ミソハギ

 

 

広島県庄原市・国営備北丘陵公園の小川に咲いている「ミソハギ」です。“ウイキペディア”によりますと、「湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。の断面は四角い。は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。紅紫色6弁の小さいを先端部の葉腋に多数つけるー」とあります。☞[HP里山を歩こう]

秋に咲く花なのでしょう。こんなに多くの種類の花々が、野や山に咲いているのを知って、驚いてしまいます。栄華を極めた賢王でさえ、この野の花の一輪ほどにも、着飾ることができないのには、さらに驚かされてしまいます。

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小雨

 

 

今朝は小雨で、ベランダの寒暖計の気温は28℃です。この二、三日、金木犀の匂いが、どこからともなく微かにしてきています。暑いのですが、確かに秋は来ています。

台風22号のフィリピンでの被害が大きいそうで、広東省、海南省に向かっている様です。確かに今年は台風もハリケーンも、異常に発達しています。被災者のみなさんが、早く困難な状況を脱する様に願っています。今日は日曜日、祝福の一日でありますように!

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明治は遠くになりにけり


 

十代の終わりだったと思いますが、父の会社に連れていかれた時、一人の方を紹介されて、挨拶したことがありました。父が、『桐野利秋のお孫さんの桐野さん。』と言ってでした。この桐野さんの祖父が、幕末の志士、薩摩藩士の桐野利秋でした。この方は、薩摩藩の藩士で、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通と共に、幕末の政変の渦中で活躍された人物なのです。西郷、大久保に比べると、それほど有名ではありませんでしたが、「幕末」から明治初期を生きた一人でした。

父の会社の顧問に、「明治維新」に関わった人物の係累がいるということを聞いて、一遍に、幕末と明治を身近に感じるようになったのを覚えています。長州藩や土佐藩、そして薩摩藩の若手の侍が、日本の近代化のために立ち上がったのですから、この時期の出来事は、実に興味津々だったのです。

明治元年で、西郷隆盛は40才、大久保利通は38才、坂本龍馬は生きていれば32才、高杉晋作は生きていれば29才、木戸孝允は35才、桐野利秋は30才、幕府方の勝海舟は45才でした。若い世代が、日本の夜明けのために東奔西走して封建社会から、近代社会へと移行させたことになります。

明治10年に起こった、「西南戦争」の首謀者で、「人斬り半次郎(桐野の別名が中村半次郎です)」とか汚名を着せられますが、人を切ったのは、信州上田藩の赤松小三郎で、しかも藩命によるものだったそうです。もちろん「示現流」の剣の使い手で、幕末最強の侍だったのは事実です。きっと、後に面白おかしく記す小説に、そう描かれたものによるのでしょう。

明治維新政府の要職にあったのですが、西郷隆盛が官職を辞して、薩摩に戻る時に、桐野利秋も一緒に下野(げや)しています。故郷に戻った桐野は、鹿児島の農地の開墾のために鍬を握ったのです。そして「西南の役」が、明治10年に起こります。桐野が首謀者と言われていますが、歴史家は、1人であのようなことは起こり得ないのだと結論しています。西郷隆盛と共に、戦役で、40才で亡くなります。「賊軍の将」とされますが、大正五年に、復権されています。

男っぽい生き方をされた、まさに「古武士」のような人でした。私がお会いしたお孫さんの桐野さんは、椅子に掛けられた初老の紳士で、穏やかな方でした。

(鹿児島市の市花の「夾竹桃(キョウチクトウ)」です)

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asagao

 

 

今朝のベランダの気温は、27℃もあり、また暑さがぶり返しています。昨晩も寝苦しかったのです。"台風22号”が大陸に向かってい、"大型ハリケーン"がアメリカ南東部を目指して進んでいます。ベランダで咲く朝顔が、人を喜ばせると同時に、自然の猛威が、人を恐れさせ不安にさせています。ただ無事を願うのみの朝です。好い一日をお過ごしください。

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新学年

 

 

こちらの新学年は、私たちのような日本での「染井吉野」の桜が開花する時期と違って、暑い夏が一段落してから始まります。昨夕会った中学生は、『学校に行きたくない!』と怠学症候群で、休み中、目一杯に、“game”に集中し過ぎてしまって、ご両親を困らせています。それで私たちは、その“game “を唾棄(だき)したくなるほど、反吐(へど)がでるほどに、忌み嫌えうようになるように、願っているのです。

壁一つ隔てた隣家の小2の女の子が、前になかったのですが、新学年が始まってから、登校前に泣く声が聞こえるようになっているのです。問題帳の問題ばかり、教室の硬い椅子に座って解くだけなんて、つまらないに違いありません。隣の爺さん婆さんの私たちは、この女の子に同情的なのです。前に住んでいた小区の正門の脇に幼稚園があって、この時期に、二、三人必ず、門から入りたくなくて、泣きながら、家に引き返して行く新入園児がいました。お父さんはオロオロするだけでした。

先日、南側のベランダの下を、小6ほどのお嬢さんが、颯爽と登校して行きました。何と、”バーバリー“の格子模様のスカートを履いて行くのです。「いや、豊かになったんだなー!』と、たいへん驚いたのです。ところが、その日、11寺半ごろに、買い物に出たら、お昼に家に帰って来る小学生の一団が、みんな”バーバリー“なのです。銀座の小学校の制服問題のニュースを聞いていたのですが、この街の公立小学校でも、「制服」の着用に、今学年からなったようです。

そのスカートが、本物かどうか分りませんが、「学習院」のような感じがしてきてしました。私たちの時代は、貧乏人は貧乏人のように、金持ちは金持ちのように、生活水準が、眼に見えて分かったのです。《画一化》なんてことを言わなかった時代でしらた。貧乏人の子は、『何くそ!!』で、『今に見ていろよ!』のハングリー精神に萌えていました。悪びれることなんかなく、快活に生きていました。

昔、大蔵大臣で、後に総理大臣になる池田勇人大臣が、『貧乏人は麦を食え!』と言ったとかで物議を醸(かも)していたことがありました。それは、マスコミが曲解した言葉で、池田大臣が、『所得の少ない人は麦を食べる、所得の多い人は米を食べるといった経済の原則に副って~』と国会で答弁したのを、マスコミが脚色して報道したのです。『麦を食え!』と言ったわけではなかったのです。

実は、栄養学的に、麦飯を食べていた貧乏人の方が、白米を食べている金持ちよりも健康だったわけです。脚気(かっけ)なんかにもならないからです。天の配剤は決して不平等なんかではないのです。忍耐力や、反発力だって、上手に使えば、ものすごく好い結果を産み出すのです。天津にいた時、そこは首都北京に隣接した街で、特別市でしたが、農村に行きますと、貧しかったのです。都会のことは違って、田舎の子は着る物も食べる物も、歴然と違っていました。

立たされ仲間で、帰りにコロッケを買って、お父さんを戦争で亡くした同級生に、奢(おご)って上げたことが、小学校の頃に何度かありました。きっと彼は社長か商店主かになっているかも知れませんね。中国は豊かになっています。こちらにあるアメリカ系のスーパーに、時々行くのですが、ものすごい量の買い物をしているのを見て、何十年も前にアメリカに行って見たのと同じ光景に驚かされています。それでも、ゴミ箱を漁っている方ものいるのは、アメリカもここも同じです。

ハングリー精神って、強靭な精神を培うのでしょうか。終戦後の日本が、それで経済復興をして行ったわけです。”バーバリー“のスカートの驚かされた私です。

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17年

 

 

昨日は、2001年9月11日、アメリカのニューヨークなどで起こった、”同時多発テロ”から数えて、「17年」でした。信じたくない光景を、テレビで見たあの時の衝撃が、想像できないほど大きかったのを思い出します。娘から、連絡があって、『大変なことが起こったの!』と言ってきました。すぐに、テレビのスイッチを入れて、配信されてきた映像を見たのです。現実に、こんなことが起こるのだと、驚愕ししてしまいました。

今朝、"Facebook"を見ていましたら、ニューヨークの世界貿易センターの崩壊の様子を写した動画がアップされていて、それを見たのです。最近見つかった動画です。この撮影者は、きっと亡くなって、カメラだけが残されていて、それがアップされたのでしょうか。勇敢に実際の記録を残そうとされたわけです。その救助や消化などで駆けつけた消防士が、1700人も犠牲になったそうです。

また、その廃塵を吸った消防士、救助隊員、警察官などのみなさんが、今日、ガンに侵されていることも伝えられていました。その数は、10000人以上だそうです。すでに、もう何もなかったかの様に、人間は振る舞うのですが、犠牲になった方のご遺族、それが原因でお病気なった方々絵のことを考えると、胸が痛みます。

「憎しみ」や「怨み」といった感情が、こう言ったことを生み出すことを思うと、人間の心がいかに陰湿なのかが分ります。人はもともと、喜んで、楽しく生きられる様に造られているのです。でも、すぐに悲惨な暗い闇に、人が包まれてしまったわけです。世界中で、悲しい叫び声が上がっています。すべてのものが呻いいるのです。

明日に希望や夢を繋いで、人は生きていけるのでしょうか。孫たちに明るく屈託のない明日を、残して上げられるのでしょうか。この小区で、夕方になると、幼い子どもたちが、空き地に出てきて、嬉々と声を上げて遊ぶ姿が見られます。何も心配のない今を、楽しく過ごしているのです。両親やおじいちゃんやおばあちゃんから、限りない愛を受けて満ち足りているからです。

平和が安心や穏やかさが、この地上に戻ってくるでしょうか。猛禽が羊の赤ちゃんと戯れる様な日がやってくるのでしょうか。台風やハリケーンや暴雨や地震や崖崩れのない自然界が帰ってくるのでしょうか。病気や悩みやいじめのない社会が再生するのでしょうか。食べ物や水や空気は安心しての飲食できるのでしょうか。物や機会が満ち溢れてあっても、人の心に落ち着きがなければ、何もなりません。

私の知り合いのお嬢さんが結婚されたのは、飛行機のパイロットでした。上海への空路に就いていました。ところが、あの"同時多発テロ"のあった後、操縦桿が握れなくなってしまいました。それほどの衝撃を、多くの人に与えたのです。その後、リハビリを受けていたそうですから、この方は復職できたのでしょう。一番は、幼い子供の心が傷ついてしまうことです。癒され回復されて生きていける様に願う、週日の午後です。(9月12日記す)

(ニューヨーク名物の「ブルックリン・ブリッジ」です)

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キレイ!

 

 

初秋の東広島市に咲く、「ノアズキ」と「センニンソウ」です。[HP里山を歩こう]が配信してくださいました。撮影技術が優れていて、いつもキレイな写真を楽しませていただいて、喜んでいます。ありがとうございます。また、ここ大陸に、台風22号がまた近づいています。注意注意です。

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別れ

 

 

12年前、こちらに参ります時に、どうしても置いてこなければならないものがありました。それは、連れて来られなかった<猫たち>でした。猫の嫌いな私が、飼うことになったのは、しかも二匹もですが、事情がありました。

この猫たちは、娘婿が、南信(長野県に南部)にある高校で、“JET “と言う働きで、英語教師をしていました時、通勤途中に捨てられているのを、2度も拾って来て飼っていたのです。見捨てておけなかったほどに、娘婿の優しい性格によってです。その彼らが、生まれたばかりの息子を連れて、3年の任期を終えて帰国することになり、その猫を飼って欲しいと、私に言ってきたのです。

事情が事情でしたので、思い切って飼うことにしたわけです。ところが、飼っているうちに、情が移るというのでしょうか、可愛くなって仕舞ったのです。猫はあんまり懐かないと言われていましたが、人懐っこくて、可愛くなってしまったのです。オスの黒猫の“タッカー”、斑ら毛の三毛猫の”スティービー“でした。娘婿は、この猫に避妊手術を施していたのです。

外に出て行くと、一人前ではないことが分かる野良猫どもに、追いかけ回されて、いじめられるのです。それで、ひっそりと隠れているタッカーを見つけては、抱いて家に帰ることがしばしばでした。今度は可哀想になって来たわけです。ちょうどその頃、右手の肩の鍵盤を断裂して、縫合手術を市立病院でしてもらい、リハビリ中でした。家で寝ていると、二匹で走り回っては、寝ている私の体の上を走り抜けて行くのです。どうもわざとです。

私が部屋にいると、閉めてある襖戸を、タッカーが体を横にして寝転がって、前足2本で開けてしまい、入り込んで来るです。その仕草が面白く、笑っていました。<猫じゃらし>でからかうと、これも本気で飛びついて来るのです。猫の習性が少し分りかけている頃に、こちらに来る決断をしたのです。物は捨てたのですが、生き物を、どうしたらいいか考えましたが、術がありませんでした。

結局、家内が留守の間に、市の環境センターに連れて行ったのです。あんなに辛い気持ちはしたことはありませんでした。あの時、タッカーは、どこに行くか気付いていて、不安な呻き声を上げていました。それは聞くに忍びなかったのですが、後戻りできません。その辛い決断と、その断行は、今になっても忘れられません。

今朝、タッカーとスティービーの話が、家内と話題になりました。何十年と、して来た仕事を辞めることも、仲良くなった人たちとの別れも、家族から離れることも、みんな辛かったのですが、この<猫たち>との別れは、胸を締め付けられるほど悲しかったのです。それだけの犠牲があって、こちらで新生活が始まったわけです。多くの人と出会い、戦争責任の赦しを請い、学校で教え、近所の人たちと、倶楽部のみなさんと交流して今日を迎えています。

そんな12年前の決断を思い出して、秋空を見上げています。今朝は、24℃を、ベランダの寒暖計が指し示しています。今夕は、3人の方がやって来ます。家内と食事を作って待つつもりです。(9/10記)

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日記

 

 

書いた試しがないのが、「日記」です。小学校の夏休みの宿題にもあったと思いますが、多分、私は提出していないのです。その日その日のことを、綿密に記す人と、簡潔に記す人がいます。そして、私の様に、記憶の中にだけ止めておきたい人、人は多様です。

「日記」に記すのは、次の様な項目だそうです。

1.月日

2.天気

3.その日の主な出来事

4.人との関わりと約束

5.所感

6.書簡の交信記録

7.本の読後感

8.計画と予定

ポルトガル人のルイス・フロイスは、日本滞在中に「日記」を記していて、日本の歴史の編纂の資料として、重要な証言を残している様です。1586年に、近畿、中部地方で起きた「天正地震」について、その「日記」をもとに書き上げた、「日本史」に次の様に記されてあります。

『ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。若狭の国には、海に沿ってやはり長浜(☞TAGAHAMAとあったそうですが、TとNと勘違いしていたかも知れません)と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。』

織田信長の時代、戦国の世に起こった「大地震」の記録です。今の時代の出来事は、映像で残されていくのでしょうが、やはり、「日記」は、書き手の主観が入り込んだり、勘違いがあるという弱さはあっても、歴史の概要は伝わってきそうです。このフロイスが、信長と秀吉を、次の様に記しています。

『信長は、「・・・睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。・・・彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、崇拝、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。」。そして秀吉は、「・・・彼は自らの権力、領地、財産が順調にまして行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。・・・彼に対して憎悪の念を抱かぬものとてはいないほどであった。」』

けっこう偏見が見られそうですが。鋭い人間の観察眼を持って、正直に人間像を捉えています。

”blog“とは、『「WebにLogする」のウェブログ (weblog) をブログ(Blog)と略称する。』のだそうですが、これって「日記」とか「日誌」の部類でしょうか。子どもや孫たちに、自分の考え方や生活史や価値観を伝えたいので、次男の勧めで始め、続けております。

(フロイス直筆に「日本史」です)

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アニ

 

 

二十代でお会いして、男っぽくも、いい男でもないのですが、お会いして、話をしてから、「アニ」の様に感じた方でした。その後、一緒にテニスをしたり、読書会をしたり、コーヒーを飲んだり、風呂に浸かったりしていました。その方の近影を、"FaceTime"で見付けたのです。今朝のことです。今の情報社会というのは、ヒョンなことで、写真や文章を見付けたりできる、驚くべき時代なのですね。

この方が、東京から遠くに行かれて、私も遠くに来てしまってから、音沙汰なしの時が過ぎていました。昨年、鍵盤断裂の縫合手術を、札幌でして、退院後の6ヶ月検診で、秋になって、札幌まで行きました。帰りに、遠回りをして、この「アニ」の住む街を、家内と一緒に訪ねる予定を組んだのです。八十を超えているのに、自分の責任の事務所を、息子さんに任せて、ご自分は無任所の事務所に出掛けている、まだバリバリの現役なのです。

私が訪ねた日は、この方は、東北の街に出掛けていて、生憎の留守でした。奥様が残っていらっしゃって、お会いし、しばらくお交わりをしたのです。街案内をしてくださると言われたのですが、お忙しそうにされていたので、せっかくの親切をお断りし、辞してしまいました。私が、実の兄と一緒に、台湾に講演旅行をした時に、台南に行きましたら、そのホテルの席に、この方がおられたのです。私がメイン・ゲストになっていて、ちょっと申し訳なかったのです。

この方は、気張らず、威張らず、見栄も張らない謙遜な方でしたから、多くの方に慕われていて、私もその一人でした。この方が、誘ってくださって、アメリカの北西部の街を訪ねる「旅行団」に加えてくれたのです。子ども含めて、15人ほどでした。彼と同じ学校の同窓生で、この「アニ」を尊敬している、アメリカ人の事務所に行ったのです。その尊敬が、私たち一緒に行った者をも厚遇してくださって、大歓迎してくださったのです。

4日ほどの滞在でしたが、高級ホテルをご用意くださって、その間の茶菓や果物を、大き目の袋に入れて、ホテルの部屋のテーブルの上に、一人一人の分をおいての歓迎でした。その所長の奥様のされたことでした。"100$紙幣"まで入っていて、久し振りの<お小遣い>でした。あんなに快適な、ゆっくりした旅行は初めてでした。

35℃も気温が、まだあるのに、やっぱり見えない「秋風」が、頭をくすぐっているのでしょうか、どうにも人恋しく、慕わしく思い出されてきた様です。思い返すと、良い人たちと出会ってきたものです。来年の帰国時に、この「アニ」を訪ねてみたいと、今から思っています。実の兄が二人もいるのに、もう一人の「アニ」に恵まれたのだと、ただ感謝しているのです。

6日の地震の影響は、どうだったのかも、ちょっと心配です。ちょうど10歳違いの方 です。

(海から眺めた(臥牛山(函館山)です)

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