、古人の住居跡を一緒に探り当てた顧問の教師も、級友たちも、先輩もOBもいたのです。郷愁にひたるのも、この時季は一番かも知れません。
先日、弟からのメールに、彼岸花、曼珠沙華とも言いましたが、この花が咲き始めた様子を知らせて来ました。こちらでも、散歩の途中の河辺に、隣家の庭に、赤く咲いているのが見られる季節になりました。西洋花がいっぱい売られて、家庭花壇には、その花が溢れて来ています。
そんな中で、日本の土壌で、咲き続けて来た季節の花が、たくさんあるのです。多くは、自生していたか、中国大陸から植え移されたものです。その最たるものが、朝顔でしょうか。涼しくなって急に勢いよく咲いて来て、今は終盤を迎えています。
また桔梗が、また息を吹き返して来たように蕾をつけ、咲いてくれています。散歩道には、キンケイギクが咲き溢れています。いい季節かなと思いましたら、今日は、ぶり返しの暑さなのだと天気予報で言っていました。今週は、もう十月です。
(ウイキペディアによる七輪の上の秋刀魚、曼珠沙華の花です)
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