梅花下野とブーゲンビリア

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 散歩の途中に、この五月になって、ハナミズキの咲き終わってからですが、それに似た白いな花をつけた木をよく見かます。「梅花下野(バイカシモツケ/利休梅とも言います)とも言うそうで、ここ栃木は、下野国ですから、この地に咲いてきた花なのでしょうか。でも伝来は、明治になってからですから、茶道の祖の千利休とは関係がなさそうです。

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そういえば、華南の街では、もう「叶子花 yezihua/ブーゲンビリア)が、街のそこかしこで咲いてうるのでしょう。学校の campus でも、道路の脇でも、低木の垣根の植え込みには、今は盛りの咲っぷりなのではないでしょうか。

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聖書の感化力(山室軍平の講話)

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 ある時一人の上手な掏摸(スリ)があり、東海道から東北にかけ、おもに汽車の中にて仕事をしておったが、それでも「猿も木から落ちる」習い。都合十三度捕らえられて刑務所に入れられたのである。

 十三度目に神戸にて捕えられ、まだ未決に居る間に、はからずも一人の商人と同室することとなった。ところがその商人というのは、あまり大した犯罪をしたわけでもなかったので。もし宅から関係所願を取り寄せて弁明すれば、きっと無罪になるであろうと。

 刑務所から書類をみとめてその妻に送り、『書類を差し入れるように』というてやったところが、妻は一文普通(読み書きができないこと)の女ゆえ、手紙を近所の代書に持って行って読んでもらうと。

 どうした間違いか、「書類」というのを「書物」と読み違えた。そこで妻が思うには、これは刑務所の中で退屈ゆえ、本を読んで気を紛らわそうとするのであろうと。その夜神戸市の夜店をひやかして歩き、無筆(文盲の

意味)のことであるから、ただ紙数が多くて値段の割合安いものをとたずねまわったあげく、なんの書物とも知らずに買い求めたのが、一冊の新約聖書であったのは、不思議というも愚かなことである。

 さてその商人は、そに差し入れられて、意外の思いをなし。『書類をよこせというのに、こんなもになど差し入れて、一体なんの書物でしょうか』と、そばにおる例の十三度のスリに尋ねたのである。

 スリはもとより新約聖書がなんだか知らないけれども、「耶蘇(ヤソ)」だの、「基督(キリスト)」だのと、いうことが沢山書いてあるから。「これは耶蘇の書物に相違ないよ」といいながら退屈しのぎに、マタイ伝の始めから、これを読んでみたが、さっぱりその意味がわからない。

 なおもだんだん読んでいくと、その第九章十二節以下、「健康なるものは医者の助けを求めず、唯病ある者之を需む。我が来るは義(よ)き人を招く為に非ず。罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり。」という一句に至り、彼はたちまち電気に打たれるごとく覚えた。而(しか)して思う様、何でもこれは一人の偉いお方があって、自分どものごとき罪深い者を済度(さいど/救うの意味)する為に、この世にお降りなされたということに相違ないと。

 以来、しきりにそのことを思いめぐらし居ると、一方の商人は間もなく愈々(いよいよ)無罪と決まり、その聖書を持って出ていってしまった。あとでスリは、なおも右新約聖書の続きが読みたくてたまらず。「なにとぞお預けした金の中から、一冊の聖書を買うて戴きたい」と願い出ると。

 教誨師のお坊さんが来て、「耶蘇は国賊であるから、そんな書物を読むより御経でも読め」といわれ。また看守が来て、「耶蘇教の本なんか読むより、法律でも調べろ」と叱られるのを。「何が何でも新約聖書を買ってくだされ」と願出たので、終に刑務所に会議にかけられ、その結果ようやく許されて、これを手に入れることができた。

 その後、同人は刑務所に、頻(しきり)にその一巻の新約聖書を読み、放免になって出てきた時には、十数人の仲間の者が、はるばる東京横浜あたりから迎えに来て居ったのを、好加減においかえしてしばらく宿屋に泊まり。種々思案をこらした後、ついにある牧師を訪ねて、耶蘇の救いのお話を聞き。以来心を改めて真面目な基督者となり。それより三十年後の今日は、自分で釈放者保護の事業を経営するほどになったのである。

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喜ぶ者といっしょに喜び

 『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12章15節)』

 新しい風景が、客間、食堂、そして来客時の寝室になる部屋に見られています。

 イスラエル建国記念で、choir の一員として、その祝賀の集いに参加された若き友人から、お土産にと戴いた、《祈りのショール》です。家内は祈りの時に、ショールをしませんのでを壁に掛けたのです。ヘブライ文字も読めませんが、配色も素晴らしく、部屋が一層引き立っています。

 1948年に建国されて、74年の記念の集いで、世界中から、主に若者が集って、建国の祝いをしたのです。異邦人の参加は、日本人は珍しく、ヘブライ語で、イスラエルの歌を歌う日本からのクワイヤーに、大変感謝されたそうです。

 Zionism という民族の内側から湧き上がる、『約束の地、Zion に帰ろう!』との想いが、世界に離散していたユダヤ人たちの心に、同時に湧き上がって、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの信仰の継承の地は、彼らの「故郷」で、そこに帰って来て、国家が再建されたわけです。

 訪問団の旅行中の様子を撮ったビデオが送信されてきて、その熱狂に驚かされました。流浪の民のイスラエル人って、すごい power  なのです。

 ポーランドのAuschwitz(アウシュビッツ)にも、足を伸ばされて、Holocaust の記念施設を訪ねられ、やはり衝撃を受けたのだそうです。平和な時代がやってきても、民族として忘れられない、重い出来事だったからです。頂いたチョコレートが、心なしかホロ苦かったのは、気のせいでしょうか。

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昨日今日の花など

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 ベランダや散歩の途中の垣に咲いていた花、先日、種を発芽させて、植えた朝顔が大きくなって・双葉がでてきています。今年も楽しめそうです。一番下の花は、「梅花下野(リキュウバイとも言います)」です。ベランダがいっぺんに賑やかになってきました。いいなの春真っ最中、もう初夏かなの五月末です。

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真似を継承するのか

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 『天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。(イザヤ4913節)』

 小学校の何年生だったかの記憶がないのですが、その頃のことです。私たち四人の男の子たちの父親は、お酒を飲まない代わりに、食通だったのでしょうか。若い頃は、羽振りが良かったのでしょう、大島紬の和服を数着持っていて、羽織には〈家紋〉が付いていました。

 良い物好みで、持ち物は多くは持ちませんでした。物を大事にする人でした。昔の人が、そうだったのでしょう、良い物をわずかに持ち、和服の洗い張りとや縫い直しとか、Yシャツの襟の裏返をして、衣替えすると大事に保管もし、襟などの汚れた箇所は、母にシンナーで拭かせていました。靴など、母がピカピカに磨き上げ、クリーニングに出したYシャツを着て、いわゆる dandy で、颯爽として東京での勤めに出ていました。

 そんな父が、渋谷に連れ出してくれて、『こんなの初めて!』と言う黒パンと子牛の料理とデザートをご馳走してくれたことがありました。子どもたちには、そんな豪華な目を見張るようなものはご馳走したことがない私なのです。父に真似られない懐事情だったこともあります。

 そんな父親に真似た点だってありました。勤め始める私に、次兄が、背広を誂えて、就職祝いをしてくれたのです。それに見合うようにYシャツを誂え、メーカーの名前を忘れた名靴を履き、父のように背筋を伸ばして、颯爽と通っていました。少なくとも5年間は、父似の dandy な青年でした。

 自分なりに夢を持って生き始めて、けっこう順調な始まりだったと思うのです。ところが、キリスト教伝道者になるように迫られて、その夢を替えました。退職して、宣教師と共に出かけて行くまで、母教会の信者さんの経営する、鉄工所で、溶接工として働かせてもらい、大きな自動車工場の溶鉱炉の中でも、煤で真っ黒になりながら働いたのです。

 その方のお嬢さんの家庭教師をしながら、出かけるのを待機していたのです。その職場の同僚が、『キリスト教って、教師を辞めるほど、収入が多いんですか?』と聞かれたのです。だいたい転職の動機は、待遇の良い職種や職場に移って行くのが常なので、そう、聞いてきたわけです。『ええ!』と答えたのです。

 それで、母教会から、1時間半ほどの街に出かけたのです。そこには、父の知人がいて、この方の紹介で、青果の卸商の荷運びの手伝いを、地元の青果市場で始めたのです。ネコという台車で、同じ年齢の青果商が競り落とした蔬菜や果物を運んで、大きな車の荷台に積み上げて行く仕事でした。学校時代に、青果市場で働いたことがありましたから、なんの苦もなかったのです。

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 そこでの奉仕や生活に、母教会の助けや激励がありました。そして、卸商の方が、優しい人で、野菜や果物を、『これ食えし!』と言っては、いつも分けてくれたのです。数年経った頃でしたが、東京に用があって行って、母を訪ねたのです。新しい地での生活を心配して、訪ねると言った母と一緒に、特急電車に乗ったのです。

 その同じ車輌に、後に校長になられる、社会科の主任の先生が乗っていたのです。あちらは気付かなかったのですが、意気揚々と退職した職場の主任に、弟に貰ったズボンとジャンパー姿で、颯爽として働いていた頃とはだいぶ違った自分を、初めて恥じたのです。クルッと顔の向きを変えてしまいました。

 献身の生活は、自分持ち物も少なく、貧乏臭く見えたのでしょうか、母が、とても心配してくれました。それ以来、隣国に行っても、月々、母は天に帰る少し前まで、援助し続けてくれたのです。家内はパートで働くと言ってくれ、子育てしながら、喜んで続けてくれたのです。豊かではなかったのですが、足りないことも、人に物やお金を乞うことはしないで、生きてこれました。それは今に至るまで同じなのです。

 イエスさまは、アッシジのフランチェスコのような乞食のような身なりはなさらなかったのです。人に、哀れを感じさせるような、みすぼらしさなどはありませんでした。ローマ兵が、十字架に行くイエスさまの服をくじ引きにした記事が、聖書にあります。皇帝に養われていたローマ兵が、くじ引きするほどに、イエスさまは良い物を身につけておいででした。決して惨めな風体ではなかったことになります。

 母国の団体や幾つもの教会から援助されている宣教師さんたちとは違い、私たちの宣教師さんたちは、個人の立場で、家族や友人たちの support  で日本伝道をされていました。大きな家にも住んでおいでの北欧からの宣教師さんたちが、保養地に別荘を持っていたのに、私たちの交わりの宣教師のみなさんは、そう言った生活をされませんでした。

 ある宣教師さんの家に行くと、いつもスパゲッティが出て来たそうです。それだけしか出せなかったのです。その方のお父さまは、母国の教会の牧師さんでしたが、母国の諸教会に手紙一本出すことも、援助の要請もしなかったのです。送られてくる愛心で生活をし、奉仕をしておいででした。その5人のお子さんたちの4人が伝道の働きをし、3人は日本で伝道しておいでです。残りのお嬢さんも、留学生のお世話をしながら伝道をし、一番上のお嬢さんのご主人も教会の役員をされています。

 疲れてしまった私を、その方は、教会に、家族で招いてくれました。まだ学んでいた最中のお子さんたちは、私たちに部屋を三日ほど提供し、どこかの隅で寝ていたのです。そんな彼らは、豊かには見えませんでしたが、説教の謝礼と言って、けっこう高額な献金をいただいて、帰宅したのです。この方が、理解者でいてくださったことが、今日がある所以です。

 『ユリ、準は大丈夫だからね!』と、夫を助けていきなさいと、家内に言ってくださったそうです。今も、満ち足りる喜びで、ゆっくり静かな時季を、巴波川のほとりで過ごしています。時々、息子たちが、様子を見に来たり、助けに来てくれています。『お父さんたち大丈夫なの?』などと、親が言ってきたことを、〈鸚鵡返し〉に言ってくれます。感謝な日々であります。

 

 

ベーグル誕生の記

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バターを塗ったり、たっぷりのクリームチーズとスモークサーモンをのせたりしたベーグルは、今や米国の朝食の定番になっている。2020年だけでも、2億200万人の米国人がベーグルを食べた。だが、ベーグルは元々ユダヤ教徒の食べ物だった。ここでは、ベーグルがどのように生まれ、独自の進化を遂げつつ定番メニューとなるに至ったのかを振り返ってみたい。

[ベーグルの誕生]

ベーグルの誕生にまつわる神話はいくつかある。良く知られている言い伝えでは、1683年のオスマン帝国によるウィーン包囲の撃退に貢献したポーランドのヤン3世ソビエスキに敬意を表してパン職人が作ったパンが始まりだという。また、9世紀にプロセインかポーランドに住んでいたユダヤ人パン職人が、反ユダヤ政策によってパンを焼くことを禁じられていたため、パン生地を茹でることを思いついたという話もある。

しかし、ベーグルの歴史に詳しいマリア・バリンスカ氏は、著書『The Bagel: The Surprising History of a Modest Bread(ベーグル:控えめなパンの意外な歴史)』のなかで、どちらの話も事実ではないと主張する。

バリンスカ氏によると、ベーグルの起源はウィーン包囲よりもはるかに古く、13世紀に、現在のポーランドがある東ヨーロッパに住んでいたユダヤ人パン職人にまで遡るという。当時、主にユダヤ教徒とキリスト教徒を分離するために、ユダヤ商人たちの活動を細かく規定した反ユダヤ政策があった。そんななか、パン職人には少しばかり自由が多く与えられ、ユダヤ人だけでなく近所に住むキリスト教徒のためにもパンを焼くことが許されていた。

なかでも特に人気だったのは、低脂肪の生地を輪の形に成型して茹でた「オブワルザネク」と呼ばれるパンだった。その起源はドイツだと考えられているが、四旬節の間、脂肪分の多い食べ物を控えていたキリスト教徒が、これを好んで買い求めた。また、ユダヤ人向けにはそれよりも小さく、1人分の大きさに作ったものを、日常的に食べるパンとして販売していた。こちらは、ポーランド語でバイゲル、イディッシュ語でベイガルと呼ばれていた。

やがてポーランドのユダヤ人社会は、ベーグルに様々な意味を込めるようになる。新生児を保護する風習の一環として、産後の母親に食べさせたり、弔いの儀式に使われたりした。そのうちキリスト教徒も、オブワルザネクではなく、普段食べるパンとして、ユダヤ系のパン屋からベーグルを購入するようになった。こうして、東ヨーロッパの都市化と近代化に伴い、ベーグル人気は拡大していった。

[移民とともに米国へ、労働者たちが立ち上がる]

19世紀、ヨーロッパからのユダヤ移民とともに、ベーグルも米国へやってきた。当初、ベーグルはユダヤ人の居住区内でのみ食べられていたが、やがてユダヤ人以外にも知られるようになり、労働者運動の高まりとともに重要な役割を担うようになる。当時、移民労働者は室温が高く害虫がはびこるパン工房で低賃金の長時間労働を強いられていた。1907年、この状況を改善しようと、ニューヨークのベーグル職人が国際ベーグル職人組合を結成した。

全員ユダヤ人で構成された組合は、ベーグルの作り方に関する知識を固く守り、ユダヤ人の客に対しては、移民を搾取するパン屋ではなく組合所属のパン屋で買い物するよう働きかけた。組合は、20世紀を通して何度かストライキを起こして成果を上げ、急成長していた米国労働者運動において最も成功した組合の一つとして知られるようになった。しかし、ベーグル製造機が普及し、ユダヤ人社会以外にもベーグルが広がると、組合は次第に影響力を失っていく。

1964年9月18日、米ニューヨーク州ヘンプステッドのパン工房で、沸騰した湯にベーグルの生地を入れるベン・ゲルステイン。ベーグルは、先に茹でてからオーブンで焼く。

1918年にカナダのパン職人、マイヤー・トンプソンが発明したベーグル製造機は、1960年代に米国に持ち込まれた。トンプソンの息子のダニエルは、この技術の使用許可を、コネチカット州ニューヘイブンでパン工房を経営していたマリー・レンダーに与えた。レンダーは売り上げを増やすために機械を導入し、今では当たり前となった半分にスライスされた冷凍ベーグルや、プレーン味と塩味以外の味付きベーグルを開発した。

[1960年代には米国で人気に食べ物に]

1965年になると、ベーグルはすっかり米国で人気の食べ物になっていた。ベーグル信奉者は、別の移民食であるスモークサーモンをベーグルと合わせるという新しい食べ方を発見した。食の歴史家は、この組み合わせは少なくとも20世紀初頭には存在していたと考えている。当時、ユダヤ人経営の総菜屋が、スカンディナビアからの移民のレシピで作ったサーモンを売り出していたためだ。間もなく、スモークサーモンとクリームチーズはベーグルに合わせる代表的な食材として人気を博し、朝の食卓の定番となった。

ロサンゼルスの「ブルックリンベーグルス」で、出荷される前のベーグル。この工場は、20世紀初頭のニューヨーク市で影響力があったベーグル職人組合をルーツとし、現在は南カリフォルニアで人気。

こうして、ユダヤ教徒の伝統的なパンと移民の創意工夫が融合したいかにも米国らしい朝食が誕生した。とはいえ、現在多くの米国人がクリームチーズと一緒に楽しんでいるベーグルは、その昔ポーランドのユダヤ人パン職人が作っていたオブワルザネクとは全く違う食べ物のように見えるかもしれない。

歴史家のマシュー・グッドマン氏は、ベーグル製造機の登場でベーグルの作り方が大きく変わったと記している。生地改良剤や保存料が加えられ、お湯で茹でるという工程が、オーブンで蒸すという工程に取って代わられた。

「そもそも、ベーグルは小さく、風味豊かで、どっしりとして、皮がカリカリしていたが、今は全く正反対の、巨大で味気のない、枕のようなふわふわしたパンになってしまった」と、グッドマン氏は書いている。

ベーグルの大量生産は、パンの製造者にとって新たな境地を切り開いたかもしれない。だが同時に、ユダヤ教の伝統と、組合所属の小さな町のパン屋さんというルーツが失われてしまった。それでも私たちは、穴の開いた丸いパンを一口かじるごとに、数百年におよぶ意外なベーグルの歴史と物語を噛みしめることができる。(転載記事)

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 このベーグルは、次男が、〈ユダヤ社会発祥〉と言って好きだったので、よく買ってきてくれて食べました。とくに洪水の後に、疎開させていただいた高根沢の教会の近くのモールの中に、パン屋さんがあって、そこで買ったベーグルは美味しかったのです。しかも安かったのです。

 一般的に、一個300円近くもするので、最近は手が出ません。製造工程が大変なのでしょうか。でももう少し安かったらいいのにと思います。家内は、小麦アレルギーだと思って、敬遠していたのですが、「アレ検」で、そうでないことが分かってからは、国産小麦にこだわって、パンを食べますが、Gluten free  の米粉パンを、よもぎ粉を入れたりして、自分で焼き始めています。

 ほとんどこだわらない私ですが、小麦粉は、子ども時代のコッペパンを食べていた頃から食べ続けていて、昨日は、四つ葉生協のパンで、サンドイッチを作って、お昼にしましたら、デーサーヴィスから帰ってきた家内が、お腹が減ったのでしょうか、『美味しい!』と言いながら食べてくれました。最近、ベーグルにはご無沙汰です。

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夏到来

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 在華中の借りていた家で、突然停電になったことがありました。朝の食事に、食パンをトーストをし、毎朝飲むアールグレイの紅茶を入れ、食べ終わった直後でした。また、洗濯機も回し、洗い終わって干した後だったのです。その日は、お昼を招かれて出かける予定でした。

 停電とか断水の時には、「通知」が張り出されるのですが、見落としていたんだと思って、そのままバスに乗って師範大学前のバス停で降り、若い友人のお宅にお邪魔したのです。ご主人が、お母さまから受け継いだと言う地元の料理を主に作ってくださり、何と7種類もの料理を、汗まみれになって作って、もてなしてくれました。

 その年の秋には、小学校3年に進級する息子さんが、ご両親の掃除を手伝ってくれて、歓迎の手伝いをしてくれたのだそうです。自分の両親が招いたことの意味を知って、心からの歓迎をしてくれたのです。この子は、お母さんのお腹の中にいた時に、出会ってからのお付き合いでした。

 お母さんは、大学の日本語科の教師をし、お父さんも同じ大学の情報科学の教師なのです。自分が生まれる前から、親の知人だということも、この子の歓迎の理由だったのでしょう。茶菓を、この子が進めてくれ、その可愛らしさに目を細めてしまいました。『この地でよく食べられているのです!』との郷土料理は、実に美味しかったのです。

 食事が終わった時、この子のお母さんの親族の方が訪ねて来られました。東京の江戸川区に息子家族がおいでで、ご本人も若い日に日本に留学したことがあり、帰国後は、ほとんど日本語を使わなかったそうですが、よく日本語を覚えておいででした。小学生のお孫さん二人の日本での生活に心配なことがあって、そんなことが話題で、とても良い時を持って、私たちは帰宅したのです。

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 『帰ったら電気が来てるよね!』と期待しながら帰ったのですが、まだ停電中でした。ちょっとおかしいので、上階の方にお聞きしたら、『停電ではありません!』と言うのです。わが家だけが停電だったのです。それで友人に電話をしたら、すぐに来てくださって、問題をチェックしてくれたのです。

 夜中の11時半まで、友人の友人と、家内の日本語クラスの生徒のお父さんと三人で調べてくれたのです。『明日にしよう!』とのことで帰られました。配線にトラブルがあるそうで、その晩は、ローソクの光で過ごし、エアコンなしで休んだのです。

 翌朝、二人の方が来てくれ、別の電線を繋いでくれて、通電する事ができました。暑い中、大汗をかいて修理交換をしてくれたのです。家内のクラス中に電気が通じて、エアコンを入れることができました。丸一日、24時間に及ぶ停電で、日頃感謝の少ない電気のありがたさと、篤い友情とを味えた一日だったのを思い出しています。

 良い人たちに恵まれて感謝なことが多い、13年でした。そうしましたら、大家さん(房東fangtong)」がいとこを連れて、仕上げの仕事をしてくれました。それで、冷房の効く部屋が戻ってきて、みなさんの愛に感謝したのです。   

 先ごろ、夏に備えて、エアコンの掃除をしたので、停電の全くない日本の生活を感謝したところです。先ほど、雷がなって強い雨が降り始めました。停電がない代わりに、地震が多く、日本中で頻発している昨今です。あの息子さんも、もう高校生になっていて、オーストラリアに、お母さんの妹がいて。留学をしたと聞いています。ここにも夏が来て、停電の一日を思い出したところです。雷鳴は、夏到来のしるしなのでしょう。

( ”いらすとや“ のイラストです)

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轍を踏むことなく

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 国家建設に、「スローガンslogan 」がありました。明治以降のそれは、「富国強兵」だったのです。繭を育てて絹糸を作り、それを輸出して「外貨」を稼ぎ、工業機械と軍備増強、欧米列強諸国に倣い、追い越そとしてでした。その試験場は、より良い絹糸を作るための研究所で、私が小学校を通った街に、その名残のように残されてあったのです。群馬の富岡や長野の諏訪などは、その基幹工場のあった街でした。その「蚕糸試験場」に、蚕(かいこ)を拾いに行き、桑の葉をやって育てたのです。

 国を強くすることの方が、国を形造る人々の生活の直接的な向上ではなかったのです。国が富まなければ、生活の向上もありえないから、〈いけいけどんどん〉で強兵に走った結果、広島と長崎への原爆投下だったとも言えるでしょうか。

 同じ戦争に悲惨さの違いなどなく、どの戦いも悲惨極まりありませんが、今回、G7の広島サミットが開催されるにあたって、参加国の首脳たち一行が、広島市内の平和記念資料館を見学したそうです。それに前後して、外国人観光客が、この記念館を訪れて、写真や遺物を見て、涙する光景が、ニュースに取り上げられています。

 『二度と許すまじ原爆を!』と言うヒュプレヒコール(ドイツ語のSprechchor(英語のspeaking choir)から)を、子どもの頃から、何度聞いたことでしょうか。今のウクライナ戦争で、ロシアがこれを使うと威嚇していますし、北朝鮮の指導者も、国威を示すために、歴史が完全否定する爆弾を使う、と脅しにかかっています。

 聖書に次のようにあります。

 『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(マタイ2448節)』

 主イエスさまが、再びおいでになる前兆について言及している箇所です。「戦争・・・と戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。二戦後、あんなにひどい戦禍に出会ったのに、その歴史の事実に学ばない国や民族が、あの戦争を、すぐに繰り返しています。子を失ったお母さんの泣き叫ぶ声は止まないままです。

 平和を享受していた日本が、再軍備、自衛隊の軍隊化、「軍事大国」を政府が掲げ始めようとしています。憐れみ深い神さまから頂いた「平和」のありがたみを忘れたか、軍事産業を起こすためにか、そんな姿勢を取ろうとしている今です。私は、孫たちを戦場に送りたくありません。国防と言う国家目標のために、彼らを殺されたくありませんし、相手を殺させたくないのです。

 欲望と名誉、野心と侵略、私たちは尊い値を払って学んだのではないでしょうか。「外交努力」に徹していくべきです。与謝野晶子が、弟の出征にあたって詠んだ歌が思い出されます。明治の軍事大国化の怒涛ような波に中に、飲み込まれていく日本と日本人の衷心からの心の叫びの代表の思いだったのでしょう。

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを・・・

(さかひ)の街のあきびとの
舊家
(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻
(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月
(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 「弟」が死ぬことを願わない姉の叫びでした。まさに、どの戦争も同じで、銃後にある父母兄弟姉妹の思いでもあり、ありました。この美しい国土が、再び焦土と化すことなどだれも願いません。それは、どの国も、どの民族も、どの国家も同じです。

 一つ思い起こす、中国人留学生の言葉です。地方都市の工学部の博士課程に留学して、帰国してから、北京の政府関係の要職についたご婦人です。広島を訪ねた時に、被爆体験を残そうとして建てた記念館を訪ねられて、被害者の立場で被った悲劇を、日本が残しているのを見て、『同じように、中国大陸やアジア諸国で行った侵略の〈加害者の記念館〉を作ってほしい!』と、彼女は思ったそうです。穏やかな方でしたが、厳しい口調で話されたのが驚きでした。

 真っ白な繭玉を手にした小学生の私には、同じ繭玉が、国を富ませ、軍事大国化していくために果たした役割は、微塵も感じませんでした。隣国に行き、天津の街の博物館に、日本軍の侵攻時の写真が、壁一面に大々的に掲げられてありました。華南に行きました時も、大きな河川の堤防の壁に、日本軍の爆撃による死者数の刻まれた記述を見た時に、〈加害者の子〉なのだと言う意識が強烈に思わされた日を忘れません。

(広島市の市花の「夾竹桃(きょうちくとう)」富岡製糸場跡です)

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あの人もこの人も

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 隣町の教会のM牧師さんが、『準さん、サキソフォンを吹いたらいいよ!君にはぴったりですよ!』と、まだ学校に行っていたころに勧めてくれたことがありました。宣教師が留守の間に、水曜日の聖書研究を担当してくれた方でした。彼から教えていただいた聖書のレクチャーは、何1つ覚えていないのですが。

 実は、教会に行っても、当時は女性ばかりでした。教会に行くことも、そして楽器をやるということも、《軟派なこと》だと決め付けてきた私は、『はい!』と言って、その勧めに従うことをしませんでした。もちろん、母が毎晩、毎日曜日、せっせと教会に通っている姿を見て、『この母を夢中にさせているのだから、何か真実なものがある!』とは認めていながら、自分の心を向けることをためらっていました。それでも、教会で歌われていた賛美を聴くのは大好きでした。クラシックの曲を、ラジオで聞いて育ったからでしょうか。

 私の母がハミングしていたのは、讃美歌でした。でも私にとって、歌は、「流行歌」に限っていました。今で言う「演歌」です。日本的なと言うか、アジア的と言うのでしょうか、あの旋律と歌詞とに共感を覚えていたのです。大人への入り口にさしかかっていて、その歌詞の意味も深みも理解できないでいる私でしたが、父や母の青年期に歌われた歌に、たいへん興味を持ったのです。

 ある時、母に無理強いをして教えてもらった歌がありました。『諦めましょうと別れててみたが・・』と言う歌いだしの恋歌です。

あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身をやく 恋ごころ

喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き

 母の多感な十代のころに流行った歌だったのでしょうか。そんな〈身も世も捨てた〉、〈男泣きするような〉恋に憧れたほどでした。何度も歌ってくれている間に覚えたのですが、高校生の私には、その節回しが難しくて歌いこなせませんでした。それでも、あの歌のメロディーが時々、今でも思い出されるのです。そうしますと、当時の母や父や兄弟たちの様子、自分の生意気な姿が彷彿とさせられるのです。

 母の郷里に、江田島の海軍兵学校に行っていた若者がいたそうです。そうこれも無理に、私が聞き出したことでした。恋する乙女時代の憧れの漢(おとこ)が、凛々しい兵学校の軍服を着た青年だったのでしょう。そんな母の十代の話を聞いて、何かホッとしたのを覚えています。

 もう何年も前ですが、高校の同級生と、20年ぶりに食事をしていました。しばらくたつと彼が、「上海がえりのリル」を歌い出したのです。切なく、実に哀調を帯びて歌っていました。大陸で戦死したお父さんの帰りを待ちわびた、彼の数十年のすべてが、その唄声に込められていたのです。

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 私を育ててくださった宣教師さんが、事あるごとに歌っていた讃美がありました。ヨハネの黙示録512節を歌詞に、彼が作曲した「ほふられた小羊」でした。

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい(お)方です

 ジョージアで生まれ、彼の人生を急展開に変えてしまったイエスさまが、ご自身を十字架にささげられた主であることを思いながら、感謝と希望を込めて歌っていたのです。私たちの子どもたちは、これを賛美する宣教師さんを強烈に記憶しているのでしょう。この方の信仰の “ Thema song ” だったからです。

 人の心の中には、「歌」が宿っています。人は様々な思い出の中で、時々、口ずさむのです。ダビデは、『私はあらゆる時に主をほめたたえる(詩篇341節)』と言って讃美した人でした。順境の日も逆境の日も、主をほめ歌ったのです。

 もし私が。あの時からサックスを吹いていたら、今頃は渡辺貞夫の後継者になっていたでしょうか。友人が教えてくださって、一曲吹けるようになったままで休止状態です。

 まだ3歳くらいの孫を連れて、次女が里帰していた時に、サックスの代わりにハーモニカを吹いて上げましたら、手を打って喜んでくれたことがありました。今も引き出しの中から、3本あるハーモニカを出して、時々吹いています。一つは、隣国で出会った教え子が贈ってくれた物なのです。今、大阪で仕事をしています。また、その孫兵衛が、今秋には大学生になるのです。老けゆくジイジと、至るところ聖山ありの孫です。

(イラストAC、キリスト教クリップアートのイラストです)

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弁護してくださるお方

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 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル41516節)』

 出会いと別れは、一対の人生の出来事でして、人の一生も、出会いと別れを繰り返す drama  のようです。あのこともこのことも、まるで「一場の夢」の舞台なのかも知れません。会うと別れの予感がするのも、人の世の常なのです。振り返ってみますと、人生って、実に短いものだとつくづく思うこの頃です。

 中国語に、「邯鄲之夢(かんたんのゆめ)」と言う言葉があります。同じ様な意味で、「一炊の夢」とか「盧生の夢」とも言います。この「邯鄲」は地名で、私の教えた学生さんの中に、この街の出身の方がいました。故事辞典に、次の様にあります。

 「唐の時代、廬生(ろせい)という人が邯鄲(かんたん)の土地で呂翁(りょおう)という老人から不思議な枕をかりて茶店でひと眠りした。すると、自分がたくさんのお金と高い地位を得て、一生を終える夢を見た。夢から覚めると、自分がねる前に茶店の人が煮ていたものが、まだできていないほど短い時間の夢だったということを知る。廬生(ろせい)は、このことから人生のはかなさをさとったことから、この語ができた。(枕中記)」

 この一生の短さが、歳を重ねるほどに現実味を増してくるわけです。戦国の世を駆け上がって「天下人」となった秀吉が、『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』と、越し方を思い返して、「儚さ」を歌に詠んでいますが、秀吉の六十年余りの一生も、避けられない「死」を迎えて終えています。どんな成功者も、また名のない人も、同じように終わりを迎えるわけです。

 『また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。(黙示録2012節)』

 人は死ぬだけで、一生涯を終えるのではなく、〈どう生きたか〉が問われる日が、誰にでも来る、と聖書は言っています。いのちの付与者は、「いのちの書」や他の記録文書をお持ちで、そこに人の一生が克明に記録されているのです。それが、厳正な審判者の前で、紐解かれ、記録されたことに従って、「裁き」がなされるのです。人生の出来事は、朧げになったり、あやふやにされて、忘れ去られることはないのです。

 どなたにも、隠して秘密にしてある過去の行状や思いがおありでしょうか。その日、それが露わにされ、露見されるのです。それこそ、私が一番恐れたことでした。赤恥だらけの日々でしたので、それが露見されるのを恐れたのです。そんな私が、落胆し、自己嫌悪に陥らないですむのは、次の様な聖書のみことばがあるからなのです。

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 『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。 1ヨハネ21節)』

 請われて一度、長く過ごした街の地裁の法廷に出たことがありました。東南アジアにある国から、出稼ぎで来られて、交通違反と不法滞在で検挙された方のためでした。法定弁護人がいました。審判の結果は、強制送還で結審したのです。

 ところで、この私には、「大祭司」でいらっしゃる、イエス・キリストが、〈裁きの座〉で弁護してくださると言うのです。キリストを信じた者は、「キリストの座の裁き(2コリント510節)」に立つようです。恩師の宣教師さんは、それは「報酬の座」だと教えてくださいました。そこで、様々に誘惑を通られたイエスさまは、贖った者のために、憐れみによって、弁護してくださると確約しておいでです。

 これこそ救いの一部なのでしょうか。滅びても当然な者なのに、一方的なご好意によって、この救いに選び、永遠の命をくださったのです。ただ感謝し、ただ喜ぶだけであります。

( ”キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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