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『ヱルサレムのために平安(שָׁלוֹם シャローム/平和)をいのれ 。ヱルサレムを愛するものは榮ゆべし 。 ねがはくはなんぢの石垣のうちに平安あり、 なんぢの諸殿のうちに福祉あらんことを。 わが兄弟のためわが侶のために 。われ今なんぢのなかに平安あれといはん。 われらの神ヱホバのいへのために我なんぢの福祉(繁栄)をもとめん。(文語訳聖書 詩篇122篇6~9節)』
(ウイキペディアのエルサレムの写真です)
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一昨日は好天でしたので、家内を誘って、「ふれあいバス」の一日乗車券を買って、市の北に出かけました。バス停は、巴波川を跨ぐ「幸来橋」のたもとにあり、その際に、舟運の河岸風景を掘り込んだ土盤が掲出されています。
ほぼ一時間ほど乗ったでしょうか。「道の駅」には、綺麗な桜花が満開でした。レストランには、知人夫妻が、美味しそうに蕎麦を食べておいでで、食べ終わったのでしょうか、順番を待つ私たちの前に立たれて、しばらくでしたが談笑することができました。家内は蕎麦を食べ、私はカレーライスでした。
帰りにはイオンモールが、バスの終点でしたので、乗り換えに30分ほどありましたので、店内を歩き、市内循環バスに乗って、家の前のバス停で降りたのです。半日ほどの小旅行が出来るほど、体力の回復が見られる家内は、楽しそうでした。
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『人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位に坐せん。 かくてその前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、 羊をその右に、山羊をその左におかん。 ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ。 なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、 裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」 ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。 何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。何时なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」 王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」 (文語訳聖書マタイ伝25:31〜40)』
子どもの頃の「憧れ」でしょうか、英雄視していた人物が何人もいました。とくに、この時期の成長段階には、《英雄》が必要なのです。たとえば歴史上の人物、おとぎ話の主人公(桃太郎)、プロ野球の選手、映画俳優など、憧れの的でした。でも、十六貫の小太りで、髭が濃くて、何でも知ってる、Yシャツにネクタイの背広を着て、黒革靴を履き、颯爽としていたのが《父》でした。風呂に入ると、安全剃刀の歯をガラスのコップの中で研ぐように、物を大切にし、書庫や箪笥はきちんと整理されていて几帳面でした。父は、子どもの私のまさに《英雄》だったのです。でも真の英雄とは、どんな人なのでしょうか。
1840年に、トーマス・カーライルが公演活動をし、その内容を記した、「英雄崇拝論」を刊行しています。『歴史は偉人(ヒーロー)の影響によって大きく説明できる。偉人とは、優れた知性、英雄的 勇気、並外れた指導力、神の霊感などの生まれ持った特性によって、歴史に決定的な影響を与えた、非常に影響力のあるユニークな個人を指す。』と言って、英雄を語ったのです。
カーライルは、英雄には6つのタイプがるとしました。「神としての英雄(オーディンなど)」、「預言者(モハメットなど)」、「詩人(シェークスピアなど)」、「司祭(マルティン・ルターなど)」、「文人(ルソーなど)」、「王(ナポレオンなど)」が代表です。
日本でも、「江戸中期の三明君」と言って、米沢藩の上杉鷹山、紀伊和歌山藩の徳川治貞、肥後熊本藩の細川重賢、「維新の三傑(英傑)」と言って、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通をあげています。きっと自分が出た学校にも、、住んでいる街にも、そう言われている人材がいそうです。
この英雄の評価ですが、業績第一で、人格の高潔さよりも、業績の面での評価が強いのではないでしょうか。『何をしたか?』であって、『どのような人であったか?』を重視していないのです。〈英雄、また人なり〉で、父も誰も、みんな弱さを兼ね備えていたわけです。でも、聖書を読み始めて、人格の高潔さだけが、倣うべきだと判りました。
実は、それほどの人ではなかったことを知って、裏切られたような思いにされたことがありました。これは、クリスチャンにされてからも、信仰の強者、屈強のキリストの弟子のように思っていた人物が、実際は、そんなに清廉潔白な人でも、信仰者の見本でもなかったことを知らされて、ただの野心の人だったのを知らされて、納得させられています。
もちろん、会って交わりをして自己判断をしたのではなく、英雄のカバーを外した実態は、正直な情報を耳にしてからでしょうか、裏情報、書かれたものから、真実の姿を知ったからです。よく〈化けの皮が剥がされる〉と言いますが、〈隠されたもの〉はやがて露わにされるのです。
旧日本軍の精鋭で、最強の軍隊だと思っていた「関東軍」は、中国東北部の満族に地に、1932年に「満州国」を建国し、五族共和を図り、大東亜共栄圏を作ろうとしたのです。それは理想国家の建国だと思われました。もちろん、それは軍部だけの策略ではなく、当時の日本政府の国策であったのです。
この雄々しいとされた日本男児たち、軍人たちの建国した国には、遠大な理想を掲げていました。現状を打開したかった日本人は、満蒙に鉄道を敷設し、石炭の採掘などと共に、農業用移民を果たします。米英を代表する国々の支配下に置かれ、植民地となっていた東アジアの民族の解放を目論み、アジア人の地に、自らの国家を作ろうとしたのは、立派だと思っていました。
ところが掲げた満蒙開拓のスローガンと、満蒙の現実とは、全く違っていたのです。融和政策ではなく、侵略でしたから、現地の人々にとっては脅威にしか感じられなかったのです。五族共和などは、机上の空論であったわけです。
敗戦後、山西省にあった関東軍は、その終戦の詔勅が発せられた後、一人の佐官の将校に後を任せて、最高責任者たちは、特別機で山西省を脱出して、日本に帰国してしまうのです。2600名もの残留兵は、蒋介石軍に加わって、共産党の八路軍と、3年半も戦ったのです。
残留兵を指揮したのは、今村方策大佐(中国は日本軍の「最高参謀」と高く評価しています)でした。暖かな人柄の人だったそうで、部下に慕われた上官でした。部下の処遇に奔走した後に、彼らの無事の帰国の確約をとってから、ご自分は、責任をとって自決されています。こう言った事実は隠されていて、知る人のみぞ知ることなのでしょう。『私は「蟻の兵隊」だった 中国に残された日本兵(岩波ジュニア新書)』を書かれた、元山西残留兵だった奥村和一、酒井誠は、そう書き残しています。この大佐こそ、真の日本の軍人であったのでしょう。
また〈和製パウロ〉のように、説教上手で、自分の託された群れに、多くの人を集め、さらに枝教会をいくつも興した人がいました。18ほどの私は、この人の説教を聞いて、その弟子になりたいと思ったことがあったほどでした。母が自分の魂を委ね、所属していた教会は宣教師の始められた教会で、特集に誘われて行きますと、アメリカやオランダなどからの説経者ばかりでした。そんな時に、和製説経者が珍しく来られて、若い私は、そう思ったのです。でもこの方の晩年に、問題が露見して、信頼したり、従うべきは『人ではないのだ!』と学ばされました。
聖人のように、高い評価を得ておられた方が、貧しく病んでいる隣人への愛に生きておられて、注目の的でした。大変立派だと思っていました。ところが、団体の上手な宣伝の産物、広告塔だったこと、集まった金銭を私物化し、キリストの苦難に倣って、信者は、それを味わうべきだとして、最低限度の医療を施し、シーツも汚れたままで、痛んでいる病人への緩和治療もしなかったのです。自分が病んだ時には、近代病院で、最高水準の医療を受けていたのが分かりました。この方の偽善が暴露されたのです。ただの人でした。
政治家や経営者はともかく、なんと有名な神学者も、名だたる牧師も、人の目から隠れた生活があって、scandalous な生き方をしていて、その隠されたことが露わにされてしまいます。多くの若い牧会者が、憧れた器が、ただの堕落者だと知らされた落胆は、非常に大きいのです。
あの野口英世も同じでした。疫学の世界では名を馳せ、小学生の私は、幻燈や人物伝を見て、《日本のキラ星》のように思っていました。ところが、彼の生活は、大酒に溺れ、行状は最悪で、自堕落でした。この人の表した研究論文も、全く評価されずじまいでした。
イエスさまに祝福される人とは、「正しき者(マタイ伝25章)」であると、聖書でイエス・キリストが言われたのは、隠れたところでなした善行や慈愛のことで、しかも、人に為したことは、救い主イエスさまへの行為だと言われました。誰の目にも止まらないような、認められないような、自分でも思い出すことなどない、《善意ある行い》のことです。そう言った人こそ、神の国の《英雄》なのです。まさに〈化けの皮〉を持たない人の行いであります。
子どもの頃の英雄だった父が、英雄でないことを、大きくなるに従って理解しましたが、「英雄の父」から、「父は父なるが故に父として遇する」を学んで、敬意と感謝を表すことを、いまだに忘れずにおります。その他の人は、ただの人でした。《義(ただ)しき》は、イエスさまだけであります。すべきは、そのイエスさまへの愛と感謝であります。
(ウイキペディアの人形の桃太郎、山西省名物の山西老陳醋です)
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お元気でしょうか。
昨日、東京に、すぐ上の兄を訪ねました。新宿でお土産と、弁当をデパートの地下の食品売り場で買って行きました。
何年ぶりでしょうか、ずいぶん久しぶりの都会を通過した訪問でした。体調がすぐれないと兄に聞いたので、見舞いでした。
高校野球で、甲子園を目指し、都予選でベスト16で終わったのですが、ずっと元気でした。でも80を超えて、やはり体力が落ちて来たのでしょう、義姉も、夫婦で元気がないようなので、激励でもありました。
よる歳並みでしょうか、老いもまた感謝しないといけないのかも知れません。
家内もボクも、支えられています。家内は、週に一度ほど駅のコンコースにピアノがあって、それを弾きに出かけたり、図書館に行ったりで、最近の治療は、漢方に変えています。良薬もありますが、担当医師の真摯な診断の姿は、家内だけではなく、そばに付き添う自分も癒されているように感じるほどです。
みなさんのお祈りと激励のおかげで、感謝でいっぱいです。ボクは、昨年の十一月に、脳梗塞を起こして一週間入院してしまいました。その後は、体調が良く、先日も、年一度の健康診断の結果が届き、まあまあの報告でした。
お二人も、守られてお過ごしでしょうか。昨日兄の家の近くに桜が咲いていて、いよいよ春の到来です。
お子さんたち、お孫さんたちの健康を願っています。
ご一緒だった頃が懐かしく思い出されます。
その後の隣国の13年も、懐かしい年月でした。
イスラエル戦争、ウクライナ戦争、どう動いていくことでしょうか。主のおいでが近いかも知れませんね。
お元気でお過ごしください。
主の祝福をお祈りしています。
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この下の記事は、私のブログ「悠然自得」に、11年前の今日、掲載したものです。まだ華南の街に住んでいて、日本語の教師をさせていただき、教会に加わっていました。その一部を再掲載します。
『1971年4月4日に、私は家内と「結婚式」を挙げました。「四」が2つ並んだ日だったのです。「縁起」を気にする人が嫌っている日を、ひねくれ者のようにして選んだのではありません。日曜日でもあり、桜の花も咲く頃でしたし、しかも春休み中でしたので、そうしたのです。今日は、その42回目の記念日なのです。昨晩、友人たちと話をしていたら、私たちの結婚の日が話題になり、『実は、明日私達の結婚記念日なのです!』と言ってしまったのです。そうしましたら、『明日の夕方、近くのホテルで結婚記念パーティーをしましょう!』と、その家の夫人が言ってくれ、今夕、家の近くにある大きなホテルでしてくださることになったのです。
実は、今夕、二人で、「日本料理店」に行って、「にぎり寿司」を食べる約束をしていたのですが、急遽、変更することになりました。『42年も忍耐してくれてありがとう!』と、今朝、家内に言いましたら、『私の方こそ忍耐してくださって・・・』と返事がありました。もう、朝の9時の今から、「夕方」のことを思って、そわそわしている私であります。』
そして、今日は、その記念日で、上の娘が、二人で撮った写真を送信してくれました。婚約式の日のものもあったり、長女が当時いたシンガポールで撮ったもの、華南に住んでいた住宅の庭でのもの、この街のルピナスの花園でのもの、退院した母親を訪ねてくれた子どもたち家族と記念撮影した折のものもあります。あの少年も少女、青年たちも、だいぶ歳を重ねています。
今日は、「ちらし寿司」を作ろうと思っています。数日前に、『あのちらし寿司が食べたいわ!』と、家内が言ったからです。この頃は、同信の漢方医と出会って、この医師の勤務する病院に通って、漢方治療を受けていて、家内は元気を取り戻しつつあります。人を訪ねたり訪ねられたりし、短歌の会に所属し、図書館に行ったり、駅中にある街ピアノで讃美歌を弾いたり、市役所の一階にあるスーパーに出かけたりして、家内は過ごしています。私は、散歩、時々温泉行き、一昨日は隣町まで20kmの自転車行をしました。
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今年の復活節には、宇都宮の教会に出かけ、二人で証詞の機会が与えられました。主のよみがえりを感謝して、会衆の中で、思いっきり賛美したのです。この頃は、出会った人や出来事を思い返し、生かされてきた日々を思い返し、聖書に約束された、これからの日に、迎えに来てくださるお方を待ちたいと思っております。
(Christian clip arts のイラストです)
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