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もう咲かないものと諦めていたのに、今朝、二輪の「朝顔」が、中国語で「礼拝天」とか「周期天」と呼ばれる、「日曜日」の朝に咲きました。まさに" morning gloly"です。自然の生命に驚嘆しています。暑くて、そして重い物を持って腰痛な私に、『諦めるな!』と叱咤激励の開花です。日本は、伊勢に台風12号が上陸して、西進していると、今朝のニュースが伝えていました。先日の防雨の被災地に、大雨の被害がない様に、心から祈っております。
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「花火」ほど、「華やか」なものは他にありません。この花火は、「儚(はかな)さ」をも併せ持っている、特別に夏の風物詩です。父が好きだったからでしょうか、よく会社帰りに、手持ちの花火を、買って持ち帰ってくれました。それを庭先で楽しませてくれました。あの「線香花火」の、パチパチと光る火花の残像が、瞼の奥に鮮明に残っています。
時々、『隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『花火は遠くから眺めるもの!』と決めつけていたのです。多摩川で打ち上げられる花火も、綺麗でしたし、あの打ち上げて炸裂する音も、火薬の臭も大好きでした。
ところが、2010年8月に、中国から一時帰国する私たち両親のために、次男が、一席8000円もする、花火鑑賞の席を予約してくれたのです。その花火大会は、大劇場の舞台で見られる演劇のような気分でした。無作為に、『ドーン!ドーン!』と上げられるものと思い込んでいた私は、裏切られたのです。何と、コンピューター制御で、流行りの歌に呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間も計算し尽くされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。
ほんの少し距離を置いた頭上で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも綺麗に写っていました。このような経験は初めてのことでした。『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至ったのです。家内は用があって、せっかくの次男の招待を受けられなかったのは、残念なことでした。大きな犠牲を払って、帰国した私たちを労い、楽しませようとした心意気に触れて、感謝で心が一杯になったのです。
その席まで配達してもらい、夜風に当たりながら食べたピザは、格別な味でした。随分な贅沢を満喫したことになります。道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲み物も、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでした。今年も、各地で花火大会があることでしょう。
尾崎士郎の「人生劇場」を、夢中に鳴なって読んだことが、高校の時にありました。吉良常が、上海で《烟花yanhua花火》を打ち上げるくだりがありました。それで『花火師になろう!』と思い立ったのです。男っぽい仕事だと感じたからでした。でも実現しませんでした。こちらでも、特に、この時期は、花火が打ち上げられています。箱入りで、着火すると、ひとしきり連続で打ち上がるのです。しかも路上でしているのです。日本ではできないなあって思うのです。
(隅田川の花火です)
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「天の配剤」とは、夜があり昼がある事、男がいて女がいる事、冬があり夏がある事、貧しさがあり豊かさがある事、弱さがあり強さがある事なのでしょうか。互いに補い合い、助け合い、譲り合うために、二つの違いが背中合わせの様にあります。一日中昼だったら、人の心も体も休まらないのに、しっかりと眠れる夜があります。男だけだったらギスギスしているのに、女性がいる事によって和やかになれます。寒い冬ばかりだったら凍えてしまうのに、躍動的な夏があって人は活動的になります。貧しい人を支えるために、ある人には豊かさが与えられています。
もし世の中に、強者ばかりがいたらどうでしょうか。喧嘩や戦争で覇権争いに、人は明け暮れている事でしょう。小学校の同級生に長島くんがいました。「オランダ屋敷」に住んでいると言われていました。当時、『♭・・・オランダ屋敷に雨がふる♯』という歌詞の歌が流行っていて、雨漏りのひどい家だったからです。弟がいて、二人で破れた「番傘(紙と竹でできた雨傘)をさして、雨の日には登校して来ました。その内、雨の日に学校を休む様になったのです。傘が完全に使えなくなったからです。お互い悪戯小僧でした。
ある時、何かを仕出かして、彼と何人かで、廊下に立たされたのです。まだ給食のない時代、彼は弁当も持って来ませんでしたので、立たされ仲間にカンパして、彼を経済援助した事がありました。悪戯で、落ち着きがなく、我儘で、短気な私が、子どもの頃にした、たった一つの好い事でした。大学時代に、小児麻痺で体の不自由な後輩がいました。彼の友になって、彼を励ましたのです(実はこちらの方が励まされたのですが)。生意気盛りにたったした、一つの好い事でした。
道路を歩いていたら、女性を殴っている男がいました。間に立って、『女をいじめるな!』と、その男に一発喰らわしました。社会に出てした、たった一つに善事(!?)でした。両親のいない姉弟がいました。弟は鑑別所にいました。帰って行くのは施設で、そこで何時も<カツアゲ(上級生に金品を盗られる事)>されていました。家庭を味わってもらおうと、引き受けたのは、大人になってした、たった一つの好い事でした。
まだいろいろな事がありましたが、テレビ放映が始まった時期に、やっていた「月光仮面」が、強きをくじいて、弱きを助けていたのをよく観たからでした。自分が少しだけ強かった時に、弱く見えた人たちに加勢したのです。それは、性格の好くない私には、少し変えられるために、好い機会だったのです。世の中に、<不要な人間>はいないのです。まだ若かった講師が、頬を紅潮しながら、『重度障害児を日向に出したり、お風呂に入れたりと手伝いをした事があった。普段は完全に助けられないと生きていけないのに、彼らの表情に笑みが浮かぶんだ!人って、生きてるだけで、驚くほどの可能性があるんだよ!』と講義中に話してくれました。これは、高い授業料を払って、学んだ二つの内の一つの事でした。
自分も含めた誰にでも、どんな状況の人にも、生きる限りは、「可能性」が、溢れるほどにあると言うのは、自分勝手な生き方をし、我儘な男を変えた言葉でした。あの講師が、初老の教授になって、NHKの「Eテレビ」の番組で見た事がありました。目の輝きは変わっていませんでした。「労(いた)わり」を、私に教えくれた方です。<2016.8.29掲載の復刻版>
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蚊に刺されやすい性(たち)の私は、もう5月には、蚊帳の中で寝始めているのです。それで<天敵>から身を守って、安眠を確保しています。今使っているのは三代目の蚊帳で、釣るのではなく、形状記憶の鋼線に、網目の蚊帳の生地がつけられていて、一瞬にして開くような形状なのです。折りたたみも簡単にできる優れ物です。
父の家には、昔ながらの青緑の蚊帳が、まさに"釣られて"ありました。母が布団を敷いてくれ、四隅の鴨居の金具に、蚊帳の架け紐をかけてくれるのです。入る時に、パサパサと蚊帳の裾を払うのですが、みんながしていていた、あの仕草が懐かしくてなりません。今使用中の物は、ジッパーで開閉しますから、ズボンを履く様で、ちょっと情緒はありません。
垂乳根の 母が釣りたる 青蚊帳を すがしといねつ たるみたれども 長岡 節
この短歌の作者の長岡節は、36才で夭逝した、アララギ派の歌人で、小説家でもありました。農民文学の傑作と言われる『土』を著しています。この歌は、病んだ彼が、帰った故郷の生家で詠んだものなのでしょう。息子のために、蚊帳を釣ってくれた母親が詠み込まれています。きっと優しいお母さんだったのでしょう。ちょっと蚊帳に、張りがなくて、たるんでいるのが微笑ましいですね。中学の「国語」の教科書に、この方の「土」が載っていて、学んだ覚えがあります。
今夏は、<天敵>も"強面(こわもて)"で、蚊帳から出ると、すぐに刺されるのです。窓には、全て網戸があるのに、どこから侵入して来るのでしょうか。長塚節が詠んだ「すがしといねつ」、"気持ち好く眠れる"ためには、蚊取線香と"ムヒ(痒み止め剤 "も欠かせないのです。ところが、同じ物を食べたり飲んだりして、共に生活している家内は、ほとんど刺されないでいるのです。
先日、残り少なくなった"ムヒ"の後任の"キンカン"が、上の娘から送られてきました。これで、刺されたら塗れるので、事後処理も万端です。実は、<華南の蚊>は、秦の始皇帝の兵士の如くに、大きくて強烈なのです。そんな十二分の防備を敷いているのに、どれだけ刺されたか分かりません。子どもの頃に遡って数えたら、どれほどの回数になることでしょう。そんなことを思う猛暑の大陸の7月の夕べです。
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この「ミヤコワスレ」について、“ウイキペディア”に、「ミヤマヨメナの日本産園芸品種として多く栽培され、開花期は5〜6月頃である。 ミヤコワスレの名は、鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め、都恋しさを忘れたとの伝承による。この由来によって花言葉は「別れ」や「しばしの憩い」などといわれる。ただし栽培の歴史は江戸時代からとされる。文化2年(1805年)には既に記録があり、これ以前から栽培されていたと見られる。花色は紫・桃・白などもあるが、もっとも好まれるのは紫であり、切り花でミヤコワスレとして流通するのは紫のものだけである。種子には稔性がなく、株分けでのみ繁殖させる」とあります。
この「承久の乱」とは、鎌倉期の国内紛争で、1221年、朝廷と武家との初めての抗争で、武家の鎌倉幕府の勝戦に終わりました。あのロシア帝国のニコライ帝は、「ロシア革命」の後に、妻も娘たちも殺されてしまいましたが、鎌倉期には、首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐の島に、そして順徳天皇は、佐渡に<島流し>にされると言う、緩やかな処分がなされていたのです。ただし出兵し、実際に戦った兵士たちの頭領たちは、処刑されています。皇位にある者へは、ある敬意が示されたのでしょうか。義経が、頼朝に派遣された討伐隊によって討ち死にしたのとは違っていました。肉親の情の方が強そうなのにです。
隠岐の島、伊豆大島、佐渡島などに島嶼部に送られ、緩やかな監視の中で、生きることが叶ったのは、「武士の情け」だったのでしょう。あの西郷隆盛も、奄美大島、沖之永良部島に流刑(るけい)されています。順徳天皇の様に、流刑の身でありながら、そこで歌を詠んだり、花を愛でたり、風流な生活が可能だった様です。武家社会と言うのは、「下克上(げこくじょう)」とか、親族間の抗争に明け暮れた社会だった様で、大変だったのですね。頼朝は、伊豆大島に流罪になっています。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とか、「捲土重来(けんどじゅうらい)」の時を、そこで過ごしたそうです。
そんな悲しい物語を知ってしまうと、この「ミヤコヨメナ」と言われている花が、「都忘れ」だと聞くと、美しいのですが、悲しさを感じさせられてしまう様です。権力の座にあると言うのは、漁師が、『板子一枚下は地獄!』と言った様に、何時寝首をかかれ、裏切られるか分からない、危険な座だったのでしょうね。そこをいくと、スイカの切り分けの大きいのを食べて、それを恨まれるぐらいしかない私の様な立場は、何処ででも<昼寝>ができるのですから、感謝なことです。このところ、あまりの暑さに、板張りの床に寝ると、気持ちがいいので寝てると、家内に注意されてしまう、酷暑の七月です。
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昨日、二十四節気の「大暑」でしたが、埼玉県の熊谷が、"41.1℃"の最高気温を記録した、とニュースが伝えていました。今朝一番で、家内が、その熊谷に、電話を掛けたのです。最近では、国際電話を"Skype"を使っていて、家内の従兄弟の家にでした。そこに、103才の叔母(お父さんの妹)がいるので、酷い高温の中、どうしてるか心配で、電話したのです。
今日は、"ディケアー"に出掛けていて留守だったようです。そこでは、一番の年長で、まだみなさんと話したり、茶菓をいただいたり、昼食を摂ったり、入浴もして、週二回出掛けているのだそうです。元気で、食欲もあり、頭も言葉もしっかりしているのです。チャキチャキの"江戸っ娘(こ)"で、同級生たちと、観劇したりする趣味をもっていたのですが、今は、"都落ち"してしまい、同級生たちもいなくなって、楽しい観劇から遠ざかっている様です。
従兄弟が、『困っちゃうよ!』と言っていたそうです。<元気過ぎる>と言うことなのでしょう。ご主人を、太平洋戦争で亡くし、姑の指図で、ご主人の弟と、先夫の子を連れて再婚しています。下に、二人の息子がいるのですが、下の弟息子は、先年召されています。女の子もいたのですが、日射病で亡くしています。愛する夫と娘との死別という悲しい経験を通った割には、性格が明るいのです。
家内のすぐ上の姉が、この叔母に似ていて、性格も喋り方も、まるで親娘の様に、よく似ているのです。またブラジルに移民した家内の兄(先年亡くなりました)と、この叔母の面倒を見ている家内の従兄弟が、また感じが、よく似ているのです。面白い親族だなと思うことしきりです。
この酷暑の中、年配者の熱中症が多く見られるようです。8月の初旬まで続くと、ニュースが伝えていますが、私たちも、盆地で過ごした経験がありますが、大気の動きが少ないからでしょうか、ものすごく暑かったのを思い出します。かく言っている私が住む街も、まるで窯の中にいるようで、家にいる時は、空調なしでは過ごせないほどです。空調嫌い、扇風機嫌いな私でも、涼を取らないと、汗だくになってしまいますので、仕方なしの今日この頃です
暑中お見舞い申し上げます。みなさんのご健康を、心から願っております。秋風が吹き始めるのはいつになることでしょうか。今日は、蝉も鳴き渋っているほどの暑さです。
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私の身内で、《我慢強い》のは、母と弟でしょうか。と言うか、《弱音を吐かない》のです。痛くっても、苦しくても、泣いたり叫んだりしないからです。父も、兄たちも、<弱虫>だけど、かく言う自分も、けっこう泣き言を言わずに生きて来たかな、って思い返すのです。
三番目に痛い経験は、一人の男が、いきなり服を脱いで、裸になって、体の入れ墨で威嚇しながら、こん棒で私の頭を殴った時でした。不意打ちで、思いっきり前頭部を叩かれたのです。目から火花が飛んで行きました。二発目を、左腕で受け止めた時に、そのこん棒が真っ二つに折れたのです。それでひるまなかった自分は、今度は鉄拳を、この男の顔面に浴びせました。正当防衛でした。二、三発し続けていたら、この男の仲間が、『もうやめてください!』と嘆願したのです。この男には、闘う意志がなくなっていたからです。
今春、帰国時に、友人の紹介で歯科医に治療に行きました。兜町の株取引の関係者が、多く来院すると言っていた、腕利きの医師でした。この方が、奥歯の治療をしながら、よく話し掛けるのです。口を開けられ、返事ができないのに、同意を認める様な話をしてきて、困ってしまったのです。患者を、歯を健全に保つために教育していたわけです。
『最近、タクシーの運転手が、公園の近くに車を止めて、水場で、食後の歯磨きをしてるんです。今まで、こう言った光景を見たことがなかったのですが、最近は、よく見かけるんですよ!』と言って、食後の歯磨きを励行する様に、暗に、教えてくれました。そう言った話をする方でした。
この方が、下の奥歯の中心にある、生き残った歯を大切にする様に、言うのです。『最近、人が我慢強く無くなったのは、この奥歯を抜いてしまったからです!』と言うのです。それは、《我慢》のために、グッと噛む歯なのです。母も弟も、この奥歯を噛んで我慢強く生きていたのでしょう。涙を流す姿を見たことがないのです。歯一本が、どれほど人間の生き方や在り方を左右するかを、歯科医の立場から強調し、『立派な前歯も、グッと噛む奥歯も、しっかりケアーして、大事にしてくださいね!』と、激励されたのです。
歯をほめられたのは初めての経験でした。人間には、どこかにほめる部分を持っているのでしょう。『自分のそばにいる人に、それを見つけて、褒めることをしようと!』と、この歯医者さんに会って、心に決めたのです。そう二番目に痛かったのは、中耳炎に罹った時です。耐えられない痛さで、どうすることもできませんでしたが、泣かずに、耳鼻科に連れて行ってもらって、膿んだ部分を切開してもらって、痛みが止みました。
一番目の痛さは、39歳の時に、腎臓摘出手術をして、ICUで目が覚めた時でした。泣かなかったですが、グッと奥歯を噛んだのですが、耐えられずに、麻酔を、看護士さんに頼んでしまいました。この歳になって、我慢強さは、人の意思だけでなく、奥歯にも関係があることを知らされたのは感謝なことでした。
浮世は辛かったり、痛かったりです。災害に、繰り返し見舞われ、狭い国土で生きて来た日本人は、けっこう我慢強い民族なのでしょう。グッと奥歯を噛んで、繰り返し襲う災害を、あの独特な《ニヤニヤ笑い》でも誤魔化しながら、父や母、祖父母、昔ながらの日本人の特技を使って、起死回生、生き延びて来たのでしょう。改めて、我慢の一つが、どこから来るかを学ばされた私は、希望を天に繋ぎながら、もう少しめげずに生きていこうと思っています。今年の日本も、《我慢の子》たちが、『それでも!』と、克己(こっき)しています。
(葛飾北斎の描いた「富士山」です)
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<地震、雷、火事、親爺>、子どもの頃に聞いた、“怖(こわ)いもの四傑”でした。実際に、この四つを、軽微に体験した私にとって、甲乙つけがたいので、順位を考えてしまうほどです。今季、西日本を襲った「暴雨」による「洪水」の被害を考えますと、これも付け加えたらいい様に思います。さらに、前代未聞の「高温」だって、日本だけではなく、世界規模で見舞われていますから、四傑に、二つを加えて「六傑」になるでしょうか。
でも、最近のお父さんは、「友達」の様で、怖くなくなって来ているそうです。私たちが今住んでいます小区で、子を叱る声は、お母さんばかりです。お父さんは、仕事と趣味で忙しくて、朝早く、夜遅くの生活型で、家で子どもと過ごす時間が激減している様に見受けられます。
「火事」は、天井板一枚で経験し、子どもの頃に、火遊びの火が突然大きくなった経験もあって怖さを知っています。ところが、<火事場(災害現場)泥棒>をする輩が増えている、とニュースが伝えています。休日を利用して、後片付けのボランティアのみなさんがいる反面の現象です。
「雷」は、八王子の藤森公園で、すんでのところで避けた経験がありました。「地震」は、帰国中、息子の家で経験した「東日本大震災」で、家の中にいられず、近くのスーパーの駐車場に避難した経験があります。ほとんどが揺れる経験で、建物の倒壊などの渦中にいた経験はありません。
疫病、テロ、放射能、流れ星の落下、竜巻、食料飢饉、洪水、津波、街中暴走、煽り運転、突然切れるなどの未経験の「怖い物」が、まだ私にはあります。二十一世紀は、便利な時代の只中で、生きにくい時代になっています。暴漢に突然襲われる様な事件も多く起きています。<いじめ>も多発しています。
昨日お会いした方は、白血病の子どものお世話をされていると言っていました。病院のベッドが不足していて、収容仕切れないので、篤志の企業などの援助を受けて、部屋を借りて、そこでお世話をしているそうです。親に捨てられた子、孤児、貧困家庭の子などに手を差し伸べて、活動をされておいでです。
今、一番生きにくいのは、子どもたちです。隣町に、耳の不自由な話すことにできない子どもたちの施設があったり、重度の心身に障碍を持っていて、親に捨てられた子どもを世話をされている方もおいでです。「義務」とか「優しさ」が忘れられているのが、「怖さ」かなと思わされています。人の心から「隣人愛」が失われてきているのです。
そんな中で、灯心を灯し続けているみなさんが、ここにも、世界中にもいらっしゃいます。豪雨の地で、真水でなく、泥水で顔を洗っていたボランティアの方の写真を見ました。善意が絶えることなく行われているのも忘れてはなりません。
(上高地の7月中旬の景観で「ワタスゲ」です☞「里山を歩こう」への投稿です)
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