もはや

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 ある詩人が、次の様な詩を発表しています。

       『倚りかからず』

もはや 
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや 
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて 心底学んだのはそれくらい
じぶんの耳目 じぶんの2本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは 椅子の背もたれだけ

 『いやー、ずいぶんとシンドイ人生だなー!』、この詩を読んだ感想です。「人」という漢字で、私たちは、他者と一括りにされるのですが、単純に文字の成り立ちは、〈支えたり〉、〈支えられたり〉している様子を、古代の中国の人たちが考えて、文字が誕生したわけです。人は、〈単立〉ではなく、〈併立〉な存在者だったのです。

 〈独立独歩〉であることは、自立した在り方ですから、成長した人の逞しさがあります。でも〈倚りかからない人〉って、寂しそうです。〈自分の足のみで立っている人〉って、倒れかかったら、誰に、何に、支えてもらうのでしょうか。それさえも必要なく、突っ張って生きて行くのは、辛そうです。

 この詩人が言う様に、〈自分の耳目〉だけで聞いたり、見たりするだけだと、偏向的で危険です。自分だけしか信じられない人って、厳しい人生を生きているのでしょう。この詩を読んで、ある日本の突っ張り傾向の政治家が、とある外国に行って、その国の首長と言葉を交わした話を思い出しました。『私は、神を恐れています!』と、絶対者への畏怖を語る言葉を聞いた直後に、わが国の首長は、『私は、神をも恐れません!』と言ったそうです。

 その〈神なき民〉、〈神不要の民〉の言葉を聞いた、その国の人々は、驚きあきれ、かの政治家は、欧米人の顰蹙(ひんしゅく)をかったそうです。神を畏れずに、権勢を誇った指導者は、ほとんどが悲惨な最後を遂げています。以前、独裁者の顔写真を掲載してありましたが、そのほとんどに、〈❌〉が印されてありました。

 かく詩を詠んだ詩人の茨木のりこは、24歳で結婚をして、配偶者を得ています。結婚生活25年で夫と死別しています。夫の死後に、夫への想いを綴った「歳月」を刊行していますから、夫には支えられて生きた人、夫を支えて生きた女性であったのです。戦争体験者で、反骨を貫いた方ですが、79歳で召された後は、遺言で、鶴岡市にあるご主人の墓に葬られました。椅子よりも素敵な伴侶が、この詩人にいたので、突っ張っただけの女性でなかったのを知って、ホッとしました。

(フリー素材のイラストです)

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蜂蜜

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 大きな被害をもたらせた豪雨が、梅雨前線の停滞が原因だったと、ニュースが伝えています。河川の氾濫が、肥沃な田畑を作ったと、地理では教えられていますが、急峻な山から流れ下る水に流れは、水量を増して、一気に流れ落ちるので、日本は、度重なる水害を経験をしてきています。
 
 昨秋、人生二度目の避難生活をしました。家内が病んで入院し、治療が一段落して、退院して暫くしてのことでした。台風19号は、この地域に大雨を降らせて、近くを流れる永野川や巴波川の氾濫で、床上浸水でした。幸い、二階家でしたので、身の回りのものを持って、前夜、二階に避難し、その夜はぐっすり寝てしまいました。

 早朝、五時前に起きて、下に降りてみますと、一階部分は、どこも床上浸水で、脱いだスリッパが浮いていました。水かき、泥かきをし、やっと身の回りの整理がつき、一安心したのです。5年ほど前にも、この地は洪水に見舞われていましたが、去年の方が被害が大きかったそうでした。

 その浸水した家にい続けては、健康被害があるといけないと、友人夫妻のご子息が言って、高根沢町在住の友人に連絡してくださったのです。避難できるかどうかを打診してくださいました。その方のご好意で、事務所の二階のゲストルームをお世話くださり、被災の翌日から三週間弱の間、私たちに避難所を提供してくださったのです。

 その二階に住み始めた私たちに、地元特産のお米や柿や、ブドウやリンゴ、和菓子までお届け下り、ある方はお見舞いの志まで下さいました。避難者、寄留者の私たちへの親切は、驚くほどのものでした。そこから一度は、掛かり付けの病院に通院をさせてもらいました。

 ユダヤの格言に、

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』

とありますが、病態が悪化する危険性は全くなく、家内は元気に守られておりました。思い返しますと、いつも多くの親切があって、私たち家族は、守られ、祝されてきたのだと分かるのです。

 第一回の避難経験は、40年ほど前の早朝に、当時住んでいたアパートでガス爆発に遭遇した時でした。階上の家で、強烈なガス漏れ引火事故があって、わが家の玄関が、爆音とともに開き、洗濯物や飼っていた鳥が焼けてしまい、ベランダの窓ガラスが割れ、駆けつけた消防署や消防団の放水で、持ち物のほとんどが水浸しになってしまいました。

 警察と消防署の事故処理の中で、『引火していても不思議でないのに、よく守られたものです!』と言われて驚きました。私だけが、ガラスの破片で頭部に刺さる怪我を負いましたが、家人への被害は全くなかったのです。家内は、次男をお腹の中に宿し、次の月が出産予定でした。近くの私たちの倶楽部に避難して、多くの友人や兄弟たちに助けで、生活の再建ができたのは、大変感謝でした。

 長女の通っていた幼稚園から、その日の朝に連絡があって、次女の世話をしてくださるとのことで、次女は憧れの幼稚園通いができて大喜びだったのを覚えています。今夏、熊本や福岡や岐阜で被災されたみなさんは、どうなさっておいででしょうか。復旧や援助によって、1日も早く元の生活に戻れます様に願っております。

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うな丼

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「土用の日」の今夕は、「うな丼」と、季節外れの「湯豆腐」で、夕食をすませました。三週間ほど前、行きつけのスーパーマーケットで、〈三割引〉を買って、冷蔵庫の冷凍室で保管していたのを、温めてみました。〈世間並み〉には、あまり拘らないのですが、珍しく食べて、『美味しかったわ!』と、家内が言ってくれました。火曜日の夕べの〈久しうなぎ〉でした。

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モーニング・グローリィ

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 一昨日、昨日とは打って変わって、霧雨の降る栃木市です。『梅雨が終わるかな!』が、淡い期待だった様で、もう一週間は、どうも、このまま梅雨が続くと、今朝、天気予報士の方が言っておいででした。『梅雨もまたよし!』なのですが、こんなにどんよりな日が続いてしまうと、お米や果物には申し訳ないのですが、晴れて欲しいと願ってしまいます。

 ベランダで、綺麗な紫色の朝顔が咲きました。天気など、ほとんど気にしないかの様に、静かに咲き出しています。そんなベランダの向こうに見える道路を、コロナを吹き飛ばすかの様に、爆音を響かせて、オートバイ乗りに若者が、我がもの顔で走り抜けて行きました。『いいなー!」と羨ましいがったら、家内が、『うるさいは!』と答えました。

 また静かになった、駅前通りです。

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古桶

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 オランダから来られた《 Story Teller 》が、友人の倶楽部で語った話を、友人が次の様に分かち合っていました。

 『二つの水桶に水を入れて、天秤棒で担ぎながら運ぶお爺さんは、せっせと水を運びます。前には新品の桶、後ろには古ぼけた桶を下げていました。後ろの桶は、ボロボロになっている様なものだったのです。坂道を登って行くのですが、新品の桶からは全くないのですが、古ぼけた桶からは、水が漏れています。それでもお爺さんは水を運ぶのです。

 ところが新しい桶が、古い桶に向かって、「お前はなんて役立たずなんだ。半分も水を減らしてしまって。働きゾンのくたびれ儲けだ。お前なんかさっさと辞めちまえ!」と、軽蔑を込めて言うのです。それを聞いた古桶は、ひどく落胆してしまいます。そんなしょげてる桶は、お爺さんに、「こんな役立たずの私を使うのは辞めてください。捨てるなりなんなりしてください。」と言います。それを聞くとお爺さんは、「何を言うのか、あなたはこれまで、ずっと私のために働き続けてくれたじゃあないか。今だって立派な仕事をしてくれている。」と言いました。

 お爺さんは、いつもの坂道に、この古桶を連れて行って、道端で咲いている小さな花を指差すのです。そして、「ご覧、なんて綺麗な花なんだろう。君が水をこぼしてくれたので、この乾き切った坂道に花が咲く様になったんだよ。この咲く花で、私は、どれだけ慰められ、励まされたか知れない。それはみんな、君が水をこぼしてくれたからなんだ!」と言いました。』

 この話を聞いて、父の若き日を過ごした中国に行こうとしていた時に、こう言われたのを思い出したのです。『そんなに歳をとって、しかも外国に行って、どんな働きができるのか!』と言われたことをです。それでも、私は、家内の手をとって、成田から飛行機に乗って、香港にまず行きました。1週間、いろいろな国から来た20人ほどの方たちと、オリエンテーションを受けたのです。若い人たちばかりで、老人は私たちだけでした。

 それを終えて、私たちは、寝台列車で北京に向かいました。北京には、天津の語学学校の関係者が出迎えてくれていたのです。中国本土に着いて、私たちの仲間で、老人は私たちと、もう3組の夫婦がいるだけでした。『そんな歳で、何をしようとしてるのですか?』と言う目で、同邦の若い女性に見られたのです。辛辣なことを言われて、少しの戸惑いがなかったわけではありませんが、家内と私には、長く続けた仕事を辞め、後ろ髪を振り切って、何者かに押し出され、やって来た強い《決心》があったのです。

 水漏れのする桶の様な古びた私たちへの大方の予想は、『一年ほどで終えて、帰るだろう!』でしたが、あにはからんやで13年も、中国大陸で過ごすことができたのは、私たちにも奇跡の様でした。何人もの方たちが、『歳を取られているのに、中国の私たちのために来てくださって、本当にありがとうございます!』と言ってくださった激励があったからなのかも知れません。

 友人や家族や兄弟から頂いた餞別で、異国での滞在には限りがありましたが、華南の街に着いて間も無く、大学の日本語学科で、日本語教師として働く機会が与えられたのです。ずいぶん高い俸給が与えられ、学長に、『ずっと、ここで教えてください!』と言われたほどでした。それは2人で生活をするのに、ちょうど好いほどでした。滞在期間、援助をし続けてくださったみなさんがいたのも、感謝に尽きません。

 私たちの〈こぼした水〉が、花を咲かせたかどうか分かりません。生き続け、いえ生かされ続けていることによって、ありのままの《存在の意味》があることを証明してくれたのではないでしょうか。そう言えば、学生や若いみなさんの間に、家内と私がいて、一緒の時を過ごしたことに、彼らの感謝がありました。このところ自虐傾向が強過ぎる私ですので、在華時に、『私たちと一緒にいてくださってありがとうございます!』と、何度も言われたことも申し添え、ヒビの入った珈琲カップにも、色のあせてしまったTシャツにも、まだ務めがありそうです。

(〈フリー素材〉で映画「裸の島」の一場面です)

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天来の守り

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 植物学者のメンデル(1822年7月20日〜1884年1月6日)が、エンドウ豆の実験で、「遺伝の法則(メンデルの法則)」を発見したということを教わったのは、小学生の時でした。簡単に言うと、《子は親に似る》との結論です。動物も植物も、そして人も、そう言えます。父の几帳面さを、受け継いだ、二人の兄と弟に比べて、自分は乱雑な傾向にあります。私たちの四人の子に当てはめると、彼らの良い点は母親似で、良くない点は自分に似ている様です。

 自然界には、多様性があって、人間も多様です。同じ親から生まれながら、顔貌はともかく、性格や生き方の良さを受け継がなかった自分を意識しつつ生きてきました。今朝も、家内が華南の街で、日本語を教えていた生徒から頂いた、綺麗な「夫婦茶碗」に、ヨーグルト、バナナ、干し葡萄を入れて、食卓に運ぼうとして、私の分を落として割ってしまったのです。家内は、『形ある物は壊れるわ!』と言ってくれたのですが、申し訳ないことをしてしまいました。

 人の内には、「遺伝情報」が組み込まれてあったことが、分かったのは、このメンデルが「遺伝子」の存在を発見してからです。親の写し絵の様な遺伝を受け継いで、私たちがあるわけです。何年も前からから、“ DNA ” を受け継いでいることが言われ始め、亡くなった方がだれかを特定するために、その方の髪の毛、使っていた歯ブラシなどから“ DNA検査 ” が行われる様になりました。確かな精度で特定されています。

 科学や学問とかの研究で、その“ DNA ” の存在がはっきりする以前から、その「遺伝情報」が、私たちの内側に組み込まれていたと言うのは、とても神秘的です。誕生した時に、そう言ったものを受け継いでいると言う驚きなのです。
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 東日本大震災が起こった時、私たちは、東京郊外の長男の家におりました。それに伴って発生しました「福島原発事故」の報道ニュースが、にぎやかに放映されていました。その後、次男の家で家内と三人で、「学べるニュース~生放送3時間~(tv asahi)」の番組を観ていたのです。この番組に、東京工業大学の原子炉工学研究所准教授の松本義久さんが出演されておいででした。

 長男と同世代の研究者ですが、私たち素人に、チンプンカンプンな専門的な話をされるのかと思って、耳を傾けていましたが、話しぶりは巧者ではありませんが、平易な言葉で、私たちが理解できるように話されており、つい聞き入ってしまったのです。松本准教授が、番組のおしまいに、この放射能汚染の危機のただ中で、大きく揺れ動く東日本の窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われました。

 『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話されたのです。『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

 日本存続を大きく左右する現場で、放射能の汚染に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の国家的危機を脱するために、私たちのできることだと知らされたのです。今も、コロナ感染で収集のつかない状況下で、危険を顧みないで、医療と防疫などの面で、日夜、働いておられる方々がおいでです。

 震災後、政府の対応の稚拙さ、東電の周章狼狽ぶり、福島県民の怒りと戸惑い、近隣の都県の住民の恐怖、世界中が声を上げている放射能汚染の影響、報道ニュースは、次から次へと伝えていましたが、《事故現場》だけに、解決の要諦があります。『税金の無駄遣いだ!』、『憲法違反だ!』と揶揄避難されてきた自衛隊の隊員のみなさんの雄々しく危機に立ち向かい介入される姿に、背筋の伸びる思いをさせられたのが昨日の様です。
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 今回の熊本や福岡や岐阜や長野などでの集中豪雨による河川の決壊、洪水の中、警察官、消防隊員、下請け企業みなさん、ボランティアのみなさんが、最前線に立って怯(ひる)まない姿こそ、まさに《益荒男(ますらお)》そのものではないでしょうか。ただ、コロナ禍の中で、県をまたいだボランティアが要請できないと言う事態が持ち上がっています。

 でも恐れたり、不安にならないでいいのです。もちろん現代人に必要なのは、傲慢さを悔い改めることなのかも知れません。謙虚になって、生きている意味を知る必要がありそうです。どの時代の疫病の流行も、やがて弱体化し収束してきました。私たち人類は、多くの危機を超え6000年の間生き続けてきました。造物主に憐みによるのでしょう。

 私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても触れていました。『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。

 この《お守り》について次の様に説明されています。

 『私たちの体は放射線から守る『お守り』を持っています。それが放射線で影響を受ける遺伝子DNAです。30数億年の生命の歴史の中で直面してきたありとあらゆく緊急事態を切り抜けた、切り抜け方を書いてある想定不能という言葉を持たない究極の緊急事態マニュアルです。それと放射線に立ち向かって行くお父さん・お母さんから受け継いで子供たちに受け継いでいくんです。僕たちみんながつながっているんです。どこかで。みんなが頑張ってくれと言っているつながりを確かに示す《お守り》なんです。』

 否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、私は同意します。戦いの前線で、働いてくださるみなさんが大勢いることにも行って感謝したいのです。

 父や母、祖父や祖母たちは、幾多の困難や危機を超えて、この素晴らしい国土を、そして地球を守り残してきてくれたのですから。何よりも、造物主の《憐憫と恩寵》、全地の統治者からいただくことのできる、人知を超越した《天来の知恵》を信じたいのです。

(日テレの報道写真の人吉の豪雨、東日本大震災で救援にきてくれた中国の救援隊です)

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鉄道唱歌

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 数年前に、読みたい月刊誌の購入を、メールで、私の弟にお願いしたことがありました。もちろん通販で取り寄せることもできたのですが、彼の家の近くの駅横に本屋があったのを思い出し、「誌名」と、「発行月(2018年7月18日)」と記して送信したのです。

 ところが帰国した頃には、お願いしたことを忘れていましたら、『準ちゃん、頼まれていた雑誌!』と言って、訪ねた折に手渡されたのです。そのことを思い出して、早速、手にしてパラパラとめくってみたのです。月刊紙などを買うことなどほとんどなかったのですが、華南の街の外国住まいだからでしょうか、祖国への思慕の念が強く、『今度帰国したら、旅をしてみよう!』と思っていましたら、件の雑誌の広告を目にして、買い置きをお願いしておいたわけです。

 それが、「昭和の鉄道旅(旅行読売/臨時増刊)」です。今でも、しっかり机の上の本立てに入れてあります。学校で、「地理」や「日本史」などを教えたこともあり、中学の頃には、時刻表や地図を見るのが好きでしたので、〈眠っている子〉を覚まてしまったのかも知れません。
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 狭い日本列島に、網の目の様に鉄道が敷かれ、私鉄から国有鉄道に移り変わり、地方都市には地方の私鉄が伸びて行ったわけです。東海道線を初めとする駅を歌い込んだ「鉄道唱歌(大和田建樹作詞・多梅稚〈おおのうめわか〉作曲)」があります。その最初の部分と主な駅の歌詞は次の様です。

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我(わが)汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪(たかなわ)泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後(のち)までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで

横須賀ゆきは乗換と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴ヶ岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん(横須賀)

扇(おうぎ)おしろい京都紅(べに)
また加茂川の鷺(さぎ)しらず
みやげを提(さ)げていざ立たん
あとに名残は残れども(京都)

三府(さんぷ)の一(いつ)に位して
商業繁華の大阪市
豊太閤(ほうたいこう)のきずきたる
城に師団はおかれたり(大阪)

目立つ家々築地松
宍道湖上流斐伊川を
渡れば出雲市駅に着く
明治時代はここまでで(出雲)

 一説によると、「399番」まである歌です。この「昭和の鉄道旅」には、「鉄道線路図(1964年12月1日現在)」の付録がついていて、今では廃線になってしまった路線も載っています。先日、利用した「わたらせ渓谷鉄道」は、「旧国鉄・足尾線」での記載です。郷愁を感じさせてくれるのは、飛行機ではなく、鉄道やバスを乗り継いだ旅なのではないでしょうか。

 調べましたら、「鉄道唱歌・足尾編」もありました。
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町をめぐれる渡良瀬の  
水上深く尋ぬれば
いにしえ勝道上人が
白き猿に案内させ

山に続きて二里南  
銅鉱出す足尾あり
富田すぐれば佐野の駅
葛生 越名にいたるみち

 作詞者の大和田建樹は、幕末に伊予藩の藩士の子として生まれ、高等師範学校(今の筑波大学)で教鞭をとった方です。幼少期から漢学や国学を学んだ、驚くほどの国語力を持った作詞者であることが分かります。

1. 夕空晴れて秋風吹き
 月影落ちて鈴虫鳴く
 思へば遠し故郷の空
 ああ、我が父母いかにおはす

2. 澄行く水に秋萩たれ
 玉なす露は、ススキに満つ
 思へば似たり、故郷の野邊
 ああわが弟妹(はらから)たれと遊ぶ

 どなたもご存知でしょう、作詞した詩に、スコットランド民謡の譜を付けた「故郷の空」は、大和田の作品です。明治を彷彿とさせる歌詞に、自分の故郷が重なって、眩しくて仕方がありません。

(旧新橋駅、わたらせ渓谷鉄道の沿線の写真です)

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あなたも高価で尊い

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 7月15日、NHK第一ラジオ夕方6時台、“ ニュースアップ"で、「在宅勤務 座りすぎに注意」という主題で、中川 恵一さん(東京大学医学部附属病院放射線科 准教授)が、『今では、〈貧乏ゆすり〉とは言わないんです!』と言っていました。では、なんと言うかと言いますと、「健康ゆすり」なのだそうです。

 もう一つ、『座ってばかりいないで、三十分に一度、立ち上がって、歩き回ったほうがよいのです!』とも言っていました。小学校の通信簿に、行動の記録欄がありましたが、みなさんは、どんなことを、担任の先生に、書き込まれたか覚えておいででしょうか。

 病欠児童の私は、たまに学校に行けて、教室にいられるのが嬉しくて仕方がなかったのです。それででしょうか、落ち着いて座っていませんでした。先生がする「机間巡視」を、生徒の私も席から立って、級友たちの机の間を歩き回っていたのです。たまに学校に来ては、歩き回る様子を見て、級友たちは呆れ果てて、私を見ていたのでしょうか。当時は、そんなこと思ってもみなかったことですが。

 どの学年の担任も、決まって一様に、『少しも落ち着いていない(今流ですと〈多動性障害児〉でしょうか)!』、これが行動の記録だったのです。貧乏ゆすりをする間もなく、立ち上がって歩き回っては叱られ、教室の後ろや廊下、しまいには、校長室に立たされたのです。

 二十一世紀、コロナ旋風で、行動に制限がかかった時代の直中で、私が小学生だったら、〈エコノミー症候群〉にならないための《三十分に一度の立ち歩きの勧め》で、『立たされたり、叱られたりしないですんだのに!』と思ってしまうのです。どこか外国の大学の研究室が調べたのだそうですが、世界中、日常生活の中で、座っている時間が一番長いのが、日本人なのだそうです。

 時代や社会環境の変化で、昔は悪い習慣だったことが、《よい習慣》に変化してきているのは、過去の汚点に苛まれている私の様な者には、喜ばしい使信なのです。狭い飛行機のエコノミー席に座って、大陸との間を、家内と一緒に何度往復したでしょうか。何時も、あの席で、貧乏、いえ「健康ゆすり」をしたり、昔取った杵柄で、トイレに行くふりをして、通路巡視をするのを常にしていましたが、それが良いことに、レッテルが張り替えられたのは感謝な時代の到来です。

 でも、畳に敷いた布団や卓袱台や炬燵などから立ち上がる動作が、日本人の足腰の強靭さを育んでいると言われてきています。生活の知恵でしょうか、社会的習慣がもたらせた素晴らしい伝統なのでしょう。自虐的傾向の強い私ですが、こんな自分を捨てないで、厚かましく生きてこれたのは、ありのままの私を愛し、「あなたも(は)高価で尊い」と言ってくださる方とお会いしたからです。

(〈フリー素材〉野に咲くスズランです)

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どれ程

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『 “ カラン、コロン"と音を立てて下駄を履いて、例幣使街道を歩いてみたい!』との願いがあるのですが、今一つ勇気がなくて、家の近く、桐の下駄を売る店の前を通るたびに、もう一歩を取らずじまいで、一年半が経ってしまいました。音が高くて、遠慮したい気持ちも強いのも、履けないでいる理由です。

小学生の頃のことですが、甲州街道から旧道に曲がる角に、炭や薪、石油、履き物を売る店があって、母が履いてる様な幅の少ない婦人用の下駄が履き心地がよくて、それをいつも買っては、鼻緒をすえてもらったのです。年配のおばさんが、膝の上で作業をするのを眺めていました。どこの子か分かっていて、ニコニコしてやってくれたのです。

靴を履く様になったのは、いつ頃だったでしょうか。中学に入った時、くるぶしまでの高さの靴で、紐を閉めたり緩めたりするのが面倒でしたが、中学生になった気分を味わえたので、得意になって〈編み上げの靴〉を履いたのですが、それまでズック靴を履いた記憶が、ほとんどないのです。

その短靴を履いた経験がないので、いまだに短靴は好きになれないのです。それでブーツ形式の“ チャッカ “ という靴が好きで、今も履いています。でも、下駄履きで歩く、あの原風景の感触を思い出して、その懐かしい思いが蘇ってきてしまうのです。

行春やゆるむ鼻緒の日和下駄   永井荷風

江戸の名残を、思いの内に強く残す荷風は、明治、大正、昭和を生きたのですが、身持ちが悪く、家庭建設の失敗者であり、それでも、彼一様の文学は、とても優れていたのです。1952年、『温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した。』と、文学上の功績を高く評価され、文化勲章を受けています。

千葉県市川を、終の住処(ついのすみか)とした荷風は、最後の食事が、その街にあった大黒屋の「カツ丼」だったそうです。先日、カツ丼を食べた私は、まだ生きていますし、文学とは無縁なただの人ですが、あのカツ丼が最後にならなかったのは幸いでした。洋風の “ ラザニア ” かなんか、最後に食べてみたいなと思っています。

さて、下駄の似合いそうな方は、この句にある様に、荷風だと思うのですが、たまには下駄で歩いたのでしょうけど、帽子を被り、傘を下げて、黒皮の短靴が、往年のこの方の出立だったそうです。田舎者は東京、いえ江戸を憧れるのかも知れません。

今はないのですが、新宿駅のホームとホームをつなぐ地下道を、カランコロンと音を立てて、朴歯(高下駄)を、履いて得意になって歩いていた日がありました。たった一人で、颯爽と歩いていたつもりでした。若さって、目立ちたくて、何でもやってしまったのが、今になると、恥ずかしく思い出されてしまいます。さぞかし大人のみなさんには、漫画的な絵だったのでしょうね。

ここは、下駄履き禁止の条例はなさそうなので、〈年寄りの冷や水〉で、夢よもう一度、やってみようかと思っているところです。ただし、最近は、家内に相談すると言う流れが身についていますので、果たして賛同してくれるか分かりません。〈昔恋しい下駄〉、いつまでも甘えた様な生き方が離れないでいるジイジであります。下駄やチャッカ靴、また裸足で、これまで、どれ程、この地球を歩いてきたことでしょうか。

(フリー素材の写真です)

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新宿

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なかなか東京が遠くなってしまった今、昭和32年、1957年頃の新宿を、思い出してしまいました。それは中学に入学した年でした。籠球(バスケットボール)部に入部していたのです。週末に、よく系列高校の東京都予選が、両国高校や九段高校などであって、応援とボール持ちで駆り出されました。

戦いすんで、日が暮れると、新宿駅で途中下車して、西口の「思い出横丁(当時はションベン横丁と言ってました)」で、食事を奢ってもらったのです。犬や猫や兎の肉の肉丼なんかを食べさせられたかも知れません。お腹が空いていて、大学生や、社会人のOBが食べさせてくれたのです。

バスケをするのですから、並みの高校生よりも一際大きいのです。そんな先輩の跡を追って練り歩く行列の中に、まだヒヨコの様な中学生の子どもがいました。東口には、「三平」と言う実に大きな食堂もありました。安くて時々利用したのです。「ACB(アシベ)」と言う喫茶店もありました。

闇屋横丁が、上野にも渋谷にも、どこにも残っていた時代でした。歯科医や市会議員の息子たちは、お金を持っていて、景気良く、いつでもご馳走になっていました。予科練帰りの〈大OB〉などもいて、昔の運動部は、半分軍隊みたいでしたが、チビの私たちには、みんなが優しかったのです。そんな環境の中で、普通の中学生よりはマセていて、生意気盛りでした。

新宿の歌舞伎町が、今の様な歓楽街に激変する前は、1956年に営業開始した「コマ劇場」が中心にありました。杮(こけら)落としの開演に、父が連れて行ってくれました。何を観たのか全く覚えていないのです。とてつもなく大きくて、大都会の煌びやかさだけは覚えています。

そんなことを思い出したのは、コロナ旋風を騒がす風俗店の街の歌舞伎町が、コロナ陽性者を生んでると言うニュースを聞いたからです。その西口には、父の会社がありました。工学院大学があって、今の都庁辺りになるのでしょうか、そこに淀橋浄水場が大きな敷地の中にありました。

激変すればするほど、東京が遠くなります。都市の変化は、華南の街も同じで、あれよあれよの激変ぶりには、驚かされました。目を瞑っている間に変わってしまう様な、猛スピードでした。汚く乱雑だった街が、一ヶ月ぶりに訪ねると、銀座通りの様に変わってしまっていました。喫茶店やケーキ屋、パン屋の果物店が、猛スピードに出来上がっていました。

それに引き換え、今住む街は、昔の風情を残し、大きな街なのに、歯が抜けた様に家が取り壊されて、敷地が駐車場化されています。自転車で街巡りをすると、昔ながらの医院、豆腐屋、下駄屋、支那蕎麦屋があって、江戸や明治の世に建てられた蔵などが散在した街です。明治や大正の昔情緒が、なんともいいのです。

(新宿西口周辺の古写真です)

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