.
.
先週、河岸の散歩道を歩きながら、この街の歴史を刻んである石版を見ていましたら、『1657年1月15日大雪!』だったそうです。積雪が、<三尺(1mほど)もあった様です。この11年もの間、一度も雪を見た事はなかったのですが、今季は寒波が厳しいので、降る雪を見られるかなと思っていますが、どうなる事でしょうか。「黄檗宗(おうばくしゅう/日本の禅宗の一派です)」が、この街で活動を開始したのも、その少し前だったとありました。
「清代」の動きが、結構詳しく刻まれていて、文献で研究して見たら面白い事を発見できるかも知れません。やがて軍港になるのですが、街の北の方の河口近くに、「港」が開かれて、「海運業」が興り、海外との交易が頻繁になり、外国人の渡来も多くなって行く時期だった事が記録されています。
日本との交易が賑やかだったのは、宋代で、「日宋貿易」も、10世紀の後半(平安時代の末期から鎌倉時代の中期に行われています)に始まっています。九州の「博多」や北陸の「敦賀(つるが)」が、中心的な貿易港として発展し、大陸からの商人たちの「居留地」も、そこにはあった様です。幕末の「横浜」の様だったわけです。大陸の主要な貿易港は「寧波ningbo(唐代には"明州mingzhou"と呼ばれていました)」で、当時は、中国南方の最大港の上海ではなかったのです。そこから海運で、物資が、この街の港にも運ばれてきたのでしょうか。
その貿易内容は、日本からの輸出品は、金、銀、硫黄、水銀、真珠、工芸品(刀剣・漆器など)でした。また、宋からの輸入品は、宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍などで、随分と博多の街は賑わっていた事でしょう。この輸入品の「宋銭」は、日本の貨幣制度を導入する契機となった様で、大きな意味があったわけです。
中国の宋代、日本の鎌倉時代(この時代には国家間ではなく民間貿易だった様です)は、めまぐるしく人やものが動いていた時代で、日本人が溌剌(はつらつ)としていたのです。良いものを受け入れて、それを改良して流通させて行くと言った、日本人の特性が、十二分に発揮できた時代だったからでしょう。何と言っても平清盛は、日宋貿易に積極的で、その「博多」の港は、彼が作らせた<人工港>でした。
あの勇名を馳せた「倭寇(わこう)」が、裏で活躍していて、宋や朝鮮半島の高麗(こうらい)だけではなく、東南アジアまで、駆け回っていた様です。海洋国家の日本にとって、海は、自分の庭の様なものだったのでしょうか。中国側の寧波は、現代でも、上海の陰に隠れている様ですが、一大貿易港湾として、賑やかで豊かな街だそうです。そこも、一度訪ねたいのですが、どうなる事でしょうか。
日本の「鎖国」は、内に文化を育んだのですが、外に向かって雄飛する気概を抑えてしまったので、「盆栽」や「箱庭」の様に、コジンマリしてしまって、大らかさを削いでしまったのでしょう。人の顔色ばかり見て、ものを言えなくなってしまったのです。でも悪さを余所の国にしなくなったのは、良かったかも知れませんが、眠った子が起こされる日が、やがて来るわけです。《歴史》って、面白くて興味が尽きません。
(寧波の古写真の港の様子です)
.